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第七章 白銀の大地に芽吹くもの 後編

 約束とは、不思議なものだった。


 たった一言で、何でもない明日が待ち遠しくなることがある。


 明日も、明後日も。


 一緒にお茶を飲もう。


 華やかな舞踏会で交わす誓いでもなければ、宝石を贈るような特別な約束でもない。


 けれど、リディアにとっては、それが何よりも大切なものになっていた。


 あの日から、二人は仕事の合間に、短い時間でも茶を飲むようになった。


 ときには書斎で。


 ときには暖炉のある談話室で。


 忙しい日には、互いの予定を確かめ、ほんの一杯だけを楽しむこともあった。


 アルジェンは相変わらず領地の仕事に追われていたし、リディアもまた、任された資料の整理に熱心だった。


 それでも、二人で過ごす時間は少しずつ増えていた。


 誰かと明日を約束すること。


 そして、その約束が当たり前のように守られること。


 それが、こんなにも心を温かくするものだとは。


 リディアは、以前の自分なら想像もしなかっただろうと思った。


 そんなある日の午後。


 ヴォルフェルト伯爵邸に、輸送ギルドから新たな報告が届けられた。


 *


「……伯爵。先日の試験輸送について、続報が届いております」


 数枚の書類を手に、ギルバートが執務室へ入ってきた。


 アルジェンは、手元の記録から顔を上げる。


「何か問題が起きたか?」


「いえ。むしろ、その逆です」


 ギルバートは、わずかに口元を緩めた。


「試験運用の結果を受け、輸送ギルドから本格運用に向けた契約案が提出されました。帰路の積載量や荷役の費用も、概ね見込みの範囲に収まっています」


「そうか」


 アルジェンは報告書を受け取り、頁をめくった。


 鉱山から出荷されるニヴェリア鉱石。


 その輸送を終えた荷車の帰路を利用し、生活物資や工房の原材料を運び込む。


 リディアが提案した仕組みは、試験運用で一定の成果を上げていた。


 ただし、冬季の輸送には常に危険が伴う。


 積荷が増えれば馬への負担も変わり、雪道では荷の重量によって走行できる区間も限られる。


 護衛や御者の休息、荷役に必要な人手も考慮しなければならない。


 そのため、アルジェンは当初から、費用の削減だけを理由に計画を急がせるつもりはなかった。


「……安全基準は?」


「従来の規定を維持します。積載量についても、冬季の上限を超えない条件です」


「それならいい」


 アルジェンは頷いた。


 そして、次の頁へ視線を移す。


 そこには、輸送計画の成果とは別に、いくつかの申し出が記されていた。


「……工房からの相談か?」


「はい」


 ギルバートは、机上の書類を指し示した。


「これまで原材料の不足で操業を縮小していた村の工房から、調達再開の希望が寄せられています」


 木材の加工に必要な油や金具。


 織物に用いる糸や染料。


 工芸品を仕上げるための細かな資材。


 それらは、一つ一つなら決して大量の荷物ではない。


 だが、冬の間に新たな輸送便を手配するには、費用がかかりすぎていた。


 そのため、多くの工房が仕事を減らし、春を待つほかなかったのだ。


「帰路の空き容量を活用できれば、少量ずつでも運び込める見込みです」


 ギルバートは続けた。


「すでに手元の材料で仕事を再開した工房もあるそうです。追加の資材が届けば、操業を安定させられるでしょう」


 アルジェンは、しばらく報告書を見つめていた。


 輸送費の削減。


 物資の安定供給。


 そして、工房の操業再開。


 それぞれは別の問題に見えていた。


 けれど、一台の荷車の帰り道を見直すことで、少しずつ結びつき始めている。


「……なるほど」


 彼は静かに呟いた。


「冬の間、仕事を減らさずに済む者が増えるわけか」


「ええ。もっとも、まだすべての工房が再開できるわけではありませんが」


「それでも、大きな前進だ」


 アルジェンは、書類を机へ置いた。


 リディアが初めてこの案を持ち出したとき、彼女は費用の削減だけを考えていたわけではなかった。


 村の人々の暮らし。


 冬を越すために必要な物資。


 その先にある、春の生活。


 彼女の視線は、いつも数字の向こうにいる人々へ向けられていた。


「……彼女が聞いたら、喜ぶだろうな」


 思わず漏れた言葉に、ギルバートが顔を上げた。


「リディア様ですか?」


「ああ」


 アルジェンは、報告書の工房に関する項目を指でなぞった。


「費用がいくら減ったかという話より、職人たちが仕事を再開できることを喜ぶだろう」


 ギルバートは、小さく笑った。


「……ええ。私もそう思います」


 アルジェンは、契約案をもう一度確認した。


「本格運用については、荷車ごとの積載条件を明確にしたうえで進めよう。悪天候時の運行停止も、従来どおり徹底する」


「承知いたしました」


「それから、工房への資材配分は、必要量を確認してからだ。希望が集中した場合に備え、調整役を置いてくれ」


「手配いたします」


 ギルバートが書類をまとめる。


 そのとき、アルジェンがふと口を開いた。


「……今夜、リディアにも知らせよう」


 その声音は、先ほどまでより少し柔らかかった。


「彼女自身が考えたことだ。結果を知る権利がある」


 ギルバートは、旧友の顔を見つめた。


 以前から、アルジェンは部下の功績を正当に評価する領主だった。


 成果を認め、必要な労をねぎらうことも忘れない。


 だが今は、それだけではないらしい。


 彼女が喜ぶ姿を、楽しみにしている。


 その気持ちが、実に分かりやすく表情に表れていた。


「……伯爵」


「何だ?」


「今夜のお茶の時間には、遅れないようになさってくださいね」


 アルジェンは、わずかに眉を寄せた。


「……言われるまでもない」


「それは何よりです」


 ギルバートは、涼しい顔で一礼した。


 そして扉へ向かいながら、小さく付け加える。


「以前は、夕食の時間をお知らせするだけでも一苦労でしたから」


「……ギルバート」


「失礼いたします」


 扉が閉まった。


 アルジェンは、しばらくその扉を見つめていた。


 それから、ふっと息を吐く。


「……まったく」


 呆れたような声だった。


 けれど、その口元には、かすかな笑みが残っていた。


 *


 その日の夕食後。


 談話室の暖炉には、赤々と火が灯っていた。


 窓の外では雪が降り続いている。


 リディアは、用意された紅茶の香りを楽しみながら、壁の時計へ目を向けた。


 もうすぐ、アルジェンが来る頃だろう。


 そう思った、ちょうどそのときだった。


 廊下から聞き慣れた足音が近づいてくる。


 扉が開き、銀灰色の髪の伯爵が姿を現した。


「……待たせたな」


「アルジェン様」


 リディアの表情が、ぱっと明るくなる。


「お疲れ様でございます。ちょうどお茶を淹れていただいたところですの」


「それは、いい頃合いだったな」


 アルジェンは微笑み、彼女の向かいへ腰を下ろした。


 その手には、薄い報告書が一冊あった。


 リディアは、興味深そうに首を傾げる。


「……何かございましたか?」


「ああ。君に知らせたいことがある」


 アルジェンは、報告書を差し出した。


「先日の輸送計画について、ギルドから続報が届いた」


「まあ……!」


 リディアは、早速頁を開いた。


 帰路の積載条件。


 本格運用に向けた契約案。


 そして、工房から寄せられた資材調達の希望。


 彼女は、丁寧に数字を追っていった。


 やがて。


「……まあ!」


 小さな声が弾んだ。


「それでは、工房の皆様も、少しずつお仕事を再開できるのですね?」


「ああ。まだ調整は必要だが、すでに動き始めた工房もあるそうだ」


「なんて嬉しいことでしょう……!」


 リディアは、報告書を胸元へ引き寄せるように持ち直した。


「冬の間も収入を得られれば、ご家族の暮らしも少しは楽になりますものね」


 そして、顔を上げる。


「春を迎えるための蓄えも、きっとできますわ」


 アルジェンは、その微笑みを見つめていた。


 やはり、思ったとおりだった。


 彼女は、自分の提案が評価されたことよりも、人々の暮らしが少しでも良くなることを喜んでいる。


「……リディア」


「はい?」


「君のおかげだ」


 その言葉に、彼女は少し驚いたように瞬きをした。


「そんな……私一人の力ではございませんわ」


 リディアは、慌てて首を振った。


「ギルバート様も、輸送ギルドの皆様も、それに荷車を動かしてくださった方々も……たくさんの方が協力してくださったからこそです」


「もちろんだ」


 アルジェンは頷いた。


「だが、最初に帰りの荷車へ目を向けたのは君だった」


 彼は、穏やかに続ける。


「皆が当然だと思っていた仕組みに、別の可能性を見つけた。その功績まで遠慮する必要はない」


 リディアは、しばらく彼を見つめていた。


 それから、少し照れくさそうに微笑む。


「……ありがとうございます」


 そして、報告書へ視線を落とした。


「私の考えが、この土地の皆様のお役に立てたのなら……それが何より嬉しいですわ」


 その声には、静かな誇りが宿っていた。


 アルジェンは、そんな彼女の表情を嬉しく思った。


 雪原で出会った頃のリディアは、何かを尋ねるたびに、どこか遠慮がちだった。


 自分に何ができるのか。


 ここにいてよいのか。


 そんな迷いを、時折その瞳に浮かべていた。


 けれど今は違う。


 彼女は、自分の考えを述べ、周囲と協力し、その成果を喜んでいる。


 この土地で過ごす日々の中に、自分の役割を見つけ始めていた。


「……そうだ」


 アルジェンは、ふと思い出したように口を開いた。


「工房の操業が安定したら、様子を見に行こうと思っている」


 リディアが、顔を上げる。


「工房へ、ですか?」


「ああ。以前、君も見てみたいと言っていただろう」


「……まあ!」


 琥珀色の瞳が、嬉しそうに輝いた。


「覚えていてくださったのですね」


「もちろんだ」


 アルジェンは、わずかに微笑む。


「君が関わった計画だ。実際にどんな変化があったのか、見てもらいたい」


「ぜひ、ご一緒させてくださいませ」


 リディアは、胸の前でそっと両手を重ねた。


「皆様がどのようなお品を作っていらっしゃるのか、今から楽しみですわ」


「……そうだな」


 アルジェンは、しばらくその笑顔を見つめていた。


 そして、何気ない調子で言った。


「そのとき、気に入った品があれば教えてくれ」


「まあ。どうしてですの?」


「……君への礼に、何か贈れればと思ってな」


 リディアは、目を丸くした。


 それから、小さく笑う。


「ふふ……お気持ちだけで十分ですわ」


「そうか?」


「はい」


 彼女は、穏やかに微笑んだ。


「こうして皆様のお役に立てたことも、アルジェン様とその喜びを分かち合えることも……私には、とても嬉しいことですもの」


 アルジェンは、すぐには答えられなかった。


 リディアは、少しだけ頬を染めながら続ける。


「それに、こうして一緒にお茶をいただく時間も……」


 彼女は、カップへ視線を落とした。


「今の私にとって、大切な幸せの一つなのですわ」


 暖炉の薪が、ぱちりと音を立てた。


 アルジェンは、彼女の言葉を胸の中で繰り返した。


 大切な幸せ。


 その中に、自分と過ごす時間がある。


 ただ、それだけのことが。


 なぜ、こんなにも嬉しいのだろう。


「……私もだ」


 気づけば、そう答えていた。


 リディアが顔を上げる。


 アルジェンは、少しだけ言葉を探した。


「以前は、一日の仕事が終われば、それで十分だと思っていた」


 彼は、静かに続ける。


「だが今は……君とこうして過ごす時間を、楽しみにしている」


 リディアの頬が、ほんのりと赤く染まった。


「……アルジェン様」


「君が笑っていると、私まで嬉しくなる」


 その言葉は、考えるより先に口をついて出た。


 アルジェン自身、少し驚いていた。


 だが、不思議と取り消したいとは思わなかった。


 リディアは、しばらく彼を見つめていた。


 やがて、そっとテーブルの上へ手を伸ばす。


 アルジェンの手のすぐそばで、その指先が止まった。


 彼は、彼女の手を見つめた。


 そして、ゆっくりと自分の手を重ねる。


 リディアは、離れなかった。


 むしろ、少しだけ指先を動かして、彼の手を握り返した。


「……私も、同じですわ」


 小さな声だった。


「アルジェン様がお傍にいてくださると、とても安心するのです」


 アルジェンの胸が、静かに高鳴った。


 彼女の手は、思っていたよりも温かかった。


 以前、凍りついた雪原で触れたときとは、まるで違う。


 あの頃は、ただ生きていてほしいと願っていた。


 今は。


 その手を、できるだけ長く握っていたいと思っている。


「……リディア」


 名を呼ぶと、彼女が顔を上げた。


 琥珀色の瞳が、まっすぐに彼を見つめる。


 アルジェンは、ほんの少しためらった。


 それから、静かに尋ねる。


「……一つ、許してもらえるだろうか」


「……はい?」


 リディアが、不思議そうに瞬きをする。


 アルジェンは、彼女の手をそっと持ち上げた。


 その仕草で、何をしようとしているのか伝わったのだろう。


 リディアの頬が、みるみる赤くなった。


 けれど、手を引くことはなかった。


 アルジェンは、彼女の様子を確かめるように一度視線を上げた。


 リディアが、小さく頷く。


 そして。


 彼は、その手の甲へ静かに唇を落とした。


「…………」


 ほんの一瞬だった。


 けれど、リディアには、暖炉の音さえ遠くなったように思えた。


 触れた場所から、温もりが広がっていく。


 アルジェンが顔を上げる。


 その灰青色の瞳にも、わずかな緊張が浮かんでいた。


「……驚かせたな」


 低い声だった。


 リディアは、しばらく何も言えなかった。


 それから、そっと首を振る。


「……いいえ」


 彼女は、口づけの余韻が残る手を見つめた。


 頬が熱い。


 胸が、落ち着かない。


 けれど、不思議と怖くはなかった。


「……少し、びっくりいたしましたけれど」


 そう言って、照れくさそうに微笑む。


「……嬉しかったですわ」


 アルジェンの瞳が、わずかに見開かれた。


「……そうか」


 短い返事だった。


 だが、その声音には隠しきれない安堵が滲んでいた。


 リディアは、もう一度彼の手を握り返した。


 その仕草に、アルジェンの胸が温かくなる。


 彼は、今度こそ穏やかに微笑んだ。


「……君と過ごす明日を、これからも楽しみにしていたい」


 リディアは、ゆっくりと頷いた。


「……はい」


 その微笑みには、少しだけ切なさが混じっていた。


 アルジェンは、それに気づいた。


 だが、何も尋ねなかった。


 彼女には、まだ語れないことがある。


 その事実を、彼は忘れていない。


 それでも。


 今、目の前で自分の手を握ってくれている彼女の気持ちは、確かなものだと思えた。


「……アルジェン様」


「何だ?」


 リディアは、少しためらってから口を開いた。


「私……いつか、お話ししなければならないことがございます」


 その声は、かすかに震えていた。


「けれど、今はまだ……」


 言葉が途切れる。


 アルジェンは、静かに首を振った。


「……急がなくていい」


 リディアが顔を上げる。


「君が話したいと思ったときに、聞かせてくれ」


 彼は、握った手を優しく包み直した。


「それまでは、今までどおりでいい」


 リディアの瞳が、かすかに揺れた。


「……今までどおり、ですか?」


「ああ」


 アルジェンは、暖炉へ視線を向けた。


「共に仕事をして、食事をして……こうして茶を飲む」


 そして、彼女へ微笑みかける。


「君がそれを望んでくれるなら、私は十分嬉しい」


 リディアは、しばらく彼を見つめていた。


 やがて、目を伏せる。


「……ありがとうございます」


 小さく息を吐き、もう一度顔を上げた。


「では、もう少しだけ……この時間を大切にさせてくださいませ」


「……ああ」


 アルジェンは頷いた。


「私も、そうしたい」


 暖炉の火が、静かに揺れていた。


 窓の外では、雪が降り続いている。


 けれど、二人の間には、確かな温もりがあった。


 アルジェンは、ようやく彼女の手を離した。


「……さて」


 リディアが顔を上げる。


「紅茶が冷めてしまったな」


 その言葉に、彼女は思わず笑った。


「……ふふ。本当ですわね」


 アルジェンも、小さく笑みをこぼす。


 そして、茶器へ手を伸ばした。


 いつもと変わらない、穏やかな夜だった。


 ただ一つ。


 二人の胸に、これまでとは少し違う温もりが残っていることを除けば。


 *


 それから、幾週間かが過ぎた。


 ニヴェリスの冬は、ゆっくりと終わりへ向かっていた。


 雪深い山々には、まだ白い峰が連なっている。


 けれど、日差しは少しずつ柔らかさを増し、屋根の軒先からは雪解け水が滴り始めていた。


 街道の雪も、日当たりのよい場所から緩みつつある。


 そして、ヴォルフェルト伯爵領では、冬季輸送計画の本格運用が進められていた。


 すべての問題が解決したわけではない。


 天候によって輸送が遅れる日もあれば、資材の不足が続く工房もあった。


 それでも、以前より安定して物資が届くようになったことで、少しずつ仕事を再開する人々が増えていた。


 そんな、ある晴れた朝。


 アルジェンとリディアは、以前から約束していた村の工房を訪れることになった。


 馬車の窓から春めいた景色を眺めながら、リディアは嬉しそうに微笑んだ。


「……ふふ。こうしてアルジェン様と村へ伺える日を、ずっと楽しみにしておりましたの」


「私もだ」


 アルジェンは、隣に座る彼女へ微笑み返した。


「工房の者たちも、君が来るのを楽しみにしているそうだ」


「まあ……!」


 リディアは、少し驚いたように目を瞬かせた。


「私を、ですか?」


「ああ。君の提案がきっかけで、仕事を再開できた者もいるからな」


「そんな……」


 彼女は、照れくさそうに微笑んだ。


「皆様が協力してくださったおかげですのに」


「その言葉は、きっと職人たちも同じように言うだろう」


 アルジェンは、少しだけ口元を緩めた。


「誰か一人の力ではない。だからこそ、皆で成果を喜べばいい」


 リディアは、嬉しそうに頷いた。


「……はい」


 やがて、馬車は村の広場へ到着した。


 軒先から雪解け水が滴り、通りには冬の間よりも多くの人々が行き交っている。


 工房の方からは、木を削る音が聞こえてきた。


 二人が馬車を降りると、入り口から白髪交じりの職人が姿を現した。


「これは、ヴォルフェルト伯爵閣下!」


 職人は、深々と頭を下げた。


「ようこそお越しくださいました」


「久しいな。仕事はどうだ?」


「おかげさまで、少しずつですが忙しくなってまいりました」


 職人は、嬉しそうに笑った。


 そして、リディアへ視線を向ける。


「……あなたがリディア様ですな?」


「はい。初めまして」


 リディアは、丁寧に一礼した。


「リディアと申します。本日は工房を拝見できると伺い、とても楽しみにしておりました」


 職人は、目を細めた。


「こちらこそ、お礼を申し上げたかったのです」


 彼は、工房の中へ視線を向けた。


「冬の間、材料が届かずに手を止めていた者もおりましたが……今は、こうして少しずつ仕事を再開できております」


 リディアは、嬉しそうに微笑んだ。


「……本当によかったですわ」


 その言葉には、心からの喜びが込められていた。


 職人は、にこやかに二人を招き入れた。


「さあ、どうぞ。まだ以前ほどの活気には戻っておりませんが、ぜひ私どもの仕事をご覧ください」


 *


 工房の中には、温かな木の香りが満ちていた。


 彫刻刀が木材を削る音。


 やすりが表面を滑る音。


 職人たちが交わす、短い会話。


 そのすべてが重なり合い、村の暮らしが再び動き始めたことを告げている。


 リディアは、目を輝かせながら工房を見回した。


「……まあ……!」


 棚には、大小さまざまな木箱や装飾品が並べられていた。


 雪の結晶を模した彫刻。


 繊細な模様が施された木製の小物。


 そして、ニヴェリア鉱石を嵌め込んだ、美しい小箱。


 どれも、職人たちが丹精込めて作り上げたものだった。


「……素敵ですわね」


 リディアは、思わず呟いた。


 アルジェンは、そんな彼女の横顔を見つめていた。


 領主として、何度も訪れた場所だった。


 見慣れた工芸品。


 よく知る職人たち。


 けれど、彼女と共に眺めるだけで、まるで違う景色に思える。


「……見てくれ、リディア」


 アルジェンは、棚に置かれた小箱を一つ手に取った。


「この嵌め込みの細工は、なかなか見事だ」


 リディアが、興味深そうに覗き込む。


 小箱の蓋には、淡い氷青色のニヴェリア鉱石が嵌め込まれていた。


 窓から差し込む陽光を受け、透き通るような光が木肌の上へ落ちる。


「……まあ」


 リディアは、小さく息を呑んだ。


「こんなにも繊細な細工ができるのですね」


「鉱石の形を整えるにも、木を削るにも、相応の技術が必要だ」


 アルジェンは、静かに説明した。


「この領地には、長年その技を受け継いできた職人たちがいる」


 リディアは、うっとりと小箱を見つめた。


 その横顔へ、春の陽射しが柔らかく差し込む。


 琥珀色の瞳。


 黒髪の艶。


 何かを見つけた子どものように、純粋に輝く表情。


 アルジェンは、ふと目を奪われた。


 ――……美しい。


 そう思った瞬間。


 彼は、わずかに視線を逸らした。


「……よい出来だな」


 少しだけ、声が硬くなっていた。


 その様子を見ていた工房長が、口元を緩める。


 だが、アルジェンは気づかないふりをした。


 リディアは、棚に並ぶ工芸品を一つ一つ眺めていた。


 そして。


 ふと、一つの小箱へ目を留めた。


 掌に収まるほどの、小さな木箱。


 丁寧に磨き上げられた深い色合いの木肌には、雪の結晶を思わせる繊細な模様が彫られている。


 その中心には、小粒のニヴェリア鉱石が嵌め込まれていた。


 決して大きな石ではない。


 けれど、春の陽射しを受けると、淡い氷青色の奥に澄んだ輝きが生まれる。


「……まあ……」


 リディアは、思わず息を呑んだ。


 そっと小箱を手に取る。


「なんて美しいのでしょう……」


 指先で、木箱の縁を優しくなぞった。


「こんなに小さくて繊細なのに、とても力強くて……」


 その声には、深い感動が滲んでいた。


「まるで、長い冬を越えて咲く花のようですわね」


 アルジェンは、その言葉に静かに目を細めた。


 冬を越えて咲く花。


 その例えが、妙に胸の奥へ響いた。


「……いい例えだ」


 彼は、穏やかに微笑んだ。


「この土地の者たちも、そうやって幾度もの冬を越えてきた」


 リディアは、しばらく小箱を見つめていた。


 やがて、アルジェンを振り返る。


「……アルジェン様」


「何だ?」


「私……この小箱が、とても好きですわ」


 アルジェンは、静かに頷いた。


「……そうか」


 そして、工房長へ視線を向けた。


「この小箱を譲ってもらえるだろうか」


 リディアが、目を丸くする。


「……え?」


 工房長は、嬉しそうに頷いた。


「もちろんでございます」


「代金は、ここで支払おう」


 アルジェンが告げると、工房長は慌てて手を振った。


「いえ、閣下。こちらは、ぜひお礼として……」


「それはありがたいが、仕事の成果には正当な対価を払いたい」


 アルジェンは、穏やかに首を振った。


「これからも、よい品を作り続けてくれ」


 工房長は、しばらく彼を見つめていた。


 それから、深く頭を下げた。


「……ありがたく頂戴いたします」


 代金を支払い、アルジェンはリディアへ向き直った。


 彼女は、まだ少し驚いたような顔をしている。


「……アルジェン様?」


「君に贈りたい」


 アルジェンは、静かに言った。


「以前、工房で気に入った品があれば教えてほしいと話しただろう」


 リディアは、目を瞬かせた。


「……覚えていてくださったのですね」


「もちろんだ」


 彼は、少しだけ微笑んだ。


「君がこの領地のためにしてくれたことへの礼もある」


 そして、ほんの少し言葉を切る。


「……だが」


 リディアが顔を上げた。


 アルジェンは、彼女の琥珀色の瞳をまっすぐに見つめた。


「正直に言えば、君が喜ぶ顔を見たかったのかもしれない」


 リディアは、息を呑んだ。


 頬が、じんわりと赤く染まる。


「……私の、喜ぶ顔を?」


「ああ」


 アルジェンは、少し照れくさそうに頷いた。


 リディアは、小箱をそっと胸元へ引き寄せた。


 そして。


 春の陽射しにも負けないほど、柔らかな微笑みを浮かべた。


「……ふふ」


 その声には、隠しきれない喜びが滲んでいた。


「でしたら、アルジェン様の願いは、もう叶っておりますわ」


 アルジェンが、目を瞬かせる。


 リディアは、小箱を大切そうに両手で包み込んだ。


「だって私、今……とても幸せですもの」


 その言葉に、アルジェンの胸が静かに熱くなった。


「……ありがとうございます」


 リディアは、彼をまっすぐに見つめた。


「ずっと、大切にいたしますわ」


 そして、少し照れくさそうに微笑む。


「……私にとって、かけがえのない宝物です」


 アルジェンは、何も言わなかった。


 ただ、その微笑みを胸の奥へ刻み込むように、静かに見つめていた。


 *


 工房を後にした二人は、村の通りをゆっくりと歩いていた。


 冬の終わりを告げる、柔らかな陽射し。


 軒先から滴る雪解け水。


 道端には、雪の隙間から顔を出した若草が揺れている。


 リディアは、小箱を大切に抱えながら、隣を歩くアルジェンを見上げた。


「……不思議ですわね」


 彼女は、静かに微笑んだ。


「初めてこの国に来た頃は、春を迎えられるなんて思ってもおりませんでしたのに」


 アルジェンは、黙って耳を傾けていた。


 リディアは、少しだけ目を細めた。


「今は、来年の春も、そのまた次の春も……」


 その声には、穏やかな願いが込められていた。


「こうして、この土地の景色を見られたらと思うのです」


 そして、少し照れたように続ける。


「……アルジェン様と、ご一緒に」


 アルジェンは、足を止めた。


 その言葉が、胸の奥へ深く響いた。


 来年の春。


 そのまた次の春。


 以前の彼にとって、それは領地経営の計画や備蓄の計算の中にある言葉だった。


 けれど、今は。


 彼女と共に過ごす未来として、温かく胸に浮かんでくる。


「……私も、同じことを考えていた」


 アルジェンは、静かに答えた。


 リディアが、ゆっくりと顔を上げる。


「この冬が始まったとき、雪原で君を見つけた瞬間のことは、今でも鮮明に覚えている」


 彼は、遠くの山並みへ視線を向けた。


「……あのときの私に、数か月後、こうして春の陽射しの中で君と笑い合っていると言っても、信じなかっただろうな」


 リディアは、静かに微笑んだ。


「……私も、きっと同じですわ」


 そして、小箱へ視線を落とす。


「こんなに大切なものが、また増えるなんて……思ってもおりませんでした」


 アルジェンは、彼女を見つめた。


 その言葉の奥にあるものを、彼はすべて知っているわけではない。


 けれど。


 今、彼女が新しい日々を大切に思ってくれていることは分かった。


「……リディア」


「はい?」


「もう一箇所、君に見せたい場所がある」


 彼女が、目を瞬かせた。


「……まあ?」


 アルジェンは、穏やかに微笑んだ。


「以前、一緒に訪れた滝を覚えているか?」


 その言葉に、リディアの表情がぱっと明るくなった。


「……もちろんですわ!」


 凍りついた滝。


 淡い氷青色の光。


 そして、そこで聞いた「雪の雫」の話。


 忘れられるはずがなかった。


「今なら、少し違う景色が見られるはずだ」


 アルジェンは、村の広場に停められた馬車へ視線を向けた。


「雪解けが進んでいる。滝の近くまで馬車で行ってみよう」


 リディアは、嬉しそうに頷いた。


「……ぜひ、ご一緒させてくださいませ」


 *


 馬車は、春の気配が漂い始めた山道を進んでいった。


 以前訪れた頃、道の両脇には厚い雪が積もり、木々の枝は白く凍りついていた。


 今は、日当たりのよい斜面から少しずつ地面が覗き始めている。


 枝先には、小さな芽が膨らんでいた。


 やがて、馬車は滝へ続く道の手前で止まった。


 アルジェンは、足元の状態を確かめてからリディアへ手を差し出す。


「……ここからは少し歩く。滑りやすい場所もあるから、気をつけてくれ」


「はい」


 リディアは、嬉しそうにその手を取った。


 小箱は馬車の中に大切に預け、二人は並んで木立の中へ足を踏み入れた。


 雪解け水が、細い流れとなって地面を潤している。


 遠くからは、小鳥の声が聞こえてきた。


 そして。


 木々の向こうから、澄んだ水音が響き始めた。


「……あら?」


 リディアは、思わず足を止めた。


 聞き覚えのある場所。


 けれど、以前とはまるで違う音だった。


 あの日は、厚い氷の奥から、かすかに聞こえるだけだった。


 今は。


 力強く、絶え間なく水が流れている。


「……もうすぐだ」


 アルジェンが、静かに微笑んだ。


 二人は、木々の間を抜けた。


 その瞬間。


「……まあ……!」


 リディアは、思わず息を呑んだ。


 そこには、以前アルジェンと訪れた滝があった。


 あのとき、厚い氷に閉ざされていた水は、今では陽光を受けてきらきらと輝きながら流れ落ちている。


 岩肌には、まだ冬の名残の氷がところどころ残っていた。


 けれど、その間を縫うように澄んだ水が流れ、細かな飛沫が春の光を受けて輝いていた。


 リディアは、しばらく言葉もなくその景色を見つめていた。


 ――あの日。


 ここで、アルジェンから「雪の雫」の話を聞いた。


 この土地で大切にされてきた、雫の形をした指輪。


 自分の根ざす場所を、誰かと分かち合うという意味。


 そして、誓いとは、交わすことよりも守り続けることの方が難しいのかもしれないと。


 自分は、そんなことを口にした。


 あの頃は、まだ怖かった。


 誰かを信じることが。


 未来を願うことが。


 大切なものを、もう一度失うことが。


 けれど今は。


 隣には、変わらずアルジェンがいる。


 リディアは、ゆっくりと顔を上げた。


「……同じ場所なのに」


 その声には、深い感慨が込められていた。


「こんなにも違って見えるのですね」


 アルジェンは、静かに頷いた。


「……そうだな」


 彼は、滝へ視線を向けた。


「冬の間も、氷の下では水が流れ続けていた」


 そして、ゆっくりと彼女を見つめる。


「目には見えなくとも、止まっていたわけではないのだな」


 リディアは、静かに微笑んだ。


「……はい」


 その言葉が、不思議と胸に響いた。


 アルジェンは、少し考えるように間を置いた。


「……以前、ここで話したことを覚えているか?」


「『雪の雫』のお話ですか?」


「ああ」


 アルジェンは頷いた。


「君は、誓いとは交わすことよりも、守り続けることの方が難しいのかもしれないと言っていたな」


 リディアの瞳が、かすかに揺れた。


「……覚えていてくださったのですね」


「忘れられなかった」


 アルジェンは、静かに答えた。


 リディアは、しばらく滝を見つめていた。


 あの日、何気なく口にした言葉。


 けれど、その奥には、簡単には消えない痛みがあった。


 アルジェンは、それ以上は尋ねなかった。


 ただ、彼女の隣に立っていた。


「……私は」


 やがて、彼が口を開いた。


「以前よりも、少しだけその言葉の意味が分かるようになった気がする」


 リディアが、顔を上げる。


「……アルジェン様?」


「約束とは、言葉にするだけでは足りないのだろう」


 彼は、静かに続けた。


「何でもない日々の中で、少しずつ守り続けていくものなのかもしれない」


 その声は、穏やかだった。


「……君と茶を飲む約束も、そうだ」


 リディアは、目を瞬かせた。


 そして、ふっと笑みをこぼす。


「……ふふ」


「何かおかしいことを言ったか?」


「いいえ」


 リディアは、首を振った。


「ただ……アルジェン様が、そのように考えてくださっていることが嬉しくて」


 彼女は、そっと手を差し出した。


 アルジェンは、その手を優しく握った。


「……私も、あの時間が大好きですわ」


 リディアは、滝へ視線を向ける。


「冬が終わっても、春が来ても……」


 そして、彼を見上げた。


「これからも、そんな小さな約束を重ねていけたら嬉しいです」


 アルジェンは、静かに微笑んだ。


「……ああ」


 握った手に、ほんの少しだけ力を込める。


「私も、そう願っている」


 滝の水音が、二人の傍らで響いていた。


 以前ここを訪れたとき。


 アルジェンは、彼女の過去を知らなかった。


 今も、それは変わらない。


 けれど、共に過ごした日々の分だけ、彼女のことを知るようになった。


 仕事に向き合う真剣な眼差し。


 人々の暮らしを思いやる優しさ。


 時折見せる、いたずらっぽい微笑み。


 そして、何かを恐れながらも、少しずつ前へ進もうとする強さ。


 そのすべてが、今の彼にとって大切だった。


 ――いつか。


 彼女と、もっと大きな約束を交わす日が来るのだろうか。


 ふと、そんな考えが胸をよぎった。


 アルジェンは、静かに滝へ視線を戻した。


 まだ、急ぐべきではない。


 彼女には、彼女の歩む速さがある。


 今はただ。


 隣に立ち、同じ景色を眺めていられることが嬉しかった。


「……リディア」


「はい?」


「また来よう」


 アルジェンは、穏やかに微笑んだ。


「夏になれば、ここも違う景色になる」


 リディアの表情が、ぱっと明るくなった。


「……まあ!」


 そして、嬉しそうに頷く。


「それは、ぜひ拝見したいですわ」


 彼女は、彼の手を握り返した。


「春も、夏も……この土地には、まだまだ知らない景色がたくさんございますものね」


「ああ」


 アルジェンは、静かに頷いた。


「少しずつ、案内しよう」


 リディアは、柔らかく微笑んだ。


「……楽しみにしております、アルジェン様」


 その声には、確かな幸福が宿っていた。


 *


 帰り道。


 二人は、ゆっくりと馬車へ続く道を歩いていた。


 雪解けでぬかるんだ場所では、アルジェンが自然に歩幅を緩める。


 リディアは、その腕へそっと手を添えた。


 木々の隙間から、春の陽射しが差し込んでいる。


「……今日は、本当に楽しかったですわ」


 リディアが、静かに言った。


「工房の皆様にもお会いできましたし、あの滝も……」


 少しだけ頬を染める。


「それに、素敵な贈り物までいただいてしまいました」


 アルジェンは、穏やかに微笑んだ。


「気に入ってくれてよかった」


「はい。屋敷へ戻ったら、どこに置こうか考えなくては」


 リディアは、楽しそうに続けた。


「窓辺も素敵ですけれど……やはり、机の上がよろしいかしら」


「君の好きな場所に置けばいい」


「……ふふ。そういたしますわ」


 その笑顔を見て、アルジェンの胸が温かくなった。


 自分が贈った小さな箱が、彼女の日々の中に置かれる。


 それだけのことが、妙に嬉しかった。


 やがて、馬車が見えてきた。


 アルジェンは、リディアへ手を差し出す。


「……さあ、帰ろう」


 彼女が、顔を上げた。


 アルジェンは、少しだけ微笑んだ。


「屋敷では、きっと温かい茶が待っている」


 リディアは、くすりと笑った。


「まあ……またお茶ですの?」


「嫌か?」


「いいえ、まさか」


 彼女は、差し出された手を取った。


「……とても楽しみですわ」


 そして、少しだけ声を柔らかくする。


「帰りましょう、アルジェン様」


 アルジェンは、静かに頷いた。


「ああ。帰ろう、リディア」


 春の陽射しが、二人の背中を温かく照らしていた。


 白銀の国に、ようやく春が訪れようとしている。


 凍りついた大地は少しずつ解け、眠っていた草木が芽吹き始めていた。


 そして。


 二人の心にもまた、まだ名づけられていない想いが、静かに育ち始めていた。


 それは、華やかな誓いでも、劇的な約束でもない。


 明日も、同じ人と茶を飲みたい。


 その笑顔を、また見たい。


 そんな小さな願いの積み重ねだった。


 けれど、二人にとっては。


 何よりも大切な、春の始まりだった。


 *


 その数日後。


 エルデンフェルト王国、王都。


 雪解けを迎えた街には、各地から商人たちが集まり始めていた。


 冬の間に滞っていた荷が動き、商館には新しい契約書や輸送記録が次々と運び込まれている。


 その日、一人の青年が、馴染みの商館を訪れていた。


 ルーカス・フォン・ヴァイスベルク。


 二十二歳。


 エルデンフェルトで法学を学ぶ青年である。


 彼は、交易契約に関する資料を調べるため、以前からこの商館を利用していた。


 だが、最近は別の理由でも足を運ぶことが増えていた。


 遠く離れた故郷から、思うように知らせが届かないのだ。


 父、エドガー・フォン・ヴァイスベルク。


 長年ルミエラ王宮で務めを果たしてきたその人が、突然職を解かれたという。


 詳しい事情は分からない。


 父から届く手紙も、以前より短くなっていた。


 ルーカスは、胸の奥に小さな不安を抱えながら、商館の受付で資料を受け取った。


「ありがとうございます」


 礼を述べ、閲覧用の机へ向かおうとしたときだった。


 近くで話していた商人たちの声が、耳に届いた。


「……そういえば、北方の輸送計画の話は聞いたか?」


「ああ。ヴォルフェルト伯爵領の件だろう?」


 ルーカスは、何気なく足を止めた。


 ヴォルフェルト伯爵。


 その名には、聞き覚えがあった。


 ニヴェリス王国の北方に広い領地を持ち、冬の厳しさにも負けず領民の暮らしを支えているという伯爵。


 エルデンフェルトでも、交易に関わる者なら知らない者は少ない。


「鉱石を運んだ荷車の帰り道を利用して、生活物資を運び込む仕組みらしい」


「それで、冬の間に止まっていた工房まで動き始めたそうだ」


「へえ。あの雪深い土地で、よく考えたものだな」


 ルーカスは、少し興味を引かれた。


 輸送契約の見直し。


 冬季の積載条件。


 交易路の活用。


 いずれも、彼が学んでいる法や契約の仕組みと無関係ではない。


「……失礼」


 ルーカスは、商人たちへ声をかけた。


「今のお話、少し詳しく伺ってもよろしいでしょうか?」


 商人の一人が、顔を上げる。


「何だい、若いの。北方の商売に興味があるのか?」


「ええ。交易契約について学んでいるものですから」


 ルーカスは、穏やかに微笑んだ。


「なかなか興味深い仕組みだと思いまして」


「そうだろう?」


 商人は、嬉しそうに頷いた。


「実際、エルデンフェルト側にも輸送条件の照会が来ている。うまくいけば、春以降の取引にも使えるかもしれん」


 ルーカスは、興味深そうに耳を傾けた。


「……なるほど」


 彼は、少し考えるように頷く。


「その案は、伯爵ご自身が考えられたのですか?」


「いや、それがな」


 商人は、少し声を弾ませた。


「伯爵の屋敷に滞在している、若い女性がきっかけを作ったそうだ」


「……女性、ですか?」


 ルーカスは、思わず聞き返した。


「ああ。名前までは知らんが、ずいぶん数字に強い人らしい」


 別の商人が、話に加わる。


「工房の者たちも感謝していたよ。帰りの荷車に目をつけるとは、なかなか面白い発想だ」


「伯爵も、その女性の意見をよく取り入れているそうだ」


 ルーカスは、しばらく黙っていた。


 北方の伯爵邸。


 そこに滞在する、若い女性。


 数字に強く、交易の仕組みに明るい人物。


 それだけなら、珍しい話ではない。


 商家の出身かもしれないし、学問を修めた者かもしれない。


 けれど。


 なぜだろう。


 その話が、妙に心に残った。


「……その方について、ほかに何かご存じですか?」


 ルーカスは、できるだけ何気ない調子で尋ねた。


 商人は、首を傾げた。


「さてなあ。詳しいことまでは聞いていない」


 そして、少し笑った。


「ただ、工房の者たちはずいぶん喜んでいたよ。春になって、伯爵と一緒に様子を見に来てくれたそうだ」


「……そうですか」


 ルーカスは、静かに頷いた。


 それ以上、尋ねる理由はなかった。


 商人たちへ礼を述べ、彼は資料を抱えて机へ向かった。


 けれど、席に着いてからも、先ほどの話が頭から離れなかった。


 ――北方の伯爵邸に、若い女性。


 彼は、ふと父のことを思い出した。


 以前、父から届いた短い手紙。


 そこには、宮廷の情勢が落ち着かないことと、しばらく連絡が遅れるかもしれないことだけが記されていた。


 詳しい事情は、何も書かれていなかった。


 ルーカスは、その手紙を何度も読み返していた。


 父は、何かを隠している。


 そんな気がしてならなかった。


 もちろん、北方の伯爵邸に滞在する女性と、父の事情を結びつける根拠などない。


 ただの偶然だろう。


 そう思った。


 それでも。


 ルーカスは、机の上に置いた資料へ視線を落とした。


 交易路。


 輸送契約。


 そして、遠く離れた国々を結ぶ人と物の流れ。


 思いもよらない場所から、思いもよらない知らせが届くこともある。


 それは、商館へ通ううちに彼が学んだことの一つだった。


「……父上」


 ルーカスは、小さく呟いた。


 そして、しばらく考え込んだ後、鞄から便箋を取り出した。


 久しぶりに、父へ手紙を書こう。


 宮廷のことを、無理に聞き出すつもりはない。


 ただ、元気でいるのかを確かめたい。


 それから。


 最近耳にした、北方の少し興味深い話も添えてみよう。


 そう思った。


 ルーカスは、ペンを取り、ゆっくりと文字を綴り始めた。


 窓の外では、春の陽射しが石畳を照らしている。


 街には、交易を再開した商人たちの声が響いていた。


 その賑わいの中で、一通の手紙が書かれようとしている。


 それが、遠く離れた誰かの運命へつながっていくことを。


 今はまだ、ルーカス自身も知らなかった。

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