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第九章 氷青の誓い 前編

春の陽射しが、雪の消えた山肌を照らしていた。


冬のあいだ白く閉ざされていたニヴェリスの大地には、若草が芽吹き始めている。


山から流れ出す雪解け水は川を満たし、街道には再び荷馬車の車輪が軋む音が戻ってきた。


ヴォルフェルト伯爵邸の庭園でも、花々が次々と蕾を開いていた。


あの冬の日、リディアが倒れていた雪原にも、今頃は小さな花が咲いているのかもしれない。


そう考えるたび、アルジェンは不思議な感慨を覚えた。


ほんの数か月前。


吹雪の中で見つけた馬の蹄跡を辿った先に、彼女はいた。


雪に埋もれかけた馬と、その傍らで力尽きていた一人の女性。


あのときは、ただ命を救わなければと思った。


彼女がどこから来たのかも、何を抱えているのかも分からなかった。


そして今も、知らないことは多い。


けれど、共に過ごした日々の中で、確かに知ったこともあった。


書斎で数字を追うときの真剣な眼差し。


領民の暮らしが少しでも良くなったと聞けば、自分のことのように喜ぶ優しさ。


焼き菓子を頬張るときの、年相応の無邪気な笑顔。


そして、自分の名を呼ぶ、柔らかな声。


「アルジェン様」


その声を思い浮かべるだけで、自然と口元が緩む。


以前から、彼の暮らしは十分に満たされていた。


信頼できる友人がいて、果たすべき仕事があり、守るべき領民がいる。


そのどれもが、彼にとってかけがえのないものだった。


けれど今は、そこにもう一つ。


一日の終わりに会いたいと願う人がいる。


――君は、私の毎日を随分と鮮やかにしてしまったな。


アルジェンは、小さく笑った。


そして、その日の午後。


彼のもとへ、一通の知らせが届いた。


*


「……完成した、か」


机に置かれた書状を読み終え、アルジェンは低く呟いた。


差出人は、王都の宝飾工房。


数週間前、ギルバートの紹介で訪れた店だった。


依頼していた指輪が、ついに完成したという。


アルジェンは、書状をもう一度読み返した。


仕上がりの確認。


受け取りの手順。


代金の精算。


記されているのは、ごく事務的な内容ばかりだ。


普段なら、必要事項を確かめて終わりにするところだろう。


だが、今日は違った。


読み終えたはずの書状を、なかなか机へ戻せない。


胸の奥が、妙に落ち着かなかった。


あの日、職人へ託したニヴェリア鉱石。


淡い氷青色の、小さな一粒。


華美ではなくとも、光を受ければ澄んだ輝きを宿す石。


その石を雫の形に仕立て、婚約の指輪にしてほしいと頼んだ。


ニヴェリスに伝わる意匠――『雪の雫』。


自分の根ざす場所を、あなたと分かち合う。


その願いを形にするもの。


選んだときには、迷いなどなかった。


けれど、完成したと聞いた途端。


アルジェンは、これまでにない緊張を覚えていた。


「……」


彼は、そっと書状を折り畳んだ。


指輪を贈る。


その意味は、十分に理解している。


彼女に、自分と生涯を共にしてほしいと願うこと。


その願いに対する答えを、彼女自身に委ねること。


そして、もし受け入れてもらえたなら。


これから先、共に歩む日々を大切にしていくこと。


――言葉は、どうする。


アルジェンは、わずかに眉を寄せた。


彼女へ伝えたい想いは、もう決まっている。


だが、いざ口にするとなると。


何から話せばよいのか、途端に分からなくなる。


「……ギルバート」


扉の近くで資料を整理していた側近が、顔を上げた。


「何だ?」


「午後の予定を調整してくれ」


ギルバートは、少し不思議そうに眉を上げた。


「急ぎの用事か?」


「ああ。王都へ行く」


その一言で、ギルバートの視線が机上の書状へ落ちた。


そして、ゆっくりと口元が緩む。


「……ほう」


アルジェンは、眉をひそめた。


「何だ、その顔は」


「いや。ようやく完成したのかと思ってな」


「……ああ」


否定する理由はなかった。


「今日、受け取りに行く」


ギルバートは、しばらく友人を見つめていた。


それから、穏やかに笑った。


「そうか。なら、午後の仕事はこちらで引き受けよう」


「すまない」


「謝ることじゃないさ」


ギルバートは予定表を閉じた。


「お前が自分のために時間を使うんだ。喜ばしいことだろう?」


アルジェンは、一瞬だけ目を見開いた。


それから、静かに頷いた。


「……感謝する」


「ただし」


ギルバートの口元に、悪戯っぽい笑みが浮かぶ。


「戻ってきたら、少しくらい話は聞かせろよ」


「……何の話だ」


「さあな。王都の宝飾工房で何があったのか、とか?」


アルジェンは、深く息を吐いた。


「……善処しよう」


その答えに、ギルバートはとうとう笑い声を漏らした。


「ははっ! お前の『善処する』ほど当てにならん返事もないな!」


「仕事に戻れ、ギルバート」


「はいはい、伯爵閣下」


軽口を交わしながらも、二人の間には長年培われた信頼があった。


ギルバートは、扉へ向かう前に一度だけ振り返った。


「……アルジェン」


「何だ?」


「うまくやれよ」


その声には、からかいの色がなかった。


アルジェンは、少しだけ目を細めた。


「……ああ」


短く、しかし確かに答えた。


*


王都の宝飾工房には、春の柔らかな陽射しが差し込んでいた。


磨き上げられた木製の扉。


静かな店内。


奥の作業台には、繊細な銀細工が並べられている。


アルジェンが訪れると、以前応対した熟練の職人が、穏やかな笑みで迎えた。


「お待ちしておりました、ヴォルフェルト伯爵閣下」


職人は、丁寧に一礼した。


「ご依頼の品が完成しております」


「……見せてくれ」


アルジェンが答えると、職人は奥の棚から小さな革張りの箱を取り出した。


そして、慎重に蓋を開く。


その瞬間。


アルジェンは、思わず息を止めた。


そこには、一つの指輪が収められていた。


細身の銀白色の台座。


華奢に見えながらも、石をしっかりと支える爪。


そして、その中央には。


雫の形に磨き上げられたニヴェリア鉱石が、静かに輝いていた。


淡い氷青色。


光を受けるたび、石の奥から澄んだ輝きが浮かび上がる。


決して大きな宝石ではない。


けれど、その一粒には、目を離せなくなるような美しさがあった。


「……見事だ」


アルジェンは、静かに呟いた。


職人が、穏やかに微笑む。


「ご希望どおり、日常でも身につけていただきやすい意匠に仕立てました」


そして、指輪を慎重に持ち上げる。


「石を留める部分にも十分な強度を持たせております。指先を動かす際に、なるべく邪魔にならないよう工夫いたしました」


アルジェンは、手袋を外した。


職人から差し出された指輪を、そっと受け取る。


銀白色の金属が、指先にひんやりと触れた。


この細い円環が。


いつか、彼女の指に収まるかもしれない。


そう思った瞬間、胸の奥が熱くなった。


リディア。


あの雪原で出会った女性。


書斎で帳簿を読み解く真剣な横顔。


市場で焼き菓子を頬張り、嬉しそうに微笑む姿。


冬の滝で、誓いの意味を静かに考えていた琥珀色の瞳。


そして、春の庭園で。


――春も夏も、秋も冬も。


――あなたと一緒に、いくつもの季節を迎えたい。


そう告げてくれた彼女。


その一つ一つが、鮮明に思い出された。


「……私の望んだ以上の仕上がりだ」


職人は、深く頭を下げた。


「光栄でございます」


それから、少しだけ微笑む。


「どうか、お相手の方にもお気に召していただけますように」


アルジェンは、指輪を見つめた。


彼女なら、きっとこの意匠の意味を覚えているだろう。


冬の滝で、二人で話したことを。


自分の根ざす場所を、あなたと分かち合う。


その願いを。


「……感謝する」


アルジェンは、静かに言った。


「これほど大切な品を、君に任せてよかった」


職人は、穏やかに微笑んだ。


アルジェンは、指輪を丁寧に箱へ収めた。


そして、懐へしまい込む。


小さな箱だった。


重さも、ほとんど感じない。


それなのに。


胸元へ収めた瞬間、そこには確かな重みが生まれた。


彼女へ伝えたい、生涯の願い。


その重みだった。


*


王都から屋敷へ戻る道中、アルジェンは幾度となく懐の箱を意識していた。


馬車の窓からは、春を迎えた山々が見える。


雪解け水の流れる川。


若葉をつけ始めた木々。


荷を積んだ馬車とすれ違うたび、春の交易が戻ってきたことを実感する。


いつもなら、領内の輸送状況に目を向けていただろう。


だが、今日は。


どうしても、一人の女性のことばかり考えてしまう。


――リディア。


彼女に会ったら、何と言おう。


冬の日々を振り返るべきか。


共に過ごした春の喜びを伝えるべきか。


それとも。


余計な前置きなどせず、ただ率直に想いを告げるべきか。


アルジェンは、深く息を吐いた。


「……まったく」


小さく呟く。


領主として交渉の席に臨むとき、ここまで言葉に迷ったことがあっただろうか。


相手の立場を考え、必要な資料を揃え、条件を整理する。


そうすれば、少なくとも話し合いの道筋は見えてくる。


だが、彼女に伝えたいことは、条件でも交渉でもなかった。


ただ、自分の心だった。


ふと、ギルバートの言葉を思い出す。


――指輪は書類と違って、決裁印を押せば終わりってわけじゃない。


アルジェンは、思わず小さく笑った。


「……分かっているさ」


誰にともなく答える。


そして、懐の箱へそっと手を添えた。


――今度こそ、きちんと伝えよう。


彼女が、どのような答えを返すとしても。


*


ヴォルフェルト伯爵邸へ戻った頃には、午後の陽射しが庭園を柔らかく照らしていた。


アルジェンは外套を従僕へ預けると、廊下を歩いて庭園へ向かった。


リディアは、きっとあそこにいる。


春になってから、彼女は庭園で過ごす時間を好むようになっていた。


冬のあいだ雪に埋もれていた花壇。


今では、色とりどりの花々が咲いている。


その景色を眺めながら、彼女はいつも嬉しそうに微笑んでいた。


アルジェンは、ゆっくりと歩みを進めた。


そして。


花壇のそばに立つ、一人の女性の姿を見つけた。


黒髪が、春風に揺れている。


琥珀色の瞳は、咲き始めた花々を見つめていた。


その横顔には、穏やかな微笑みが浮かんでいる。


アルジェンは、思わず歩みを緩めた。


あの雪原で出会った日の、青ざめた顔。


凍えていた指先。


それが今は、春の陽射しの中で、こんなにも穏やかに微笑んでいる。


そのことが、たまらなく嬉しかった。


「……リディア」


彼女が、顔を上げた。


その瞬間。


琥珀色の瞳が、ぱっと輝いた。


「まあ、アルジェン様!」


リディアは、嬉しそうに微笑んだ。


「お帰りなさいませ」


そして、彼のもとへ歩み寄る。


「今日はお出かけだったのですね。お仕事はもうお済みになりましたの?」


いつもと変わらない、穏やかな声だった。


アルジェンは、その微笑みを見つめた。


胸元には、小さな箱が収められている。


彼女は、まだ何も知らない。


今日、自分がどんな想いを抱いて帰ってきたのか。


「……ああ、ただいま」


アルジェンは、静かに答えた。


「仕事は一段落した」


そして、少しだけ言葉を探す。


「……リディア」


「はい?」


「今日は、その……君に話したいことがある」


リディアが、目を瞬かせた。


「私に、ですか?」


「ああ」


アルジェンは、頷いた。


だが、そこから先の言葉が続かなかった。


あれほど馬車の中で考えていたというのに。


いざ彼女を前にすると、用意していた言葉が一つも出てこない。


リディアは、そんな彼を不思議そうに見つめていた。


「……アルジェン様?」


「……いや」


アルジェンは、小さく息を吐いた。


それから、少し困ったように笑った。


「すまない。何から話せばよいのか、分からなくなってしまった」


リディアは、驚いたように目を見開いた。


いつも冷静な彼が、そんなことを口にするのは珍しかった。


「……ふふ」


思わず、小さな笑みがこぼれる。


「アルジェン様にも、そのようなことがございますのね」


「……あるらしい」


アルジェンは、苦笑した。


「少なくとも、今日初めて知った」


その答えに、リディアはくすりと笑った。


春風が、二人の間を吹き抜ける。


花壇の花々が、柔らかく揺れていた。


アルジェンは、彼女の笑顔を見つめた。


そして、ようやく気づいた。


飾った言葉など、必要ないのかもしれない。


彼女に伝えたいのは。


ただ、自分の本当の気持ちなのだから。


「……リディア」


今度は、まっすぐに名を呼んだ。


「君と出会ってから、私の毎日は随分と変わった」


リディアは、静かに耳を傾けていた。


「仕事が嫌になったわけではない。領地を守ることも、これまでと変わらず私の誇りだ」


アルジェンは、少しだけ微笑んだ。


「だが、以前はそれで一日が終わっていた」


彼は、ゆっくりと続ける。


「今は、仕事を終えたあとに、君の顔が見たいと思う」


リディアの瞳が、かすかに揺れた。


「書斎で君が笑えば、私も嬉しい。君が何かに心を痛めていれば、力になりたいと思う」


その声は、低く穏やかだった。


「そして、君が明日もここにいてくれることを、心から願っている」


リディアの頬が、ほんのりと赤く染まった。


アルジェンは、一度だけ息を吸った。


「……春になれば、君は旅立つつもりだった」


その言葉に、リディアは静かに頷いた。


「だが、君は自分の意思で、この国に残りたいと言ってくれた」


アルジェンは、彼女をまっすぐに見つめた。


「私は、その言葉が嬉しかった」


そして、少しだけ声を落とす。


「……嬉しくて、欲が出たのだと思う」


「……欲、ですか?」


「ああ」


アルジェンは、照れくさそうに笑った。


「春だけでは足りない。夏も、秋も、次の冬も……君と共に過ごしたい」


リディアは、息を呑んだ。


「それだけではない。その先に訪れる、まだ見ぬ季節も」


彼は、静かに続けた。


「君と一緒に迎えたい」


そして。


懐へ手を入れた。


小さな革張りの箱を、そっと取り出す。


リディアが、目を瞬かせた。


「……アルジェン様?」


アルジェンは、箱を両手で持った。


一度だけ、深く息を吸う。


そして。


彼女の前で、静かに蓋を開いた。


その瞬間。


春の陽光を受けて、一粒の氷青色が輝いた。


「…………!」


リディアの瞳が、大きく見開かれた。


淡い氷青色のニヴェリア鉱石。


細身の銀白色の台座。


そして、雫の形に磨かれた宝石。


その意匠を、彼女は知っていた。


あの日。


冬の滝で、アルジェンが教えてくれたもの。


自分の根ざす場所を、あなたと分かち合う。


その誓いを形にする、ニヴェリスの婚約指輪。


「……雪の、雫……」


リディアは、震える声で呟いた。


アルジェンは、静かに頷いた。


「……ああ」


そして、彼女をまっすぐに見つめる。


「ニヴェリスに伝わる、婚約の証だ」


その声には、静かな決意が宿っていた。


「君と共に生きたい。その願いを、形にしたくて選んだ」


リディアの胸が、大きく高鳴った。


アルジェンは、箱を持つ手に少しだけ力を込めた。


「……私は、君について、まだ知らないことがある」


リディアの瞳が、かすかに揺れた。


「君が話せないことを、無理に聞こうとは思わない。だが、いつか君が話したいと願ったときには、きちんと耳を傾けたい」


彼は、ゆっくりと言葉を重ねた。


「嬉しいことも、難しいことも。君が望むなら、共に考えたい」


そして。


一度だけ、言葉を切った。


これまで胸の奥で育ててきた想い。


何度も考え、何度も言い直してきた言葉。


そのすべてが、ようやく一つになった。


「……リディア」


アルジェンの声が、わずかに震えた。


「私は、君を愛している」


春風が、二人の間を吹き抜けた。


リディアの瞳が、大きく揺れる。


アルジェンは、彼女から目を逸らさなかった。


「これから先も、君の隣にいたい」


その声は、飾り気のないものだった。


「そして、君が望んでくれるなら……私の妻になってほしい」


リディアの唇が、かすかに開いた。


けれど、言葉は出てこなかった。


アルジェンは、静かに続ける。


「これは領主としての命令でも、君を保護した者としての責任でもない」


そして、ほんの少しだけ微笑んだ。


「ただ、私自身の願いだ」


彼は、小さな箱を彼女へ差し出した。


「……リディア。私と、結婚してくれないだろうか」


*


リディアは、差し出された指輪を見つめていた。


淡い氷青色の輝き。


その奥には、静かな光が宿っている。


あの日、冬の滝で聞いた言葉が蘇る。


――自分の根ざす場所を、あなたと分かち合う。


あのとき。


彼女は、その言葉の重みを考えていた。


誓いは、交わすことよりも、守り続けることの方が難しいのかもしれない。


そう思った。


そして今。


目の前の人は、その誓いを自分へ贈ろうとしている。


「……アルジェン様……」


リディアは、震える声で名を呼んだ。


琥珀色の瞳が、ゆっくりと潤んでいく。


彼女は、口元へ手を当てた。


「……私……」


声が、うまく出なかった。


嬉しかった。


信じられないほど、幸せだった。


春が来れば、ここを去るつもりだった。


誰にも深く関わらず、静かに暮らしていくつもりだった。


それなのに。


今は、こんなにも大切な人がいる。


自分を見つめる灰青色の瞳。


差し出された、小さな指輪。


そして。


一緒に生きてほしいという、まっすぐな願い。


――こんなにも幸せで、よいのだろうか。


胸の奥に、ふと不安がよぎった。


けれど、その不安よりも。


目の前の人を愛おしいと思う気持ちの方が、ずっと強かった。


リディアは、ゆっくりと顔を上げた。


そして。


涙を浮かべながら、微笑んだ。


「……アルジェン様」


その声には、深い喜びが滲んでいた。


「私……こんなにも幸せで、よろしいのでしょうか……」


アルジェンは、静かに彼女を見つめていた。


それから、穏やかに答えた。


「……私は、君に幸せでいてほしい」


その言葉に、リディアの瞳から涙が一粒こぼれ落ちた。


「……私も」


小さな声だった。


けれど、そこには確かな想いが宿っていた。


「私も……あなたを愛しております」


アルジェンの胸が、大きく高鳴った。


リディアは、震える指先で涙を拭った。


そして、まっすぐに彼を見つめる。


「あなたと出会ってから、私の毎日も変わりました」


その声には、懐かしさと感謝が滲んでいた。


「朝が来るのが楽しみになって……明日も、その次の日も、ここにいたいと思えるようになりました」


彼女は、少しだけ微笑んだ。


「私にとって、この国はもう、ただ冬を越すための場所ではありません」


アルジェンは、黙って耳を傾けていた。


「……あなたがいてくださる、大切な場所です」


そして。


リディアは、ゆっくりと指輪へ手を伸ばした。


淡い氷青色の輝き。


それは、まだ見ぬ未来へ続く、小さな光のように見えた。


けれど。


その指先が、ふと止まった。


「…………」


リディアは、静かに息を呑んだ。


胸の奥で、何かが引っかかっていた。


このまま受け取ってしまってよいのだろうか。


彼は、まだ何も知らない。


自分が何者なのか。


なぜ、あの雪原で倒れていたのか。


そして、なぜ。


今まで本当のことを話せずにいたのか。


そのすべてを。


彼は、まだ知らない。


リディアは、ゆっくりと手を引いた。


アルジェンの瞳が、わずかに動いた。


けれど、彼は何も言わなかった。


指輪の箱を差し出したまま、ただ静かに待っていた。


リディアは、深く息を吸った。


そして。


震える声で、口を開いた。


「……アルジェン様」


「……ああ」


「私……」


一度、言葉が途切れた。


怖かった。


ここまで積み重ねてきた幸せが、ほんの一言で変わってしまうかもしれない。


そう思うと、胸が締めつけられた。


けれど。


この人と、これからも生きていきたい。


そう願うのなら。


自分自身の言葉で、伝えなければならない。


リディアは、ゆっくりと顔を上げた。


「……私も、あなたと共に生きていきたいと思っております」


その声には、確かな想いが宿っていた。


「ですが……」


琥珀色の瞳が、かすかに揺れる。


「その指輪をお受けする前に、どうしてもお話ししなければならないことがございます」


アルジェンは、静かに彼女を見つめた。


リディアは、震える指先を胸元へ添えた。


「……私は」


声が、わずかに震えた。


けれど、目を逸らさなかった。


「あなたに、ずっと本当の身分を隠しておりました」


春風が、二人の間を吹き抜ける。


花壇の花々が、静かに揺れていた。


アルジェンの表情が、わずかに変わった。


本当の身分。


その言葉が意味するものを、彼はまだ知らない。


だが、リディアがどれほどの勇気を振り絞っているのかは、分かった。


彼女は、もう一度深く息を吸った。


「……どうか、聞いていただけますか」


その声には、恐怖と決意が入り混じっていた。


「私がこの国へ来ることになった、本当の理由を……」


*


アルジェンは、静かに彼女を見つめていた。


本当の身分。


この国へ来た理由。


その言葉を聞いて、胸の奥に緊張が走らなかったわけではない。


彼女が何かを抱えていることは、以前から察していた。


だが、その重さも、形も、彼には分からない。


分からないからこそ。


今は、彼女の言葉を聞かなければならなかった。


アルジェンは、ゆっくりと小箱の蓋を閉じた。


そして、それを再び懐へしまった。


リディアの瞳が、かすかに揺れる。


彼は、その変化に気づいた。


「……指輪をしまったのは、気持ちが変わったからではない」


アルジェンは、静かに告げた。


「君の話を、きちんと聞きたいからだ」


リディアは、息を呑んだ。


アルジェンは、空いた手をそっと差し出した。


「……手を、握ってもいいか」


リディアは、しばらくその手を見つめていた。


それから、小さく頷いた。


「……はい」


アルジェンは、彼女の手を優しく包み込んだ。


その手は、かすかに震えていた。


彼は、ほんの少しだけ力を込めた。


引き留めるためではない。


ただ、ここにいると伝えるために。


「……聞こう、リディア」


その声は、低く穏やかだった。


「君が話そうとしていることは、きっと簡単な話ではないのだろう」


リディアの瞳が、かすかに揺れた。


「だから、急がなくていい」


アルジェンは、静かに続ける。


「どこから話すかも、どのような言葉で伝えるかも、君が決めてくれ」


リディアは、何も言えなかった。


ただ、彼の手の温もりを感じていた。


アルジェンは、少しだけ微笑んだ。


「……以前、君に言ったはずだ」


その灰青色の瞳が、まっすぐに彼女を見つめる。


「君が話せるようになるまで、私は待つと」


そして、ゆっくりと続けた。


「今まで君が話さなかったことを、責めるつもりはない」


リディアの唇が、かすかに震えた。


「……ですが、私の話を聞けば……」


そこで、言葉が途切れた。


アルジェンは、彼女の言葉を遮らなかった。


リディアは、俯いたまま小さく呟いた。


「……今のように、私を見てくださるかどうか……」


その声は、春風に消えてしまいそうなほど小さかった。


アルジェンは、静かに息を吸った。


そして、彼女の手を包み込んだまま答えた。


「……リディア」


彼女が、ゆっくりと顔を上げる。


「私は、君について知らないことがある」


その言葉に、リディアの瞳が揺れた。


「だから、何を聞いても驚かないなどと、軽々しくは言えない」


アルジェンは、まっすぐに彼女を見つめた。


「だが、一つだけ確かなことがある」


そして、静かに続ける。


「君がこれまで私と過ごしてくれた日々は、何を聞いたとしても消えはしない」


リディアの瞳が、大きく見開かれた。


「書斎で共に働いたことも、市場を歩いたことも、君が領民のために心を砕いてくれたことも」


アルジェンは、少しだけ微笑んだ。


「そして、私が君を愛していると伝えたことも」


彼女の瞳から、涙が一粒こぼれ落ちた。


アルジェンは、穏やかに続けた。


「……話を聞いたあとで、共に考えなければならないことはあるかもしれない」


その声には、静かな誠実さがあった。


「だが、私は君を一人で悩ませるために、この指輪を用意したのではない」


リディアは、彼を見つめたまま動かなかった。


アルジェンは、少しだけ困ったように笑った。


「……どうにも、うまく言えないな」


それから、もう一度、彼女の目を見つめる。


「ただ、君が話してくれるのなら、私は逃げずに聞きたい」


その言葉は、華やかな誓いではなかった。


未来のすべてを保証するものでもなかった。


けれど。


今、この瞬間に彼が差し出せる、偽りのない約束だった。


リディアは、震える唇をそっと噛んだ。


胸の奥が、きゅっと締めつけられる。


怖かった。


今も、怖い。


けれど。


彼は、知らないことを知っているふりなどしなかった。


どんな真実も簡単に受け止められると、安易に言い切ることもしなかった。


ただ、向き合うと。


一緒に考えると。


そう、約束してくれた。


そのことが、何より嬉しかった。


「……アルジェン様」


リディアは、震える声で名を呼んだ。


「……ありがとうございます」


そして、彼の手を握り返した。


もう、逃げたくなかった。


この人と共に生きていくために。


自分自身の言葉で、すべてを伝えたかった。


リディアは、深く息を吸った。


春の庭園には、柔らかな陽射しが降り注いでいる。


花々が風に揺れ、遠くでは小鳥の声が聞こえていた。


あの冬の日。


雪原で力尽きた自分が、こうして春を迎えることなど、想像もできなかった。


ましてや。


誰かを愛し、その人に真実を語ろうとする日が来るなど。


リディアは、ゆっくりと顔を上げた。


琥珀色の瞳が、アルジェンをまっすぐに見つめる。


「……では、お話しいたします」


その声は、まだ少し震えていた。


けれど、確かに前を向いていた。


アルジェンは、静かに頷いた。


「……ああ」


彼女の手を、優しく握り返す。


リディアは、もう一度深く息を吸った。


そして。


長いあいだ胸の奥にしまい込んできた真実を、自らの言葉で語ろうとした。


春風が、二人の間を静かに吹き抜ける。


その手は、まだ繋がれていた。


――今こそ。


あの冬の日から、ずっと閉ざしてきた扉を。


彼女自身の手で、開く時だった。

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