第十二章 偽りの王冠、真実の光 後編
高い窓から差し込む春の陽射しが、卓上の記録を照らしていた。
リディアは、オスカー・ライゼンベルクの返答を待っていた。
「……それは、どなたの命令だったのでしょうか」
彼は膝の上で両手を組み、目を伏せたまま動かなかった。
専門官も、すぐに問いを重ねようとはしない。記録官の羽ペンが止まり、室内は静かになった。
やがてオスカーが、長く息を吐いた。
「……それを申し上げれば、私は……」
言葉が途切れる。
専門官が口を開いた。
「証言することで、ご自身や関係者に危険が及ぶとお考えですか」
オスカーは、わずかに頷いた。
「具体的な懸念があるのでしたら、お話しください。証言の保全と、安全に関する措置について、正式な窓口を通して協議できます」
専門官は言葉を区切った。
「ただし、それによって、ご自身の行為に関する責任が免除されるわけではありません」
オスカーは黙って聞いていた。
その指先に力がこもり、組んだ手が白くなっている。
リディアは、彼の顔を見つめた。
王宮にいた頃、幾度も政務について意見を交わした相手だった。彼はいつも、正しい手続きと王国の秩序を口にしていた。
その人が今、通常の確認を待たずに書類を受け付けたことを認めている。
リディアは、専門官へ視線を向けた。頷きが返ってきたのを確かめ、問いかける。
「ライゼンベルク卿。私は、何があったのかを知りたいのです」
オスカーが顔を上げた。
「どなたの指示で、何を求められたのか。そして、あなたが何をなさったのか。分けて、お聞かせいただけませんか」
長い沈黙の末、彼は掠れた声で答えた。
「……私は、王国の秩序を守ろうとしただけです」
「秩序、ですか?」
「殿下の改革は、急進的すぎた」
その声に、かつての確信が戻ったように聞こえた。
「行政手続きを変え、地方からの要望を直接取り上げれば、これまで調整してきた部署や貴族の役割が崩れる。王宮の均衡を損なうと、私は考えていました」
リディアは、しばらく何も言わなかった。
彼の反対意見は、覚えている。
新しい方法を示しても、慣例を理由に退けられたこと。先に関係者の合意を得るべきだと、何度も言われたこと。
その議論には、自分が十分に考えられていなかった点もあったのかもしれない。
けれど。
「私の提案に問題があったのなら、議論していただきたかった」
声が、少し震えた。
「私は、地方で暮らす人々の声が中央へ届くようにしたかったのです。物資や支援が、手続きの途中で滞らないようにしたかった」
ニヴェリスの村で、荷馬車の到着を待つ人々の顔が思い出された。
輸送の仕方を少し変えるだけで、届くものがある。
そのために、自分の知識を使いたかった。
「ですが、私には反逆の嫌疑がかけられました。提案への反対と、その告発は、どのように関係していたのでしょうか」
オスカーは目を伏せた。
「……私は、間違っていないと思いたかった」
今度の声には、先ほどの確信がなかった。
「あなたを政務から遠ざければ、混乱を防げる。そう、自分に言い聞かせたのです」
リディアの指先が冷たくなる。
「そのために、何をなさったのですか」
オスカーは口を開き、閉じた。
専門官が待っている。ルミエラ側の立会人も、彼へ目を向けていた。
やがて、彼は答えた。
「……会談報告の写しを、書き換えました」
記録官の羽ペンが動いた。
「外国との交易について協議した報告でした。その一部を、機密情報の提供を約束したように読める内容へ変えたのです」
リディアは息を呑んだ。
オスカーは顔を上げなかった。
「さらに、別の正当な取引に関する財務記録を添えました。その支払いが、情報提供への対価であったかのように説明をつけました」
専門官が確認する。
「その説明には、実際の取引を示す根拠があったのですか」
「……ありません」
「作成の際、ご自身はそれを認識していましたか」
オスカーは目を閉じた。
「はい」
リディアは何かを言おうとした。
けれど、声が出なかった。
アルジェンの手が、机の下で彼女の手へ重なった。
その温もりを感じながら、リディアはゆっくりと息を吸う。
「では……私が機密情報を渡したという説明が、事実ではないことを、ご存じだったのですね」
「……はい」
短い返答だった。
あの日、何度否定しても聞き入れてもらえなかった言葉。
その言葉を、今、相手が認めた。
嬉しいとは思えなかった。
胸の奥にあるのは、息が詰まるほどの悲しみだった。
「書き換えた資料を、告発の根拠として使えるように整えました。その上で、通常の確認を待たずに受け付けることを承認したのです」
オスカーの声が掠れた。
「あなたが身の危険から祖国を逃れたと知ってからも、私は何も申し出ませんでした。自分の地位を失うことを恐れたのです」
専門官が、ここまでの供述を読み返した。
改変した資料。実際には関係のない財務記録。それらを結びつけた虚偽の説明。確認を待たずに受付を承認したこと。
オスカーは、一つずつ頷いた。
アルジェンはリディアを見た。
彼女も、その視線に気づいて顔を向ける。
席を離れたいかと尋ねられているのだと分かった。
リディアは小さく首を振った。
聞きたい。
今はまだ、最後まで聞いていたかった。
*
「次に、指示について伺います」
専門官の声が響いた。
「先ほど、王宮の命令に従ったと述べられました。受付の特別指示と、資料の改変は、同じ命令によるものですか」
「……指示は、二つありました」
オスカーは答えた。
「先に、告発の根拠となる資料を作るよう求められました。その後、書類を通常の確認に回さず、特別な扱いで受け付けるよう指示されたのです」
「どなたからですか」
彼の唇が震えた。
リディアは、アルジェンの手を握った。
「……イネヴィア・パピリア第一王女殿下です」
聞き慣れた名だった。
幼い頃から、幾度も呼んできた名前。
尊敬していた姉。いつか共に祖国を支えたいと願った人。
その名が、資料の改変を指示した人物として語られた。
「……お姉様が……?」
自分の声が、遠く聞こえた。
オスカーは深く頷いた。
「最初は、直接お話を受けました。あなたを政務から遠ざけるために、背信を示す資料が必要だと」
彼は震える息を吐いた。
「その後、文書でも指示を受けました。報告の内容を変え、財務記録と合わせて、告発の根拠となる形に整えるようにと」
リディアは、黙って聞いていた。
疑っていた。
覚悟もしていたつもりだった。
それでも、実際にその名を聞くことは、想像していた痛みとは違った。
「すべてを殿下の責任にするつもりはありません」
オスカーが続ける。
「資料を書き換え、説明を作ったのは私です。断ることも、疑問を申し出ることもできた。私は、自分の意思で加担しました」
専門官は供述を記録させた上で、さらに尋ねた。
「指示を裏付ける資料は、残っていますか」
「当時、私に交付された指示書を保管しています」
アルジェンの目が、わずかに細められた。
「今回確認した受付記録で参照されている指示書とは、別のものですか」
専門官の確認に、オスカーは頷いた。
「はい。受付の特別指示とは別です」
「なぜ、保管していたのですか」
オスカーは、しばらく黙っていた。
「……私だけの判断ではなかったと示せるように、残しました」
その返答に、リディアの胸が締めつけられた。
自分を守るための文書は、残していた。
彼女の言葉を確かめることはしなかったのに。
「どこにありますか」
「ルミエラの私の執務室です。個人の書類を収める箱に、当時の資料と共に保管しています」
専門官が、ルミエラ側の立会人へ視線を向けた。
正式な提出要請と、回収時の記録を残す方法について、短い確認が交わされる。
「文書には、署名や印章がありますか」
「殿下の署名と、王家の印章があります。私に交付された文書には、直接記されています」
オスカーは顔を上げた。
「提出に協力します」
専門官は頷いた。
「保管場所と、回収に必要な事項を、詳しくお聞かせください。提出後は、発行と受領の記録、当時の署名や印章と照合します」
リディアは静かに息を整えた。
まだ、文書を見たわけではない。
オスカーの供述も、他の記録と確かめる必要がある。
それでも、自分を陥れた資料について、何を調べればよいのかが、初めて具体的に語られた。
「……どうか、その書類を提出してくださいませ」
声は震えていた。
けれど、目を逸らさずに言えた。
オスカーは彼女を見つめ、深く頭を下げた。
リディアは、その姿を黙って見ていた。
許すとも、許さないとも、今は言えなかった。
*
事情聴取は、途中で休憩を挟みながら続いた。
書き換えた箇所。参照した財務記録。指示を受けた順序。そして、資料を扱った者の範囲。
覚えていないことは、そのまま記録された。
終わる頃には、陽射しが少し傾いていた。
リディアが立ち上がると、膝に力が入らなかった。
アルジェンがすぐに支えてくれる。
「……少し、休もう」
「はい」
返事はできたが、その声は自分でも驚くほど弱かった。
廊下へ出ると、窓から柔らかな光が差し込んでいた。
遠くで鳥が鳴いている。
穏やかな景色を見た途端、抑えていたものが込み上げた。
「……アルジェン様」
彼が足を止める。
「覚悟は、していたんです」
リディアは彼の袖を握った。
「お姉様が関わっているかもしれないと……分かっていたつもりでした。でも……」
言葉が続かない。
アルジェンは護衛に近くの控えの間を確認させ、彼女と共に入った。
扉が閉じる。
彼が腕を広げると、リディアはその胸へ顔を埋めた。
「……私、そんなに嫌われていたのでしょうか……」
声が、涙に滲んだ。
「ただ、お姉様と一緒に、国を良くしていきたかっただけなのに……」
幼い頃の記憶が浮かんだ。
姉の背中を追いかけたこと。政務の話を教えてもらったこと。庭園で並び、いつか二人で国を支えたいと夢見たこと。
どの記憶にも、今は痛みがあった。
アルジェンは何も急かさず、背中を撫でていた。
「少しだけ……このままで、いさせてください……」
「ああ」
彼の腕が、彼女を包む。
「今は、何も話さなくていい」
その言葉に、リディアは堪えていた涙を溢れさせた。
王女としてどう振る舞うべきかも、調査のために何を考えるべきかも、今は遠かった。
ただ、姉を慕っていた自分が、悲しくて仕方なかった。
*
やがて、呼吸が少しずつ落ち着いてきた。
アルジェンが布を差し出し、リディアは目元を押さえた。
「……すみません」
「謝ることではない」
彼は椅子へ座る彼女の傍に腰を下ろした。
「姉上が何を考えていたのか、そのすべては、まだ分からない」
リディアは顔を上げる。
「君の提案に、議論が必要なところはあったかもしれない。反対する者もいただろう」
アルジェンは、彼女の手を取った。
「だが、それは虚偽の資料で君を排除してよい理由にはならない」
その言葉を聞き、リディアは唇を噛んだ。
「君が姉上を信じ、共に歩みたいと願ったことまで、否定する必要はない」
瞳が揺れる。
「……私、信じていたんです」
「ああ」
「お姉様となら、きっと……」
また声が詰まった。
アルジェンは、握った手へ少し力を込めた。
「その願いが本当だったことは、今も変わらない」
リディアは目を閉じた。
思い出のすべてを、今すぐ捨てなくてもいいのだろうか。
姉を慕った日々が、愚かだったと決めなくてもいいのだろうか。
彼の手を握り返すと、温もりが伝わった。
「ここにも、君と共に歩みたいと願う人間がいる」
顔を上げたリディアへ、アルジェンが微笑んだ。
「ニヴェリスで、これからも一緒に考えてほしい。領地のことも、私たちの暮らしのことも」
涙が、もう一粒こぼれた。
けれど、今度は息が少し楽になった。
「……はい」
リディアは自分から身を寄せ、彼の背中へ腕を回した。
「あなたに出会えて、本当によかった……」
アルジェンの腕に、力がこもる。
「私の方こそ、あの日、君を見つけられた幸運に感謝している」
彼女は胸元へ頬を寄せた。
「今はまだ、悲しくて仕方ありません」
「ああ」
「でも……一人で抱えていなくてもいいのですね」
「もちろんだ」
リディアは、少しだけ顔を上げた。
「もう少し、甘えてもよろしいでしょうか」
アルジェンの表情が柔らかくなる。
「そのために、ここにいる」
彼女は小さく笑い、再び彼の胸へ戻った。
窓の外では、春の風が庭の枝を揺らしていた。
*
その夜、来賓用の私室では、暖炉の火が静かに燃えていた。
リディアは長椅子に腰掛けたアルジェンの隣へ身を寄せた。
悲しみは消えていない。
姉に尋ねたいことも、数えきれないほどあった。
それでも、彼の隣では、呼吸が楽になった。
「……アルジェン様」
彼女は袖を引いた。
「今日は、もうお仕事のお話はおしまいにしませんか?」
彼は手元の紙を見た。
それから迷わず、脇の卓へ置く。
「そうしよう」
リディアが目を瞬かせると、彼は微笑んだ。
「今夜、私たちが考えなければならないことは、もう済ませた」
「……ありがとうございます」
肩へ頭を預ける。
暖炉の火が、壁に二人の影を映していた。
しばらく言葉はなかった。
やがて、リディアが小さく呟く。
「それと、もう一つだけ」
「何だ?」
「今夜は、いつもより少しだけ……甘えん坊になっても、よろしいでしょうか」
アルジェンは彼女を見つめた。
その灰青色の瞳が、柔らかく細められる。
「断る理由など、どこにもない」
彼は手を取り、雪の雫へ指先で触れた。
「むしろ、私の方が、君を離したくなくなるかもしれない」
胸が跳ねた。
手の甲へ口づけられ、リディアは頬を染める。
少し迷ってから、そっと身を起こした。
「では……目を閉じていただけますか?」
アルジェンが不思議そうに彼女を見る。
けれど、すぐに頷いて目を閉じた。
リディアは顔を近づけた。
いつも、自分の気持ちを受け止めてくれる人へ。
今夜は自分から、伝えたかった。
頬へ、そっと唇を寄せる。
ほんの一瞬の口づけだった。
離れた途端に、顔が熱くなった。
「……いつも、私ばかり幸せにしていただいているので……」
アルジェンは目を開いた。
真っ赤になって俯く彼女を見て、しばらく言葉を失う。
それから、ゆっくりと抱き寄せた。
「君は、私にどれほどの幸福を与えているか、分かっていないらしい」
「……アルジェン様……!」
恥ずかしくて、胸へ顔を隠した。
彼の手が髪を撫でる。
「リディア」
呼ばれて顔を上げると、彼がこちらを見つめていた。
リディアは目を逸らさなかった。
頬へ添えられた手が温かい。
二人の距離が、少しずつ近づく。
そのとき、扉を叩く音がした。
「伯爵閣下。先ほどの調査について、ご報告が」
ギルバートだった。
リディアは肩を跳ねさせた。
「……っ、ギルバート様……!」
離れようとすると、アルジェンが支えるように腕を緩めた。
彼は扉へ顔を向ける。
「急を要するものか」
「いえ。文書の提出手配について、担当者との確認が済んだというご報告です」
「分かった。詳細は明朝に聞こう」
少し間があった。
「……承知しました。では、明日の朝に」
足音が遠ざかる。
リディアは両手で顔を覆った。
「……もう……」
アルジェンは静かに息を吐いた。
「仕事は確かだが、訪ねる頃合いについては、相談の余地がありそうだ」
リディアは思わず笑った。
顔は、まだ熱かった。
彼がこちらへ向き直る。
「さて、先ほどの続きを、どうしたものかな」
「……アルジェン様」
「嫌だったか?」
リディアは首を振った。
その服を握る手は、離れなかった。
アルジェンの口元が緩む。
「顔が赤い」
「……あまり、からかわないでくださいませ。心臓がもちません……」
「すまない」
声に笑みが滲んでいた。
「では、一つだけ、伝えさせてくれ」
リディアがおずおずと顔を上げる。
「君は、私に幸せにしてもらっていると言ったな」
「……はい」
「私の方こそ、君がいてくれて、仕事以外の理由で帰りたい場所ができた」
胸の奥が温かくなった。
アルジェンは彼女の手を取り、指を重ねた。
「この冬の日々も、君の笑顔も、今こうして隣にいてくれることも、私にとってはかけがえのない幸福だ」
リディアの瞳が潤む。
「……私も、同じです」
小さな声で答えると、彼が微笑んだ。
頬へ触れる手に、自分の手を重ねる。
今度は、ゆっくりと彼の方へ顔を寄せた。
二人の唇が重なった。
短く、優しい口づけだった。
離れたあとも、額は触れ合っていた。
「少しは、私の想いが伝わっただろうか」
リディアは頷いた。
それから、真っ赤な顔を再び彼の胸へ埋める。
「……もう、本当に、心臓がもちません……」
声には、幸せそうな笑みがあった。
アルジェンは彼女を抱きしめた。
暖炉の火が燃え、寄り添う二人の影を壁に揺らしていた。
*
その後、オスカーが保管していた文書は、正式な手続きで提出された。
回収時には保管場所と書類の状態が記録され、関係する資料と共に、立ち会いのもとで照合が進められた。
指示書には、イネヴィアの署名と王家の印章があった。
その形だけで判断せず、当時の発行簿、受領記録、別に保管されていた文書との比較が行われた。
指示書に記された番号と発行日は、関連する記録と符合した。
さらに、改変前の会談報告と、告発に使われた資料の内容を比べると、オスカーが供述した箇所に書き換えが見つかった。
財務記録に示された支払いも、機密提供への対価ではなく、別の交易に関するものだった。
提出された指示書には、会談報告の内容を変更し、その財務記録を背信の根拠として組み込むよう求める記載があった。
受付の特別指示とは別に、虚偽の資料を作るための指示が残されていたのである。
オスカーの供述と、複数の記録がつながった。
リディアへの告発に使われた資料が、事実をそのまま伝えるものではなかったこと。その作成に、王宮からの指示が関わっていたこと。
それらを裏付ける資料が、調査の記録へ加えられた。
ただし、イネヴィア本人の説明は、まだ聞かれていない。
指示を出した経緯と、その後の措置にどこまで関わったのか。さらに確認すべきことがあった。
合意された調査手続きに基づき、ルミエラ側の正式な窓口を通して、第一王女への説明の要請が行われた。
やがて、イネヴィアが出席する日が決まった。
*
調査室の前で、リディアは重厚な扉を見つめていた。
隣に立つアルジェンが、手を包んでくれる。
「大丈夫か」
「……緊張しております」
正直に答えると、彼は頷いた。
「無理に平気な顔をする必要はない」
リディアは彼を見上げた。
「でも、お姉様と向き合いたいのです。今度こそ、何があったのかを、ご自身の言葉で聞きたい」
「ああ」
握る手に力がこもる。
「共に行こう」
リディアは微笑んだ。
祖国を逃れたときも、怖かった。
雪に閉ざされた街道を馬で越え、ついには雪原で力尽きた。助かるかどうかも、その先に居場所があるかどうかも、分からなかった。
今も、怖くないわけではない。
けれど、隣には自分の言葉を聞いてくれる人がいる。
問いを届け、返答を確かめるための席も用意されている。
リディアは、その手を握り返した。
案内を受けて調査室へ入り、席に着く。
専門官と記録官、両国の立会人が待っていた。
ほどなくして、再び扉が開いた。
紫がかった灰色の瞳を持つ女性が、室内へ入ってくる。
ルミエラ王国第一王女、イネヴィア・パピリア。
彼女はリディアを見て、足を止めた。
いつもの優雅な微笑みが、その顔に浮かんでいる。
リディアは、目を逸らさなかった。
「……お姉様」
静かな声が、室内に響いた。
「お待ちしておりました」
イネヴィアの瞳が、わずかに動いた。
春の光が、卓上に並ぶ記録を照らしていた。
かつて、共に未来を夢見た姉妹。
その間に残された言葉を、今度こそ聞くために。
リディアは顔を上げ、姉の返答を待った。




