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第八章 春風に潜む追憶 前編

 春が来れば、旅立つつもりだった。


 あの冬の日。


 見知らぬ雪原で倒れ、目を覚ました先の屋敷で、リディアは確かにそう考えていた。


 雪が解けるまで。


 街道が開くまで。


 再び一人で歩き出せるようになるまで。


 ヴォルフェルト伯爵の厚意に甘えるのは、それまでのことだと。


 けれど今、ニヴェリスには春が訪れていた。


 屋根から落ちる雪解け水は、もう氷の雫ではない。


 庭園には小さな花が咲き、街道には各地へ向かう商隊の姿が戻ってきた。


 旅立つための道は、すでに開かれている。


 それなのに。


 リディアは今も、ヴォルフェルト伯爵邸にいた。


 そして、そのことを。


 以前の自分では考えられないほど、幸せに思っていた。


 *


 エルデンフェルト王国から南方へ向けて、一通の手紙が運ばれていた。


 差出人は、ルーカス・フォン・ヴァイスベルク。


 宛先は、父エドガー・フォン・ヴァイスベルク。


 幾つもの宿場を経由した封書は、春の交易品とともにルミエラ王国へと届けられた。


 そこに記されていたのは、大学での近況や、父の健康を案じる言葉。


 そして、北方の交易に関する、ささやかな話題だった。


 冬の輸送計画を見直したことで、ヴォルフェルト伯爵領の工房が再び動き始めたこと。


 その発案には、伯爵邸に滞在する若い女性が関わっていたらしいこと。


 ルーカスにとっては、学問への興味から書き添えた、何気ない一節にすぎなかった。


 だが、その手紙がエドガーのもとへ届けられるまでには、通常の私信よりも長い時間がかかった。


 宮廷の人事が変わって以来、かつて王宮に勤めていた者たちの周囲にも、落ち着かない空気が漂っていたからだ。


 エドガーが封書を受け取ったのは、ある静かな午後のことだった。


 彼は差出人の名を確かめると、ようやく表情を和らげた。


「……ルーカスか」


 封を切り、懐かしい筆跡を目で追う。


 大学の講義は順調らしい。


 春の王都は賑わい、商館には各国の交易品が集まっているという。


 父の身体を気遣う言葉に、エドガーは小さく息を吐いた。


 心配をかけている。


 そのことは、十分に分かっていた。


 けれど、今の自分には、息子へ書けないことがあまりにも多かった。


 やがて、手紙の後半へ差しかかったとき。


 エドガーの視線が、ある一節で止まった。


 ――ヴォルフェルト伯爵領。


 ――伯爵邸に滞在する、若い女性。


 彼は、ゆっくりと手紙を机へ下ろした。


 それだけでは、何も分からない。


 北方の伯爵家に客人が滞在していることなど、決して珍しくはない。


 交易に明るい女性も、世の中には大勢いる。


 偶然に違いない。


 そう考える方が、よほど自然だった。


 それでも。


 エドガーは、もう一度その一節を読み返した。


「……ヴォルフェルト伯爵、か」


 窓の外では、春風が庭木を揺らしていた。


 彼はしばらく考え込んだのち、手紙を丁寧に折り畳んだ。


 息子の何気ない知らせを、確かめるべきなのだろうか。


 それとも、ただの偶然として胸にしまっておくべきなのだろうか。


 今は、判断できなかった。


 エドガーは、机の引き出しへ手紙を収めた。


 その動きは、ひどく慎重だった。


 *


 それから数週間が過ぎた。


 ニヴェリス王国、ヴォルフェルト伯爵邸。


 春の交易が本格化するにつれ、領内の商人たちから、気になる報告が届き始めていた。


 ルミエラ方面の通商手続きが、以前より煩雑になっているという。


 追加の証明書。


 長引く審査。


 一部の品目に課された、新たな条件。


 一つ一つは、交易管理の変更として説明できるものだった。


 だが、複数の変更が同じ時期に重なれば、商人たちの負担は無視できなくなる。


 その日の午後。


 ギルバートは数枚の報告書を手に、アルジェンの執務室へ入った。


「アルジェン。春の交易について、少々気になる報告が集まっている」


 アルジェンは、鉱山の産出量を確認していた手を止めた。


 旧友の声には、いつもの軽やかさがなかった。


「……ルミエラ方面か」


「ああ」


 ギルバートは、机へ書類を置いた。


「各地の商人から、似たような報告が届いている」


 アルジェンは、素早く目を通した。


 審査の長期化。


 証明書の追加。


 品目ごとの条件変更。


「……春の交易が始まったばかりだというのに、厄介なことだな」


 彼は、静かに呟いた。


「現場の商人たちは、どう対応している?」


「今のところは、追加書類を揃えている。だが、審査がさらに長引けば、仕入れにも影響が出るだろう」


 アルジェンは、報告書を机へ置いた。


 先日、ようやく動き始めた工房。


 冬の間、材料不足に苦しんでいた職人たち。


 春の交易は、彼らにとって再出発の機会でもある。


 その流れを、簡単に止めるわけにはいかなかった。


「……ギルバート」


「何だ?」


「この件は、セレスティーヌにも共有しておけ」


 アルジェンは、冷静に続けた。


「エルデンフェルト側にも同様の変更が及んでいるのか、確認したい」


「承知した」


「それから、領内の商人たちには、現時点で確認できている手続きを整理して知らせよう。不確かな噂で混乱が広がるのは避けたい」


 ギルバートは、静かに頷いた。


「……慎重に動くべき、ということだな」


「ああ」


 アルジェンは、報告書へ視線を戻した。


「制度変更の目的も、今後の影響も、まだ分からん。憶測で動けば、かえって状況を悪くする」


 そして、続ける。


「ただし、備えは必要だ。影響を受けそうな品目と在庫量を確認しておこう。代わりの調達先があるものについても、調べておいてくれ」


「分かった」


 ギルバートは書類をまとめた。


 だが、扉へ向かう前に、ふと足を止めた。


「……アルジェン」


「何だ?」


「リディア様には、この件を?」


 アルジェンは、少しだけ沈黙した。


 ルミエラ。


 その国の名を耳にするたび、リディアの表情がわずかに曇ることを、彼は知っていた。


 だが、理由までは知らない。


 そして、それを本人の許しなく暴くつもりもなかった。


「……彼女が担当している集計に影響が出るなら、必要な変更は伝える」


 アルジェンは、静かに答えた。


「だが、まだ裏づけのない政治的な噂まで、わざわざ聞かせる必要はないだろう」


「そうだな」


「何か確かなことが分かれば、そのときに判断しよう」


 ギルバートは、旧友の顔を見つめた。


「……心配しているんだな」


 アルジェンは、わずかに眉を動かした。


「商人たちのことなら、当然だ」


「リディア様のことも、だろう?」


 少しの沈黙。


 それから、アルジェンは静かに息を吐いた。


「……ああ」


 否定はしなかった。


「彼女には、穏やかな春を過ごしてほしい」


 ギルバートは、穏やかに微笑んだ。


「私も同感だよ」


 そして、いつもの調子で付け加える。


「もっとも、あなたまで心配事を一人で抱え込まないようにしてくれ」


「……分かっている」


「それなら結構」


 ギルバートは、軽く一礼して執務室を後にした。


 扉が閉まると、アルジェンは窓の外へ視線を向けた。


 庭園の木々には、新しい葉が芽吹いている。


 その向こうには、リディアが好んで散策する花壇があった。


 春は、確かに訪れていた。


 けれど、遠い国々の情勢まで穏やかになったわけではない。


 アルジェンは、もう一度報告書へ目を落とした。


 今、自分にできることを。


 一つずつ、確実に進めていくしかなかった。


 *


 その数日後。


 ヴォルフェルト伯爵邸の庭園には、柔らかな春の陽射しが降り注いでいた。


 冬の間、雪に埋もれていた花壇には、小さな花々が咲き始めている。


 淡い白。


 薄紫。


 そして、春の空を思わせる優しい青。


 リディアは、その花々を眺めながら、静かに微笑んでいた。


「……ふふ」


 しゃがみ込み、小さな花の葉をそっと撫でる。


 冷たい風に耐え、雪の下で春を待ち続けた命。


 その姿が、何だか愛おしかった。


 彼女は、ゆっくりと顔を上げた。


 庭園の向こうには、雪解けの進んだ山々が広がっている。


 あの山の向こうに、南へ続く街道がある。


 かつて、冬が終われば歩き出そうと思っていた道。


「……そういえば」


 リディアは、誰にともなく呟いた。


「春になれば、ここを発つつもりでしたのね」


 その声には、どこか懐かしさが滲んでいた。


 あの頃は、ここに留まる理由などなかった。


 ただ、生き延びることだけで精一杯だった。


 誰にも迷惑をかけず。


 誰の目にも留まらず。


 どこか遠くで、静かに暮らせればそれでよいと思っていた。


 けれど。


 今は、違う。


 この屋敷には、温かな食卓がある。


 仕事を共にする人々がいる。


 街には、笑顔で迎えてくれる人たちがいる。


 そして。


 何よりも、大切に思う人がいる。


 リディアは、胸元へそっと手を添えた。


 工房でアルジェンから贈られた小箱は、今では客室の机の上に置かれている。


 朝の光を受けるたび、蓋に嵌め込まれたニヴェリア鉱石が淡く輝いた。


 それを見るたびに、思い出す。


 自分の喜ぶ顔が見たかったと、少し照れくさそうに笑ってくれた人。


 ――アルジェン様。


 その名を心の中で呼んだとき。


 背後から、聞き慣れた足音が近づいてきた。


「……リディア?」


 彼女は、ぱっと顔を上げた。


「まあ、アルジェン様」


 そこには、書斎から出てきたばかりのアルジェンが立っていた。


 銀灰色の髪が、春風に揺れている。


 灰青色の瞳は、彼女を見つけた途端、わずかに柔らかくなった。


「ここにいたのか」


「はい。お花がとても綺麗でしたので、少し眺めておりましたの」


 リディアは、嬉しそうに微笑んだ。


「アルジェン様も、お散歩ですか?」


「ああ。少し仕事が片づいたのでな」


 彼は、花壇へ視線を落とした。


「……すっかり春だな」


「ええ」


 リディアは、静かに頷いた。


 そして。


 少しだけ悪戯っぽく首を傾げた。


「……アルジェン様」


「何だ?」


「私が、春になれば旅立つつもりだったこと……覚えていらっしゃいますか?」


 アルジェンの表情が、わずかに変わった。


 彼は、しばらく何も言わなかった。


 その問いは、決して意地悪なものではなかった。


 リディアの瞳には、柔らかな微笑みが宿っている。


 それでも。


 胸の奥に、冷たいものが走った。


 春になれば、旅立つ。


 確かに、そういう話だった。


 雪原で倒れていた彼女を屋敷へ連れ帰ったとき、アルジェンは、雪解けまで安心して過ごせる場所を用意しようと考えた。


 その先を決めるのは、彼女自身だと。


「……ああ」


 彼は、静かに答えた。


「覚えている」


 リディアが、彼を見上げる。


「春になれば、また旅立つつもりだと聞いていた」


 アルジェンは、花壇へ視線を落とした。


 小さな花々が、風に揺れている。


「……だが、君はまだここにいる」


 彼は、ゆっくりとリディアを見つめた。


「それが、私にはとても嬉しい」


 リディアの頬が、ほんのりと赤く染まった。


 アルジェンは、少しだけ困ったように微笑んだ。


「……正直に言えば」


 そこで、一度言葉を切る。


「君が旅立つ日を考えると、今でも胸が落ち着かなくなる」


 リディアは、驚いたように目を瞬かせた。


「……アルジェン様も、そのように思われるのですか?」


「ああ」


 彼は、静かに頷いた。


「もし君が荷物をまとめていたら、私は……」


 そこで、言葉が止まった。


 引き留めただろうか。


 それとも、何も言わずに送り出しただろうか。


 アルジェンは、少し考えてから首を振った。


「……いや。きっと、残ってほしいと伝えただろうな」


 リディアの瞳が、かすかに揺れた。


「もちろん、君が旅立つと決めたなら、その意思は尊重したい」


 彼は、穏やかに続けた。


「だが、何も言わずに見送れるほど、私はもう平静ではいられないらしい」


 春風が、二人の間を吹き抜けた。


 花弁が一枚、石畳の上へ舞い落ちる。


 アルジェンは、彼女をまっすぐに見つめた。


「……私は、君に残ってほしいと思っている」


 その声には、飾り気がなかった。


「領主としてではなく、私個人の願いだ」


 リディアは、しばらく何も言えなかった。


 やがて、少しだけ悪戯っぽく目を細める。


「……ふふ」


「……何だ?」


「アルジェン様ったら」


 リディアは、嬉しそうに微笑んだ。


「そんなに私を引き留めたかったのですか?」


 アルジェンは、わずかに眉を上げた。


 だが、否定しなかった。


「……どうやら、そうらしい」


 そのあまりに素直な返事に、リディアは思わず笑みを深めた。


「まあ……!」


 彼女は、そっとアルジェンの手へ自分の手を重ねた。


「……確かに、春になれば旅立つつもりでした」


 その声は、穏やかだった。


「あの頃の私には、ここに留まる理由がありませんでしたもの」


 彼女は、咲き始めた花々へ視線を向けた。


 遠い冬の日を思い出す。


 見知らぬ土地。


 降りしきる雪。


 明日さえ、確かではなかった時間。


 あの頃は、何かを願うことすら怖かった。


 けれど。


 今は。


「……でも、今は違いますわ」


 リディアは、ゆっくりと顔を上げた。


「この国の人々も、この屋敷も……」


 そして、少しだけ頬を染める。


「……あなたのことも」


 琥珀色の瞳が、まっすぐにアルジェンを見つめた。


「すべてが、私にとって大切なものになりました」


 アルジェンの胸が、静かに熱くなった。


 リディアは、彼の手を優しく握り返した。


「ですから、今はもう、旅立つつもりはありません」


 その声には、迷いがなかった。


「……私自身が、ここにいたいのです」


 アルジェンは、息を呑んだ。


 彼女が、ここにいたい。


 誰かに命じられたからではない。


 行く場所がないからでもない。


 自分自身の意思で。


 この場所を選んでくれた。


 そのことが、何より嬉しかった。


「……リディア」


 ようやく名を呼ぶと、彼女は少し照れくさそうに微笑んだ。


「……でも」


 そして、そっと首を傾げる。


「私がこれからもおそばにいて、本当によろしいのですか?」


 アルジェンは、思わず小さく息を吐いた。


 それから、彼女の手を静かに包み込んだ。


「……それは、私の方が尋ねたいくらいだ」


「まあ?」


「私は領主だ。仕事も多いし、急な用事で約束を変えなければならない日もある」


 アルジェンは、少し困ったように微笑んだ。


「それに……こういうことを伝えるのも、あまり得意ではない」


 リディアは、目を瞬かせた。


「……こういうこと、ですか?」


「……君に、そばにいてほしいということだ」


 その言葉に、リディアの頬が赤く染まった。


 アルジェン自身も、わずかに視線を逸らす。


 しばらくして。


 リディアは、くすりと笑った。


「……ふふ」


「……何かおかしいか?」


「いいえ」


 彼女は、嬉しそうに首を振った。


「ただ、アルジェン様は本当に……」


 そこで、少しだけ言葉を探す。


「……不器用でいらっしゃるのですね」


 アルジェンは、何とも言えない顔になった。


「……否定はできんな」


 リディアは、とうとう声を立てて笑った。


 その笑顔を見て、アルジェンもまた、静かに口元を緩めた。


 やがて、リディアは笑みを落ち着かせると、彼の手を両手で包み込んだ。


「……アルジェン様」


「何だ?」


「私には、まだお話しできていないことがございます」


 その声は、先ほどまでより少しだけ静かだった。


 アルジェンの表情が、穏やかなものへ変わる。


「……ああ」


「いつか、きちんとお伝えしなければならないと思っております」


 リディアは、一度だけ目を伏せた。


「けれど……今はまだ、勇気が足りませんの」


 春風が、二人の間を通り抜けた。


 アルジェンは、彼女の言葉を遮らなかった。


 やがて、静かに口を開く。


「……無理に話さなくていい」


 リディアが、顔を上げる。


「君が話したいと思ったときに、聞かせてくれ」


 彼は、握った手を優しく包み直した。


「ただ……何か困っていることや、危険が迫っていることがあるなら、それは教えてほしい」


 その声には、領主としての冷静さも滲んでいた。


「事情のすべてを知らなくとも、できることはあるはずだ」


 リディアの瞳が、かすかに揺れた。


 アルジェンは、続ける。


「私は、君の知らない部分まで理解しているとは言えない」


 彼は、彼女をまっすぐに見つめた。


「だが、これまで共に過ごしてきた日々は、確かに私の中にある」


 仕事に向き合う真剣な眼差し。


 人々の暮らしを思いやる優しさ。


 ときには自分の働きすぎをたしなめ、いたずらっぽく笑う姿。


 そして、何かを恐れながらも、少しずつ前へ進もうとする強さ。


「……私は、今ここにいる君を大切に思っている」


 アルジェンは、静かに告げた。


「それだけは、覚えていてほしい」


 リディアは、何も言えなかった。


 胸の奥が、きゅっと締めつけられる。


 彼は、何も知らない。


 自分が何を恐れているのか。


 何を失い、何から目を背けているのか。


 それでも。


 知らないことを理由に、目の前の自分を疑おうとはしない。


 その温もりが、胸の奥へ深く沁み込んでいく。


「……アルジェン様」


 リディアは、静かに微笑んだ。


「ありがとうございます」


 その琥珀色の瞳には、ほんの少しだけ涙が浮かんでいた。


「いつか必ず、私自身の言葉でお話しいたします」


 そして。


 春の光を受けて、柔らかく微笑む。


「……それまでは、もう少しだけ」


 彼の手を、そっと握り返す。


「こうして、あなたのおそばにいさせてくださいませ」


 アルジェンは、静かに頷いた。


「……ああ」


 その声には、迷いがなかった。


「私も、そう願っている」


 リディアは、安堵したように息を吐いた。


 そして、ふと思い出したように目を細める。


「……それに」


「何だ?」


「先ほど、こういうことを伝えるのが苦手だと仰いましたけれど……」


 リディアは、少し悪戯っぽく微笑んだ。


「私には、十分すぎるほど伝わっておりますわ」


 アルジェンは、わずかに目を見開いた。


「……そうか?」


「ええ」


 彼女は、嬉しそうに頷いた。


「工房で選んでくださった、あの小箱も」


 その声が、少しだけ柔らかくなる。


「私の喜ぶ顔が見たかったと、仰ってくださったことも」


 そして、彼を見上げた。


「……今、こうして私の手を握ってくださっていることも」


 アルジェンの胸が、静かに高鳴った。


「全部、ちゃんと伝わっております」


 リディアは、照れくさそうに微笑んだ。


「ですから……どうか、ご心配なさらないでくださいませ」


 アルジェンは、しばらく何も言えなかった。


 やがて、静かに息を吐く。


「……それなら、よかった」


 その返事があまりに真面目だったので、リディアはまた小さく笑ってしまった。


 *


 しばらくの間、二人は庭園の小道を歩いた。


 花壇には、小さな春の花が咲き始めている。


 遠くの木々からは、鳥のさえずりが聞こえてきた。


 リディアは、アルジェンの腕へそっと手を添えた。


「……アルジェン様」


「何だ?」


「春が来たら、ここを去るつもりだった私が……」


 彼女は、少しだけ笑った。


「今では、夏が来るのを楽しみにしているのですから、不思議ですわね」


 アルジェンは、穏やかに微笑んだ。


「以前、滝でも話したな」


「ええ」


 リディアは、嬉しそうに頷いた。


「夏の滝も、見せてくださるのでしょう?」


「もちろんだ」


 彼は、少しだけ口元を緩めた。


「約束したからな」


「……ふふ。覚えておりますわ」


 そして、少しだけ真剣な表情になる。


「春も、夏も、秋も、冬も」


 リディアは、ゆっくりと彼を見上げた。


「これからも、あなたと一緒に、いくつもの季節を迎えられたら嬉しいです」


 アルジェンは、足を止めた。


 その言葉が、胸の奥へ深く響いた。


 春。


 夏。


 秋。


 冬。


 それは、これまで幾度となく迎えてきた季節だった。


 領地の収穫を確かめ、冬の備蓄を整え、雪解けの被害を調べる。


 そんな仕事とともに、毎年巡ってくるものだった。


 けれど、今は。


 彼女と共に過ごす未来として、温かく胸に浮かんでくる。


「……私もだ」


 アルジェンは、静かに答えた。


「君と、これからの季節を迎えたい」


 リディアの頬が、ほんのりと赤く染まった。


 彼は、少しだけ言葉を探した。


「……春が過ぎても、夏が来ても」


 そして、まっすぐに彼女を見つめる。


「その先も、君がそばにいてくれたら嬉しい」


 リディアは、息を呑んだ。


 冬のあの日には、想像もできなかった未来。


 春が来れば旅立つつもりだった自分に。


 この人は、その先も共にいてほしいと願ってくれている。


 胸の奥が、温かくなる。


「……アルジェン様」


 リディアは、少しだけ悪戯っぽく目を細めた。


「それではまるで、一生おそばにいてほしいと仰っているようですわ」


 アルジェンの瞳が、わずかに見開かれた。


「…………」


 今度ばかりは、すぐに返事ができなかった。


 リディアもまた、自分の言葉の意味に気づいたのだろう。


 頬を赤く染め、慌てて視線を落とした。


「……あ、あの」


 春風が、二人の間を吹き抜ける。


 アルジェンは、彼女の手を握ったまま、しばらく考えていた。


 やがて。


「……そう聞こえたのなら」


 静かな声がした。


 リディアが、顔を上げる。


 アルジェンは、少しだけ照れくさそうに微笑んだ。


「……私も、なぜ否定できないのか考えておこう」


「……まあ!」


 リディアは、目を丸くした。


 そして、とうとう小さく笑い出した。


「ふふ……アルジェン様ったら!」


 アルジェンも、つられるように笑みをこぼす。


 けれど、その胸の内には、確かな想いがあった。


 否定できない。


 それは、冗談で片づけられる言葉ではなかった。


 彼女と、これから先も共にいたい。


 その願いは、もう随分とはっきりとした形を持ち始めていた。


 リディアは、笑みを落ち着かせると、彼の手を優しく握り返した。


「……いつか」


 その声は、先ほどよりも少しだけ静かだった。


「いつか、そのお気持ちを、改めて聞かせてくださいませ」


 アルジェンが、彼女を見つめる。


 リディアは、少しだけ目を伏せた。


「そのときには……私も、あなたにお伝えしたい大切なお話がございますの」


 その言葉には、甘い期待と、かすかな緊張が入り混じっていた。


 アルジェンは、ゆっくりと頷いた。


「……ああ」


 その声は、低く穏やかだった。


「そのときが来たら、きちんと言葉にしよう」


 リディアが、顔を上げる。


「私の気持ちも、君に尋ねたいことも」


 彼は、少しだけ微笑んだ。


「……今よりは、うまく伝えられるようになっていたいものだな」


 リディアは、くすりと笑った。


「ふふ……楽しみにしておりますわ」


 アルジェンは、彼女の手を優しく握り返した。


 今は、まだ。


 その先にある約束を、急いで形にする必要はない。


 彼女には、いつか語ろうとしていることがある。


 自分にも、まだ言葉にしきれていない想いがある。


 それならば。


 今日という日を、もう少し大切に重ねていこう。


 そう思った。


「……さて」


 アルジェンは、ふと空を見上げた。


「少し風が冷たくなってきたな」


 リディアも、春風に揺れる木々へ目を向けた。


「……そうですわね」


「屋敷へ戻ろうか」


 彼は、穏やかに微笑んだ。


「今日は厨房で、春の果実を使った菓子を用意しているそうだ」


 リディアの表情が、ぱっと明るくなった。


「まあ、春の果実ですの?」


「ああ。料理長が、茶の時間に出したいと言っていた」


「それは楽しみですわ!」


 アルジェンは、少しだけ口元を緩めた。


「……私も、君の感想を聞くのが楽しみだ」


 リディアは、くすりと笑った。


「ふふ……では、たくさん感想をお伝えしなくてはなりませんわね」


「期待している」


 二人は、並んで屋敷へと歩き出した。


 春風が、庭園の花々を揺らしている。


 その足元には、雪解け水が小さな流れを作っていた。


 かつて。


 リディアは、春が来ることを恐れていた。


 雪が解ければ、ここを去らなければならないと思っていたからだ。


 けれど今は。


 春が来たことを、心から喜んでいる。


 そして。


 この先に訪れる季節を、彼と共に迎えたいと願っている。


 ――春も、夏も、秋も、冬も。


 その先も、ずっと。


 リディアは、そっとアルジェンの腕に寄り添った。


 アルジェンもまた、彼女の歩幅に合わせてゆっくりと歩いていた。


 白銀の国に、春が訪れていた。


 それは、二人にとっての新しい始まりだった。


 *


 遠い南方。


 ルミエラ王国の一室で、エドガーは机の引き出しを開けていた。


 中には、息子から届いた一通の手紙がある。


 何度読み返しても、書かれていることは変わらない。


 北方の伯爵領。


 輸送計画。


 そして、屋敷に滞在する若い女性。


 それだけだ。


 名も、年齢も、容姿も分からない。


 確かめようのない話だった。


 エドガーは、静かに目を閉じた。


 もしも、ただの偶然なら。


 それでよい。


 けれど、もしも。


 彼は、そこで思考を止めた。


 まだ、何も確かではない。


 軽率に動けば、かえって誰かを危険に晒すかもしれなかった。


「……どうか」


 誰に向けたものとも知れない言葉が、唇からこぼれた。


「……ご無事で」


 春風が、窓辺の薄いカーテンを揺らした。


 エドガーは、手紙をそっと引き出しへ戻した。


 そして、鍵をかけた。


 遠く離れた北方では、今まさに新しい日々を選んだ二人がいる。


 その穏やかな時間に、南方の過去が再び触れる日は来るのだろうか。


 まだ、誰にも分からない。


 ただ、春風だけが。


 国境を越え、静かに吹き続けていた。

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