第十一章 白銀の蝶、王宮に舞う 前編
春の夕刻には、まだ冬の名残があった。
エルデンフェルト王国へ続く街道には、雪解け水を含んだ冷たい風が吹いている。遠くの山々には白い稜線が残っていたが、道沿いの木々には若葉が芽吹き始めていた。
その景色を馬車の窓から眺めながら、リディアは左手へ視線を落とした。
薬指には、淡い氷青色の宝石が輝いている。
雪の雫。
自分の根ざす場所を、あなたと分かち合う。
ニヴェリスに伝わるその誓いは、今では彼女の心を支えるものになっていた。
向かいに座るアルジェンの膝には、三国通商協議に関する書類が重ねられている。リディアの手元にも、出発前に整理した記録の写しがあった。
正式な通商規定と、実際に商人たちへ求められた追加の情報。ヴォルフェルト領を経由する取引に偏った審査。足止めによって生じた損失。
それらを、一つずつ確かめてきた。
今回、アルジェンはヴォルフェルト領の交易実務を担う者として協議に参加する。リディアも、その資料整理と制度の検討を補佐する通商顧問として、同席を認められていた。
今夜の歓迎夜会では、彼の婚約者として隣に立つ。
準備の間、限られた者にしか明かしていなかった身分も、姉と顔を合わせれば伏せ続けることはできない。それを承知した上で、彼女はここへ来ることを選んだのだった。
「……リディア」
呼ばれて顔を上げると、アルジェンが書類を閉じていた。
「緊張しているか?」
リディアは手元の紙を揃え、少しだけ微笑んだ。
「……少し。お姉様と、あのような形で再会することになるとは思っておりませんでしたから」
数週間前、ルミエラ側の代表団にイネヴィアとレオンハルトが含まれると知ったとき、指先が冷たくなるのを感じた。
王宮で向けられた眼差しも、言葉を聞いてもらえなかった絶望も、忘れたわけではない。
けれど、あのときとは違う。
リディアは膝の上で重ねていた手をほどいた。
「それでも、逃げたくはありません。私が何者なのか、何をしていないのか。そして、これからどう生きていきたいのか……今度こそ、自分の言葉で伝えたいのです」
アルジェンは頷き、彼女へ手を差し出した。
その掌に指先を重ねると、大きな手が温かく包んでくれる。
「ならば、共に行こう。君が話したいことを、君自身の言葉で話せばいい」
灰青色の瞳が、まっすぐに彼女を見つめた。
「私は、その隣にいる」
「……はい」
かつて祖国を逃れたとき、国境の向こうに何が待っているのか、リディアには分からなかった。
今は、隣にいてほしい人を知っている。
その人と共に、自らの意思で王宮へ向かっていた。
*
エルデンフェルト王宮は、夕暮れの光を受けて壮麗な姿を見せていた。
白い石造りの外壁。高くそびえる尖塔。幾重にも並ぶ窓には、沈みかけた陽が黄金色に映り込んでいる。
前庭には各国の紋章を掲げた馬車が到着し、衛兵と侍従が来賓を迎えていた。
ニヴェリス、ルミエラ、エルデンフェルト。
三国が集まる目的は、交易の停滞を解消し、通商審査の運用を確かめることにある。ルミエラ側の追加要求はヴォルフェルト領の商人だけでなく、エルデンフェルトを経由する取引にも影響を及ぼしていた。
協議に先立つ今夜の夜会は、親善の場であると同時に、互いの姿勢を探る機会でもあった。
馬車を降りる前に、アルジェンはギルバートから短い報告を受けた。滞在する部屋と移動の経路、王宮側との警備の連絡は、すでに確認されている。
リディアの身元と同行についても、受け入れを担当する者には必要な説明を済ませていた。ただ、その情報がルミエラ代表団へどこまで伝わっているかは、分からない。
侍従に案内されて王宮へ入ると、リディアはわずかに背筋を伸ばした。
これから先、姉が何を言うかは予測できない。
それでも、何の備えもなくここへ来たわけではなかった。
*
鏡の前に立つリディアは、淡い銀青色のドレスをまとっていた。
細やかな刺繍は光を受けるたびに柔らかく輝き、北国の雪解けを思わせる。黒髪は丁寧に結い上げられ、耳元では控えめな装飾が揺れていた。
王宮の夜会。
華やかな衣装と、磨き上げられた宝飾品。
見慣れていたはずのものが、胸の奥に懐かしさと痛みを呼び起こす。
ルミエラにいた頃は、第二王女としてふさわしくあることを、いつも考えていた。
姉に恥をかかせないように。王家の名を汚さないように。婚約者の隣で、誰からも非難されないように。
鏡の中の自分がどう見えるかを、他人の眼差しで確かめていたのだと思う。
リディアはドレスの裾へ目を落とした。
この色を選んだのは、自分だった。
そして、左手の指輪も。
アルジェンは、彼女が王女であると知る前に、この石を選んでくれた。身分と過去を打ち明けたあとも、その想いは変わらなかった。
リディアは指輪へ触れ、ゆっくりと息を吐いた。
「……大丈夫」
そのとき、扉を叩く音がした。
「リディア。支度は済んだだろうか」
「はい、アルジェン様。今、参りますわ」
扉を開けると、正装したアルジェンが立っていた。
彼はリディアを見て、わずかに目を見開く。そのまま言葉を発しないので、彼女は不安になって首を傾げた。
「何か、おかしなところがございますか?」
「……いや」
アルジェンは小さく咳払いをした。
「よく似合っている」
頬が温かくなった。
「ありがとうございます」
彼の視線が、左手の指輪に留まる。それからもう一度、リディアの顔へ戻った。
「無理にすべてを話そうとしなくていい。今夜、答えが出るとは限らない」
「……ええ」
「途中で離れたくなったら、私に言ってくれ」
リディアは頷いた。
向き合うと決めたことと、何にでも耐えなければならないことは、同じではない。そのことを、彼は忘れずにいてくれる。
アルジェンが腕を差し出した。
「行こうか」
「はい」
その腕に手を添え、二人は大広間へ向かった。
*
夜会は、すでに始まっていた。
高い天井から吊り下げられた硝子細工のシャンデリアが、無数の灯りを映している。大理石の床を華やかな衣装が行き交い、楽団の旋律に硝子杯の触れ合う音が重なっていた。
会場の一角に、リディアのよく知る女性がいた。
ルミエラ王国第一王女、イネヴィア・パピリア。
紫がかった灰色の瞳を穏やかに細め、周囲の外交官たちと言葉を交わしている。
その傍らには、レオンハルトが控えていた。
入口に立つ侍従の声が響いた。
「――ニヴェリス王国、アルジェン・ヴォルフェルト伯爵。ならびに、ご婚約者のご到着でございます」
近くにいた者たちが振り返る。
アルジェンと共に広間へ足を踏み入れた瞬間、リディアは視線が集まるのを感じた。
「……あの方は……」
「ルミエラの、第二王女殿下では……?」
囁きが耳に届く。
その呼び名に、胸が小さく締めつけられた。
リディアは広間の向こうを見た。
姉と、かつての婚約者。
二人も、こちらを見ていた。
イネヴィアの微笑みが一瞬途切れた。その瞳がリディアの顔からアルジェンへ、そして腕に添えられた手へと移る。
レオンハルトは、硝子杯を持ったまま動かなかった。
指先に震えが走る。
リディアはアルジェンの腕に添えた手へ、そっと力を込めた。彼が歩みを緩め、こちらを見てくれる。
その眼差しを受けて、息を整えた。
「……参りましょう、アルジェン様」
「ああ。顔を上げたままでいい、リディア」
二人は並んで広間を進んだ。
すべての視線が好意的ではないことは、分かっていた。驚きも、疑念もあるだろう。
それでも、うつむく理由にはしたくなかった。
*
ルミエラ代表団の前で足を止めると、イネヴィアはいつもの微笑みを浮かべていた。
「……これは驚きましたわ。まさか、このような場所で再会することになるとは」
柔らかな声だった。
アルジェンは礼を取った。
「お初にお目にかかります、イネヴィア王女殿下。ニヴェリス王国、ヴォルフェルト伯爵アルジェンと申します」
続いて、リディアへ視線を向ける。
「こちらは、私の婚約者です。今回の協議では、通商に関する資料の検討にも協力してもらっています」
イネヴィアの視線が、氷青色の指輪へ落ちた。
「妹を保護してくださったことには、姉として感謝申し上げます」
そこで言葉を切り、アルジェンを見据える。
「ですが、伯爵。彼女は我が国において、いまだ重大な嫌疑をかけられている身です。そのような人物を婚約者として公の場に伴われるとは……少々、軽率ではございませんこと?」
近くで交わされていた会話が途切れた。
リディアは姉の声を聞いていた。
穏やかな響きのまま、相手に答えを迫る話し方。かつて、その前で何度も言葉を飲み込んだ。
「それとも、ルミエラ王国の司法判断そのものに、異議を唱えるおつもりなのかしら?」
アルジェンは声を荒げなかった。
「嫌疑があることと、罪が確定していることは、別だと承知しています」
イネヴィアの瞳が細められる。
「私が聞いている経緯では、彼女には正式に弁明する機会が与えられませんでした。であれば、判断の根拠と手続きを確認したいと考えるのは、当然でしょう」
「妹の言葉だけをお信じになるの?」
「私は、彼女の言葉を聞きました。その上で、必要な確認を求めています」
アルジェンはリディアへ目を向けた。
「また、私が彼女を婚約者として迎えたのは、慈悲でも、軽率な感情でもありません」
再びイネヴィアへ向き直る。
「一人の人間として、彼女を深く尊敬し、愛しているからです」
リディアの胸が震えた。
その言葉をこんな場所で聞くとは思わず、指先に力がこもる。アルジェンはそれに気づいたように、彼女の手へ軽く触れた。
「今夜は、協議に先立つ親善の場と承知しています。嫌疑についてお話しになるのであれば、印象によって彼女を扱うのではなく、具体的な根拠をお示しいただきたい」
イネヴィアの指が、扇の柄を握り直した。
アルジェンは、そこで言葉を止めた。
リディアを見つめる眼差しには、続きを促す圧力はなかった。
話すかどうかは、彼女に委ねられている。
リディアはその手を握り返し、一歩前へ進んだ。
「ありがとうございます、アルジェン様。ここからは、私自身の言葉でお話しいたします」
彼が頷く。
リディアは姉へ向き直った。
「お姉様。先ほど、司法判断と仰いましたね」
「……ええ」
「では、お尋ねいたします。私は、いつ、どのような証拠によって、反逆の罪が確定したのでしょうか?」
近くにいた外交官が、隣の者へ視線を向けた。
リディアは姉から目を逸らさなかった。
「私は正式な弁明の機会すら与えられぬまま、宮廷での立場を失いました。そして、身の危険を感じ、祖国を離れざるを得なかったのです」
イネヴィアの扇が止まる。
「その告発を主導されたのは、お姉様でしたね」
返答はなかった。
「私は、あなたを信じておりました。姉としても、同じ国の未来を考える者としても」
幼い頃、王宮の回廊で姉を追いかけたことがある。
庭園で足を止めた姉が振り返り、隣に並ぶまで待ってくれたことも。
いつか二人で国を支えていけたらと、願った日々があった。
その記憶まで、嘘だったと思いたいわけではない。
だからこそ、尋ねたかった。
リディアは、姉の傍らに立つ男性へ視線を移した。
「レオンハルト様。あなたにも、お尋ねしたいことがございます」
彼の肩がわずかに動いた。
「私が罪を着せられたあの日、あなたは、一度でも私の言葉を聞こうとなさいましたか?」
レオンハルトの唇が開く。
けれど、声は出なかった。
「……私は、あなたが信じてくださると思っておりました」
その言葉を口にすると、胸の奥にしまっていた痛みが蘇った。
助けられなくても、せめて話を聞いてほしかった。
誰も信じてくれない中で、彼の言葉を待っていた。
リディアは一度息を吸い、再び姉を見た。
「今さら、過去を取り戻したいわけではありません。ただ、私の人生を奪った判断が、何を根拠になされたのか。その真実を知りたいのです」
イネヴィアの微笑みは、まだ崩れていなかった。
「お姉様。どうか、この場でお答えくださいませ」
*
返答を待つ間、遠くの楽団の音が、妙にはっきり聞こえた。
イネヴィアは扇を閉じた。
「……随分と、一方的なご主張ですこと」
その声は、先ほどより低かった。
「ここは夜会の席ですわ。あなたの言葉だけをもって、我が国の判断を覆せと仰るの?」
「いいえ」
リディアは答えた。
「私の言葉だけで決めていただきたいのではありません。私に向けられた告発の根拠を、確かめたいのです」
姉の瞳を見つめたまま、続ける。
「今、この場で資料を示せないのでしたら、どのような手続きで確認できるのか、お聞かせください」
イネヴィアはしばらく黙っていた。
やがて、ゆっくりと微笑む。
「あなたが無実を主張するのであれば、正式な調査の場を設けましょう。ですが、あなた自身もまた、その調査を受ける覚悟がおありかしら?」
リディアはアルジェンの手の温もりを感じながら、頷いた。
「ございます。私自身の言葉も、記録と照らしてお確かめください」
「……そう」
イネヴィアの視線が、アルジェンへ移る。
「伯爵。明日の協議では、通商審査の正当性を示す資料を提出いたします。国家間の問題を、個人的な感情だけで裁くことはできませんもの」
「その通りです」
アルジェンは応じた。
「明日の協議では、正式な規定と実際の追加要求、審査の対象となった取引について、資料を照合することになるでしょう。こちらも輸送記録と商人の証言を用意しています」
イネヴィアの目が、わずかに動いた。
「リディアへの告発については、それとは別に、確認の場が必要です。彼女が祖国を離れるに至った経緯を考えれば、ルミエラ側だけで調査を進めることには懸念があります」
「我が国の調査を信用なさらないと?」
「双方が資料と手続きを確かめられる形を求めています。第三者の立ち会いについても、開催国と両国の正式な窓口へ申し入れたいと考えています」
エルデンフェルトが引き受けるかどうかも、どのような形で調査を行うかも、この夜会で決められることではない。
それでも、姉の言葉に従って祖国へ戻り、再び一方的な判断を待つつもりはなかった。
リディアは口を開いた。
「私が望んでいるのは、誰かを感情で裁くことではありません。何が起きたのかを、明らかにすることです」
イネヴィアは二人を見比べた。
扇を握る指先に、力がこもっている。
「……私も、退くつもりはございませんわ」
リディアは、その言葉を受け止めた。
今夜、すべての答えが得られるとは思っていなかった。
けれど、問いを飲み込まずに伝えることはできた。姉もまた、調査について言葉にした。
この先は、その言葉がどのように実行されるかを、確かめなければならない。
アルジェンが一礼した。
「では、通商の件は明日の協議で」
それから、リディアへ顔を向ける。
「少し、外の空気を吸おうか」
「……はい」
二人が歩き出したとき、背後からかすかな声が聞こえた。
「……どうして……」
リディアの足が、わずかに鈍る。
姉の声だった。
「どうして、いつもあなたばかり……」
続きは、周囲の話し声に紛れて聞こえなくなった。
リディアは振り返らなかった。
今まで聞いたことのない、弱い響きだけが耳に残る。
あの言葉は、何を指していたのだろう。
考えようとしても、胸の奥が痛むばかりだった。
アルジェンが歩調を緩めた。何も尋ねず、彼女が再び歩き出すのを待ってくれる。
リディアはその隣で息を吐き、広間を後にした。
*
夜会場に隣接するテラスには、冷たい風が吹いていた。
遠くに街の灯りが見える。月は薄い雲の向こうで、淡く光っていた。
出入口には護衛が控え、広間へ続く回廊にも王宮の衛兵の姿がある。
リディアは石造りの手すりへ手を添えた。
その指先が震えていることに、今になって気づいた。
姉の前では顔を上げていられた。用意してきた問いも、伝えられた。
それなのに、もう一度同じことをしろと言われたら、今はできないかもしれない。
「……リディア」
アルジェンが傍へ来た。
「よく耐えたな」
その声を聞いた途端、張り詰めていたものが緩んだ。
「君は、自分の言葉で問いかけた。答えを曖昧にされたあとも、何を確かめたいのか、伝えられていた」
手すりに置いた手へ、彼の手が重なる。
「立派だった」
「……アルジェン様」
リディアは目を伏せた。
「怖くなかったわけでは、ありませんの。お姉様のお顔を見た瞬間、あの日のことを思い出してしまいました」
彼は黙って耳を傾けていた。
「レオンハルト様のお姿を見たときも……胸が、苦しくなりました」
誰にも聞かれまいと抑えていた声が、少し掠れた。
「ですが、あなたがお傍にいてくださったから、私は逃げずにいられました」
顔を上げると、アルジェンの眼差しは柔らかかった。
「私の助けがあったとしても、あの言葉を口にしたのは君だ」
彼は、彼女の手を包み直した。
「今は、休んでいい」
リディアは頷いた。
目尻に滲んだ涙を拭おうとすると、アルジェンが懐から布を取り出してくれる。
それを受け取り、小さく笑った。
「……申し訳ございません。せっかく、支度を整えましたのに」
「泣くことまで禁じた覚えはない」
真面目な声で返されて、今度は少しだけ笑みが深くなった。
アルジェンも、口元を緩める。
「明日も、その先も。必要なことを、一つずつ確かめよう」
「はい」
「君の隣にいる」
左手の雪の雫が、月光を受けて輝いていた。
春の庭園で、もう一度ここから姿を消すことを考えたときも、この指輪が彼女を引き留めた。
自分だけで決めて去るのではなく、共に考える。
その約束を、今夜も守ることができた。
リディアがようやく落ち着いた息を吐いた、そのときだった。
「……リディア!」
背後から、切羽詰まった声が響いた。
振り返ると、テラスの出入口にレオンハルトが立っていた。こちらへ進もうとしたところを、護衛が制している。
顔色は青ざめ、呼吸も乱れていた。
「待ってくれ……頼む。少しだけ、話を聞いてくれないか」
リディアは言葉を失った。
かつて、幾度も聞いた声。
けれど、今はそれを聞いても、以前と同じ場所へ戻りたいとは思わなかった。
アルジェンが彼女を見る。
リディアは震えの残る指で、彼の手を握った。
「……お話を、伺います」
少し間を置いて、続ける。
「こちらで、アルジェン様と共に」
アルジェンは頷き、護衛へ合図をした。
レオンハルトはテラスへ入ったが、二人から数歩離れたところで足を止めさせられた。
夜会場の音楽が、開いた扉の向こうから聞こえている。
「……俺は……」
レオンハルトの視線が、リディアの顔へ向いた。それから左手の指輪へ落ち、苦しげに歪む。
「本当は、君を守りたかったんだ……!」
その言葉に、胸の奥の古い傷が疼いた。
リディアはすぐには答えなかった。
彼がそう言うことと、あの日、自分が一人で逃げなければならなかったこと。
その二つの間には、まだ何も説明されていない。
レオンハルトが、彼女へ手を伸ばしかけた。
アルジェンは半歩前へ出た。
「……そこで話していただきたい」
低い声に、伸びかけた手が止まる。
リディアはアルジェンの隣に立ったまま、レオンハルトを見つめた。
「何があったのか、お聞かせください」
彼の唇が震えた。
「……あの日、俺は……」
言葉を絞り出すように、息を吸う。
「イネヴィア殿下に、脅されていたんだ……!」
リディアは息を呑んだ。
アルジェンの手が、彼女の手を握り返す。
遠くでは楽団の旋律が続いていた。テラスの灯りに照らされたレオンハルトの顔には、後悔とも恐怖ともつかないものが浮かんでいる。
その言葉が、何を意味するのか。
彼が何を知り、何を選んだのか。
まだ、確かめなければならなかった。
リディアは逃げずに、彼の次の言葉を待った。
左手には、雪の雫がある。
そして隣には、自分が共に生きたいと願った人が立っていた。




