第十章 春嵐の足音 後編
春の夕暮れが、窓辺を淡い金色に染めていた。
アルジェンの話を聞き終えたリディアは、しばらく言葉を発することができなかった。
ルミエラ方面の通商手続きに生じている変化。
ヴォルフェルト領を経由する鉱石取引への追加審査。
そして、伯爵邸に滞在する南方出身の女性について、商人たちに尋ねて回る者たちの存在。
いずれも、それだけで一つの結論を導ける話ではなかった。
けれど、胸の奥に冷たいものが広がっていく。
「……お姉様が、私を探していらっしゃるのでしょうか」
ようやく口にした言葉は、思いのほか小さかった。
アルジェンは、すぐには答えなかった。
「……その可能性はある」
やがて、慎重に言葉を選ぶ。
「だが、今の段階でイネヴィア殿下の指示だと断定することはできない。通商上の変更と、君についての問い合わせが関係しているかどうかも、まだ分かっていない」
リディアは、静かに頷いた。
アルジェンは、彼女の手をそっと包み直した。
「だからこそ、事実を確かめている。セレスティーヌには通商規定の確認を、ギルバートには領内の安全と商人たちへの問い合わせについて調べてもらっている」
「……そうでしたのね」
「ああ。屋敷の警備も、必要な範囲で強めた」
彼の灰青色の瞳には、領主としての冷静さが宿っていた。
「君の暮らしを、できるだけ変えずに済むようにしたい。だが、危険があるかもしれないと知りながら、何も知らせずにいることもできなかった」
リディアは、俯いた。
胸の奥に、苦い思いが込み上げてくる。
自分がここへ来なければ。
アルジェンと出会わなければ。
この領地が、故郷の争いに巻き込まれることもなかったのではないか。
「……私が、ここにいることで……」
そこまで言いかけたとき。
「リディア」
アルジェンが、静かに名を呼んだ。
彼女は顔を上げた。
「交易の問題は、領主として私が向き合うべきものだ。仮に君を探す動きと関係していたとしても、不当な要求を行っている者の責任まで、君が負う必要はない」
その声には、揺るぎない誠実さがあった。
「それに、君がこの屋敷にいることを、私は迷惑だと思ったことなどない」
「……アルジェン様」
「君は、私の婚約者だ」
アルジェンは、彼女の左手へ視線を落とした。
薬指には、淡い氷青色の宝石が輝いている。
雪の雫。
自分の根ざす場所を、あなたと分かち合う。
春の庭園で交わした、二人の誓いだった。
「……私は、君を守りたい」
彼は、穏やかに続けた。
「できることなら、これ以上つらい思いをさせたくない。君が安心して笑っていられるように、私ができる限りのことをしたいと思っている」
リディアの瞳が、かすかに潤んだ。
その気持ちが、嬉しかった。
何よりも、ありがたかった。
けれど。
胸の奥には、もう一つの思いがあった。
リディアは、そっと彼の手を握り返した。
「……ありがとうございます」
そして、まっすぐにアルジェンを見つめる。
「ですが、アルジェン様」
「……何だ?」
「私にも、できることをさせていただけませんか」
アルジェンの瞳が、わずかに揺れた。
リディアは、静かに続けた。
「あなたが私を守ろうとしてくださること、本当に嬉しく思います。けれど……」
彼女は、一度だけ息を吸った。
「私は、守られているだけではいたくないのです」
その言葉は、夕暮れの部屋へ静かに響いた。
*
アルジェンは、黙ってリディアを見つめていた。
彼女の指先は、わずかに震えていた。
それでも、琥珀色の瞳は逸らされなかった。
「王宮にいた頃、私は交易に関わる書類を何度も目にしてまいりました。制度についても、多少の知識がございます」
リディアは、言葉を選びながら続ける。
「お姉様がどのようなお考えで物事を進められるのかも、私なりに知っているつもりです」
そして、少しだけ微笑んだ。
「もちろん、それだけで何かが解決するとは思っておりません。今のお姉様が、私の知っている頃と同じとも限りませんもの」
アルジェンは、静かに耳を傾けていた。
「ですが、調べることも、考えることもできます。あなたやギルバート様、セレスティーヌ様のお役に立てることが、きっとあるはずです」
リディアは、彼の手を両手で包み込んだ。
「……私も、あなたの力になりたいのです」
その声が、わずかに震えた。
「私はもう、何も告げずに逃げたりいたしません。お姉様とも、自分自身の過去とも、いつか向き合いたいと思っています」
そして、涙を浮かべながら微笑んだ。
「どうか、私にも……あなたと共に考えることを、お許しください」
アルジェンは、深く息を吐いた。
雪原で彼女を見つけた日のことが、脳裏に蘇る。
吹雪の中で、なお命を繋いでいた女性。
書斎で帳簿の数字を丁寧に確かめ、村人たちの暮らしを案じていた女性。
冬の交易に新たな道を見つけ、商人たちの仕事を助けた女性。
彼女が強い人間であることを、アルジェンはずっと知っていた。
その知恵も、勇気も、何度となく目にしてきた。
それなのに。
危険が近づいているかもしれないと知った途端、自分が彼女を遠ざけることばかり考えていた。
「……そうだな」
アルジェンは、静かに呟いた。
リディアが、顔を上げる。
「私は、君の力を信じているつもりでいた」
彼は、包まれた手を握り返した。
「だが、君を危険から遠ざけたいあまり、君自身がどうしたいのか、十分に聞こうとしていなかったようだ」
「……アルジェン様」
「すまない」
その声は、低く穏やかだった。
「君の意思を軽んじるつもりはなかった。だが、私一人で君の安全を決めるのは、共に歩むという約束とは違うな」
リディアの胸が、じんわりと温かくなる。
アルジェンは、彼女の左手へ視線を落とした。
雪の雫が、夕陽を受けて輝いていた。
「……君には、私にない知識がある」
彼は、静かに続けた。
「そして、君自身の過去について、どう向き合うかを決める権利がある」
リディアは、息を呑んだ。
「私がすべきなのは、君に代わってすべてを決めることではない」
アルジェンは、彼女をまっすぐに見つめた。
「君が自分で選べるように、必要な情報と、できる限りの安全を整えることだ」
そして、ほんの少しだけ微笑んだ。
「……リディア」
「はい」
「私の隣に立ってくれ」
その言葉に、彼女の瞳が大きく揺れた。
「二人で考えよう。意見が違うこともあるだろう。そのときは、互いに話せばいい」
アルジェンは、静かに続けた。
「君は、私の婚約者だ。私の言葉に従うためではなく、共に未来を選ぶために、ここにいてほしい」
リディアの頬を、涙が一粒伝った。
「……はい」
彼女は、嬉しそうに微笑んだ。
「私も、そうありたいですわ」
アルジェンは、頷いた。
それから、少しだけ表情を緩める。
「……ただし、一つだけ頼みがある」
「何でしょう?」
「無理はしないでくれ」
その声が、ほんの少しだけ柔らかくなった。
「君が倒れたら、私が困る」
そして、わずかに視線を逸らす。
「……これは、領主としてではなく、私個人の願いだ」
リディアは、目を瞬かせた。
やがて、くすりと笑う。
「まあ……それでしたら」
彼女は、少しだけ悪戯っぽく首を傾げた。
「アルジェン様も、どうか無理はなさらないでくださいませね」
「……私も?」
「ええ」
リディアは、微笑んだ。
「あなたが倒れてしまったら、私だって困りますもの」
アルジェンは、一瞬だけ言葉に詰まった。
そして。
「……ああ」
小さく笑った。
「約束しよう」
*
しばらくして、リディアは思い出したように口を開いた。
「……それでしたら、アルジェン様」
「何だ?」
「一つ、お願いがございます」
アルジェンは、静かに頷いた。
「聞こう」
「今後、ルミエラとの通商問題について協議する機会がございましたら……私も、準備に加わらせていただけませんか?」
その声には、先ほどまでとは違う落ち着きがあった。
「旧来の制度と、今回の変更点を比較することなら、私にもお手伝いできると思います」
アルジェンは、少し考えた。
「……確かに、君の知識は大きな助けになるだろう」
そして、慎重に続けた。
「ただ、正式な交渉の場に出るとなれば、話は別だ」
リディアは、静かに頷いた。
「……はい」
「相手方に君の顔を知る者がいれば、名前を伏せても意味がない。君の身分を明かすことになれば、通商問題とは別の問題が生じる可能性もある」
アルジェンは、彼女の瞳を見つめた。
「だから、まずは資料の分析と、交渉方針の検討に加わってほしい。正式な場への同席については、相手方の顔ぶれや安全を確かめてから、改めて相談しよう」
リディアは、しばらく考えていた。
そして、ゆっくりと頷いた。
「……承知いたしました」
その声には、納得があった。
「私も、焦って事を進めるつもりはございません」
彼女は、少しだけ目を伏せた。
「ただ……いつかは、お姉様と向き合わなければならないと思っています」
アルジェンは、黙って耳を傾けていた。
「それが、いつになるのかは分かりません。どのような形になるのかも……」
リディアは、左手の指輪へそっと触れた。
「ですが、そのときは、逃げずに自分の言葉でお話ししたいのです」
アルジェンは、静かに頷いた。
「……分かった」
そして、彼女の手を取る。
「その日が来たら、私は君の隣に立とう」
リディアが、顔を上げた。
「だが、君が何を話し、何を選ぶかは、君自身が決めていい」
彼は、穏やかに微笑んだ。
「私は、その選択を一緒に考える相手でありたい」
リディアの瞳が、潤んだ。
「……ありがとうございます」
そして、彼の手を握り返す。
「アルジェン様」
「何だ?」
「……あなたと出会えて、本当によかった」
アルジェンは、しばらく彼女を見つめていた。
やがて、少しだけ目を細める。
「……それは、私の台詞でもある」
春の夕陽が、二人の間へ柔らかく差し込んでいた。
*
翌日。
ヴォルフェルト伯爵邸の執務室には、四人の姿があった。
アルジェン。
リディア。
ギルバート。
そして、セレスティーヌ。
机の上には、ルミエラの通商規定、鉱石の輸送記録、各国の交易路を示す地図が広げられていた。
会議に先立ち、リディアはセレスティーヌと向き合っていた。
「……セレスティーヌ様」
「はい、リディア様」
「お仕事に関わることで、一つお伝えしておきたいことがございます」
リディアは、静かに息を吸った。
「私の本当の名は、リディア・パピリアと申します」
セレスティーヌの表情が、わずかに変わった。
「……パピリア?」
「はい」
リディアは、目を逸らさなかった。
「ルミエラ王国の第二王女として、生まれました」
短い沈黙が落ちた。
セレスティーヌは、驚いたように目を見開いた。
だが、すぐに表情を整える。
「……そう、でしたか」
その声には、慎重さが宿っていた。
リディアは、続けた。
「事情があって故郷を離れ、今はアルジェン様のお屋敷に身を寄せております」
そして、少しだけ頭を下げた。
「詳しい経緯については、まだお話しできないこともございます。ですが、今回の通商問題について私が知ることをお伝えするには、出自を隠したままでは難しいと思いました」
セレスティーヌは、静かに耳を傾けていた。
「……私の身分については、どうか当面、他言なさらないでいただけますでしょうか」
その言葉を聞き、セレスティーヌはゆっくりと頷いた。
「承知いたしました」
そして、穏やかに続ける。
「リディア様がご自身の意思でお話しくださったこと、重く受け止めます」
彼女は、一度だけアルジェンへ視線を向けた。
「ただし、今後、正式な外交上の手続きに関わる場合は、どこまで情報を伏せられるか、慎重に検討する必要がございます」
「……ああ」
アルジェンが頷いた。
「それについても、彼女と相談しながら判断するつもりだ」
リディアは、静かに微笑んだ。
セレスティーヌもまた、柔らかく頷いた。
「それでは、まずは通商問題について、できることから進めましょう」
その言葉に、四人の表情が引き締まった。
*
「現在の問題は、ヴォルフェルト領だけに留まりません」
セレスティーヌは、机上の地図を指し示した。
「エルデンフェルトを経由する商人たちにも、輸送の遅延による影響が出ています」
ギルバートが、腕を組んだ。
「審査が長引けば、倉庫の使用料も増える。商人によっては、納品の約束にまで影響が出ているそうだ」
「ええ」
セレスティーヌは、頷いた。
「そこで、一つ提案がございます」
彼女は、地図の中央へ指を置いた。
「エルデンフェルトを仲介役として、三国の通商担当者による協議の場を設けられないか、打診してみてはいかがでしょうか」
アルジェンは、静かに顔を上げた。
「……三国による協議か」
「はい。もっとも、正式な開催には各国の外交当局の承認が必要です」
セレスティーヌは、慎重に続けた。
「まずは、通商上の問題として関係部署へ働きかけることになるでしょう」
ギルバートが、頷いた。
「エルデンフェルトにも損失が出ているなら、協議を求める理由は十分にあるな」
「ええ。ただし、先方が応じるかどうかは別問題です」
そのとき。
資料へ目を通していたリディアが、静かに口を開いた。
「……私も、その案に賛成ですわ」
三人の視線が、彼女へ集まった。
リディアは、机上の書類を指し示した。
「ルミエラでは、以前から輸入品の種類や用途に応じて、審査の段階が分かれておりました」
彼女は、落ち着いた声で続ける。
「ですが、今回の追加書類には、従来の確認項目と重なるものが見受けられます」
セレスティーヌが、興味深そうに身を乗り出した。
「……例えば?」
「こちらです」
リディアは、二つの書類を並べた。
「従来は、鉱石の種類と産出地について、輸出側の証明書があれば確認できる仕組みでした」
彼女は、別の欄を指し示した。
「ところが、今回の追加項目では、輸送に関わる商人や中継地について、さらに詳しい情報が求められています」
ギルバートが、眉を寄せた。
「……それ自体は、不自然とは限らないな」
「ええ。ですから、問題はその必要性と、運用の違いです」
リディアは、静かに頷いた。
「同じ条件の取引で、ある経路だけ審査が長引いているのであれば、なぜその差が生じているのか、説明を求めることができます」
セレスティーヌは、資料へ視線を落とした。
「……なるほど。追加書類そのものを問題にするのではなく、審査基準の一貫性を問うのですね」
「はい」
リディアは、微笑んだ。
「そして、商人たちが被っている損失を具体的に示すことも、大切だと思います」
彼女は、少しだけ言葉を選んだ。
「姉は、国の利益を非常に重んじる人でした」
その声には、かすかな寂しさが滲んでいた。
「ですが、今も同じ判断をするとは限りません。ですから、姉の考えを前提にするのではなく、ルミエラ自身にも不利益が生じていることを、数字で示すべきだと思います」
アルジェンは、静かに頷いた。
「……その通りだ」
彼は、リディアの手元にある書類へ視線を落とした。
「まずは、従来の審査日数と現在の審査日数を比較しよう。同じ種類の鉱石で、輸送経路ごとの違いも確かめたい」
「承知いたしました」
リディアは、嬉しそうに頷いた。
ギルバートが、書類を一枚取り上げる。
「商人たちからの聞き取りは、俺が進めよう。追加費用についても、できる限り記録を揃える」
セレスティーヌも、頷いた。
「私はエルデンフェルト側の通商担当部署へ、非公式に協議の可能性を打診いたします」
アルジェンは、三人を見渡した。
「……頼む」
そして、リディアへ視線を向ける。
「君には、旧来の規定と今回の変更点の比較を任せたい。扱う資料は、公開可能な通商記録と、必要な範囲の集計資料に限ろう」
「はい」
リディアは、まっすぐに頷いた。
「できる限り、丁寧に調べてまいります」
アルジェンは、わずかに微笑んだ。
雪原で救った女性が、今、自分の隣で意見を述べている。
かつて彼女が何者であったかではない。
今、彼女が何を考え、何を選ぶのか。
その姿が、何より誇らしかった。
*
会議は、その後も数時間にわたって続いた。
各国への照会文。
輸送記録の整理。
商人たちへの聞き取り。
そして、正式な協議が実現した場合に必要となる資料。
四人は、一つ一つを慎重に検討していった。
やがて、窓の外が藍色へ染まり始めた頃。
アルジェンは、静かに書類を閉じた。
「……今日は、ここまでにしよう」
ギルバートが、深く息を吐いた。
「ようやく終わったか」
セレスティーヌも、少しだけ肩の力を抜いた。
「随分と整理が進みましたね」
アルジェンは、頷いた。
「ああ。皆、よく働いてくれた」
そして、リディアへ視線を向ける。
「君も、今日は十分だ」
リディアは、くすりと笑った。
「ふふ……承知いたしました」
やがて、ギルバートとセレスティーヌが退出していった。
執務室に、静寂が戻る。
窓の外では、春の宵闇が深まりつつあった。
遠くの山々には、まだ白い雪が残っている。
アルジェンは、椅子から立ち上がった。
そして、リディアの傍へ歩み寄る。
「……リディア」
「はい?」
「今日は、見事だった」
その声には、深い温かさが宿っていた。
「君の説明のおかげで、調べるべき点が明確になった。セレスティーヌも、ギルバートも、随分と助けられたはずだ」
リディアは、少しだけ頬を染めた。
「まあ……そんな」
そして、嬉しそうに微笑む。
「お役に立てたのでしたら、何よりですわ」
アルジェンは、静かに頷いた。
「……ああ」
それから、少しだけ困ったように微笑む。
「しかし、仕事熱心なのは私に似てきたのかもしれんな」
リディアが、くすりと笑った。
「ふふ……そうかもしれませんわね」
アルジェンは、彼女を見つめた。
琥珀色の瞳。
柔らかな微笑み。
そして、薬指に輝く雪の雫。
そのすべてが、愛おしかった。
「……だが、あまり根を詰めすぎるな」
彼は、穏やかに続けた。
「今夜は、ゆっくり休んでくれ。明日からも、やるべきことは多いだろうからな」
「……はい」
リディアは、静かに頷いた。
そのとき。
アルジェンは、ふと身を屈めた。
そして。
彼女の額へ、そっと唇を寄せた。
*
「…………え?」
リディアは、ぱちりと目を瞬かせた。
何が起きたのか。
一瞬、理解できなかった。
額に触れた、柔らかな感触。
それが何だったのかを、頭の中でゆっくりと確かめる。
そして。
「……っ!?」
数秒遅れて、頬がみるみる赤く染まった。
「あ、アルジェン様……!?」
思わず、額へ手を当てる。
「い、今のは……!」
先ほどまで、三国の通商問題について堂々と意見していた女性の姿は、どこへやら。
リディアは、すっかり言葉を失っていた。
アルジェンもまた、自分が何をしたのかを遅れて自覚したらしかった。
彼は、一度だけ小さく咳払いをした。
「……すまない」
リディアが、顔を上げる。
「……その、不快ではなかっただろうか」
その問いに、リディアは目を瞬かせた。
そして、ますます頬を赤くする。
「ふ、不快だなんて……!」
彼女は、視線を泳がせた。
「……ただ」
「……ただ?」
「……不意打ちは、ずるいですわ」
その声は、抗議するようで。
けれど、どこか嬉しそうだった。
アルジェンは、一瞬だけ目を瞬かせた。
「……ずるい、か」
彼は、彼女の言葉を繰り返した。
そして、少しだけ視線を逸らす。
「……そうかもしれん」
リディアが、顔を上げた。
アルジェンは、静かに続ける。
「君があまりにも誇らしく、愛おしかったから……」
そこで、一度言葉を切った。
「……つい、身体が動いてしまった」
リディアの頬が、さらに赤く染まった。
アルジェンは、口元へ片手を添えた。
その耳の端も、ほんの少し赤くなっている。
「……不意打ちになったのは、私の不徳の致すところだ」
リディアは、思わず小さく笑った。
この人は。
本当に、どこまでも真面目なのだ。
婚約指輪を選ぶときも。
愛を告げるときも。
そして、こうして不意に口づけてしまったときでさえ。
すべてを、真剣に考えてしまう。
その不器用さが、どうしようもなく愛おしかった。
「……ふふ」
リディアは、額に手を当てたまま微笑んだ。
「……おやすみなさいませ、アルジェン様」
そして、恥ずかしさに耐えきれず、そっと視線を逸らした。
アルジェンは、そんな彼女の手を優しく握った。
「……おやすみ、リディア」
その声には、深い温かさが宿っていた。
けれど。
次の瞬間。
彼は、少しだけ言い淀んだ。
「……その」
リディアが、顔を上げる。
「……額のことは、忘れてくれて構わない」
リディアが、目を瞬かせた。
アルジェンは、少しだけ眉を寄せた。
「……いや」
そして、困ったように微笑んだ。
「忘れないでほしい、というのも本音だが」
その言葉に。
リディアは、とうとう小さく吹き出した。
「……まあ、アルジェン様ったら」
その笑顔は、春の陽だまりのように温かかった。
アルジェンもまた、静かに微笑んだ。
*
やがて、リディアは執務室を後にした。
廊下へ出たあとも、彼女の指先は名残惜しそうに額へ触れていた。
そこには、もう唇の感触など残っていない。
けれど、胸の奥には確かな温もりが宿っていた。
リディアは、そっと左手へ視線を落とした。
雪の雫が、廊下の灯りを受けて輝いている。
守られるだけではない。
共に考え、共に決め、共に歩んでいく。
その誓いが、今、少しずつ現実になり始めていた。
彼女は、静かに微笑んだ。
そして、ゆっくりと歩き出した。
*
一方。
執務室に残されたアルジェンは、しばらくその場に立ち尽くしていた。
彼女の額へ触れた、柔らかな感触。
真っ赤になった頬。
そして、嬉しそうに微笑んだ琥珀色の瞳。
そのすべてが、鮮明に思い出せた。
「……まったく」
小さく呟く。
領地の管理。
鉱山の運営。
交易協定。
これまで、数え切れないほどの難題に向き合ってきた。
それでも。
一人の女性へ、どう気持ちを伝えるべきかということになると、途端に言葉が頼りなくなる。
アルジェンは、静かに息を吐いた。
そして、ふと笑みをこぼす。
困ったことだ。
だが、決して嫌ではなかった。
彼は、ゆっくりと窓辺へ歩み寄った。
外には、春の宵闇が広がっている。
遠くの山々には、まだ雪が残っていた。
けれど、麓には若草が芽吹き始めている。
長い冬が、終わろうとしていた。
「……明日も、忙しくなりそうだな」
その声は、穏やかだった。
*
それから、数週間が過ぎた。
ヴォルフェルト領では、商人たちから寄せられた記録の整理が進められていた。
追加書類の種類。
審査に要した日数。
輸送経路ごとの違い。
そして、遅延によって生じた費用。
リディアは、公開可能な資料と集計記録を照らし合わせながら、旧来の規定との相違を丁寧にまとめていった。
ギルバートは商人たちからの聞き取りを続け、アルジェンは領主として正式な照会と申し入れを進めていた。
セレスティーヌもまた、エルデンフェルトの通商担当部署との調整に奔走していた。
そして、ある日の午後。
エルデンフェルト王国から、一通の正式な通知が届いた。
三国通商協議。
ニヴェリス、ルミエラ、エルデンフェルト。
各国の関係当局による調整を経て、三国の代表団による協議の開催が承認されたという知らせだった。
開催地は、エルデンフェルト王宮。
協議に先立ち、各国の代表団を迎える歓迎夜会も予定されている。
アルジェンは、静かに通知を読み終えた。
「……正式に決まったか」
その声には、安堵よりも慎重さが滲んでいた。
セレスティーヌが、頷いた。
「はい。協議の主題は、通関規定の運用と、それに伴う交易上の問題です」
彼女は、机上へ別の書類を置いた。
「各国の代表団についても、暫定名簿が届いております」
ギルバートが、その一枚を取り上げた。
「……顔ぶれ次第では、準備も変わるな」
「ああ」
アルジェンは、頷いた。
「まずは確認しよう」
ギルバートが、名簿へ視線を落とす。
そして。
その指先が、ぴたりと止まった。
「……待て」
アルジェンが、顔を上げた。
「どうした?」
ギルバートは、名簿の一節を見つめていた。
「……ルミエラ側の代表団だ」
その声には、普段の軽やかさがなかった。
セレスティーヌも、静かに頷いた。
「……第一王女、イネヴィア・パピリア殿下」
その名が、執務室へ静かに響いた。
アルジェンの灰青色の瞳が、わずかに細められた。
「……本人が来るのか」
「はい」
セレスティーヌは、慎重に続けた。
「代表団を率いる予定とのことです」
短い沈黙が落ちた。
アルジェンは、名簿へ視線を落とした。
イネヴィア・パピリア。
リディアの姉。
彼女の話によれば、身に覚えのない罪を着せ、故郷を離れる原因となった人物。
その名が、今、正式な外交文書に記されている。
だが。
それだけで、今回の協議がリディアを探すためのものだと決めつけることはできなかった。
第一王女が通商問題の代表団を率いることには、政治的な理由も考えられる。
アルジェンは、静かに息を吐いた。
「……他の随行者は?」
セレスティーヌは、名簿の下へ視線を移した。
「通商担当の官吏と、王宮関係者が数名。それから……」
そこで、彼女の言葉が止まった。
ギルバートが、眉を寄せる。
「……セレス?」
セレスティーヌは、ゆっくりと顔を上げた。
「……もう一人、確認していただきたい方がいます」
彼女は、名簿の一節を指し示した。
アルジェンは、そこへ視線を落とした。
そして。
その名を、静かに読み上げた。
「……レオンハルト・フォン・クラウゼル」
執務室に、沈黙が落ちた。
リディアが、かつて未来を共に歩むはずだった男。
彼女が助けを求めたとき、その傍に立たなかった婚約者。
その名が、イネヴィアの名と同じ紙に並んでいた。
ギルバートが、低く息を吐く。
「……ずいぶんと厄介な顔ぶれだな」
アルジェンは、何も言わなかった。
セレスティーヌは、慎重に続けた。
「お二人が同じ代表団に加わる理由については、まだ分かっておりません」
そして、アルジェンをまっすぐに見つめる。
「先方がリディア様の所在を把握しているかどうかも、現段階では不明です」
アルジェンは、静かに頷いた。
「……分かっている」
彼は、もう一度名簿へ視線を落とした。
イネヴィア・パピリア。
レオンハルト・フォン・クラウゼル。
二つの名前。
リディアが語ってくれた過去と、深く結びつく人々。
彼らが、エルデンフェルトへやって来る。
その事実だけは、確かだった。
「……ギルバート」
「何だ?」
「代表団の構成と、それぞれの役割について確認してくれ。推測と事実は分けて報告してほしい」
「了解した」
アルジェンは、セレスティーヌへ視線を向けた。
「セレス。協議と歓迎夜会の出席条件についても、詳しく知りたい」
「承知いたしました」
彼は、静かに息を吐いた。
そして、机上の名簿を閉じた。
「……それから」
二人が、顔を上げる。
アルジェンの灰青色の瞳には、揺るぎない意志が宿っていた。
「リディアに、この名簿を見せよう」
ギルバートは、しばらく彼を見つめていた。
「……いいのか?」
「ああ」
アルジェンは、静かに頷いた。
「彼女は、共に考えたいと言ってくれた」
そして、閉じた名簿へ視線を落とす。
「誰が来るのかを知らずに、彼女自身の進む道を選ぶことはできない」
その声には、領主としての冷静さと、一人の男としての深い愛情が宿っていた。
「……私は、彼女の意思を聞きたい」
春の風が、窓の外の木々を揺らしていた。
遠い南方から、過去の影が近づいている。
その影が、何をもたらすのか。
まだ、誰にも分からなかった。
けれど。
アルジェンは、もう一度、名簿の上へ手を置いた。
その先に待つものが、どのようなものであろうとも。
リディアに代わって未来を決めるつもりはなかった。
ただ、彼女が選んだ道を。
今度こそ、隣で共に歩むために。
銀狼は、静かに次の一手を考え始めていた。




