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第六章 春を拒む影 前編

 帰りの馬車は、雪に覆われた山道をゆっくりと下っていた。


 窓の外には、白く染まった針葉樹の森が続いている。


 枝に積もった雪が、ときおり風に吹かれて舞い落ちた。


 冬の陽射しはすでに傾き始め、遠くの山々には淡い影が伸びている。


 リディアは、膝の上で両手を重ねながら、静かに窓の外を眺めていた。


 先ほど見た、凍りついた滝。


 幾重にも重なる青白い氷柱と、その奥で絶えることなく流れ続ける水の音。


 そして、アルジェンが教えてくれた『雪の雫』という古い意匠の意味。


 ――自分の大切な場所を、誰かと分かち合う。


 その言葉を思い出すたび、胸の奥が温かくなった。


 けれど、同時に。


 今朝、書斎で目にした商業通信の文字が、ふと脳裏をよぎる。


 リディアは、そっと目を伏せた。


 あの名前を見ただけで、胸が冷たくなった。


 もう遠く離れた場所のことなのに。


 今は、こうして穏やかな時間を過ごせているのに。


 それでも、忘れられないものがある。


 リディアは、膝の上で指を組み直した。


 すると、隣から穏やかな声がした。


「……寒くはないか?」


 顔を上げると、アルジェンがこちらを見ていた。


「……はい。大丈夫ですわ」


「そうか」


 彼は頷いた。


「山を下りれば、もう少し風も穏やかになるだろう」


 リディアは微笑んだ。


「ふふっ。伯爵様は、本当にいつもお気遣いくださいますね」


「……そうだろうか」


「はい」


 彼女は、少しだけ首を傾げた。


「私が寒くないか、疲れていないか……いつも気にかけてくださいますもの」


 アルジェンは、わずかに目を細めた。


「君はまだ、この国の冬に慣れていないからな」


 いつもと変わらない、落ち着いた声だった。


 けれど、リディアは知っていた。


 彼が自分に向けてくれる優しさは、それだけではない。


 初めて目を覚ましたあの日から。


 何も尋ねず、温かな食事と休める場所を用意してくれたこと。


 書斎で仕事を任せてくれたこと。


 自分の意見に耳を傾けてくれたこと。


 市場へ連れ出し、祭りの光を見せてくれたこと。


 そして、今日。


 彼女が言葉にできない何かを抱えていると気づいても、無理に聞き出そうとはしなかった。


 ――話したくないことなら、話さなくていい。


 あの言葉が、今も胸の奥に残っている。


 リディアは、そっと隣を見た。


 アルジェンは、窓の外へ視線を向けていた。


 灰青色の瞳には、雪山の淡い光が映っている。


 その横顔を見つめているうちに、リディアの胸が不意にいっぱいになった。


「……伯爵様は……」


 小さく声をかける。


 アルジェンが振り向いた。


「何だ?」


 けれど、続く言葉が見つからなかった。


 嬉しい。


 ありがたい。


 そのどちらも本当だった。


 だが、今の気持ちは、それだけでは言い表せない。


 何も知らないはずの人が、自分の言葉を待ってくれている。


 ただ、ここにいてよいのだと、そう思わせてくれる。


 そのことが、どれほど救いになっているのか。


 伝えたいのに。


 うまく言葉にならなかった。


「……リディア?」


 アルジェンが、少しだけ身を乗り出した。


 そのときだった。


 リディアの視界が、ふいに滲んだ。


「……あ」


 頬を、一粒の涙が伝った。


 彼女は驚いて瞬きをした。


 泣くつもりなどなかった。


 滝はとても美しかった。


 今日の視察も、学ぶことが多かった。


 アルジェンと過ごす時間は、何より楽しかった。


 それなのに、どうして。


「……ご、ごめんなさい」


 リディアは慌てて頬へ手を伸ばした。


「私、泣くつもりなんて……」


 笑おうとした。


 けれど、次の涙が頬を伝った。


 困ったように眉を下げ、彼女は俯いた。


 アルジェンは、一瞬だけ目を見開いた。


 それから、静かに声を落とす。


「……リディア」


 彼は懐から清潔なハンカチを取り出し、そっと差し出した。


「……何か、つらいことを思い出させてしまったか?」


 リディアは、小さく首を振った。


「……いいえ」


 ハンカチを受け取り、涙を拭う。


「違うんです……」


 声が震えた。


「悲しいだけでは、ないんです」


 アルジェンは、黙って耳を傾けた。


 リディアは、ハンカチを握りしめたまま、ゆっくりと顔を上げた。


「……伯爵様は、どうしてそんなにも、私に優しくしてくださるのですか?」


 琥珀色の瞳が、涙に濡れていた。


「私はまだ……あなたに何もお話しできていないのに」


 自分がどこから来たのか。


 なぜ、あの雪原にいたのか。


 何を恐れているのか。


 彼には、まだ何一つ説明できていない。


 それなのに。


「……こんなにも、大切にしていただいて……」


 言葉が途切れた。


 リディアは、震える唇に小さな微笑みを浮かべた。


「……嬉しいのです。とても……」


 そして。


 胸の奥にあった言葉が、自然とこぼれ落ちた。


「ありがとうございます……アルジェン様」


 *


 アルジェンは、息を呑んだ。


 ――アルジェン様。


 彼女が、初めて自分の名を呼んだ。


 これまでの「伯爵様」という呼び方が、嫌だったわけではない。


 むしろ、彼女らしい丁寧な呼び方だと思っていた。


 けれど。


 今、涙を浮かべた彼女の唇からこぼれた自分の名前は、不思議なほど胸に深く響いた。


 領主としてではなく。


 ただ一人の人間として。


 彼女が、自分へ言葉を向けてくれたように思えた。


 アルジェンは、しばらく何も言えなかった。


 だが、目の前のリディアは、自分の言葉を待っている。


 彼は、静かに息を整えた。


「……なぜ、か」


 小さく繰り返す。


 その問いは、彼自身も何度となく考えてきたものだった。


 なぜ、彼女のことが気にかかるのか。


 なぜ、明日も会いたいと思うのか。


 なぜ、彼女が笑うと、自分まで満たされた気持ちになるのか。


 これまでの人生で、アルジェンは多くの難題に向き合ってきた。


 鉱山の収支。


 冬季の備蓄。


 領民の安全。


 問題があれば資料を集め、原因を調べ、必要な判断を下す。


 そうして領地を守ってきた。


 だが、この問いだけは違った。


 いくら考えても、一つの答えに収まらない。


「……正直に言えば、私にもまだ、うまく説明できない」


 アルジェンは、飾らずに答えた。


「君の素性を知らないことは事実だ」


 リディアの指先が、わずかに震えた。


 けれど、彼は続ける。


「だが、君と過ごした時間まで、知らないわけではない」


 その声は、穏やかだった。


「共に書類を読み、食事をし、雪の街を歩いた」


 一つ一つを、確かめるように。


「君が数字の向こうにいる人々を気遣うことも、初めて見る景色に目を輝かせることも、誰かの親切を心から喜ぶことも……私は、この目で見てきた」


 リディアは、何も言えなかった。


 アルジェンは、まっすぐに彼女を見つめた。


「……私が大切に思っているのは、今、ここにいる君だ」


 リディアの喉が、小さく震えた。


「それでは……いけないだろうか」


 彼は、少しだけ困ったように微笑んだ。


 リディアは、何度も首を振った。


「……いいえ」


 涙を拭いながら、答える。


「いいえ……そんなこと、ありません……」


 アルジェンは、安堵したように目を細めた。


「……そうか」


 そして、彼女の手元へ視線を落とした。


 リディアは、ハンカチを握りしめている。


 その手が、まだかすかに震えていた。


「……リディア」


 アルジェンは、そっと手を差し出した。


「君が今、何を話せずにいるのか、私は知らない」


 リディアが、ゆっくりと顔を上げる。


「だが、話せないことがあるからといって、君がここで過ごしてきた時間まで偽りになるわけではないだろう」


 その言葉に、リディアの瞳が揺れた。


「……話せる日が来たら、そのときに聞かせてくれればいい」


 彼は、穏やかに続けた。


「それまでは、急がなくていい」


 リディアは、差し出された手を見つめた。


 大きな手。


 雪原で倒れていた自分を助けてくれた手。


 何度も雪道を歩くときに支えてくれた手。


 そして今も、何も強いることなく、目の前に差し出されている手。


 彼女は、そっと自分の手を重ねた。


「……ありがとうございます」


 小さな声だった。


 けれど、そこには確かな温もりがあった。


 アルジェンは、その手を優しく包み込んだ。


「……ああ」


 しばらく、二人は何も言わなかった。


 馬車の車輪が雪を踏む音だけが、静かに響いている。


 やがて、リディアが小さく息を吐いた。


「……ふふ」


 アルジェンが顔を上げる。


「どうした?」


「……なんだか、恥ずかしくなってしまいました」


 リディアは、涙の残る目元を細めた。


「こんなに泣いてしまうなんて……」


「……恥ずかしがることではないさ」


 アルジェンは穏やかに答えた。


「涙が出る日もあるだろう」


 そして、少しだけ微笑む。


「……それに、今は笑っている」


 リディアは、目を瞬かせた。


 それから、ふわりと笑った。


「……はい」


 その笑顔を見て、アルジェンの胸が静かに温かくなった。


 ――アルジェン様。


 先ほどの呼び方が、まだ耳に残っている。


 彼女は、もういつもの「伯爵様」に戻ってしまった。


 だが、それを惜しいと思う自分がいることに、アルジェンは少し驚いていた。


 もう一度、呼んでほしい。


 そんな願いが浮かんだこと自体、彼には新鮮だった。


 けれど、口にはしなかった。


 彼女が自然に呼んでくれたからこそ、嬉しかったのだ。


 アルジェンは、そっと窓の外へ目を向けた。


 白い山々が、ゆっくりと遠ざかっていく。


 その景色を眺めながら、彼は胸の奥に灯った小さな温もりを、静かに受け止めていた。


 *


 ヴォルフェルト伯爵邸へ戻る頃には、空が薄い灰色に染まり始めていた。


 馬車が玄関前に止まると、アルジェンは先に降り、リディアへ手を差し出した。


 彼女はその手を取り、ゆっくりと雪の上へ足を下ろす。


「……疲れていないか?」


「はい。大丈夫ですわ」


 リディアは微笑んだ。


「今日は本当に、ありがとうございました」


「……こちらこそ」


 アルジェンは、少しだけ目を細めた。


「君と行けてよかった」


 リディアの頬が、ほんのりと赤くなる。


「……ふふっ」


 その笑顔を見て、アルジェンもまた、穏やかに微笑んだ。


 屋敷へ入ると、ちょうど廊下の向こうからギルバートが歩いてきた。


「お帰りなさいませ、伯爵様。リディア様」


「……ああ、ただいま」


「視察はいかがでしたか?」


「大きな問題はなかった。輸送記録については、後日改めて照合することになった」


「承知いたしました」


 ギルバートは、手元の書類へ視線を落とした。


「では、詳細は明日の朝に確認いたしましょう。今夜中に判断を要する案件はございませんので」


「……そうか。助かる」


 アルジェンは頷いた。


 ギルバートは、ふとリディアへ目を向けた。


「リディア様も、お疲れではございませんか?」


「ありがとうございます。少し冷えましたけれど、大丈夫ですわ」


「それは何よりです」


 ギルバートは、穏やかに微笑んだ。


 そして、アルジェンへ視線を戻す。


「……それで、伯爵様」


「何だ?」


「本日は、このままお仕事へ戻られますか?」


 アルジェンは、一瞬だけ考えた。


 いつもなら、迷うことなく書斎へ向かっていただろう。


 視察の記録を確認し、明日の予定を整理し、残っている仕事に目を通す。


 それが、彼にとっては当たり前だった。


 だが、今は。


「……いや」


 アルジェンは、静かに答えた。


「急ぎの用がないのなら、今日は少し休もうと思う」


 ギルバートの眉が、わずかに上がった。


「……ほう」


「……何だ、その顔は」


「いえ」


 ギルバートは、涼しい顔で微笑んだ。


「大変結構なことだと思いまして」


 アルジェンは、少しだけ眉を寄せた。


「……君は時々、妙に嬉しそうな顔をするな」


「気のせいでしょう」


 ギルバートは、平然と答えた。


 そして、リディアへ向き直る。


「談話室の暖炉は、すでに火が入っております。お茶をご用意いたしましょうか?」


 リディアは、嬉しそうに微笑んだ。


「まあ、ありがとうございます!」


 アルジェンも頷いた。


「……頼む」


「かしこまりました」


 ギルバートは、静かに一礼した。


 その口元には、かすかな笑みが浮かんでいた。


 *


 談話室には、柔らかな暖炉の火が灯っていた。


 薪がぱちぱちと音を立て、黄金色の炎が石造りの壁を温かく照らしている。


 窓の外では、細かな雪が降り始めていた。


 長椅子の前には、小さな卓が用意されている。


 そこには、湯気の立つ紅茶と、焼き菓子が並べられていた。


「……あたたかい……」


 リディアは、ほっと息をついた。


 外套を脱ぎ、暖炉のそばへ腰を下ろす。


 冷えた指先を火へかざすと、じんわりと温もりが戻ってきた。


 アルジェンは、彼女の外套を使用人へ預けると、暖炉の火加減を確かめた。


 そして、向かい側の椅子へ腰を下ろそうとする。


 そのときだった。


「……あの、伯爵様」


 リディアが、小さく声をかけた。


 アルジェンは振り返った。


「何だ?」


 リディアは、少しだけためらった。


 それから、長椅子の空いた場所へちらりと目を向ける。


「……もし、ご迷惑でなければ」


 声が、ほんの少し小さくなる。


「もう少し、近くに座っていただいてもよろしいでしょうか?」


 アルジェンは、一瞬だけ動きを止めた。


 近くに。


 彼女が、そう望んでくれた。


 それは、彼にとって思いがけない言葉だった。


「……迷惑なはずがない」


 アルジェンは、すぐに答えた。


 そして、少しだけ微笑む。


「……では、失礼するよ」


 彼は、リディアの隣へ腰を下ろした。


 長椅子が、わずかに沈む。


 先ほどまで向かい合っていた二人の距離が、自然と近くなった。


 リディアは、安心したように小さく息をついた。


「……ありがとうございます」


「……礼を言うほどのことではないさ」


 アルジェンは、穏やかに答えた。


 けれど、胸の奥では、何とも落ち着かないものがあった。


 彼女が隣にいることには、もう慣れているはずだった。


 書斎でも。


 食堂でも。


 馬車の中でも。


 何度も、こうして近くに座ってきた。


 それなのに。


 彼女自身が、もっと近くにいてほしいと望んでくれた。


 その事実が、なぜかひどく嬉しかった。


「……こうして火を眺めていると、外の寒さが嘘のようだな」


 アルジェンは、暖炉の炎を見つめた。


 赤く燃える薪。


 揺れる影。


 窓の外では、雪が静かに降り続いている。


「……はい」


 リディアも、暖炉へ視線を向けた。


「なんだか、時間がゆっくり流れているみたいです」


「……そうだな」


 アルジェンは、静かに頷いた。


 普段の彼なら、休息の時間にも次の仕事のことを考えていただろう。


 だが、今は。


 何も急ぐ必要がなかった。


 明日の仕事は、明日になればまた始まる。


 今夜は、ただこうして火を眺めていてもいい。


 そのことが、不思議と心地よかった。


「……伯爵様」


 リディアが、そっと口を開いた。


「今日は、本当にありがとうございました」


 アルジェンは、彼女へ顔を向けた。


「……何度も礼を言われてしまうな」


「ふふっ。だって、本当に嬉しかったんですもの」


 リディアは、紅茶のカップを両手で包んだ。


「滝も、とても美しかったですし……」


 そこで、少しだけ頬を染める。


「何より、こうして一緒に過ごせることが嬉しいですわ」


 アルジェンの表情が、柔らかく和らいだ。


「……私もだよ」


 その言葉は、思ったよりも自然に出てきた。


 リディアは、少し驚いたように目を瞬かせた。


 そして、嬉しそうに微笑んだ。


「……ふふっ」


 アルジェンもまた、小さく笑った。


 暖炉の薪が、ぱちりと音を立てた。


 しばらく、二人は静かに紅茶を飲んでいた。


 やがて、リディアがそっとカップを置いた。


 そして、少しためらうように唇を開く。


「……あの、伯爵様」


「何だ?」


 リディアは、ほんの少しだけ視線を伏せた。


「……今日だけ、少し甘えてもよろしいでしょうか?」


 アルジェンは、目を瞬かせた。


「……甘える?」


「はい……」


 リディアは、少し照れくさそうに微笑んだ。


「こうしていると、なんだかとても安心するのです」


 そして。


 ゆっくりと、彼の肩へ頭を預けた。


「…………」


 アルジェンの身体が、わずかに強張った。


 肩に感じる、ほんの小さな重み。


 彼女の黒い髪が、上着の肩口へそっと触れる。


 石鹸のほのかな香りが、すぐ近くにあった。


 アルジェンは、思わず息を止めた。


 近い。


 思っていたよりも、ずっと。


 けれど、リディアは何も言わなかった。


 ただ、彼の袖を小さくつまんでいる。


 その仕草が、あまりにも控えめで。


 そして、あまりにも信頼に満ちていた。


「……もう少しだけ」


 リディアが、小さく呟いた。


「このままで、いさせてくださいませ」


 アルジェンは、しばらく何も言えなかった。


 胸の奥が、ひどく温かかった。


 彼女が、自分を頼ってくれている。


 自分の隣を、安心できる場所だと思ってくれている。


 それが、どれほど大切なことなのか。


 彼には、痛いほど分かった。


「……ああ」


 やがて、静かに答えた。


「構わない。ゆっくり休むといい」


 リディアは、安心したように小さく息をついた。


 そして、彼の肩へ預けた頭を、ほんの少しだけ深く傾けた。


 アルジェンは、動かなかった。


 いや。


 動けなかった、と言う方が正しいのかもしれない。


 彼女が離れてしまうのが惜しかった。


 けれど、それ以上に。


 今、この静けさを壊したくなかった。


 彼は、そっと暖炉へ視線を向けた。


 赤く燃える薪。


 柔らかく揺れる炎。


 窓の外では、風が低く唸っている。


 だが、談話室の中には穏やかな静けさが満ちていた。


 アルジェンは、肩に預けられた小さな重みを感じながら、静かに息を吐いた。


 あの日、雪原で倒れていた女性。


 名前も知らず、どこから来たのかも分からなかった。


 ただ、助けなければならないと思った。


 それが、今では。


 彼女が隣にいることを、これほど自然に感じるようになっていた。


 そして、彼女がいない時間を、少しだけ寂しく思うようにもなっていた。


 アルジェンは、そっとリディアへ視線を落とした。


 彼女は、安心したように目を閉じている。


 その表情には、先ほどまでの涙の名残がほとんどなかった。


 ――よかった。


 胸の奥で、静かにそう思った。


 彼女が、少しでも穏やかに過ごせるのなら。


 自分の隣が、そのための場所になれるのなら。


 それ以上に、何を望むだろう。


 アルジェンは、ふと自分の考えに気づいた。


 いや。


 望んでいることなら、ある。


 明日も、彼女に会いたい。


 明後日も。


 春になっても。


 その先も。


 できることなら、こうして同じ時間を分かち合っていたい。


 その願いは、いつの間にか胸の奥に根を下ろしていた。


 だが、今すぐ言葉にするつもりはなかった。


 彼女には、まだ自分の知らない事情がある。


 いつか、帰りたいと願う場所があるのかもしれない。


 だからこそ。


 自分の願いだけで、彼女の未来を決めることはできなかった。


 アルジェンは、静かに目を細めた。


 ――今は、これでいい。


 肩に預けられた温もり。


 暖炉の柔らかな光。


 時折、窓を叩く雪の音。


 そのすべてが、かけがえのないものに思えた。


 *


「……伯爵様」


 しばらくして、リディアが小さく声をかけた。


「……何だ?」


「……眠ってしまったら、ごめんなさい」


 アルジェンは、思わず小さく笑った。


「……構わないさ」


「ふふっ……」


 リディアも、目を閉じたまま微笑んだ。


「では、少しだけ……」


「ああ」


 アルジェンは、穏やかに答えた。


「……ゆっくり休むといい」


 リディアは、彼の袖をつまんでいた指先の力を、少しだけ緩めた。


 それでも、離れようとはしなかった。


 アルジェンは、肩に感じる温もりを確かめるように、静かに目を閉じた。


 暖炉の火が、二人の影を壁へ映し出している。


 寄り添う影は、揺れる炎の中で静かに重なっていた。


 窓の外では、雪が降り続いている。


 冬は、まだ終わらない。


 リディアの過去も、アルジェンの知らない事情も、何一つ解決してはいない。


 それでも。


 この瞬間だけは、何も急ぐ必要がなかった。


 答えを出さなくてもいい。


 未来を決めなくてもいい。


 ただ、隣にいる。


 そのことだけで、十分だった。


 アルジェンは、肩に預けられた小さな重みを感じながら、静かに思った。


 ――この時間を、大切にしたい。


 彼女が笑える時間を。


 泣きたいときには、無理に笑わなくてもよいと思える時間を。


 何も話せない日にも、ただ隣にいられる時間を。


 その一つ一つを、これからも重ねていけたなら。


 それだけで、今は十分だった。


 暖炉の炎が、静かに揺れた。


 凍りついた滝の奥で、水が流れ続けていたように。


 言葉にならない想いもまた、二人の胸の奥で静かに息づいていた。


 雪解けは、まだ遠い。


 けれど。


 その日が来るまで、互いの温もりを分かち合うことはできる。


 白銀の国の、小さな談話室で。


 銀狼と、一羽の蝶は。


 初めて、言葉よりも深い静けさを分かち合っていた。

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