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第十章 春嵐の足音 前編

 婚約の誓いを交わしてからというもの、アルジェンの日常には、ささやかな変化が生まれていた。


 執務室の扉が開く。


 書類を抱えたリディアが、いつものように入ってくる。


 彼女が机の上へ資料を置くと、その左手に嵌められた指輪が、窓から差し込む春の光を受けて輝いた。


 淡い氷青色の宝石。


 ニヴェリア鉱石を雫の形に磨き上げた、婚約の証。


 ――雪の雫。


 それを見るたび、アルジェンはほんのわずかに手を止めてしまう。


 自分が選び、彼女へ贈った指輪。


 そして何より、彼女が自らの意思で受け取ってくれた指輪だった。


「……アルジェン様?」


 不思議そうな声に、アルジェンは顔を上げた。


「こちらの書類、何か気になる点がございましたか?」


 リディアが小首を傾げている。


 彼女の手元には、鉱山から届いた輸送実績をまとめた資料があった。


 だが、アルジェンが見つめていたのは、そこに記された数字ではない。


「……いや」


 小さく咳払いをする。


「記載内容に問題はない。よく整理されている」


「まあ、ありがとうございます」


 リディアは嬉しそうに微笑んだ。


 その笑顔を見た途端、アルジェンは再び視線を奪われそうになり、今度こそ意識して書類へ目を落とした。


 領地の管理も、鉱山の運営も、交易の調整も。


 これまでと変わらず、彼にとって大切な責務だった。


 ただ、その日々の中に、もう一つ大切なものが加わった。


 仕事の合間に交わす何気ない会話。


 夕暮れの庭園を並んで歩く時間。


 そして、一日の終わりに、彼女が自分へ向けてくれる微笑み。


 それらを、これからも共に重ねていける。


 その事実が、アルジェンには何より嬉しかった。


「……リディア」


「はい?」


「今日も午後の茶の時間は空けてある」


 リディアは、くすりと笑った。


「ふふ……存じておりますわ」


 そして、少しだけ悪戯っぽく目を細める。


「伯爵様の最優先公務、ですものね?」


 アルジェンの手が止まった。


 以前、自分がそう口にしたことを思い出したのだ。


「……ああ」


 彼は、至って真面目な顔で頷いた。


「今後も、その予定を変更するつもりはない」


「まあ……!」


 リディアは楽しそうに笑った。


「それでは、私も遅刻しないようにしなければなりませんわね」


「君ならば、多少遅れても構わないが」


「いけませんわ。最優先公務なのでしょう?」


「……それは、そうだが」


 彼女の琥珀色の瞳が、愉快そうに細められる。


 アルジェンは、ようやく自分がからかわれていることに気づいた。


「……リディア」


「はい、アルジェン様?」


「君は最近、ギルバートに似てきた気がする」


 リディアは一瞬きょとんとしたあと、とうとう声を立てて笑った。


 その笑い声が、春の執務室に柔らかく響く。


 アルジェンもまた、つられるように微笑んだ。


 穏やかな午後だった。


 こんな日々が、これからも続いてほしい。


 それは、領主としてではなく、一人の男として抱いた、ささやかな願いだった。


 だが。


 遠い南方から届く報告は、その願いとは裏腹に、少しずつ不穏な色を帯び始めていた。


*


 数日後。


 ヴォルフェルト伯爵邸の執務室には、いつもより多くの交易関係書類が積まれていた。


「……審査の遅延が、さらに増えているな」


 アルジェンは、報告書へ目を通しながら低く呟いた。


 机の向こうでは、ギルバートが腕を組んでいる。


「ああ。ルミエラ方面へ向かう鉱石の取引だ。全面的に止められているわけじゃないが、商人たちからの苦情が増えている」


「理由は?」


「追加の証明書類だそうだ」


 ギルバートは、一枚の報告書を差し出した。


「ただ、要求される内容が取引ごとに違うらしい。ある商人は通常の産地証明だけで通過できたのに、別の商人は荷主や仲介人について、さらに詳しい書類を求められたという」


 アルジェンの眉が、わずかに動いた。


「……要求項目が統一されていないのか」


「少なくとも、現場からの報告ではそうなっている」


 アルジェンは、静かに書類をめくった。


 鉱石の種類。


 出荷日。


 取引経路。


 審査に要した日数。


 それらの記録を見比べながら、彼は一つの項目へ指を止めた。


「……この取引では、仲介人の所在まで確認されているな」


「ああ」


「一方、こちらでは要求されていない」


 ギルバートが頷く。


「担当官による違いかもしれんが、商人たちも困惑している」


 アルジェンは、しばらく黙って考えた。


 交易の審査が厳しくなること自体は、珍しい話ではない。


 財政上の理由。


 密輸対策。


 あるいは、行政制度の変更。


 考えられる理由はいくつもある。


 だが、要求される情報にばらつきがあるのなら、その根拠を確認する必要があった。


「……セレスティーヌへ連絡を」


 アルジェンは、静かに顔を上げた。


「同条件の取引で、どの程度の差が生じているのかを確かめたい」


「了解した」


「それから、追加書類の要求根拠も確認してくれ。正式な規定に基づくものなのか、担当官の判断によるものなのか」


 彼は、報告書を机へ置いた。


「商人たちが必要以上の情報を渡さずに済むよう、こちらでも提出項目を整理しておこう」


 ギルバートは、真剣な表情で頷いた。


 アルジェンは、続けて別の書類を手に取った。


「……南方出身者についての問い合わせは?」


「それも続いている」


 ギルバートの声が、少し低くなった。


「ただし、誰が何の目的で尋ねているのか、まだはっきりしない。商人の紹介先を探しているだけという話もあれば、北方へ移った人物の消息を尋ねていたという話もある」


「……そうか」


 アルジェンは、静かに息を吐いた。


 春の庭園で、リディアが打ち明けてくれた真実。


 彼女が、どれほどの勇気を振り絞って話してくれたのか。


 その震える声を、彼は忘れていなかった。


 だが、今ある情報だけで、これらの問い合わせが彼女を探すためのものだと決めつけることはできない。


「……関連があるかどうかは、まだ分からんな」


「ああ」


「ならば、事実を集めよう」


 アルジェンは、落ち着いた声で続けた。


「問い合わせを受けた商人には、日時と相手の名、尋ねられた内容を記録してもらう。無理に相手を追う必要はない」


「分かった」


「屋敷でも、外部からの照会に対する対応を統一しておこう。滞在者の個人的な事情を、安易に口外することのないように」


 ギルバートは、頷いた。


「……リディアのこともあるしな」


 アルジェンは、静かに彼を見つめた。


 ギルバートは、彼女のすべてを知っているわけではなかった。


 ただ、婚約後、リディア自身が彼を信頼し、自分の故郷に関わる事情があること、そして身元を慎重に扱ってほしいことを伝えていた。


 アルジェンもまた、それ以上のことを本人の了承なく明かすつもりはなかった。


「……ああ」


 彼は、静かに頷いた。


「だが、彼女だけの問題ではない。領内で暮らす者の個人情報を守るのは、領主として当然の責務だ」


 ギルバートは、少しだけ微笑んだ。


「……そうだな」


 そして、報告書をまとめ始める。


「セレスには俺から連絡しておく」


「頼む」


 アルジェンは、再び机上の地図へ目を落とした。


 ニヴェリス。


 エルデンフェルト。


 そして、南方のルミエラ王国。


 幾重にも結ばれた交易路の向こうで、何が起きているのか。


 まだ、答えは見えない。


 けれど。


 領地の暮らしを守るためにも。


 そして、リディアが自分の意思で選んだ未来を守るためにも。


 見過ごすわけにはいかなかった。


*


 数日後。


 エルデンフェルトから、セレスティーヌ・ヴァレンベルクがヴォルフェルト伯爵邸を訪れた。


 春の陽射しを背に執務室へ入ってきた彼女は、いつものように穏やかな笑みを浮かべていた。


「お久しぶりです、アルジェン伯爵」


「……セレス。忙しいところ、すまない」


「いいえ。こちらとしても、見過ごせない問題ですから」


 彼女は椅子へ腰を下ろすと、持参した資料を机の上へ広げた。


「まず、ルミエラの通関規定についてですが……」


 その声には、交易交渉官としての冷静さがあった。


「今回の改正は、複数の交易路に適用されています。ですから、制度そのものがヴォルフェルト領だけを対象にしているわけではありません」


 アルジェンは、頷いた。


「……そこまでは確認できている」


「ですが、実際の運用には差が見られます」


 セレスティーヌは、いくつかの記録を並べた。


「同種の鉱石を扱う取引を比較したところ、ヴォルフェルト領を経由したものでは、審査に時間がかかる事例が多く確認されました」


 ギルバートが、資料へ身を乗り出す。


「……どの程度だ?」


「一律ではありません。ただ、複数の商人から同じ傾向が報告されています」


 セレスティーヌは、別の紙を取り出した。


「それと、もう一つ」


 アルジェンが、顔を上げる。


「追加書類の一部について、正式な規定との対応が確認できていません」


 執務室に、短い沈黙が落ちた。


「……規定にない書類を求めているのか?」


 ギルバートが尋ねる。


「そこまでは断定できません」


 セレスティーヌは、慎重に首を振った。


「関連する細則が、こちらへ十分に伝わっていない可能性もあります。ですが、少なくとも商人たちに示された説明だけでは、要求の根拠が明確ではありません」


 アルジェンは、書類を受け取った。


 そこには、審査を受けた日付と、追加提出を求められた項目が整理されていた。


 荷主。


 仲介人。


 取引に関わった商会。


 そして、一部では、その所在に関する詳細な確認。


「……なるほど」


 アルジェンは、静かに呟いた。


「鉱石そのものの確認だけではない、ということか」


「ええ。ただし、これが何を目的としたものなのかは分かりません」


 セレスティーヌは、まっすぐに彼を見つめた。


「制度上の不備かもしれませんし、担当官の判断が統一されていないだけかもしれません」


「……あるいは、別の意図がある可能性も否定できない」


「その通りです」


 アルジェンは、しばらく資料を見つめていた。


 推測は、いくらでもできる。


 だが、推測だけでは商人たちの損失を取り戻すことも、誰かの安全を確保することもできない。


「……正式な照会を出そう」


 彼は、静かに顔を上げた。


「追加書類の根拠と、適用条件について回答を求める」


 セレスティーヌが頷く。


「妥当な対応だと思います」


「ギルバート。商人たちから提出された記録を、取引条件ごとに整理してくれ」


「了解した」


「セレスには、エルデンフェルト側で確認できる事例との比較を頼みたい」


「承知いたしました」


 アルジェンは、書類を一枚ずつ揃えた。


「……それから、南方出身者への問い合わせについては?」


 セレスティーヌの表情が、わずかに引き締まった。


「そちらも確認を進めています」


 彼女は、一度言葉を切った。


「ただ、今のところ、通関制度の変更と結びつけられる証拠はありません」


「……そうか」


「とはいえ、北方へ移った人物について尋ねられた商人がいるのは事実です。問い合わせた人物の所属や目的については、引き続き確認します」


 アルジェンは、静かに頷いた。


「……頼む」


 その声には、冷静さがあった。


 だが、胸の奥では、確かな警戒が芽生えていた。


 まだ何も決まったわけではない。


 それでも、何かが起こったときに備えておく必要はある。


 銀狼と呼ばれた男は、静かに次の手を考え始めていた。


*


 ひととおりの話し合いが終わった頃。


 セレスティーヌは、ふと机の上の資料から顔を上げた。


「……ところで、アルジェン伯爵」


「何だ?」


「少々、仕事とは関係のないことを伺っても?」


 アルジェンは、わずかに眉を上げた。


「……内容によるな」


 その答えに、セレスティーヌは楽しそうに微笑んだ。


「先ほどから、リディア様のお名前が出るたびに、あなたの表情が少し柔らかくなるものですから」


 ギルバートの口元が、ぴくりと動いた。


 アルジェンは、静かに彼を一瞥した。


「……そうか?」


「ええ」


 セレスティーヌは、穏やかに頷いた。


「以前から大切になさっていることは存じておりましたけれど……最近は、また少し違うように感じます」


 そして、悪戯っぽく首を傾げた。


「何か、素敵なご報告でもございますか?」


 ギルバートが、とうとう小さく笑った。


 アルジェンは、深く息を吐いた。


「……ギルバート」


「何も言ってないぞ?」


「顔に書いてある」


「それは不可抗力だな」


 セレスティーヌは、口元へ手を添えて笑った。


 アルジェンは、しばらく二人を見つめていた。


 それから。


 静かに姿勢を正した。


「……隠すことでもないな」


 その声には、どこか誇らしげな響きがあった。


「リディアは、私の婚約者になった」


 セレスティーヌが、目を瞬かせた。


「…………婚約者?」


「ああ」


 アルジェンは、穏やかに頷いた。


「先日、私から申し込み、受け入れてもらった」


 数秒の沈黙。


 そして。


「……まあ!」


 セレスティーヌは、珍しく声を弾ませた。


「それは、おめでとうございます!」


 その笑顔には、心からの喜びが滲んでいた。


「まさか、あなたから婚約のご報告を伺う日が来るとは……!」


「……感謝する」


 アルジェンは、少しだけ照れたように視線を逸らした。


 だが。


 その隣で、ギルバートが大きく肩を揺らしていた。


「ははっ! セレス、驚いただろう?」


「ええ、本当に!」


「こいつ、指輪を作るために、わざわざ王都まで出向いたんだぞ」


 セレスティーヌの瞳が、興味深そうに輝いた。


「まあ……ご自身で?」


「しかも職人に、リディアの素晴らしさを語って――」


「……ギルバート」


 低い声が響いた。


 ギルバートは、わざとらしく咳払いをした。


「……おっと」


 セレスティーヌは、楽しそうに微笑んだ。


「ふふ……なるほど。随分と熱心に選ばれたのですね」


 アルジェンは、居心地が悪そうに眉を寄せた。


「……必要な説明をしただけだ」


「もちろん、そうでしょうとも」


 セレスティーヌは、にこやかに頷いた。


 ギルバートもまた、真面目な顔を作る。


「ああ。必要な説明だったな」


「……二人とも」


 アルジェンの声が、わずかに低くなった。


 だが、その耳の端が赤くなっていることを、二人は見逃さなかった。


 しばらくして。


 笑いが落ち着くと、アルジェンは静かに口を開いた。


「……リディアと出会ってから、私にも新しく知った幸せがある」


 その声には、穏やかな温かさが宿っていた。


「これまでも、領地を治めることに誇りを持ってきた。領民の暮らしを守り、信頼できる者たちと働く日々を、大切に思っている」


 ギルバートは、静かに耳を傾けていた。


「だが……」


 アルジェンは、ほんの少しだけ微笑んだ。


「一日の終わりに、誰かと同じ景色を眺めたいと願うことが、これほど幸福なものだとは知らなかった」


 セレスティーヌの表情が、柔らかくなった。


「……素敵ですわね」


 アルジェンは、静かに頷いた。


「彼女は、私にとって大切な人だ」


 そして、二人をまっすぐに見つめる。


「これからの人生を、共に歩んでいきたいと思っている」


 その言葉に、迷いはなかった。


 ギルバートは、しばらく黙っていた。


 それから、少しだけ笑った。


「……本当に、よかったな」


 アルジェンは、彼へ視線を向けた。


 長年、自分の傍で働き、幾度となく苦労を共にしてきた友人。


 その表情には、からかいではない、純粋な祝福が浮かんでいた。


「……ああ」


 アルジェンは、静かに答えた。


「ありがとう」


 セレスティーヌもまた、穏やかに微笑んだ。


 春の陽射しが、執務室へ柔らかく差し込んでいた。


 ほんのひととき。


 南方から届く不穏な報告を忘れさせるような、温かな時間だった。


*


 だが、その後。


 アルジェンは、再び真剣な表情へ戻った。


「……セレス」


「はい」


「リディアについて、一つ頼みがある」


 セレスティーヌは、姿勢を正した。


「何でしょうか?」


「彼女には、まだ公にしていない事情がある」


 アルジェンは、慎重に言葉を選んだ。


「詳しいことは、今ここで私の口から話すべきではない」


 セレスティーヌは、黙って耳を傾けていた。


「だが、彼女の身元や過去について、外部から問い合わせがあった場合には、私へ知らせてほしい」


 その声には、静かな真剣さがあった。


「特に、ルミエラ方面からの照会については、慎重に扱いたい」


 セレスティーヌの瞳が、わずかに細められた。


「……事情がおありなのですね」


「ああ」


 アルジェンは、静かに頷いた。


「彼女自身が話すと決めるまでは、私から詳細を明かすつもりはない」


 セレスティーヌは、しばらく彼を見つめていた。


 そして、穏やかに微笑んだ。


「……承知いたしました」


 その声には、誠実さが宿っていた。


「必要な範囲で、情報の確認を進めます。リディア様の個人的な事情については、無理に立ち入らないようにいたしましょう」


「……感謝する」


 アルジェンは、深く頷いた。


 セレスティーヌは、静かに続けた。


「ただし、伯爵」


「何だ?」


「もし今後、通商上の問題と、リディア様に関わる問題が重なるようであれば……」


 彼女は、一度言葉を切った。


「そのときは、必要な情報を共有する方法について、改めてご相談くださいませ」


 アルジェンは、静かに頷いた。


「……ああ」


 そして、窓の外へ視線を向けた。


 春の庭園。


 咲き始めた花々。


 そのどこかで、リディアが穏やかに過ごしている。


 彼女が自らの意思で、この場所に留まることを選んでくれた。


 だからこそ。


 彼女の人生に関わることを、彼女抜きで決めてはならない。


 アルジェンは、胸の奥で静かにそう確かめた。


*


 それから、数週間が過ぎた。


 ルミエラ方面の通商問題は、改善するどころか、少しずつ深刻さを増していた。


 追加書類の提出。


 審査の長期化。


 そして、輸送予定の変更によって生じる商人たちの負担。


 ヴォルフェルト領でも、影響を受ける取引が増え始めていた。


 そんなある日の午後。


 ギルバートが、一通の文書を持って執務室へ入ってきた。


「……アルジェン」


 その声には、いつもの軽やかさがなかった。


「ルミエラ側から、正式な回答が届いた」


 アルジェンは、顔を上げた。


「……内容は?」


「財政改革に伴う適正な審査、だそうだ」


 ギルバートは、書類を机へ置いた。


「追加書類についても、制度の適切な運用のために必要だという説明だな」


 アルジェンは、静かに文書を受け取った。


 そこには、整った文面で制度改正の目的が記されていた。


 財政の健全化。


 交易記録の正確性。


 不正な取引の防止。


 いずれも、それ自体は不自然な理由ではない。


 だが。


「……肝心の項目ごとの根拠が、十分に示されていないな」


 アルジェンは、低く呟いた。


「ああ」


 ギルバートは、頷いた。


「セレスからも、同じ指摘が来ている」


 アルジェンは、文書を机へ置いた。


「……ならば、具体的な事例を添えて再照会しよう」


 その声には、冷静さがあった。


「制度そのものを否定する必要はない。問題は、同じ条件の商人が異なる扱いを受けていることだ」


 ギルバートは、頷いた。


「……分かった」


 だが、彼はすぐには席を離れなかった。


 アルジェンが、顔を上げる。


「……まだ何かあるのか?」


 ギルバートは、少しだけ表情を引き締めた。


「別件だ」


 そして、もう一枚の報告書を差し出した。


「北方へ来た南方出身者について、商人に尋ねて回っている者がいるらしい」


 アルジェンの手が止まった。


「……以前の問い合わせと同じか?」


「断定はできない」


 ギルバートは、慎重に答えた。


「だが、今回は少し具体的だ」


 彼は、報告書の一節を指し示した。


「ある商人は、ヴォルフェルト伯爵領に滞在している女性について尋ねられたという」


 短い沈黙が落ちた。


 窓の外では、春風が花々を揺らしていた。


 アルジェンは、静かに報告書へ視線を落とした。


「……相手の身元は?」


「まだ確証がない。ルミエラの宮廷に関係する人物ではないか、という証言はあるが……」


「……証言だけか」


「ああ」


 アルジェンは、ゆっくりと息を吐いた。


 通商問題。


 南方出身者への照会。


 そして、ヴォルフェルト領に滞在する女性についての質問。


 それらが、同じ目的によるものなのか。


 まだ、分からない。


 けれど。


 これまでよりも、警戒を強めるべき段階に入ったことだけは確かだった。


「……ギルバート」


「何だ?」


「屋敷の警備を見直そう」


 アルジェンは、静かに言った。


「門の出入りと来訪者の確認を徹底する。使用人たちにも、不審な問い合わせがあれば報告するよう伝えてくれ」


「分かった」


「ただし、必要以上に騒ぎ立てるな。領民や使用人を不安にさせる必要はない」


 ギルバートは、頷いた。


「……リディアのことは?」


 アルジェンは、しばらく黙っていた。


 春の庭園で、彼女が差し出してくれた手。


 その薬指に嵌めた、雪の雫。


 そして。


 彼女が、自分の意思で未来を選んでくれたこと。


「……彼女には、私から話す」


 アルジェンは、静かに答えた。


 ギルバートが、顔を上げる。


「……いいのか?」


「ああ」


 その声に、迷いはなかった。


「不安にさせたくないからといって、何も知らせずにいるわけにはいかん」


 アルジェンは、報告書を閉じた。


「彼女自身が判断するためにも、知るべきことがある」


 そして、静かに続ける。


「……共に歩むと誓ったのだからな」


 ギルバートは、しばらく彼を見つめていた。


 それから、穏やかに微笑んだ。


「……そうだな」


 アルジェンは、立ち上がった。


「それから、セレスには追加の照会書を送ろう。エルデンフェルト側の協力も、引き続き必要になる」


「了解した」


 ギルバートは、書類を手に取った。


 アルジェンは、窓の外へ視線を向けた。


 柔らかな陽射し。


 春の庭園。


 そして、その向こうに広がる領地。


 守るべきものは、一つではない。


 領民の暮らし。


 長い年月をかけて築かれてきた交易。


 そして、自らの意思でこの地に留まることを選んだ、一人の女性。


 そのすべてを守るために。


 彼は、冷静に動かなければならなかった。


*


 その日の夕刻。


 ヴォルフェルト伯爵邸の窓辺で、リディアは春の庭園を眺めていた。


 夕陽が花々を照らし、柔らかな影を石畳へ落としている。


 左手の薬指には、淡い氷青色の宝石が輝いていた。


 雪の雫。


 アルジェンから贈られた、婚約の証。


 その輝きを見るたび、胸の奥が温かくなる。


 あの日。


 春の庭園で、彼は自分へ愛を告げてくれた。


 そして、彼女が隠してきた事情を知ったうえで、なお。


 共に生きたいと願ってくれた。


 その幸せは、今も変わらない。


 けれど。


 最近、屋敷の様子が少しずつ変わり始めていることに、リディアは気づいていた。


 門の周囲で交わされる、短い報告。


 以前より慎重になった来訪者の確認。


 そして、街から戻ってくる商人たちの、どこか険しい表情。


 何かが起きている。


 それは、間違いなかった。


 リディアは、静かに目を伏せた。


 胸の奥に、一つの疑念が浮かぶ。


 ――まさか、お姉様が……。


 その名を思い浮かべた瞬間、心臓が小さく跳ねた。


 もし、自分の存在が知られ始めているのだとしたら。


 もし、この領地にまで危険が及ぼうとしているのだとしたら。


 ――私が、ここにいるせいで……。


 その考えが、胸の奥へ浮かびかけた。


 けれど。


 リディアは、そっと左手へ視線を落とした。


 薬指には、雪の雫が輝いている。


 あの日、交わした誓い。


 春も夏も、秋も冬も。


 どんな困難があっても、共に歩んでいく。


 その約束を、彼女は思い出していた。


「……いいえ」


 リディアは、小さく呟いた。


 そして、静かに首を振る。


「もう、独りで決めてはいけませんわね」


 かつての自分なら、きっと何も告げずに去ろうとしただろう。


 誰にも迷惑をかけたくないと。


 大切な人を危険に晒したくないと。


 そう考えて、また一人で逃げ出そうとしたかもしれない。


 けれど、今は違う。


 アルジェンは、共に歩もうと言ってくれた。


 自分も、そう誓った。


 ならば。


 どんな問題が起きていようとも。


 今度は、一人で背負うべきではない。


 それに。


 自分には、できることがあるはずだった。


 この領地で過ごした冬の日々。


 書斎で帳簿を読み解き、交易の仕組みを学び、商人たちの話に耳を傾けてきた時間。


 それらは、決して無駄ではなかった。


 守られるだけではなく。


 自分もまた、この場所を守るために何かをしたい。


 それは、誰かに命じられた役目ではなかった。


 リディア自身が、心から望んだことだった。


 彼女は、ゆっくりと顔を上げた。


 夕陽が、琥珀色の瞳を柔らかく照らしている。


 そのとき。


 廊下の向こうから、聞き慣れた足音が近づいてきた。


 規則正しく、落ち着いた足音。


 けれど、その歩調には、いつもよりわずかな緊張が滲んでいた。


 リディアは、静かに振り返った。


 やがて、扉が控えめに叩かれる。


「……リディア。私だ」


 その声に、彼女は小さく微笑んだ。


「はい、アルジェン様」


 扉が開き、銀灰色の髪をした伯爵が姿を現した。


 その灰青色の瞳は、いつもと変わらず穏やかだった。


 だが、彼女には分かった。


 彼が、何か大切な話をしようとしていることが。


「……少し、時間をもらえるだろうか」


 アルジェンは、静かに尋ねた。


 リディアは、ゆっくりと頷いた。


「もちろんですわ」


 そして。


 彼が次の言葉を口にするよりも先に、そっと一歩を踏み出した。


「……アルジェン様」


 その声には、柔らかさと、確かな決意が宿っていた。


「もし、私の故郷に関わるお話でしたら……」


 アルジェンの瞳が、わずかに動いた。


 リディアは、まっすぐに彼を見つめた。


「どうか、私にも聞かせてくださいませ」


 その左手には、淡い氷青色の宝石が輝いている。


 リディアは、静かに続けた。


「私も、あなたと共に考えたいのです」


 アルジェンは、しばらく彼女を見つめていた。


 その表情に、驚きが浮かぶ。


 けれど、やがて。


 灰青色の瞳が、穏やかに和らいだ。


「……ああ」


 彼は、静かに頷いた。


「そのつもりで来た」


 リディアの胸が、温かくなった。


 アルジェンは、彼女の前へ歩み寄る。


 そして、そっと左手を差し出した。


 リディアは、その手を取った。


 二人の指先が重なる。


 雪の雫が、夕陽を受けて淡く輝いた。


「……リディア」


 アルジェンは、低く穏やかな声で言った。


「今、分かっていることを、すべて話そう」


 彼女は、静かに頷いた。


「……はい」


 そして、ほんの少しだけ微笑む。


「私にも、できることがあるかもしれませんもの」


 アルジェンは、その言葉を聞いて、ゆっくりと息を吐いた。


 彼女を守りたい。


 その気持ちは、今も変わらない。


 けれど。


 彼女は、ただ守られるためだけに、自分の傍にいるのではない。


 共に考え、共に選び、共に歩むために。


 ここにいるのだ。


 アルジェンは、彼女の手を優しく握り返した。


「……頼りにしている」


 その言葉に、リディアの瞳が大きく揺れた。


 そして。


 春の夕陽の中で、彼女は嬉しそうに微笑んだ。


 長い冬を越えた蝶は、もう逃げるためだけに羽ばたくのではない。


 自ら選んだ場所で。


 自ら選んだ人と共に。


 迫り来る風へ、向き合おうとしていた。


 白銀の国に、春が訪れていた。


 けれど。


 遠い南方から吹き始めた風は、まだ冷たかった。


 その風が何を運んでくるのか。


 今は、まだ誰にも分からない。


 ただ一つ。


 二人はもう、別々の道を選ぼうとはしていなかった。


 銀狼は、盾となることを誓い。


 蝶は、その盾の陰に隠れるのではなく、隣に立つことを選んだ。


 春嵐の足音が、静かに近づいていた。

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