第八章 春風に潜む追憶 後編
春は、あらゆるものを目覚めさせる。
雪の下に眠っていた草花も。
凍てついた街道を行き交う商人たちも。
長い冬のあいだ、静かに胸の奥へしまい込まれていた願いも。
けれど、目覚めるものがすべて美しいとは限らない。
遠い南方では、春の交易が活気を取り戻す一方で、これまでとは異なる動きが見え始めていた。
そして、北方の白銀の国では。
一人の男が、まだ見ぬ未来へ向けて、小さな決意を形にしようとしていた。
その二つの動きが、いつか交わることになるのか。
今はまだ、誰にも分からなかった。
*
エルデンフェルトからの使節が、再びヴォルフェルト伯爵邸を訪れたのは、庭園の花々が咲き揃い始めた頃だった。
使節団を率いるのは、セレスティーヌ・ヴァレンベルク。
交易交渉官として幾度もニヴェリスを訪れている彼女は、いつもと変わらぬ優雅な立ち居振る舞いで、アルジェンとギルバートの前へ姿を現した。
ただ、その表情には、わずかな緊張があった。
「伯爵。先日ご相談いただいた、ルミエラ方面の通商手続きについてご報告がございます」
挨拶を終えると、セレスティーヌは持参した書類を机に広げた。
春の交易に関する報告書。
通商手続きの変更一覧。
そして、エルデンフェルトの商人たちから寄せられた聞き取り記録。
アルジェンは、静かに頷いた。
「……聞こう」
「ルミエラ側の通商手続きの変更ですが、ニヴェリスだけでなく、エルデンフェルトの商人たちにも影響が及んでおります」
セレスティーヌは、一枚の書類を指し示した。
「追加の証明書を求められる事例や、従来より審査に時間を要する事例が確認されています。もっとも、すべての商人に一律で適用されているわけではないようです」
ギルバートが、報告書へ視線を落とした。
「……品目によっても違いがあるのか」
「ええ。現時点では、変更の全容を把握できておりません」
セレスティーヌは、慎重に言葉を選んだ。
「ルミエラ側は、交易管理の適正化に伴う措置だと説明しています。それ自体は、決して不自然な理由ではございません」
「だが、現場の負担は増えている」
アルジェンが、静かに言った。
「はい。特に、複数の国を経由して品物を扱う商人からは、今後の見通しを立てにくいとの声が上がっております」
アルジェンは、ゆっくりと報告書をめくった。
変更が始まった時期。
対象となる品目。
審査に要した日数。
商人たちが実際に負担した費用。
それらを一つずつ確かめながら、彼は思案する。
「……制度そのものが変わるのであれば、商人たちにも準備が必要だ」
「ええ。ただ……」
セレスティーヌは、そこで一度言葉を切った。
「気になるのは、こうした変更と同じ頃から、ルミエラの宮廷内部でも人事の動きが見られることです」
ギルバートが、顔を上げた。
「……宮廷の人事?」
「はい。古くから行政に携わっていた者の一部が職を離れ、担当部署の権限も見直されていると聞いております」
セレスティーヌは、すぐに付け加えた。
「ただし、これらは断片的な情報です。通常の人事異動である可能性もありますし、通商手続きの変更と関係しているかどうかも分かりません」
アルジェンは、静かに頷いた。
宮廷の人事異動。
通商手続きの変更。
どちらも、それだけで異常とは言えない。
国の方針が変われば、行政の仕組みも変わる。
重要なのは、その変更によって何が起きているかだった。
「……憶測で判断するには、材料が足りんな」
「私も同感です」
セレスティーヌは、穏やかに答えた。
「ただ、もう一つ。確証のない話ではございますが……」
その声が、わずかに低くなる。
「ルミエラ方面から来た者が、北方へ向かう街道について尋ねていたという話もございます」
ギルバートの眉が、かすかに動いた。
「……北方の街道?」
「はい。冬の間、どの道が通行可能だったのか。春になって、どの宿場が再び利用され始めたのか。そうしたことを尋ねていたそうです」
アルジェンは、しばらく黙っていた。
冬の終わりにも、似たような報告があった。
閉鎖された山道について、荷の運搬とは関係のない問い合わせがあったというものだ。
もっとも、商人が新しい経路を調べること自体は珍しくない。
春の交易が始まれば、街道の状況を知りたがる者は増える。
「……問い合わせた者の素性は?」
「確認できておりません」
「目的も不明、ということか」
「ええ」
セレスティーヌは、静かに頷いた。
「通商制度の変更と関係があるかどうかも分かりません。ですから、現段階で特別な意味を持たせるべきではないと思っております」
アルジェンは、報告書を机へ置いた。
「……そうだな」
短い沈黙が落ちる。
窓の外では、春風に揺れる木々が柔らかな影を落としていた。
庭園には、小さな花々が咲いている。
リディアが、好んで散策する場所だった。
――ルミエラ。
その国の名を耳にするたび、彼女の表情がわずかに曇ることを、アルジェンは知っていた。
何かを思い出したように、言葉を失うこともあった。
けれど。
その理由を、彼は知らない。
そして、彼女が語らないことを、勝手に推し量るつもりもなかった。
目の前にあるのは、交易に関する報告だ。
確かな根拠もなく、一人の女性の事情と結びつけてよいものではない。
「……ギルバート」
「何だ?」
「春の輸送について、改めて各地の状況を確認してくれ」
アルジェンは、地図へ視線を落とした。
「特に、冬季閉鎖から通行が再開された街道だ。路面の状態や宿場の受け入れ状況を把握しておきたい」
「分かった」
「それから、領内の商人たちには、通商手続きの変更について確認できた情報を共有する。余計な混乱を招かぬよう、事実と未確認の話は分けて伝えよう」
ギルバートは、頷いた。
アルジェンは、セレスティーヌへ視線を移す。
「セレス。エルデンフェルト側でも新たな通達があれば知らせてほしい。こちらからも、確認できた情報は共有しよう」
「承知いたしました」
セレスティーヌは、丁寧に頭を下げた。
「商人たちにとっても、情報が正確であることが何より大切ですものね」
「ああ」
アルジェンは、静かに頷いた。
「……今は、事実を集めることだ」
その灰青色の瞳には、冷静な光が宿っていた。
「分からないことを、分かったつもりで扱うわけにはいかん」
ギルバートが、小さく笑う。
「いかにもお前らしい答えだな」
「そうか?」
「そうさ。余計な騒ぎを起こさず、それでいて備えは怠らない」
ギルバートは、机の上の書類を揃えた。
「……まったく、頼もしい銀狼殿だ」
アルジェンは、わずかに眉を寄せた。
「茶化すな」
「褒めているんだが?」
そのやり取りに、セレスティーヌも小さく笑った。
張り詰めていた空気が、少しだけ和らぐ。
やがて彼女は、窓の外へ視線を向けた。
「……そういえば、リディア様はお元気でいらっしゃいますか?」
アルジェンの表情が、自然と柔らかくなった。
「ああ。春になってからは、庭園を歩くことも増えたようだ」
「それは何よりですわ」
セレスティーヌは、穏やかに微笑んだ。
「以前お会いしたときも、とても聡明で、感じのよい方だと思いましたもの」
「……そうだな」
アルジェンは、静かに答えた。
それから、少しだけ考えるように間を置く。
「今回の件については、彼女にも必要な情報を伝えるつもりだ。ただ、未確認の噂まで持ち込む必要はないだろう」
ギルバートが、頷いた。
「交易に関する確かな情報だけ、ということだな」
「ああ。彼女が知りたいと望むなら、説明できる範囲で話そう」
アルジェンは、窓の外へ目を向けた。
春の花々が、風に揺れている。
彼女が何を抱えているのか。
それを知る日は、いつか来るのかもしれない。
だが、その日を決めるのは自分ではない。
――彼女自身だ。
アルジェンは、静かに息を吐いた。
そして、再び目の前の報告書へ視線を戻した。
*
その日の午後。
ヴォルフェルト伯爵邸の談話室には、春の柔らかな陽射しが差し込んでいた。
冬の間、絶えず火が灯されていた暖炉は、今では静かに休んでいる。
代わりに、開け放たれた窓から心地よい風が入り、薄いカーテンを揺らしていた。
リディアは、窓辺の席で紅茶を楽しんでいた。
その向かいには、アルジェンが座っている。
仕事の合間に、こうして二人でお茶を飲む。
いつの間にか、それは当たり前の習慣になっていた。
「……ふふ」
リディアが、小さく笑った。
アルジェンは、カップを持ち上げかけた手を止める。
「……どうした?」
「いえ。少し、不思議に思いましたの」
「不思議?」
「冬の頃は、暖炉の火を眺めながらお茶をいただいておりましたでしょう?」
リディアは、窓の外へ視線を向けた。
「それが今では、こうして春の風を感じながら、同じようにお茶を飲んでいるなんて」
アルジェンは、静かに微笑んだ。
「……確かに、季節は随分と変わったな」
「ええ」
リディアは、嬉しそうに頷いた。
「でも、変わらないこともありますわ」
「……ほう?」
彼女は、琥珀色の瞳を柔らかく細めた。
「こうして、アルジェン様とお茶を飲む時間です」
アルジェンの手が、わずかに止まった。
「……そうか」
短い返事だった。
だが、その口元には隠しきれない微笑みが浮かんでいる。
リディアは、その様子を見て楽しそうに笑った。
「ふふ。アルジェン様?」
「……何だ?」
「お耳が少し赤くなっていらっしゃいますわ」
「…………」
アルジェンは、静かにカップを口元へ運んだ。
「……春の日差しのせいだろう」
「まあ、そうでしたの?」
リディアは、わざとらしく首を傾げた。
その瞳には、悪戯っぽい光が宿っている。
アルジェンは、何も言わなかった。
ただ、紅茶を一口飲む。
――まったく。
彼女には、敵わない。
そう思いながらも、不思議と嫌な気分にはならなかった。
むしろ。
こうした何気ないやり取りが、いつまでも続けばよいと願っている自分がいた。
そのとき、アルジェンの胸に、ある言葉が蘇った。
――いつか、そのお気持ちを改めて聞かせてくださいませ。
春の庭園で、リディアが告げた言葉だった。
その時には、自分も大切な話をすると。
彼女は、そう言っていた。
アルジェンは、静かに目を伏せた。
改めて。
自分の気持ちを、きちんと伝える。
それは、これまでのように、何気ない会話の中でこぼれる言葉ではない。
彼女に、共に生きていく未来を願うための言葉だった。
そして。
その願いを形にする、あるものが。
彼の脳裏へ、静かに浮かんでいた。
*
翌日。
ヴォルフェルト伯爵邸、執務室。
アルジェンは、春の交易に関する書類を確認していた。
窓から差し込む陽光が、机の上に淡い影を落としている。
そこへ、ギルバートが数枚の報告書を手に入ってきた。
「……アルジェン」
「何だ?」
「春になって街道も開いたことだし、そろそろ私的な予定も考えていい頃じゃないか?」
アルジェンは、ペンを走らせていた手を止めた。
「……私的な予定?」
ギルバートは、長年の友人らしい遠慮のない笑みを浮かべた。
「リディア嬢とは、随分親しくなったようだな」
そして、少しだけ悪戯っぽく目を細める。
「……で、お前はこれから彼女とどうするつもりなんだ?」
アルジェンは、しばらく黙っていた。
どうするつもりか。
その問いに、答えがないわけではなかった。
むしろ、答えはすでに決まっている。
ただ、それを言葉にすることに、まだ少し慣れていなかった。
「……彼女には、このままここで過ごしてほしいと伝えた」
アルジェンは、静かに答えた。
ギルバートが、目を瞬かせる。
「彼女も……それを望んでくれている」
その声には、隠しきれない喜びが滲んでいた。
「……今はまだ、それ以上の約束を交わしたわけではないが」
アルジェンは、ゆっくりと顔を上げた。
「私の気持ちは、決まっている」
ギルバートは、しばらく彼を見つめていた。
それから、小さく笑った。
「……なるほどな」
そして、何気ない調子で窓の外へ視線を向ける。
「そういえば、春先は宝飾職人たちも忙しくなる季節だったな」
アルジェンの眉が、わずかに動いた。
ギルバートは、気づかないふりをして続ける。
「ニヴェリア鉱石を扱う工房も、そろそろ注文が増える頃だろう」
その言葉に。
アルジェンは、静かに目を細めた。
ニヴェリア鉱石。
ニヴェリスの山々から採れる、淡い氷青色の石。
そして、その石を雫の形に仕立てた婚約指輪。
――雪の雫。
自分の根ざす場所を、あなたと分かち合う。
厳しい冬も、その先に訪れる春も。
共に歩んでいくという願いを込めた、古くからの意匠だった。
冬の滝で、リディアにその意味を教えたことがある。
彼女は、静かに耳を傾けていた。
そして、どこか切なそうに。
誓いは、交わすことよりも、守り続けることの方が難しいのかもしれないと。
そう言っていた。
あのとき、アルジェンは彼女の過去を知らなかった。
今も、知らないことは多い。
けれど。
あの日から、彼女へ伝えたい言葉は、少しずつ形を変えていた。
守りたい。
傍にいてほしい。
そして。
共に生きていきたい。
その願いを、いつか正式に伝えたいと思っていた。
「……工房の注文か」
アルジェンは、静かに呟いた。
ギルバートが、彼を見つめる。
「……確かに、先手を打っておくのは合理的だな」
その瞬間。
ギルバートは、思わず吹き出しそうになった。
合理的。
婚約の準備を考えている男が、真っ先に口にする言葉がそれなのか。
彼は、口元を押さえながら小さく笑った。
「……お前、本当に変わらないな」
アルジェンが、眉をひそめる。
「……何がだ」
「いや、何でもない」
ギルバートは、楽しそうに肩をすくめた。
アルジェンは、咳払いを一つした。
「……茶化すのはそのくらいにしておけ」
そして、少しだけ視線を逸らす。
「だが、忠告には感謝する」
彼は、机の上の書類を揃えた。
「信頼できる職人の一覧を、後で私の机に置いておいてくれ」
ギルバートは、にやりと笑った。
「……ほう?」
「視察のついでに立ち寄る必要があるかもしれん」
アルジェンは、真面目な顔で答えた。
その耳が、ほんの少し赤くなっていた。
ギルバートは、とうとう堪えきれずに笑った。
「くくっ……!」
アルジェンが、鋭い視線を向ける。
「……何がおかしい」
「いや、すまん」
ギルバートは、笑いをこらえながら続けた。
「お前、婚約の準備まで仕事の段取りみたいに考えるんだな」
アルジェンは、何も言わなかった。
否定できなかったからだ。
ギルバートは、楽しそうに微笑んだ。
「まあ、安心しろ。腕のいい職人なら心当たりがある」
彼は、机上の書類を整えた。
「代々、雪の雫を仕立ててきた工房だ。技術も確かだし、客の秘密を守ることにも慣れている」
アルジェンは、静かに頷いた。
「……頼む」
ギルバートは、わざとらしく真面目な顔を作った。
「承知いたしました、ヴォルフェルト伯爵閣下」
そして、一礼する。
「ご依頼の職人一覧は、早急にご用意いたします」
アルジェンは、深く息を吐いた。
ギルバートは、扉へ向かいながら最後に振り返った。
「……それにしても、あの仕事一筋だったお前がなあ」
その声には、長年の友人としての嬉しさが滲んでいた。
「まさか、女性に贈る婚約の品を真剣に考える日が来るとは」
アルジェンは、黙って彼を見つめた。
ギルバートは、少しだけ表情を和らげた。
「……一つだけ忠告しておくぞ」
そして、静かに続ける。
「指輪は書類と違って、決裁印を押せば終わりってわけじゃない」
アルジェンの瞳が、わずかに動いた。
「……肝心の言葉は、お前自身で考えろよ?」
そう言い残し、ギルバートは楽しげに執務室を後にした。
扉が閉まった。
*
静寂が戻った。
アルジェンは、しばらく机の上の書類を見つめていた。
領地の収支報告書。
鉱山の産出記録。
交易に関する決裁書類。
どれも、彼にとっては慣れ親しんだものだった。
必要な情報を集め、最善の判断を下す。
それが、これまでの彼の仕事だった。
けれど。
今、彼の頭を占めているのは、まったく別の問題だった。
「……言葉、か」
アルジェンは、小さく呟いた。
領主として大勢の前で話すことはできる。
他国の使節と交渉することも、難しいことではない。
だが。
一人の女性へ、自分の生涯を共に歩んでほしいと伝えるための言葉。
それは、どんな難しい交渉よりも、彼にとって未知のものだった。
アルジェンは、椅子の背へゆっくりと身を預けた。
そして、静かに目を閉じる。
リディア。
雪原で倒れていた彼女。
書斎で帳簿を見つめる彼女。
市場で焼き菓子を頬張り、嬉しそうに微笑む彼女。
ルミナ祭の灯りの下で、来年も一緒にいたいと願ってくれた彼女。
そして、春の庭園で。
自分の手を両手で包み込み、いくつもの季節を共に迎えたいと告げてくれた彼女。
そのすべてが、鮮明に思い出せた。
「……私は、君が好きだ」
アルジェンは、試すように呟いた。
それから、少しだけ眉を寄せる。
「……いや」
その言葉は、間違いではない。
むしろ、今の自分の気持ちを最も率直に表している。
けれど。
それだけでは、足りない気がした。
彼女へ伝えたいのは、単なる好意ではない。
共に生きていきたいという願い。
喜びも、悲しみも。
穏やかな日々も、思いがけない困難も。
互いに支え合いながら、歩んでいきたいという気持ちだった。
だが、それは自分一人で決められることではない。
彼女には、彼女の人生がある。
自分が願う未来と、彼女が望む未来。
その二つが重なることを願うのは自由だ。
けれど、重なるかどうかを決めるのは、二人なのだ。
アルジェンは、ゆっくりと目を開けた。
「……難しいものだな」
小さく息を吐く。
領地の問題なら、必要な情報を揃え、責任を持って判断を下せばよい。
だが、彼女の心は、決裁書類ではない。
どれほど準備を整えたところで、答えが約束されるわけではなかった。
それでも。
自分の気持ちを、誠実に伝えたい。
その思いだけは、揺るがなかった。
アルジェンは、再びペンを取った。
まずは、目の前の仕事を片づけよう。
そして。
近いうちに、職人を訪ねてみよう。
胸の奥に、これまでのどんな仕事とも違う熱を宿しながら。
*
数日後。
ニヴェリス王国、王都。
春の陽光が石畳を照らす街の一角に、古くから続く宝飾工房があった。
重厚な石造りの建物。
磨き上げられた木製の扉。
その奥には、繊細な銀細工や、淡い青色の宝石を用いた装飾品が並べられている。
アルジェンは、静かに店内へ足を踏み入れた。
ギルバートの紹介を受けた工房だった。
長年、ニヴェリスの貴族たちへ婚約の品を仕立ててきたという。
奥から現れたのは、白髪交じりの熟練職人だった。
「ようこそ、ヴォルフェルト伯爵閣下」
職人は、丁寧に一礼した。
「ご紹介は伺っております」
アルジェンは、静かに頷いた。
「……世話になる」
職人は、鍵の掛かった棚から小さな箱を取り出した。
そして、慎重に蓋を開く。
「雪の雫をお考えとのこと。まずは、石をご覧いただきましょう」
箱の中には、大きさも色合いも異なるニヴェリア鉱石が並んでいた。
淡い氷青色。
澄んだ青白色。
そして、雪の奥に閉じ込められた光のような、静かな輝き。
アルジェンは、しばらく黙ってそれらを見つめていた。
職人は、穏やかに微笑んだ。
「ニヴェリスでは古くから、ニヴェリア鉱石を雫の形に仕立て、婚約の証として贈ってまいりました」
そして、静かに続ける。
「ですが、最も高価な石が、必ずしも最もふさわしいとは限りません」
アルジェンは、ゆっくりと顔を上げた。
職人は、彼をまっすぐに見つめた。
「……差し支えなければ、お聞かせください」
その声は、穏やかだった。
「お相手は、どのような方でいらっしゃいますか?」
アルジェンは、すぐには答えなかった。
宝石の品質を尋ねられるのなら、いくらでも答えられただろう。
透明度。
色合い。
産地。
加工の精度。
そうしたものなら、彼にとっては慣れた分野だった。
けれど。
目の前の職人が求めているのは、そうした数字ではなかった。
アルジェンは、静かに目を伏せた。
そして。
脳裏に浮かんだ、一人の女性の姿をゆっくりと思い描いた。
「……聡明で、心の温かな人だ」
低く、穏やかな声だった。
「数字を扱うことに長けている。だが、彼女が見ているのは、数字そのものだけではない」
職人は、黙って耳を傾けていた。
アルジェンは、静かに続ける。
「帳簿の向こうにいる人々の暮らしを思い、誰かが喜ぶ姿を、まるで自分のことのように喜ぶ」
その声には、自然と柔らかな響きが宿っていた。
「……それでいて、時折こちらが驚くほど大胆なことを言う」
職人の口元に、微かな笑みが浮かんだ。
「それは、素敵なお方でございますね」
「……ああ」
アルジェンも、小さく微笑んだ。
「私が仕事を抱え込んでいると、遠慮なく休むように言ってくる」
「ほう」
「温かいスープが冷めてしまうから、と」
そこまで言って、アルジェンは思わず小さく笑った。
あの日の食卓。
湯気の立つスープ。
自分を見つめる、少し呆れたような琥珀色の瞳。
その記憶が、鮮やかに蘇る。
「……彼女と出会ってから、見慣れた景色が少し違って見えるようになった」
アルジェンは、静かに続けた。
「この国の春を待ち遠しく思うことは、以前からあった。雪が解ければ、領民の暮らしも楽になるからな」
そして、一度言葉を切る。
「だが……誰かと共に、その春を迎えたいと願ったのは、初めてかもしれない」
職人は、何も言わなかった。
ただ、穏やかに微笑んでいた。
アルジェンは、再び宝石へ視線を落とした。
「……派手である必要はない」
その声には、静かな確信が宿っていた。
「彼女は、物の値打ちを、その大きさや華やかさだけで判断する人ではない」
彼は、ふと春の工房での出来事を思い出した。
掌に収まる、小さな木箱。
雪の結晶を模した彫刻。
その中心に嵌め込まれた、小粒のニヴェリア鉱石。
あの品を、リディアは心から喜んでくれた。
――ずっと、ずっと大切にいたしますわ。
その声が、今も耳に残っている。
「……小さくとも、丁寧に仕立てられたものがいい」
アルジェンは、静かに言った。
「彼女が日々の暮らしの中で、自然に身につけられるような」
職人は、ゆっくりと頷いた。
「……でしたら、伯爵閣下」
彼は、奥の棚へ向かった。
「ぜひ、ご覧いただきたい石がございます」
やがて、小さな革張りの箱を手に戻ってきた。
アルジェンの前へ置き、慎重に蓋を開く。
その中には。
小ぶりなニヴェリア鉱石が、一粒だけ収められていた。
淡い氷青色の石。
一見すると、控えめな輝きだった。
けれど。
職人がそっと光へかざした瞬間。
その奥から、澄んだ光が浮かび上がった。
まるで、長い冬の終わりに差し込む、最初の春の陽射しのように。
アルジェンは、思わず息を呑んだ。
「……こちらは、北方の鉱脈から採れたものでございます」
職人は、穏やかに説明した。
「大きさこそ控えめですが、色合いが美しく、光を受けたときの表情が実に豊かな石です」
そして、石を慎重に箱へ戻す。
「雫の形に整えれば、きっと上品な仕上がりになるでしょう」
アルジェンは、黙ってその石を見つめていた。
小さな石。
けれど、決して存在感を失わない。
控えめでありながら、内側から澄んだ光を宿している。
その姿が。
彼の知る、一人の女性と重なった。
職人は、穏やかに続けた。
「……伯爵閣下がお話しくださったお方に、どこか似合うように思いまして」
アルジェンの瞳が、わずかに揺れた。
そして。
静かに、頷いた。
「……ああ」
その声には、迷いがなかった。
「これだ」
職人が、微笑む。
アルジェンは、宝石をまっすぐに見つめた。
「……この石に決める」
彼は、静かに続ける。
「大きさなど関係ない」
そして、革張りの箱へそっと指を添えた。
「この石なら、彼女が喜んでくれるような気がする」
職人は、深く頷いた。
「承知いたしました」
アルジェンは、さらに続ける。
「仕立てについても頼みたい」
その声には、領主としての几帳面さが戻っていた。
「石を主役にしつつも、日常の動作を妨げない控えめな意匠にしてほしい」
職人は、真剣に耳を傾けていた。
「それから、台座は堅牢なものを。長く使えるよう、手入れのしやすさにも配慮してもらいたい」
「かしこまりました」
職人は、静かに微笑んだ。
「お相手の方が、日々身につけることを考えていらっしゃるのですね」
「……ああ」
アルジェンは、頷いた。
「特別な日にだけ眺めるものではなく、彼女の日常に寄り添うものにしたい」
そして、少しだけ照れくさそうに視線を逸らす。
「……もちろん、受け取ってもらえれば、の話だが」
職人は、一瞬だけ目を瞬かせた。
それから、穏やかに笑った。
「そのお気持ちこそ、何より大切でございましょう」
アルジェンは、静かに息を吐いた。
「……そうだな」
彼は、用意していた手付金を差し出した。
「納期は急がなくていい。納得のいくものを仕上げてほしい」
「承知いたしました」
職人は、深く頭を下げた。
「必ずや、心を込めてお仕立ていたします」
アルジェンは、もう一度、箱の中の宝石を見つめた。
淡い氷青色の石。
その奥には、静かな光が宿っている。
いつか、この石を彼女へ差し出す日が来るのだろうか。
そのとき、自分はどんな言葉を伝えるのだろう。
そして。
彼女は、どんな顔をするのだろう。
想像しただけで、胸の奥が落ち着かなくなった。
アルジェンは、静かに目を伏せた。
「……よろしく頼む」
その声には、領主としての命令ではなく。
一人の男としての、ささやかな願いが込められていた。
*
工房を後にしたアルジェンは、春の街道をゆっくりと歩いていた。
陽光が石畳を照らし、通りには商人たちの活気ある声が響いている。
春の風が、銀灰色の髪を揺らした。
その胸には、これまでにない感覚が宿っていた。
決意。
期待。
そして、ほんの少しの緊張。
彼は、領主として幾度も重要な決断を下してきた。
鉱山の管理。
交易に関する交渉。
冬季の備蓄計画。
どれも、領地の未来を左右するものだった。
だが。
今日、彼が選んだ一粒の石は。
そのどれとも違う重みを持っていた。
自分の未来を。
一人の女性と、共に歩んでいきたい。
その願いを、形にしようとしているのだ。
アルジェンは、静かに目を閉じた。
春の庭園で、リディアが告げた言葉を思い出す。
――いつか、そのお気持ちを改めて聞かせてくださいませ。
その時には、自分も大切な話をすると。
彼女は、そう言っていた。
アルジェンは、ゆっくりと目を開けた。
「……リディア」
小さく、彼女の名を呼ぶ。
まだ、知らないことは多い。
彼女がどのような道を歩み、どのような思いを胸に抱えているのか。
それを、彼は知らない。
けれど。
共に過ごした日々の中で、確かに知ったこともある。
彼女の聡明さ。
人々を思いやる優しさ。
時折見せる、悪戯っぽい微笑み。
そして、未来を願う言葉を口にするときの、少しだけ慎重な眼差し。
それらは、誰かから聞いた話ではない。
自分自身が、彼女と向き合う中で知ったことだった。
アルジェンは、静かに息を吐いた。
彼女が話してくれる日を待とう。
それまでは、今まで通り。
共に食事をし、仕事をし、季節の移ろいを眺めながら。
一日一日を、大切に重ねていけばいい。
そして、いつか。
自分の願いを、きちんと言葉にしよう。
彼女が自由に答えられるように。
その答えが、どのようなものであっても。
誠実に受け止められる自分でありたい。
「……さて」
アルジェンは、小さく呟いた。
「まずは、ギルバートに礼を言わねばな」
そう考えたところで、ふと足を止める。
あの男のことだ。
職人を紹介した礼を言えば、きっと余計なことまで尋ねてくるだろう。
指輪の形はどうした。
石は決まったのか。
それで、肝心の言葉は考えたのか。
「…………」
アルジェンは、静かに眉を寄せた。
――まったく。
あいつには、しばらく頭が上がりそうにない。
そう思いながらも、その口元には小さな笑みが浮かんでいた。
春の風が、頬を撫でていく。
遠い南方では、まだ見えない変化が起きている。
だが、今の彼には、その行方を見極める責任と同じくらい、大切にしたい未来があった。
彼女と共に、生きていきたい。
その願いを、いつか正式に伝えるために。
銀狼は、静かに歩みを進めていた。
白銀の国に、春が訪れていた。
そして。
その春の光の中で。
一粒のニヴェリア鉱石が、雪の雫という名の誓いへと、少しずつ姿を変えようとしていた。
それは、まだ誰にも明かされていない。
銀狼だけが胸に秘めた、小さな秘密だった。




