第八章 春風に潜む追憶 前編
春が来れば、旅立つつもりだった。
あの冬の日。
見知らぬ雪原で倒れ、目を覚ました先の屋敷で、リディアは確かにそう考えていた。
雪が解けるまで。
街道が開くまで。
再び一人で歩き出せるようになるまで。
ヴォルフェルト伯爵の厚意に甘えるのは、それまでのことだと。
けれど今、ニヴェリスには春が訪れていた。
屋根から落ちる雪解け水は、もう氷の雫ではない。
庭園には小さな花が咲き、街道には各地へ向かう商隊の姿が戻ってきた。
旅立つための道は、すでに開かれている。
それなのに。
リディアは今も、ヴォルフェルト伯爵邸にいた。
そして、そのことを。
以前の自分では考えられないほど、幸せに思っていた。
*
エルデンフェルト王国から南方へ向けて、一通の手紙が運ばれていた。
差出人は、ルーカス・フォン・ヴァイスベルク。
宛先は、父エドガー・フォン・ヴァイスベルク。
幾つもの宿場を経由した封書は、春の交易品とともにルミエラ王国へと届けられた。
そこに記されていたのは、大学での近況や、父の健康を案じる言葉。
そして、北方の交易に関する、ささやかな話題だった。
冬の輸送計画を見直したことで、ヴォルフェルト伯爵領の工房が再び動き始めたこと。
その発案には、伯爵邸に滞在する若い女性が関わっていたらしいこと。
ルーカスにとっては、学問への興味から書き添えた、何気ない一節にすぎなかった。
だが、その手紙がエドガーのもとへ届けられるまでには、通常の私信よりも長い時間がかかった。
宮廷の人事が変わって以来、かつて王宮に勤めていた者たちの周囲にも、落ち着かない空気が漂っていたからだ。
エドガーが封書を受け取ったのは、ある静かな午後のことだった。
彼は差出人の名を確かめると、ようやく表情を和らげた。
「……ルーカスか」
封を切り、懐かしい筆跡を目で追う。
大学の講義は順調らしい。
春の王都は賑わい、商館には各国の交易品が集まっているという。
父の身体を気遣う言葉に、エドガーは小さく息を吐いた。
心配をかけている。
そのことは、十分に分かっていた。
けれど、今の自分には、息子へ書けないことがあまりにも多かった。
やがて、手紙の後半へ差しかかったとき。
エドガーの視線が、ある一節で止まった。
――ヴォルフェルト伯爵領。
――伯爵邸に滞在する、若い女性。
彼は、ゆっくりと手紙を机へ下ろした。
それだけでは、何も分からない。
北方の伯爵家に客人が滞在していることなど、決して珍しくはない。
交易に明るい女性も、世の中には大勢いる。
偶然に違いない。
そう考える方が、よほど自然だった。
それでも。
エドガーは、もう一度その一節を読み返した。
「……ヴォルフェルト伯爵、か」
窓の外では、春風が庭木を揺らしていた。
彼はしばらく考え込んだのち、手紙を丁寧に折り畳んだ。
息子の何気ない知らせを、確かめるべきなのだろうか。
それとも、ただの偶然として胸にしまっておくべきなのだろうか。
今は、判断できなかった。
エドガーは、机の引き出しへ手紙を収めた。
その動きは、ひどく慎重だった。
*
それから数週間が過ぎた。
ニヴェリス王国、ヴォルフェルト伯爵邸。
春の交易が本格化するにつれ、領内の商人たちから、気になる報告が届き始めていた。
ルミエラ方面の通商手続きが、以前より煩雑になっているという。
追加の証明書。
長引く審査。
一部の品目に課された、新たな条件。
一つ一つは、交易管理の変更として説明できるものだった。
だが、複数の変更が同じ時期に重なれば、商人たちの負担は無視できなくなる。
その日の午後。
ギルバートは数枚の報告書を手に、アルジェンの執務室へ入った。
「アルジェン。春の交易について、少々気になる報告が集まっている」
アルジェンは、鉱山の産出量を確認していた手を止めた。
旧友の声には、いつもの軽やかさがなかった。
「……ルミエラ方面か」
「ああ」
ギルバートは、机へ書類を置いた。
「各地の商人から、似たような報告が届いている」
アルジェンは、素早く目を通した。
審査の長期化。
証明書の追加。
品目ごとの条件変更。
「……春の交易が始まったばかりだというのに、厄介なことだな」
彼は、静かに呟いた。
「現場の商人たちは、どう対応している?」
「今のところは、追加書類を揃えている。だが、審査がさらに長引けば、仕入れにも影響が出るだろう」
アルジェンは、報告書を机へ置いた。
先日、ようやく動き始めた工房。
冬の間、材料不足に苦しんでいた職人たち。
春の交易は、彼らにとって再出発の機会でもある。
その流れを、簡単に止めるわけにはいかなかった。
「……ギルバート」
「何だ?」
「この件は、セレスティーヌにも共有しておけ」
アルジェンは、冷静に続けた。
「エルデンフェルト側にも同様の変更が及んでいるのか、確認したい」
「承知した」
「それから、領内の商人たちには、現時点で確認できている手続きを整理して知らせよう。不確かな噂で混乱が広がるのは避けたい」
ギルバートは、静かに頷いた。
「……慎重に動くべき、ということだな」
「ああ」
アルジェンは、報告書へ視線を戻した。
「制度変更の目的も、今後の影響も、まだ分からん。憶測で動けば、かえって状況を悪くする」
そして、続ける。
「ただし、備えは必要だ。影響を受けそうな品目と在庫量を確認しておこう。代わりの調達先があるものについても、調べておいてくれ」
「分かった」
ギルバートは書類をまとめた。
だが、扉へ向かう前に、ふと足を止めた。
「……アルジェン」
「何だ?」
「リディア様には、この件を?」
アルジェンは、少しだけ沈黙した。
ルミエラ。
その国の名を耳にするたび、リディアの表情がわずかに曇ることを、彼は知っていた。
だが、理由までは知らない。
そして、それを本人の許しなく暴くつもりもなかった。
「……彼女が担当している集計に影響が出るなら、必要な変更は伝える」
アルジェンは、静かに答えた。
「だが、まだ裏づけのない政治的な噂まで、わざわざ聞かせる必要はないだろう」
「そうだな」
「何か確かなことが分かれば、そのときに判断しよう」
ギルバートは、旧友の顔を見つめた。
「……心配しているんだな」
アルジェンは、わずかに眉を動かした。
「商人たちのことなら、当然だ」
「リディア様のことも、だろう?」
少しの沈黙。
それから、アルジェンは静かに息を吐いた。
「……ああ」
否定はしなかった。
「彼女には、穏やかな春を過ごしてほしい」
ギルバートは、穏やかに微笑んだ。
「私も同感だよ」
そして、いつもの調子で付け加える。
「もっとも、あなたまで心配事を一人で抱え込まないようにしてくれ」
「……分かっている」
「それなら結構」
ギルバートは、軽く一礼して執務室を後にした。
扉が閉まると、アルジェンは窓の外へ視線を向けた。
庭園の木々には、新しい葉が芽吹いている。
その向こうには、リディアが好んで散策する花壇があった。
春は、確かに訪れていた。
けれど、遠い国々の情勢まで穏やかになったわけではない。
アルジェンは、もう一度報告書へ目を落とした。
今、自分にできることを。
一つずつ、確実に進めていくしかなかった。
*
その数日後。
ヴォルフェルト伯爵邸の庭園には、柔らかな春の陽射しが降り注いでいた。
冬の間、雪に埋もれていた花壇には、小さな花々が咲き始めている。
淡い白。
薄紫。
そして、春の空を思わせる優しい青。
リディアは、その花々を眺めながら、静かに微笑んでいた。
「……ふふ」
しゃがみ込み、小さな花の葉をそっと撫でる。
冷たい風に耐え、雪の下で春を待ち続けた命。
その姿が、何だか愛おしかった。
彼女は、ゆっくりと顔を上げた。
庭園の向こうには、雪解けの進んだ山々が広がっている。
あの山の向こうに、南へ続く街道がある。
かつて、冬が終われば歩き出そうと思っていた道。
「……そういえば」
リディアは、誰にともなく呟いた。
「春になれば、ここを発つつもりでしたのね」
その声には、どこか懐かしさが滲んでいた。
あの頃は、ここに留まる理由などなかった。
ただ、生き延びることだけで精一杯だった。
誰にも迷惑をかけず。
誰の目にも留まらず。
どこか遠くで、静かに暮らせればそれでよいと思っていた。
けれど。
今は、違う。
この屋敷には、温かな食卓がある。
仕事を共にする人々がいる。
街には、笑顔で迎えてくれる人たちがいる。
そして。
何よりも、大切に思う人がいる。
リディアは、胸元へそっと手を添えた。
工房でアルジェンから贈られた小箱は、今では客室の机の上に置かれている。
朝の光を受けるたび、蓋に嵌め込まれたニヴェリア鉱石が淡く輝いた。
それを見るたびに、思い出す。
自分の喜ぶ顔が見たかったと、少し照れくさそうに笑ってくれた人。
――アルジェン様。
その名を心の中で呼んだとき。
背後から、聞き慣れた足音が近づいてきた。
「……リディア?」
彼女は、ぱっと顔を上げた。
「まあ、アルジェン様」
そこには、書斎から出てきたばかりのアルジェンが立っていた。
銀灰色の髪が、春風に揺れている。
灰青色の瞳は、彼女を見つけた途端、わずかに柔らかくなった。
「ここにいたのか」
「はい。お花がとても綺麗でしたので、少し眺めておりましたの」
リディアは、嬉しそうに微笑んだ。
「アルジェン様も、お散歩ですか?」
「ああ。少し仕事が片づいたのでな」
彼は、花壇へ視線を落とした。
「……すっかり春だな」
「ええ」
リディアは、静かに頷いた。
そして。
少しだけ悪戯っぽく首を傾げた。
「……アルジェン様」
「何だ?」
「私が、春になれば旅立つつもりだったこと……覚えていらっしゃいますか?」
アルジェンの表情が、わずかに変わった。
彼は、しばらく何も言わなかった。
その問いは、決して意地悪なものではなかった。
リディアの瞳には、柔らかな微笑みが宿っている。
それでも。
胸の奥に、冷たいものが走った。
春になれば、旅立つ。
確かに、そういう話だった。
雪原で倒れていた彼女を屋敷へ連れ帰ったとき、アルジェンは、雪解けまで安心して過ごせる場所を用意しようと考えた。
その先を決めるのは、彼女自身だと。
「……ああ」
彼は、静かに答えた。
「覚えている」
リディアが、彼を見上げる。
「春になれば、また旅立つつもりだと聞いていた」
アルジェンは、花壇へ視線を落とした。
小さな花々が、風に揺れている。
「……だが、君はまだここにいる」
彼は、ゆっくりとリディアを見つめた。
「それが、私にはとても嬉しい」
リディアの頬が、ほんのりと赤く染まった。
アルジェンは、少しだけ困ったように微笑んだ。
「……正直に言えば」
そこで、一度言葉を切る。
「君が旅立つ日を考えると、今でも胸が落ち着かなくなる」
リディアは、驚いたように目を瞬かせた。
「……アルジェン様も、そのように思われるのですか?」
「ああ」
彼は、静かに頷いた。
「もし君が荷物をまとめていたら、私は……」
そこで、言葉が止まった。
引き留めただろうか。
それとも、何も言わずに送り出しただろうか。
アルジェンは、少し考えてから首を振った。
「……いや。きっと、残ってほしいと伝えただろうな」
リディアの瞳が、かすかに揺れた。
「もちろん、君が旅立つと決めたなら、その意思は尊重したい」
彼は、穏やかに続けた。
「だが、何も言わずに見送れるほど、私はもう平静ではいられないらしい」
春風が、二人の間を吹き抜けた。
花弁が一枚、石畳の上へ舞い落ちる。
アルジェンは、彼女をまっすぐに見つめた。
「……私は、君に残ってほしいと思っている」
その声には、飾り気がなかった。
「領主としてではなく、私個人の願いだ」
リディアは、しばらく何も言えなかった。
やがて、少しだけ悪戯っぽく目を細める。
「……ふふ」
「……何だ?」
「アルジェン様ったら」
リディアは、嬉しそうに微笑んだ。
「そんなに私を引き留めたかったのですか?」
アルジェンは、わずかに眉を上げた。
だが、否定しなかった。
「……どうやら、そうらしい」
そのあまりに素直な返事に、リディアは思わず笑みを深めた。
「まあ……!」
彼女は、そっとアルジェンの手へ自分の手を重ねた。
「……確かに、春になれば旅立つつもりでした」
その声は、穏やかだった。
「あの頃の私には、ここに留まる理由がありませんでしたもの」
彼女は、咲き始めた花々へ視線を向けた。
遠い冬の日を思い出す。
見知らぬ土地。
降りしきる雪。
明日さえ、確かではなかった時間。
あの頃は、何かを願うことすら怖かった。
けれど。
今は。
「……でも、今は違いますわ」
リディアは、ゆっくりと顔を上げた。
「この国の人々も、この屋敷も……」
そして、少しだけ頬を染める。
「……あなたのことも」
琥珀色の瞳が、まっすぐにアルジェンを見つめた。
「すべてが、私にとって大切なものになりました」
アルジェンの胸が、静かに熱くなった。
リディアは、彼の手を優しく握り返した。
「ですから、今はもう、旅立つつもりはありません」
その声には、迷いがなかった。
「……私自身が、ここにいたいのです」
アルジェンは、息を呑んだ。
彼女が、ここにいたい。
誰かに命じられたからではない。
行く場所がないからでもない。
自分自身の意思で。
この場所を選んでくれた。
そのことが、何より嬉しかった。
「……リディア」
ようやく名を呼ぶと、彼女は少し照れくさそうに微笑んだ。
「……でも」
そして、そっと首を傾げる。
「私がこれからもおそばにいて、本当によろしいのですか?」
アルジェンは、思わず小さく息を吐いた。
それから、彼女の手を静かに包み込んだ。
「……それは、私の方が尋ねたいくらいだ」
「まあ?」
「私は領主だ。仕事も多いし、急な用事で約束を変えなければならない日もある」
アルジェンは、少し困ったように微笑んだ。
「それに……こういうことを伝えるのも、あまり得意ではない」
リディアは、目を瞬かせた。
「……こういうこと、ですか?」
「……君に、そばにいてほしいということだ」
その言葉に、リディアの頬が赤く染まった。
アルジェン自身も、わずかに視線を逸らす。
しばらくして。
リディアは、くすりと笑った。
「……ふふ」
「……何かおかしいか?」
「いいえ」
彼女は、嬉しそうに首を振った。
「ただ、アルジェン様は本当に……」
そこで、少しだけ言葉を探す。
「……不器用でいらっしゃるのですね」
アルジェンは、何とも言えない顔になった。
「……否定はできんな」
リディアは、とうとう声を立てて笑った。
その笑顔を見て、アルジェンもまた、静かに口元を緩めた。
やがて、リディアは笑みを落ち着かせると、彼の手を両手で包み込んだ。
「……アルジェン様」
「何だ?」
「私には、まだお話しできていないことがございます」
その声は、先ほどまでより少しだけ静かだった。
アルジェンの表情が、穏やかなものへ変わる。
「……ああ」
「いつか、きちんとお伝えしなければならないと思っております」
リディアは、一度だけ目を伏せた。
「けれど……今はまだ、勇気が足りませんの」
春風が、二人の間を通り抜けた。
アルジェンは、彼女の言葉を遮らなかった。
やがて、静かに口を開く。
「……無理に話さなくていい」
リディアが、顔を上げる。
「君が話したいと思ったときに、聞かせてくれ」
彼は、握った手を優しく包み直した。
「ただ……何か困っていることや、危険が迫っていることがあるなら、それは教えてほしい」
その声には、領主としての冷静さも滲んでいた。
「事情のすべてを知らなくとも、できることはあるはずだ」
リディアの瞳が、かすかに揺れた。
アルジェンは、続ける。
「私は、君の知らない部分まで理解しているとは言えない」
彼は、彼女をまっすぐに見つめた。
「だが、これまで共に過ごしてきた日々は、確かに私の中にある」
仕事に向き合う真剣な眼差し。
人々の暮らしを思いやる優しさ。
ときには自分の働きすぎをたしなめ、いたずらっぽく笑う姿。
そして、何かを恐れながらも、少しずつ前へ進もうとする強さ。
「……私は、今ここにいる君を大切に思っている」
アルジェンは、静かに告げた。
「それだけは、覚えていてほしい」
リディアは、何も言えなかった。
胸の奥が、きゅっと締めつけられる。
彼は、何も知らない。
自分が何を恐れているのか。
何を失い、何から目を背けているのか。
それでも。
知らないことを理由に、目の前の自分を疑おうとはしない。
その温もりが、胸の奥へ深く沁み込んでいく。
「……アルジェン様」
リディアは、静かに微笑んだ。
「ありがとうございます」
その琥珀色の瞳には、ほんの少しだけ涙が浮かんでいた。
「いつか必ず、私自身の言葉でお話しいたします」
そして。
春の光を受けて、柔らかく微笑む。
「……それまでは、もう少しだけ」
彼の手を、そっと握り返す。
「こうして、あなたのおそばにいさせてくださいませ」
アルジェンは、静かに頷いた。
「……ああ」
その声には、迷いがなかった。
「私も、そう願っている」
リディアは、安堵したように息を吐いた。
そして、ふと思い出したように目を細める。
「……それに」
「何だ?」
「先ほど、こういうことを伝えるのが苦手だと仰いましたけれど……」
リディアは、少し悪戯っぽく微笑んだ。
「私には、十分すぎるほど伝わっておりますわ」
アルジェンは、わずかに目を見開いた。
「……そうか?」
「ええ」
彼女は、嬉しそうに頷いた。
「工房で選んでくださった、あの小箱も」
その声が、少しだけ柔らかくなる。
「私の喜ぶ顔が見たかったと、仰ってくださったことも」
そして、彼を見上げた。
「……今、こうして私の手を握ってくださっていることも」
アルジェンの胸が、静かに高鳴った。
「全部、ちゃんと伝わっております」
リディアは、照れくさそうに微笑んだ。
「ですから……どうか、ご心配なさらないでくださいませ」
アルジェンは、しばらく何も言えなかった。
やがて、静かに息を吐く。
「……それなら、よかった」
その返事があまりに真面目だったので、リディアはまた小さく笑ってしまった。
*
しばらくの間、二人は庭園の小道を歩いた。
花壇には、小さな春の花が咲き始めている。
遠くの木々からは、鳥のさえずりが聞こえてきた。
リディアは、アルジェンの腕へそっと手を添えた。
「……アルジェン様」
「何だ?」
「春が来たら、ここを去るつもりだった私が……」
彼女は、少しだけ笑った。
「今では、夏が来るのを楽しみにしているのですから、不思議ですわね」
アルジェンは、穏やかに微笑んだ。
「以前、滝でも話したな」
「ええ」
リディアは、嬉しそうに頷いた。
「夏の滝も、見せてくださるのでしょう?」
「もちろんだ」
彼は、少しだけ口元を緩めた。
「約束したからな」
「……ふふ。覚えておりますわ」
そして、少しだけ真剣な表情になる。
「春も、夏も、秋も、冬も」
リディアは、ゆっくりと彼を見上げた。
「これからも、あなたと一緒に、いくつもの季節を迎えられたら嬉しいです」
アルジェンは、足を止めた。
その言葉が、胸の奥へ深く響いた。
春。
夏。
秋。
冬。
それは、これまで幾度となく迎えてきた季節だった。
領地の収穫を確かめ、冬の備蓄を整え、雪解けの被害を調べる。
そんな仕事とともに、毎年巡ってくるものだった。
けれど、今は。
彼女と共に過ごす未来として、温かく胸に浮かんでくる。
「……私もだ」
アルジェンは、静かに答えた。
「君と、これからの季節を迎えたい」
リディアの頬が、ほんのりと赤く染まった。
彼は、少しだけ言葉を探した。
「……春が過ぎても、夏が来ても」
そして、まっすぐに彼女を見つめる。
「その先も、君がそばにいてくれたら嬉しい」
リディアは、息を呑んだ。
冬のあの日には、想像もできなかった未来。
春が来れば旅立つつもりだった自分に。
この人は、その先も共にいてほしいと願ってくれている。
胸の奥が、温かくなる。
「……アルジェン様」
リディアは、少しだけ悪戯っぽく目を細めた。
「それではまるで、一生おそばにいてほしいと仰っているようですわ」
アルジェンの瞳が、わずかに見開かれた。
「…………」
今度ばかりは、すぐに返事ができなかった。
リディアもまた、自分の言葉の意味に気づいたのだろう。
頬を赤く染め、慌てて視線を落とした。
「……あ、あの」
春風が、二人の間を吹き抜ける。
アルジェンは、彼女の手を握ったまま、しばらく考えていた。
やがて。
「……そう聞こえたのなら」
静かな声がした。
リディアが、顔を上げる。
アルジェンは、少しだけ照れくさそうに微笑んだ。
「……私も、なぜ否定できないのか考えておこう」
「……まあ!」
リディアは、目を丸くした。
そして、とうとう小さく笑い出した。
「ふふ……アルジェン様ったら!」
アルジェンも、つられるように笑みをこぼす。
けれど、その胸の内には、確かな想いがあった。
否定できない。
それは、冗談で片づけられる言葉ではなかった。
彼女と、これから先も共にいたい。
その願いは、もう随分とはっきりとした形を持ち始めていた。
リディアは、笑みを落ち着かせると、彼の手を優しく握り返した。
「……いつか」
その声は、先ほどよりも少しだけ静かだった。
「いつか、そのお気持ちを、改めて聞かせてくださいませ」
アルジェンが、彼女を見つめる。
リディアは、少しだけ目を伏せた。
「そのときには……私も、あなたにお伝えしたい大切なお話がございますの」
その言葉には、甘い期待と、かすかな緊張が入り混じっていた。
アルジェンは、ゆっくりと頷いた。
「……ああ」
その声は、低く穏やかだった。
「そのときが来たら、きちんと言葉にしよう」
リディアが、顔を上げる。
「私の気持ちも、君に尋ねたいことも」
彼は、少しだけ微笑んだ。
「……今よりは、うまく伝えられるようになっていたいものだな」
リディアは、くすりと笑った。
「ふふ……楽しみにしておりますわ」
アルジェンは、彼女の手を優しく握り返した。
今は、まだ。
その先にある約束を、急いで形にする必要はない。
彼女には、いつか語ろうとしていることがある。
自分にも、まだ言葉にしきれていない想いがある。
それならば。
今日という日を、もう少し大切に重ねていこう。
そう思った。
「……さて」
アルジェンは、ふと空を見上げた。
「少し風が冷たくなってきたな」
リディアも、春風に揺れる木々へ目を向けた。
「……そうですわね」
「屋敷へ戻ろうか」
彼は、穏やかに微笑んだ。
「今日は厨房で、春の果実を使った菓子を用意しているそうだ」
リディアの表情が、ぱっと明るくなった。
「まあ、春の果実ですの?」
「ああ。料理長が、茶の時間に出したいと言っていた」
「それは楽しみですわ!」
アルジェンは、少しだけ口元を緩めた。
「……私も、君の感想を聞くのが楽しみだ」
リディアは、くすりと笑った。
「ふふ……では、たくさん感想をお伝えしなくてはなりませんわね」
「期待している」
二人は、並んで屋敷へと歩き出した。
春風が、庭園の花々を揺らしている。
その足元には、雪解け水が小さな流れを作っていた。
かつて。
リディアは、春が来ることを恐れていた。
雪が解ければ、ここを去らなければならないと思っていたからだ。
けれど今は。
春が来たことを、心から喜んでいる。
そして。
この先に訪れる季節を、彼と共に迎えたいと願っている。
――春も、夏も、秋も、冬も。
その先も、ずっと。
リディアは、そっとアルジェンの腕に寄り添った。
アルジェンもまた、彼女の歩幅に合わせてゆっくりと歩いていた。
白銀の国に、春が訪れていた。
それは、二人にとっての新しい始まりだった。
*
遠い南方。
ルミエラ王国の一室で、エドガーは机の引き出しを開けていた。
中には、息子から届いた一通の手紙がある。
何度読み返しても、書かれていることは変わらない。
北方の伯爵領。
輸送計画。
そして、屋敷に滞在する若い女性。
それだけだ。
名も、年齢も、容姿も分からない。
確かめようのない話だった。
エドガーは、静かに目を閉じた。
もしも、ただの偶然なら。
それでよい。
けれど、もしも。
彼は、そこで思考を止めた。
まだ、何も確かではない。
軽率に動けば、かえって誰かを危険に晒すかもしれなかった。
「……どうか」
誰に向けたものとも知れない言葉が、唇からこぼれた。
「……ご無事で」
春風が、窓辺の薄いカーテンを揺らした。
エドガーは、手紙をそっと引き出しへ戻した。
そして、鍵をかけた。
遠く離れた北方では、今まさに新しい日々を選んだ二人がいる。
その穏やかな時間に、南方の過去が再び触れる日は来るのだろうか。
まだ、誰にも分からない。
ただ、春風だけが。
国境を越え、静かに吹き続けていた。




