↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
20/31

第九章 氷青の誓い 後編

 春風が、庭園を吹き抜けた。


 咲き始めた花々が揺れ、柔らかな陽光が石畳の上に淡い影を落とす。


 遠くでは、小鳥が囀っていた。


 いつもと変わらない、穏やかな午後。


 けれど、リディアには、そのすべてがひどく遠く感じられた。


 目の前には、アルジェンがいる。


 自分の手を包み込み、何も急かさず、ただ静かに待ってくれている人。


 彼の胸元には、先ほどまで差し出されていた小さな箱が収められていた。


 淡い氷青色のニヴェリア鉱石を、雫の形に仕立てた婚約指輪。


 ――雪の雫。


 その指輪を受け取りたい。


 彼と、これから先の季節を共に過ごしたい。


 その願いに、偽りはなかった。


 けれど。


 彼の未来に自分の未来を重ねるのなら、どうしても伝えなければならないことがある。


 リディアは、震える指先をそっと握りしめた。


 胸の奥に閉じ込めてきた記憶が、次々と蘇ってくる。


 眩しい南国の陽射し。


 白亜の王宮。


 花々に囲まれた回廊。


 そして、あの日。


 見慣れた人々の眼差しが、次々と冷たく変わっていった瞬間。


 ――話してしまえば、すべてが変わるかもしれない。


 その恐怖は、今も消えていなかった。


 けれど、アルジェンは言ってくれた。


 話す準備ができるまで待つと。


 何を聞いても、自分への想いは変わらないと。


 その言葉を、信じたい。


 いいえ。


 信じると、決めたのだ。


 リディアは、ゆっくりと息を吸った。


 そして、彼の灰青色の瞳をまっすぐに見つめた。


「……私の本当の名は、リディア・パピリア」


 声が震えた。


 けれど、目を逸らさなかった。


「ルミエラ王国の、第二王女です」


 *


 アルジェンは、息を呑んだ。


 ルミエラ王国。


 第二王女。


 リディア・パピリア。


 その名が持つ意味を、彼が理解していないはずはなかった。


 他国の王族が、身分を隠して自領に滞在していた。


 しかも、国境を越えた経緯すら明らかでないまま。


 領主として考えれば、決して軽く扱える事実ではない。


 だが、驚きの中で、いくつもの記憶が静かに繋がっていった。


 食卓で、思わず口にした宮廷の料理長という言葉。


 ルミエラの名を耳にしたときの、彼女の表情。


 そして、何かを語りかけては、いつも言葉を飲み込んでいた琥珀色の瞳。


 ――そういうことだったのか。


 けれど、それだけで彼女の過去を理解したつもりにはなれなかった。


 王女という身分を知ったところで、彼女が何を経験したのかまでは分からない。


 アルジェンは、静かに息を整えた。


 そして、彼女の手を包んだまま、頷いた。


「……続けてくれ」


 その声は、いつもと変わらず穏やかだった。


 リディアの瞳が、かすかに揺れた。


 彼女は小さく頷き、ゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。


「私には、イネヴィアという姉がおります」


 その名を口にした瞬間、胸の奥が痛んだ。


 幼い頃から見上げていた姉。


 自分よりも多くのことを知り、誰よりも堂々と王宮を歩いていた人。


 かつては、その背中を追いかけていた。


「……私は、姉が大好きでした」


 声が、ほんの少し掠れた。


「いつか姉が国を導く日が来たら、私はその力になりたいと……そう思っていたのです」


 アルジェンは、黙って耳を傾けていた。


「けれど、ある日……私は、国の機密を国外へ漏らしたという疑いをかけられました」


 リディアは、唇を噛んだ。


「身に覚えのないことでした。示された証拠にも、私には分からないことばかりで……」


 脳裏に、あの日の光景が蘇る。


 冷たく響く非難の声。


 次々と突きつけられる書類。


 説明を求めても、まともに取り合ってもらえなかったこと。


「私は、何もしておりません」


 その声は、小さかった。


 けれど、はっきりしていた。


「……今も、なぜあのような証拠が揃えられたのか、すべてを理解できているわけではないのです」


 アルジェンの瞳が、わずかに細められた。


 だが、彼は口を挟まなかった。


「姉が、私を遠ざけようとしていたことは分かりました。けれど……なぜ、あそこまでしなければならなかったのか」


 リディアは、目を伏せた。


「私には、まだ分かりません」


 その言葉には、怒りだけではない悲しみが滲んでいた。


 かつて愛していた人を、今も理解できない。


 その苦しさが、彼女の声に宿っていた。


「……それに」


 リディアは、言葉を詰まらせた。


「私には、婚約者がおりました」


 アルジェンの手が、かすかに動いた。


 それでも、彼は黙っていた。


「レオンハルト・フォン・クラウゼルという方です」


 リディアは、ゆっくりと息を吐いた。


「私は、あの方なら信じてくださると思っていました。せめて、私の話を聞いてくださると……」


 けれど。


 あの日、彼はリディアの傍に立たなかった。


 彼女が助けを求めても、その手を取ることはなかった。


「……あの方は、何も言ってくださいませんでした」


 リディアの声が震えた。


「私を庇うことも、信じることも……」


 そこで、とうとう言葉が途切れた。


 アルジェンは、彼女の手をそっと握り直した。


 その温もりに支えられるように、リディアは再び口を開いた。


「私には、もう王宮に居場所がありませんでした」


 白亜の回廊。


 陽光に満ちた庭園。


 幼い頃から慣れ親しんだ部屋。


 そのすべてが、突然、自分を拒む場所へ変わってしまった。


「……そんな私を助けてくださったのが、宮廷に仕えていたエドガー・フォン・ヴァイスベルク様です」


 アルジェンの瞳が、わずかに動いた。


 エドガー。


 先日、セレスティーヌから解任の報告を受けた、ルミエラの元宮廷高官。


 その人物が、リディアを逃がしたというのか。


「エドガー様は、事態が取り返しのつかないものになる前に、王宮を離れるよう勧めてくださいました」


 リディアは、静かに続けた。


「馬車も、道中の手配も……あの方が力を尽くしてくださったのです」


 そして、目を伏せた。


「ですが、無事に逃げ切ることはできませんでした」


 *


 王宮を離れたとき、リディアはまだ、どこかで事態が収まることを願っていた。


 誤解が解けるかもしれない。


 いつか、故郷へ帰れるかもしれない。


 そんな淡い期待を、胸の奥に抱いていた。


 けれど、北へ向かう旅の途中。


 その願いは、無残に打ち砕かれた。


「……途中で、何者かに追われました」


 リディアの指先が震えた。


「馬車のままでは逃げられず、私は馬に乗って、その場を離れるしかありませんでした」


 誰が追ってきたのか。


 誰の命令だったのか。


 リディアには、確かなことは分からなかった。


 ただ、立ち止まれば捕まる。


 その恐怖だけが、彼女を走らせていた。


「山道へ入った頃には、雪が激しくなっていて……」


 吹きつける風。


 白く霞む視界。


 凍りついた手綱。


 馬の荒い息遣い。


 あの夜の記憶は、今も途切れ途切れだった。


「どこを走っているのかも、分からなくなってしまいました」


 リディアは、苦しそうに微笑んだ。


「馬も、もう限界だったのでしょう。私たちは、とうとう雪の中で動けなくなって……」


 そこで、彼女は顔を上げた。


 目の前にいるアルジェンを見つめる。


「……その先は、あなたもご存じの通りです」


 アルジェンの脳裏に、あの日の光景が蘇った。


 荒れ狂う吹雪。


 雪原に残された馬の足跡。


 力尽きた馬と、その傍らに倒れていた女性。


 あのとき、彼は彼女の名前すら知らなかった。


 ただ、このままでは命が失われると思った。


 それだけだった。


「……あの日、あなたが来てくださらなければ」


 リディアの声が震えた。


「私も、あの子も、きっと助かりませんでした」


 アルジェンは、静かに首を振った。


「……二人とも、よく耐えてくれた」


 その言葉に、リディアの瞳が潤んだ。


 彼は、彼女の手を握ったまま続けた。


「君が馬を置いていかなかったことも、覚えている」


 リディアは、小さく息を呑んだ。


「……あの子まで失いたくなかったのです」


 それだけ言って、目を伏せた。


 アルジェンは、頷いた。


 彼女があの吹雪の中で何を思っていたのか。


 今、ようやくその一端を知った気がした。


 *


「……ごめんなさい」


 リディアの声が、震えた。


「ずっと、黙っていて……」


 とうとう、琥珀色の瞳から涙が一粒こぼれ落ちた。


「あなたは、何度も私を信じてくださったのに……私は、自分の名前さえお伝えできませんでした」


 アルジェンは、何も言わずに彼女を見つめていた。


「……怖かったのです」


 リディアは、俯いた。


「もし、本当のことを知られたら……あなたまで、私から離れてしまうのではないかと」


 涙が、次々と頬を伝った。


「私は、王女としてではなく……」


 その声が、掠れた。


「ただのリディアとして、あなたのお傍にいたかったのです……」


 ようやく、その言葉を口にできた。


 胸の奥に長くしまい込んできた願い。


 王宮を離れ、名を隠し、雪の国で暮らすうちに育っていった想い。


 彼に愛してほしかったのは、王女という肩書きではなかった。


 何者でもない、一人のリディアだった。


「……これが、私の知るすべてです」


 リディアは、震える息を吐いた。


「まだ分からないことも、たくさんございます。けれど……もう、あなたに嘘を重ねたくありません」


 そして、ゆっくりと顔を上げた。


「……アルジェン様」


 その瞳には、恐怖と勇気が入り混じっていた。


「こんな私でも……あなたのお傍にいて、よろしいのでしょうか」


 *


 庭園に、短い沈黙が落ちた。


 アルジェンは、すぐには答えなかった。


 ルミエラの第二王女。


 身に覚えのない機密漏洩の嫌疑。


 元宮廷高官の手引きによる逃亡。


 そして、国境を越えるまでの追跡。


 それらが事実なら、彼女を取り巻く状況は、想像していた以上に複雑だった。


 彼女を守るということは、単に屋敷の門を閉ざすことでは済まない。


 領民の安全。


 他国との関係。


 そして、彼女自身がこれから何を望むのか。


 考えなければならないことは、いくつもある。


 だが。


 今、目の前で涙を流している女性をどう思うか。


 その答えだけは、少しも難しくなかった。


「……リディア」


 アルジェンは、静かに名を呼んだ。


「顔を上げてくれ」


 彼女は、ゆっくりと顔を上げた。


 アルジェンは、そっと手を伸ばし、頬を伝う涙を拭った。


「……驚かなかったと言えば、嘘になる」


 リディアの瞳が、かすかに揺れた。


「君が王女だという事実は、決して小さなことではない。これから確かめなければならないことも、考えなければならないこともあるだろう」


 彼は、まっすぐに彼女を見つめた。


「だが、それと私の気持ちは別だ」


 リディアが、息を呑んだ。


「私は、王女である君を知って恋をしたのではない」


 アルジェンの声は、穏やかだった。


「書斎で数字と向き合い、領民の暮らしを案じ、市場で焼き菓子を嬉しそうに頬張る……そんな君を見てきた」


 彼の口元に、微かな笑みが浮かんだ。


「雪の中で倒れていた君を助けたことは、私たちの始まりに過ぎない」


 リディアの瞳が、揺れた。


「その後、君と過ごした一日一日が、私に君を愛する理由を教えてくれたのだ」


 彼は、そっと彼女の手を包み直した。


「……だから、君の身分を知ったからといって、それまでの日々が消えるわけではない」


 リディアの唇が、震えた。


「アルジェン、様……」


「それに」


 彼は、少しだけ目を細めた。


「君は、ただのリディアとして傍にいたかったと言ったな」


 リディアは、小さく頷いた。


「……私にとって、君は最初からリディアだった」


 その言葉に。


 彼女の胸が、大きく震えた。


「王女であることを否定する必要はない。君が歩んできた人生の一部なのだから」


 アルジェンは、静かに続けた。


「だが、その身分だけで君という人間が決まるわけでもない」


 そして、ほんの少し微笑んだ。


「……私が愛したのは、君自身だ」


 リディアの瞳から、涙がこぼれた。


 もう、止められなかった。


「……っ、アルジェン様……」


 彼女は、彼の手を強く握った。


「私……ずっと、怖かったのです……」


「ああ」


「いつか本当のことを知られたら、また……」


 その先は、言葉にならなかった。


 アルジェンは、彼女が続きを話せるまで待った。


 そして、静かに告げた。


「……君が怖いと思うのは、当然だ」


 その声には、深い慈しみが宿っていた。


「だから、今すぐすべてを安心しろとは言わない。私にも、まだ知らないことがある」


 彼は、まっすぐに彼女を見つめた。


「だが、君を一人でその不安に向き合わせるつもりはない」


 リディアの瞳が、大きく揺れた。


「これから何が必要になるのか、共に考えよう。君の望みも、私に聞かせてほしい」


 そして。


「……君の人生を、君抜きで決めることだけはしない」


 その言葉に、リディアは声を上げて泣いた。


 王宮で失ったもの。


 誰にも聞いてもらえなかった言葉。


 自分の意思とは関係なく変えられてしまった未来。


 そのすべてを、今すぐ取り戻せるわけではない。


 けれど。


 目の前の人は、自分の意思を尊重すると言ってくれた。


 それが、何より嬉しかった。


 *


 アルジェンは、しばらく彼女の涙が落ち着くのを待っていた。


 やがてリディアが顔を上げると、彼は懐へ手を伸ばした。


 小さな革張りの箱。


 先ほど、いったん閉じたものだった。


「……リディア」


 アルジェンは、静かに口を開いた。


「改めて、聞いてほしい」


 彼は、箱の蓋を開いた。


 春の陽光を受けて、雫の形に磨かれたニヴェリア鉱石が、淡い氷青色に輝いた。


 雪の雫。


 自分の根ざす場所を、あなたと分かち合う。


 あの冬の滝で語った、ニヴェリスの婚約の証。


「私は、君の過去をすべて理解できたわけではない」


 アルジェンは、ゆっくりと続けた。


「君の故郷で何が起きたのか。誰が何を望み、どのように君を陥れたのか……これから確かめなければならないこともある」


 リディアは、黙って耳を傾けていた。


「だが、今ここで伝えたいことは、一つだ」


 彼は、まっすぐに彼女を見つめた。


「……私は、君を愛している」


 その声は、静かだった。


 けれど、揺るぎなかった。


「君が王女であっても、そうでなくても。過去にどのような傷を負っていても」


 アルジェンは、そっと小箱を差し出した。


「私と共に、これからの人生を歩んでほしい」


 リディアの瞳から、また涙がこぼれた。


 彼は、少しだけ息を吐いた。


「……リディア・パピリア」


 その名を呼ばれた瞬間。


 彼女は、息を呑んだ。


 かつて、罪を告げる声と共に呼ばれた名前。


 もう二度と、誰かに優しく呼ばれることはないと思っていた名前。


 けれど今。


 目の前の人は、その名を慈しむように口にしている。


「……私と、結婚してくれないだろうか」


 春風が、二人の間を吹き抜けた。


 花々が、静かに揺れていた。


 アルジェンは、言葉を重ねなかった。


 彼女の答えを、ただ待っていた。


 *


 リディアは、差し出された指輪を見つめていた。


 淡い氷青色の輝き。


 その奥に宿る、澄んだ光。


 あの日、冬の滝で聞いた言葉が蘇る。


 ――自分の根ざす場所を、あなたと分かち合う。


 あのとき、その意味を知って胸が痛んだ。


 かつて交わした約束を、思い出してしまったからだ。


 信じていた言葉。


 叶わなかった未来。


 もう二度と、誰かを信じることなどできないと思っていた。


 けれど。


 今、目の前にいる人は。


 自分が何者なのかを知っても、変わらず愛していると言ってくれた。


 それだけではない。


 これから起こるかもしれない困難を、共に考えようと言ってくれた。


 彼女の意思を、何より大切にすると。


「……アルジェン様」


 リディアは、震える声で名を呼んだ。


 涙が、頬を伝っていく。


 けれど、その唇には微笑みが浮かんでいた。


「私……まだ、怖いのです」


 アルジェンは、静かに頷いた。


「……ああ」


「これから、何が起こるのかも分かりません。私の過去が、あなたやこの領地に迷惑をかけることになるかもしれません」


 リディアは、深く息を吸った。


「けれど……」


 その声には、少しずつ力が戻っていた。


「それでも、あなたと共にいたいのです」


 アルジェンの瞳が、かすかに揺れた。


「王女として何をすべきなのか。故郷のことを、これからどうするのか……まだ答えは出せません」


 リディアは、まっすぐに彼を見つめた。


「ですが、私自身の幸せだけは……もう、誰かに決めてほしくありません」


 そして、そっと左手を差し出した。


「……はい」


 その声は、涙に震えていた。


 けれど、迷いはなかった。


「喜んで、お受けいたします」


 アルジェンの瞳が、大きく見開かれた。


 リディアは、幸せそうに微笑んだ。


「どうか、私を……あなたの妻にしてくださいませ」


 それは、誰かに与えられた役割ではなかった。


 王女として命じられた未来でもなかった。


 リディア自身が選び取った、たった一つの願いだった。


 *


 アルジェンは、差し出された手を見つめていた。


 小さな手。


 かつて、雪原で冷たくなっていた手。


 書斎で帳簿をめくり、村の人々の暮らしを案じていた手。


 冬の滝で、自分へそっと伸ばしてくれた手。


 そして今。


 その手が、自分との未来を選んでくれている。


 胸の奥が、熱くなった。


「……ありがとう、リディア」


 声が、わずかに掠れた。


「君が私を選んでくれたことを、生涯忘れない」


 アルジェンは、小箱から指輪を取り出した。


 春の陽光を受けて、氷青色の宝石が静かに輝いている。


 彼は、リディアの左手を優しく取った。


 そして。


 薬指へ、そっと指輪を通した。


 細い銀白色の円環が、ゆっくりと指に収まっていく。


 その瞬間。


 リディアは、息を呑んだ。


 指先に触れる、ひんやりとした感触。


 けれど、胸の奥には、温かなものが広がっていった。


 雪の雫。


 あの日、冬の滝で知った誓い。


 今、その意味が。


 自分の指先に、確かな形となって宿っている。


「……よく似合っている」


 アルジェンが、小さく呟いた。


 リディアは、涙を浮かべながら笑った。


「……ありがとうございます」


 彼は、指輪を嵌めた彼女の手をそっと持ち上げた。


 そして、その指先へ静かに唇を寄せた。


 冬の日、初めて彼女の手に口づけたときとは違う。


 今度は、二人が共に選んだ未来への誓いだった。


 リディアは、静かに目を閉じた。


 その温もりを、忘れないように。


 胸の奥へ、大切に刻み込むように。


 やがてアルジェンは、顔を上げた。


「……リディア」


「はい……」


「私は、君を幸せにしたい」


 その声は、穏やかだった。


「だが、これから先、君を悲しませる出来事が一つもないとは約束できない」


 リディアの瞳が、かすかに揺れた。


 アルジェンは、静かに続けた。


「君が泣きたいときには、泣いてくれて構わない。怖いときには、怖いと言ってほしい」


 そして、ほんの少し微笑んだ。


「……そのとき、私が傍にいられるように」


 リディアの瞳から、また涙がこぼれた。


 けれど、今度は拭わなかった。


「……はい」


 彼女は、幸せそうに頷いた。


「では、アルジェン様も……」


 その声に、彼が目を瞬かせる。


「お一人で、何もかも背負わないでくださいませね」


「……私が?」


「ええ」


 リディアは、涙の残る顔で微笑んだ。


「私は、あなたに守っていただくだけの妻にはなりたくありませんもの」


 アルジェンは、しばらく彼女を見つめていた。


 それから。


 静かに笑った。


「……そうだったな」


 彼は、彼女の手を握り直した。


「君は、私が思っている以上に頼もしい人だった」


「まあ。今頃お気づきになりましたの?」


 その言葉に、アルジェンは思わず笑みを深めた。


「……いや。ずっと前から知っていた」


 そして、彼女をそっと抱き寄せた。


 リディアは、ためらうことなくその胸元へ身を寄せた。


 あたたかな腕。


 穏やかな鼓動。


 冬の間、何度も安心を与えてくれた温もり。


 けれど今は、それだけではない。


 自分が選び取った未来が、そこにあった。


「……愛しております、アルジェン様」


 リディアは、小さく囁いた。


 彼の腕に、ほんの少しだけ力がこもった。


「……私もだ、リディア」


 春風が、二人の周りを静かに吹き抜けていった。


 *


 しばらくして。


 アルジェンは、リディアの肩を抱いたまま、静かに口を開いた。


「……少し、歩こうか」


 リディアが、顔を上げる。


「お散歩、ですか?」


「ああ」


 アルジェンは、穏やかに微笑んだ。


「これからのことを、少しずつ話したい」


 彼は、庭園へ視線を向けた。


「君の故郷のことも。エドガー殿のことも。私たちの婚礼のことも」


 リディアの頬が、ほんのりと赤く染まった。


「……婚礼」


 その言葉を口にしただけで、胸が高鳴った。


 アルジェンは、少しだけ咳払いをした。


「……もちろん、すぐに決める必要はない」


 そして、真面目な顔で続ける。


「ただ、いずれ君と相談したいと思っている。季節や場所も含めてな」


 リディアは、思わず小さく笑った。


「……アルジェン様ったら」


「……何だ?」


「もう、そんなに先のことまで考えていらっしゃるのですね」


 アルジェンは、わずかに視線を逸らした。


「……当然だろう」


 その耳が、ほんの少し赤くなっていた。


 リディアは、嬉しそうに微笑んだ。


「では、私にも一つお願いがございます」


「……何だ?」


 彼女は、庭園の花々へ視線を向けた。


「いつか、春の花が咲く頃に……このお屋敷の礼拝堂で、式を挙げられたら素敵ですわね」


 アルジェンは、静かに彼女を見つめた。


 そして、ゆっくりと頷いた。


「……覚えておこう」


 リディアが、微笑む。


「それから……」


「まだあるのか?」


「ええ」


 彼女は、少しだけ悪戯っぽく首を傾げた。


「婚礼の準備ばかりではなく、いつものお茶の時間も大切にしてくださいませね」


 アルジェンは、一瞬だけ目を瞬かせた。


 それから、静かに笑った。


「……それは、最優先事項だな」


「まあ」


 リディアは、声を立てて笑った。


 その笑い声を聞きながら、アルジェンは思った。


 これから先、二人には決して穏やかな日々ばかりが待っているわけではないだろう。


 けれど。


 こんな何気ない時間を、何度でも重ねていきたい。


 そう願うことは、きっと間違いではない。


 彼は、彼女へ腕を差し出した。


 リディアは、嬉しそうにその腕へ手を添えた。


 二人は、並んで庭園を歩き始めた。


 足元には、小さな花々が咲いている。


 冬の間、雪の下で眠っていた命。


 春の陽射しを受けて、ようやく芽吹いた花々。


 リディアは、ふと左手へ視線を落とした。


 薬指には、淡い氷青色の宝石が輝いている。


 雪の雫。


 自分の根ざす場所を、あなたと分かち合う。


 その誓いは、今、確かな形となっていた。


 ――私は、もう自分の幸せから目を逸らさない。


 リディアは、静かに思った。


 過去に向き合うことが、怖くなくなったわけではない。


 故郷へ戻る日が来るのかどうかも、まだ分からない。


 けれど。


 その答えを、これからは自分自身で選んでいきたい。


 そして、隣には。


 共に考え、共に歩いてくれる人がいる。


 アルジェンは、彼女の手を優しく握り返した。


 その温もりが、何より確かな答えだった。


 *


 ――数日後。


 ヴォルフェルト伯爵邸、執務室。


 アルジェンは、いつものように領地の政務に励んでいた。


 机には、鉱山の産出記録や交易関係の書類が並べられている。


 窓の外では、春の陽射しが庭園を照らしていた。


 そのどこかで、リディアが穏やかに過ごしている。


 そう思うだけで、胸の奥が温かくなった。


 だが。


 その日の午後。


 ギルバートが持ち込んだ報告書が、静かな日常へ小さな波紋を広げることになった。


「……アルジェン」


 ギルバートは、いつになく真剣な表情をしていた。


「以前から調べていた、ルミエラ方面の件だ」


 アルジェンは、顔を上げた。


「……進展があったか」


「ああ。通関手続きの変更について、追加の報告が届いた」


 ギルバートは、机へ書類を広げた。


「ニヴェリス産の鉱石を扱う商人の一部に、従来は不要だった証明書類が求められている。特に、ヴォルフェルト領を経由する取引で目立つようだ」


 アルジェンの瞳が、わずかに細められた。


「……通達の根拠は?」


「まだ確認中だ。通常の制度変更で説明できる部分もあるが、適用の仕方にばらつきがある」


 アルジェンは、静かに頷いた。


「セレスには?」


「照会済みだ。エルデンフェルト側でも、同様の事例がないか調べてもらっている」


 ギルバートは、一度言葉を切った。


 そして、別の紙を取り出した。


「……それから、国境付近の聞き込みについても、続報がある」


 アルジェンは、黙って続きを促した。


「以前、冬のあいだ閉ざされていた道について尋ねていた者たちがいただろう」


「ああ」


「そのうちの一件について、宿場の記録と商人の証言が一致した」


 ギルバートは、慎重に続けた。


「ただし、何者なのかは分からない。ルミエラの人物照会との関連も、まだ確認できていない」


 アルジェンは、報告書へ視線を落とした。


 日付。


 聞き込みの内容。


 証言が一致した範囲。


 そして、依然として空白のまま残る部分。


 以前なら、ただの不審な動きとして扱っていたかもしれない。


 だが、今は違う。


 リディアから、彼女の過去を聞いた。


 彼女が追われていたことも。


 ルミエラの王宮で、何が起きたと訴えているのかも。


 それでも。


 目の前の情報が、すべて彼女に関係しているとは限らない。


 アルジェンは、静かに息を吐いた。


「……分かった」


 ギルバートが、顔を上げる。


「まず、交易手続きの変更は、通常の行政上の問題として調査を続ける」


 アルジェンは、書類を一枚ずつ揃えた。


「商人たちに不利益が出ているなら、原因を明らかにし、必要な対策を取る。それは領主としての仕事だ」


「ああ」


「国境付近の聞き込みについては、引き続き事実関係を確かめてくれ。ただし、確証のないまま特定の人物や国を疑うことは避けたい」


 ギルバートは、静かに頷いた。


 そして、少しだけ声を落とした。


「……リディア嬢のことは?」


 アルジェンは、しばらく黙っていた。


 それから、ゆっくりと顔を上げた。


「……彼女には、私たちが確認できた事実を伝える」


 ギルバートの瞳が、わずかに動いた。


「彼女自身に関わる可能性がある以上、何も知らせずに済ませるわけにはいかない」


 アルジェンは、静かに続けた。


「ただし、不確かな情報まで事実のように伝えるつもりもない」


 その灰青色の瞳には、冷静な光が宿っていた。


「……彼女と共に考えると、約束したからな」


 ギルバートは、しばらく友人を見つめていた。


 そして、小さく笑った。


「……なるほど」


「何だ?」


「いや」


 ギルバートは、肩をすくめた。


「お前らしいと思ってな」


 アルジェンは、わずかに眉を寄せた。


「……どういう意味だ」


「守ると決めたからこそ、相手を何も知らない場所に置いておかない」


 ギルバートは、穏やかに続けた。


「……そういうところだよ」


 アルジェンは、しばらく黙っていた。


 それから、静かに視線を落とした。


「……当然のことだ」


 その答えに、ギルバートは小さく笑った。


「そうだな」


 そして、報告書をまとめる。


「では、引き続き調べておく」


「……頼む」


 ギルバートが執務室を後にすると、静寂が戻った。


 アルジェンは、窓の外へ視線を向けた。


 春の庭園。


 柔らかな陽光。


 花々の揺れる小径。


 数日前、リディアが自分の名を明かした場所。


 そして、二人が未来を選んだ場所。


 彼は、そっと左手を見つめた。


 そこに指輪はない。


 けれど、彼女の薬指には、今も雪の雫が輝いている。


 その光景を思い浮かべながら、アルジェンは静かに息を吐いた。


 守ると誓った。


 けれど、それは彼女の代わりにすべてを決めるという意味ではない。


 彼女が自分の足で未来へ進めるように。


 その隣に立ち続けること。


 それこそが、自分の選んだ誓いなのだ。


 アルジェンは、再び机へ向き直った。


 白銀の国に、春が訪れていた。


 雪は解け、川は流れ、草木は芽吹く。


 けれど、遠い南方から届く知らせには、まだ冷たいものが混じっている。


 それが何を意味するのか。


 今は、まだ分からない。


 ただ一つ、確かなことがあった。


 あの冬の日、雪原で出会った二人は。


 春の庭園で、互いの未来を選んだ。


 その誓いを守るために。


 銀狼は、静かに歩みを進めていく。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。