第十一章 白銀の蝶、王宮に舞う 後編
夜風が、石造りのテラスを吹き抜けた。
遠くの大広間からは、楽団の奏でる旋律が聞こえている。華やかな夜会は、まだ続いていた。
「……イネヴィア殿下に、脅されていたんだ……!」
レオンハルト・クラウゼルの声が、静けさの中に残った。
リディアは、彼を見つめていた。
かつて、共に未来を歩むはずだった人。その彼が青ざめた顔で、あの日のことを語ろうとしている。
けれど、胸に湧き上がったのは安堵ではなかった。
「……脅されていた、のですか」
レオンハルトは、何度も頷いた。
「ああ。俺は、君を見捨てたかったわけじゃない。本当なんだ。俺は、君を――」
彼が一歩近づこうとした。
「クラウゼル卿」
アルジェンの声に、その足が止まる。
「距離は、そのままで」
出入口に控える護衛も、こちらへ注意を向けていた。
レオンハルトは立ち止まり、握った拳を下ろした。
リディアはアルジェンの手を握り直した。その温もりを確かめてから、口を開く。
「どうか、何があったのかをお話しくださいませ」
レオンハルトの視線が、彼女へ戻った。
「今、私が伺いたいのは、あの日のことです」
*
レオンハルトは、しばらく俯いていた。
やがて、言葉を選ぶように話し始める。
「あの日、イネヴィア殿下に呼び出されたんだ。君の外交活動に、王国への背信を疑わせる記録が見つかったと告げられた」
リディアの指先が、かすかに動いた。
「外交書簡と、財務に関する記録を見せられた。君が外国へ機密情報を渡したという説明だった」
あの日、王宮で突きつけられた疑い。
否定しても、その言葉を確かめようとする者はいなかった。説明を求める声は聞き入れられず、身の危険が迫る中で、彼女は祖国を離れた。
「……だが、俺が見せられた書類には、不自然な点があった」
アルジェンが、目を細めた。
「日付も、添えられていた証言も……辻褄が合わないように思えたんだ」
「それに、お気づきだったのですか」
問いかけた声に、痛みが滲んだ。
レオンハルトは目を伏せる。
「……ああ」
リディアは、すぐには言葉を返せなかった。
彼は、疑問を抱いていた。
自分に向けられた告発が、事実ではないかもしれないと考えていた。
それでも、あの日は何も言ってくれなかった。
「問いただそうとしたんだ」
レオンハルトは続けた。
「だが、殿下は仰った。『あなたが妹を庇えば、クラウゼル家も同じ疑いをかけられることになる』と……」
声が震えた。
「父の官職も、家の立場も失うことになると。逆らえば、君の処遇もさらに悪くなるかもしれないと言われた」
夜風が、三人の間を通り抜ける。
「家族まで巻き込まれると思った。俺は……怖くなったんだ」
彼は拳を握りしめた。
「それで、婚約を破棄した」
*
リディアは、黙って彼の言葉を聞いていた。
あの日、自分は彼を探していた。
誰も信じてくれなくても、彼だけは話を聞いてくれる。そう思っていた。
けれど、ようやく顔を合わせた彼は目を逸らし、婚約を解消すると告げた。
その瞬間、何と答えたのかは、よく覚えていない。
ただ、彼が立ち去ったあとも、自分が同じ場所に立ち尽くしていたことは覚えている。
「……レオンハルト様」
彼が顔を上げた。
「ご家族を守りたかったお気持ちは、理解できます。恐ろしかったことも」
リディアは一度息を整えた。
「ですが、私も怖かったのです。誰にも言葉を聞いてもらえず、いつ命を奪われるかも分からないまま、祖国を逃げなければならなかったのですから」
レオンハルトの表情が歪む。
「私は、あなたの言葉を待っておりました。助けられなくても、せめて、私を信じていると……そう言っていただきたかった」
「……リディア」
「脅されていたと伺って、あの日のあなたの選択を、少しは理解できました」
理解できたことと、傷が消えることは違った。
リディアは彼から目を逸らさなかった。
「けれど、それで失われた信頼が戻るわけではありません」
レオンハルトは何も言わなかった。
その視線が、彼女の薬指へ落ちる。
「……君は、本当に、伯爵と結婚するのか」
「はい」
答えに迷いはなかった。
「私は、アルジェン様と結婚いたします。誰かへの当てつけでも、過去から逃れるためでもありません。私自身が、この方と生きたいと願ったからです」
アルジェンの手が、彼女の手を握り返した。
「私はもう、あなたの婚約者ではございません」
レオンハルトは目を閉じた。
リディアは、その沈黙を待った。それから、改めて問いかける。
「もし、今からでも私のために何かをしてくださるのでしたら、あの日、あなたが知っていたことをお話しください」
彼の顔へ視線を戻す。
「私が今、あなたに望むのは、愛の言葉ではなく、真実です」
*
「……お姉様は、なぜ私を排除しようとなさったのでしょう?」
リディアの問いに、レオンハルトは眉を寄せた。
「分からない。殿下は、君の改革案が宮廷の秩序を脅かすと仰っていた。だが、それだけで、あそこまで……」
言葉が途切れる。
王宮にいた頃、リディアは行政手続きや物資供給について、改善の意見を述べていた。
手続きの重複を減らすこと。地方から届いた要望を、途中で滞らせないこと。必要な物資を、必要とする場所へ届けること。
王国のためになると考えていた。
その提案を快く思わない者がいることは知っていたが、それと、反逆の嫌疑をかけられたことがどう結びつくのかは、まだ分からない。
姉の声が、耳の奥に蘇る。
――どうして、いつもあなたばかり。
何を指していたのだろう。
今は、その答えもない。
「……そうですか」
リディアは顔を上げた。
「では、書類について、もう少し伺わせてください。その書類を作成した方や、保管していた部署は、ご存じでしょうか?」
「作成した者までは……」
レオンハルトが言い淀む。
アルジェンが口を開いた。
「直接見たことと、人から聞いたことを分けて話していただきたい。分からない部分を、推測で埋める必要はない」
レオンハルトは、彼を見た。
「書類に記されていた日付、署名、管理番号。覚えているものはあるか」
長い沈黙のあと、彼は一つの名を口にした。
「……オスカー・ライゼンベルク」
リディアが目を見開く。
「ライゼンベルク卿が……?」
「財務行政局長だ。殿下は、その部署から提出された書類だと仰った。添えられていた財務記録にも、局の名があった」
オスカーは、王宮で幾度も顔を合わせた行政官だった。
リディアの提案に反対したこともある。
けれど、それだけで告発への関与を決めることはできない。彼の部署の記録が使われたことと、彼自身が何をしたかは、別の問題だった。
「……日付については?」
アルジェンが尋ねた。
「書簡が送られたとされる日、リディアは別の公務に出席していたはずなんだ。少なくとも、書類の説明にあった場所には、いなかったと思う」
「どの公務か、覚えていらっしゃいますか?」
リディアの問いに、レオンハルトは首を振った。
「今、正確には思い出せない。ただ、日程を見れば分かるかもしれない。俺が彼女に会う予定を変えた日だったから……それで引っかかった」
リディアは頷いた。
別の場所にいたというだけでは、書簡の送付を否定できない。使者に託すことも、代理で発送することもある。
けれど、告発の説明が本人の行動を根拠にしていたのなら、公務日程と照らして確かめられる。
「管理番号は、どうだった?」
「以前見た関連書類の番号と、合わないように思えた。同じ案件の記録だという説明だったのに……」
レオンハルトは額へ手を当てた。
「数字までは覚えていない。見間違いだったのかもしれない。だが、あのときは、おかしいと思ったんだ」
アルジェンは頷いた。
「その点も、記録との照合が必要だな」
「オスカー卿に確認しようとした。だが、その前に殿下から呼び出されて、婚約を破棄するよう命じられた」
リディアは彼を見つめた。
「確認は、できなかったのですね」
「……ああ」
「書類の原本は、ご覧になりましたか?」
「いや。俺が見たのは写しだと説明されたものだけだ。原本がどこにあるのか、今も残っているのかは分からない」
レオンハルトは顔を上げた。
「ただ、正式に受け付けられた文書なら、登録や受領の記録が残っているはずだ」
リディアは、左手に力を込めた。
公務日程。文書の登録記録。発送と受領の記録。
それらが残っていれば、説明と実際の手続きが一致するかを確かめられる。
今夜得られたのは、無実の証明ではない。
それでも、どこを調べればよいのかが、ようやく見え始めていた。
「……アルジェン様」
彼がこちらを見る。
「記録を確認できれば、あの日のことに近づけるかもしれません」
「ああ」
アルジェンはレオンハルトへ向き直った。
「クラウゼル卿。今の話を、証言として記録することに同意していただけるか。正式な調査が始まった際には、改めて説明を求められる可能性もある」
レオンハルトの顔に緊張が走った。
だが、今度は目を逸らさなかった。
「……分かった。協力する」
リディアは小さく頷いた。
「ありがとうございます。思い出したことがございましたら、確認できる事実と分けて、お知らせくださいませ」
それは、許しの言葉ではなかった。
彼がこれから何をするのかを、彼自身に委ねる言葉だった。
*
レオンハルトが去ったあと、リディアは肩から力を抜いた。
アルジェンは護衛に短く指示を伝え、それから彼女の傍へ戻った。
「寒くなったな。中へ戻ろう」
その声を聞いて初めて、指先が冷えていることに気づいた。
「……はい」
「少し休んでからでもいい」
リディアは考え、彼の手を握り直した。
「一つ、お願いがございます」
「何だ?」
「今夜のうちに、ギルバート様とセレスティーヌ様にもお話を共有しておきたいのです」
アルジェンは彼女の顔を見た。
「今あるのは、レオンハルト様の証言です。原本も、登録記録も、まだ確認できておりません」
リディアは続けた。
「明日の協議で何を扱い、私への告発については、どのように確認を求めるか。皆様と整理しておきたいのです」
「……分かった」
「私も、考える一人として参加させてくださいませ。私自身の過去に関わることですから」
アルジェンの表情が和らぐ。
「もちろんだ。共に考えよう」
その返答に、リディアは微笑んだ。
疲れてはいた。今夜聞いた言葉を、すぐに受け止めきれるわけでもない。
それでも、知らないところで自分の過去が決められていくのを、もう待っていたくはなかった。
*
その夜、王宮内に用意された来賓用の一室に、四人が集まった。
アルジェン、リディア、ギルバート、セレスティーヌ。
卓上には翌日の協議資料が置かれ、その隣に、テラスで聞いた話を書き留めた紙が広げられていた。
リディアは、一つずつ説明した。
イネヴィアから受けたという脅迫。見せられた書類への疑問。財務行政局の名。そして、原本も正確な日付も、まだ確認できていないこと。
ギルバートは記録へ目を落とした。
「ライゼンベルク本人が作成したとは、まだ分からないんだな」
「はい。レオンハルト様が直接確認した範囲は、限られています」
セレスティーヌも頷いた。
「部署の名があるだけでは、作成者や指示した者までは特定できません。写しの内容が原本と同じかどうかも、確認が必要です」
彼女は別の紙を引き寄せた。
「まず、直接見たと証言していること、殿下から聞いたということ、本人の推測を分けましょう」
リディアも、自分の記憶を書き出した紙へ目を向ける。
「こちらも、当時の日程を確定する資料にはなりませんわね」
「照合する記録を探すための手掛かりにはなります」
セレスティーヌが答えた。
「覚えていらっしゃることを残しておけば、あとから公式の日程表や担当者の記録と比べられます」
アルジェンは、二つの束を分けて置いた。
一方は通商協議の資料。もう一方は、リディアへの告発に関する記録だった。
「明日の協議では、予定どおり通商上の問題を扱う。正式な規定にない追加要求と、審査対象の偏り、取引の停滞による損失だ」
「ええ」
セレスティーヌが頷く。
「ルミエラ側が提出する資料と、こちらの輸送記録や商人の証言を照合します。必要であれば、三国が確認できる形で、審査記録の検証を提案できます」
「私への告発については、別の申し入れが必要ですね」
リディアの言葉に、アルジェンが頷いた。
「夜会で殿下は、正式な調査の場を設けると言った。だが、方法も、参加する者も決まっていない」
「通商資料と告発に関する文書に共通する点が見つかれば、関連を調べる理由にはなるでしょう」
セレスティーヌは慎重に続けた。
「ただ、今はその関連自体が確認されていません。通商協議で、告発の真偽まで裁くことはできません」
リディアは頷いた。
「お姉様を追及するために、協議の目的を変えてしまいたくはありません。交易の問題も、領民や商人の方々にとって大切なことですから」
アルジェンは、彼女を見つめた。
「……その通りだな」
指先が、告発についての記録へ触れる。
「こちらは、第三者の立ち会いと記録の保全を求める手続きを確認しよう。調査の開始前に、必要な文書が失われることは避けたい」
「まずは、開催国の担当者へ相談します」
セレスティーヌが答えた。
「エルデンフェルトにも交易上の利害はあります。どの立場で協力できるか、ルミエラ側の同意が必要な範囲も含めて、確かめなければなりません」
「頼む」
アルジェンはギルバートへ向き直った。
「レオンハルト卿には、証言の内容を確認してもらいたい。覚えていないところは、そのまま残してくれ」
「分かった。本人が確認したことが分かる形にしておく」
「ライゼンベルクについても、まずは役職と担当範囲、こちらから確認できる記録を調べよう。今夜中にルミエラの内部資料まで揃うとは考えていない」
ギルバートは短く頷いた。
リディアは、二人の話が途切れるのを待って口を開いた。
「それから、エドガー・フォン・ヴァイスベルク様についても、お願いがございます」
アルジェンの視線が戻る。
「あの方なら、当時の文書管理や公務の記録について、何かご存じかもしれません。けれど、今どのような立場にいらっしゃるのか、私には分からないのです」
自分を逃がしたことで、何か不利益を受けてはいないだろうか。
考えるたび、胸に重いものが残っていた。
「連絡を取れる方法を探していただけませんか。ただ……私への協力を求めることで、あの方を危険に晒したくはありません」
ギルバートは真面目な顔で応じた。
「まず消息と、安全に届く経路を確かめる。返事を急がせるような連絡にはしない」
「ありがとうございます」
リディアは頭を下げた。
卓上に並んだ紙へ、もう一度視線を落とす。
確かめたいことは多い。今夜だけでできることは、限られている。
それでも、疑いをそのまま結論にせず、一つずつ記録へ戻っていく道が見え始めていた。
「……お姉様は、決して無能な方ではありません」
リディアは言った。
「宮廷の仕組みにも、貴族たちの関係にも精通していらっしゃいます。私たちが疑惑を断定すれば、その根拠が足りないことを指摘されるでしょう」
幼い頃から、姉の理解の速さを尊敬していた。
その力を知っているからこそ、曖昧な主張で向き合うことはできない。
「ですから、焦らず参りたいのです。お姉様のお言葉も、レオンハルト様のお言葉も、私の記憶も……確かめられるものと照らして」
アルジェンは黙って聞いていた。
やがて、ゆっくりと頷く。
「今夜の話を聞いて、私も急いで答えを求めたくなっていた」
彼は告発に関する記録を揃えた。
「だが、君が安心して生きていくためには、疑いを別の疑いで押し返すだけでは足りないな」
「……はい」
「この方針で進めよう」
ギルバートとセレスティーヌも頷いた。
役割を確認し終えると、アルジェンはリディアへ顔を向けた。
「今日は、ここまでにしよう」
彼女が何か言いかけると、少しだけ口元を緩める。
「続きも、君と考える。だから今夜は休んでくれ」
その言葉に、リディアは頷いた。
「……分かりました」
会議を終えて立ち上がると、アルジェンが手を差し出した。
左手を重ねる。その薬指で、雪の雫が燭台の光を受けて輝いた。
「共に歩むと誓ったのだからな」
リディアは彼を見上げた。
「ありがとうございます、アルジェン様」
握り返した手に、温もりが伝わる。
「必ず、真実を見つけましょう」
「ああ」
答えが得られたわけではない。
けれど、明日から何を確かめればよいのかは、四人の間で共有されていた。
*
同じ頃、ルミエラ王国代表団の私室では、イネヴィアが鏡台の前に座っていた。
耳飾りを外し、布張りの小箱へ収める。
その所作は普段と変わらず優雅だった。鏡の中の表情も、崩れてはいない。
けれど、今夜の妹の姿が、何度も思い出された。
銀青色のドレス。
左手に輝く、見慣れない指輪。
そして、自分をまっすぐに見つめた琥珀色の瞳。
王宮を去った妹が、どこで、誰の庇護を得ているのか。届いていた情報だけでは、確かめきれなかった。
それが今夜、目の前に現れた。
ヴォルフェルト伯爵の婚約者として。
イネヴィアは小箱の蓋を閉じた。
鏡越しに、部屋の入口へ視線を向ける。
呼び戻されたレオンハルトが、そこに立っていた。
「……レオンハルト卿」
彼の肩が、わずかに動く。
「今夜は、随分とお忙しかったようですわね」
レオンハルトは答えなかった。
イネヴィアは振り返り、傍らに用意された紅茶を手に取った。
「夜会の途中、あなたのお姿が見えなくなった時間がございました。どちらへ行っていらしたの?」
沈黙が続く。
カップが受け皿へ戻された。小さな音が、部屋に響いた。
「妹が姿を現してから、落ち着かないご様子でしたわ」
イネヴィアは彼を見つめた。
「……リディアに、何かお話しになったのではなくて?」
レオンハルトの喉が動いた。
あの日と同じ声だった。
柔らかく、優雅で、答えを待つ間にも相手の逃げ道を狭めていく。
彼は握りしめた手を、ゆっくりと開いた。
テラスで、リディアは自分を許すとは言わなかった。
婚約者ではないと告げ、真実を求めた。
その隣にいた男は、彼女の言葉を遮らず、答えを選ぶのを待っていた。
あの日、自分にはできなかったことだった。
「レオンハルト卿」
イネヴィアが、再び名を呼ぶ。
「私の質問に、お答えになって?」
レオンハルトは顔を上げた。
恐怖は、まだそこにあった。
今夜話したことが知られれば、何が起きるのか。家族へどのような影響が及ぶのか。考えるだけで、唇が乾く。
けれど、一度口にした事実を、なかったことにはできない。
イネヴィアの紫がかった灰色の瞳が、返答を待っていた。
窓の外では、月が庭園を照らしている。
夜は、まだ終わらなかった。




