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第五章 灯火が結ぶ未来 後編

 ルミナ祭の夜。


 リディアとアルジェンは、灯火に彩られた街をゆっくりと歩いた。


 マルタの屋台では、焼きたての菓子を二人で分け合った。


 リディアがあまりにも幸せそうに頬張るものだから、マルタは上機嫌になり、帰り際には小さな包みまで持たせてくれた。


「またおいでよ、お嬢さん!」


 その言葉に、リディアは何度も礼を言っていた。


 帰りの馬車は、アルジェンの提案で少しだけ遠回りをした。


 街を見下ろす高台からは、無数の灯火が雪の上に散りばめられた星のように見えた。


 リディアは、しばらく言葉もなく窓の外を眺めていた。


 やがて、隣のアルジェンへ顔を向ける。


「……伯爵様」


「何だ?」


「今日は、本当にありがとうございました」


 その声は、どこか名残惜しそうだった。


「私、きっと忘れません。今日見た景色も、皆さんの笑顔も……全部」


 アルジェンは、穏やかに微笑んだ。


「……それなら、案内した甲斐があったな」


「ふふっ。来年も楽しみですわね」


 リディアは、そう言って微笑んだ。


 アルジェンもまた、小さく頷いた。


「ああ。そうだな」


 その夜、二人が交わしたのは、ただそれだけの言葉だった。


 けれど、その何気ない会話は、互いの胸に静かな温もりを残していた。


 *


 それから、一か月が過ぎた。


 あの夜、街を彩っていた無数の灯火は、すでに片づけられていた。


 広場の氷の彫刻も祭りの役目を終え、今は雪に囲まれた静かな冬の景色の一部となっている。


 けれど、リディアの手元には、あの夜の名残が一つだけ残っていた。


 小さな女の子から贈られた、雪の結晶の紙飾り。


 それは今、客室の机の引き出しに、大切にしまわれている。


 ――また来年も、おまつりに来てね。


 あの言葉を思い出すたび、リディアは自然と微笑んだ。


 来年。


 その先。


 以前なら、そんな遠い未来のことなど考えられなかった。


 けれど今では、そこに小さな楽しみを見つけられるようになっていた。


 ニヴェリスの冬は、まだ終わらない。


 山々には深い雪が積もり、街道を吹き抜ける風は相変わらず冷たい。


 それでも、晴れた日の陽射しには、ほんのわずかに季節の移ろいが感じられるようになっていた。


 そんなある日の朝。


 リディアは、いつもより少し早く身支度を整えていた。


 今日はアルジェンに同行し、領内の第三鉱山へ視察に向かう予定だった。


 そして、もう一つ。


 鉱山の近くには、冬の間だけ凍りつく大きな滝があるという。


 以前、市場を訪れた際、アルジェンが見せたいと話してくれた場所だった。


 視察を終えた後、天候と道の状態が許せば、二人でその滝を見に行くことになっている。


 リディアは、出発前から胸を弾ませていた。


 *


「……鉱石を運ぶだけでも、随分と手間がかかるのですね」


 書斎の一角で、リディアは資料をめくっていた。


 窓の外には、白く霞む山並みが広がっている。


 机に広げられているのは、第三鉱山の視察に向けて用意された概要資料だった。


 鉱山の位置や主な採掘品目、冬季の輸送経路、過去の出荷実績をまとめたものだ。


 人員の配置や個別の取引先に関わる詳細な記録は含まれていない。


 それでも、数字を追うだけで、この土地で産業を維持する難しさが見えてくる。


 馬車の維持費。


 除雪に必要な人手。


 積雪による輸送の遅れ。


 冬季には、採掘そのものよりも、鉱石を安全に運び出すことの方が難しい日さえあるという。


「……それに、こちらの出荷予定ですが」


 リディアは、一枚の資料へ目を留めた。


「伯爵様、少しお伺いしてもよろしいでしょうか?」


 出発の準備をしていたアルジェンが、手袋をはめる手を止めた。


「……何か気づいたか?」


「はい」


 リディアは、先月と今月の輸送予定を指し示した。


「採掘量の見込みはそれほど変わっていないのに、今月は輸送の回数が増えています」


 彼女は慎重に言葉を選んだ。


「もちろん、積雪の影響で一度に運べる量が減ったのかもしれませんし、ほかにも事情があるのでしょうけれど……」


 アルジェンは、黙って数字を追った。


「……なるほど」


 彼はゆっくりと頷いた。


「確かに、理由を確認しておいた方がよさそうだな」


 資料の端へ小さく印をつける。


「ギルバートも以前、第三鉱山の記録について気になる点があると言っていた。もっとも、今の段階で何か問題があると決めつけることはできないが」


「はい。現地の事情を伺ってみないことには、分かりませんものね」


「ああ」


 アルジェンは、わずかに微笑んだ。


「その通りだ」


 リディアは、ほっとしたように笑った。


 アルジェンもまた、彼女の働きに満足していた。


 この数か月で、リディアは領地の暮らしについて随分と詳しくなった。


 ただ数字を読み比べるだけではない。


 その数字の向こうにある、人々の生活や物資の流れを考えている。


 それは、初めて彼女に資料を渡した日から変わらない姿勢だった。


「……今日も、気づいたことがあれば聞かせてほしい」


 アルジェンは静かに言った。


「ただし、現場では私か鉱山長の指示に従ってくれ。危険な場所もあるからな」


「もちろんですわ」


 リディアは、にっこりと笑った。


「お仕事のお邪魔にならないよう、気をつけます」


「……君が邪魔になるとは思っていないが」


 アルジェンは少しだけ口元を緩めた。


「安全には気をつけてほしい、という意味だ」


「ふふっ。承知いたしました」


 *


 出発まで、まだわずかな時間があった。


 リディアは資料を整理しながら、机の端に置かれた商業通信へ目を向けた。


 交易や物価の動向を伝える、各国の情報をまとめたものだった。


 日頃からそうした資料に目を通している彼女にとって、珍しいものではない。


 けれど。


 その紙面の一角に、ある国の名前が記されていた。


 ――ルミエラ王国。


「…………」


 リディアの指が止まった。


 ほんの一瞬。


 書斎の温かな空気が、遠のいたような気がした。


 目の前には、ただの印刷された文字がある。


 それだけのことだった。


 けれど、その文字を見つめているうちに、胸の奥へ冷たいものが沈んでいく。


 リディアは、ゆっくりと紙面へ視線を落とした。


 そこには、南方の交易に関する短い記事が載っていた。


 いつもなら、自然と目を通していたはずの内容だった。


 だが今は、どうしても続きを読むことができなかった。


 指先が、かすかに強張る。


 彼女はそっと息を吐き、紙面を伏せた。


「……リディア?」


 不意に、アルジェンの声がした。


 顔を上げると、彼がこちらを見ていた。


「……どうした?」


「……あ」


 リディアは慌てて微笑もうとした。


「いいえ、何でもございません」


 だが、その声は思ったよりも小さかった。


 アルジェンは、彼女の表情を静かに見つめた。


 先ほどまで、楽しそうに資料を読んでいたはずだった。


 それが、何かを見た途端に変わった。


 机の上には、伏せられた商業通信がある。


 だが、彼はそれを手に取ろうとはしなかった。


「……少し、顔色が悪いな」


 アルジェンは穏やかに言った。


「体調が優れないのか?」


「……いいえ」


 リディアは首を振った。


「少し、考え事をしてしまっただけです」


「そうか」


 アルジェンは頷いた。


 そして、少しだけ声を和らげた。


「……無理に笑わなくていい」


 リディアが、ゆっくりと顔を上げた。


「……伯爵様」


「何を考えていたのか、私には分からない」


 彼は静かに続けた。


「だが、何か気がかりなことがあるのなら、今すぐ気持ちを切り替える必要はない」


 責める響きはなかった。


 問いただすような眼差しでもなかった。


 ただ、彼女の様子を案じている。


 それが分かる声だった。


「……私は」


 リディアは、何かを言いかけた。


 けれど、言葉が続かなかった。


 アルジェンは、その沈黙を急かさなかった。


「……話したくないことなら、話さなくていい」


 彼は、ゆっくりと告げた。


「君には、君自身の事情があるのだろう」


 リディアの瞳が、かすかに揺れた。


「それを無理に聞き出すつもりはない」


 アルジェンは、静かに微笑んだ。


「ただ、つらいときまで一人で平気な顔をする必要はない。少なくとも、この屋敷ではな」


 その言葉に、リディアは目を伏せた。


 彼は、何も尋ねなかった。


 自分がどこから来たのか。


 なぜ、あの雪原で倒れていたのか。


 何を恐れ、何を隠しているのか。


 知ろうと思えば、いくらでも尋ねることができたはずだった。


 それでも、彼は待ってくれている。


 そのことが、リディアには何よりありがたかった。


「……ありがとうございます」


 彼女は、小さく答えた。


 アルジェンは頷いた。


「今日の視察も、無理に同行する必要はないぞ」


「……え?」


「疲れているのなら、屋敷で休んでいても構わない。鉱山の仕事は、私が確認してくる」


 そして、少しだけ微笑む。


「滝は逃げないからな」


 リディアは、一瞬目を丸くした。


 それから、思わず小さく笑った。


「……ふふっ」


 アルジェンも、わずかに口元を緩めた。


「どうする?」


 リディアは、少し考えた。


 先ほど見た文字は、まだ胸の奥に残っている。


 けれど、今は。


 目の前にある仕事に向き合いたかった。


 そして、約束していた景色を見たかった。


「……でしたら」


 彼女は、ゆっくりと顔を上げた。


「予定通り、同行させていただいてもよろしいでしょうか?」


「もちろんだ」


「ふふっ。私、凍った滝をとても楽しみにしておりましたの」


「……そうだったな」


 アルジェンは穏やかに微笑んだ。


「では、行こうか」


 そして、念を押すように付け加えた。


「ただし、途中でつらくなったら遠慮なく言ってくれ」


「はい」


 リディアは頷いた。


 今度の笑顔は、少しだけ自然なものだった。


 *


 鉱山への道は、深い雪に覆われていた。


 馬車の車輪が固く踏みしめられた雪を軋ませ、窓の外には針葉樹の森が続いている。


 山々は白く染まり、遠くの稜線は冬の空に溶け込むようだった。


 リディアは時折、手元の資料へ視線を落としながら、窓の外を眺めた。


 先ほどの出来事が、完全に胸から消えたわけではない。


 けれど、アルジェンの言葉を思い出すたび、心の奥に小さな温もりが灯った。


 ――話したくないことなら、話さなくていい。


 その言葉が、何度も胸に浮かぶ。


 彼は、知らないことを知らないままにしてくれた。


 それが、今のリディアには何よりありがたかった。


 馬車が大きく揺れると、アルジェンが顔を上げた。


「……大丈夫か?」


「はい。平気です」


「この辺りは、雪の下の道が少し荒れている。もうしばらく揺れるだろう」


「そうなのですね」


 リディアは窓の外へ目を向けた。


「この道を通って、鉱石が運ばれていくのですか?」


「ああ。冬は特に手間がかかる」


 アルジェンは、遠くの山並みを指し示した。


「あの尾根の向こうが第三鉱山だ。天候によっては、輸送を何日も見合わせることになる」


「……それでは、現場の方々も大変ですね」


「そうだな」


 アルジェンは頷いた。


「だからこそ、無理な運行はさせないようにしている」


 リディアは、静かに耳を傾けた。


 数字の上では、輸送の遅れは単なる記録にすぎない。


 けれど、その一行の向こうには、雪道を進む人々がいる。


 そのことを、彼はよく理解していた。


 *


 鉱山へ到着すると、二人は現地の責任者から報告を受けた。


 採掘の状況。


 冬季の輸送計画。


 作業員たちの安全管理。


 アルジェンは領主として、時に厳しく、時に丁寧に質問を重ねていく。


 リディアは、案内された安全な区域で話を聞き、事前に渡されていた概要資料へ必要な事項を書き留めた。


 やがて、輸送予定についての説明になった。


「……今月は、出荷の回数が増えているようだが」


 アルジェンが尋ねると、鉱山長は頷いた。


「はい。積雪の影響で、一度に積める量を減らしておりまして」


「なるほど」


「ただ、集計の時期がずれている分もございます。先月末に運び出せなかったものが、今月の予定に回っておりますので」


 アルジェンは、静かに頷いた。


「それなら、帳簿上の区分をもう少し分かりやすくしておいた方がいいな」


「承知いたしました」


 説明には筋が通っていた。


 ただ、ギルバートが以前指摘していた記録の食い違いについては、別途確認が必要だった。


 アルジェンは詳細な記録を後日照合するよう指示し、その場では結論を急がなかった。


 リディアは、そのやり取りを静かに見守っていた。


 疑問があれば確かめる。


 だが、理由を聞く前から誰かを疑うことはしない。


 アルジェンの仕事ぶりには、いつも変わらない慎重さがあった。


 そして、作業員たちの安全について尋ねるときには、数字を確認するとき以上に真剣な眼差しを向けていた。


 リディアは、そんな彼の横顔を見つめた。


 この人は、やはり。


 とても誠実な人なのだ。


 *


 視察を終える頃には、冬の日差しが山の斜面を淡く照らしていた。


 幸い、天候は穏やかだった。


 鉱山長に道の状態を確かめると、滝へ続く道も通行できるという。


 アルジェンは同行していた者に帰路の予定を伝え、リディアを滝へ案内することにした。


「……ここから少し歩く」


 彼は雪道の先へ視線を向けた。


「足元には気をつけてくれ」


「はい!」


 リディアは嬉しそうに頷いた。


 アルジェンは自然に腕を差し出した。


 彼女もまた、ためらうことなくその腕に手を添える。


 二人は雪を踏みしめながら、静かな山道を進んだ。


 木々の間を抜ける風は冷たかったが、空は澄み渡っている。


 やがて、遠くから低い音が聞こえてきた。


 水の流れる音。


 だが、その響きはどこかくぐもっていた。


「……もうすぐだ」


 アルジェンが言った。


 リディアは期待に胸を膨らませながら、歩みを進める。


 そして。


 木々の間を抜けた瞬間、目の前に広がった光景に、思わず足を止めた。


「…………!」


 巨大な滝が、凍りついていた。


 高い岩壁を覆うように、幾重もの氷柱が垂れ下がっている。


 流れ落ちる水が、冬の寒さによってそのまま時を止められたかのようだった。


 淡い青色の氷。


 透明な結晶。


 冬の日差しを受けて、無数の光がきらきらと輝いている。


「……まあ!」


 リディアは、感嘆の息を漏らした。


「なんて美しいのでしょう……!」


 彼女は、しばらく言葉もなくその景色を見つめていた。


「まるで、山そのものが宝石になってしまったみたい……!」


 アルジェンは、隣に立つ彼女を見つめた。


 この滝は、彼にとって見慣れた場所だった。


 鉱山への視察の途中、何度も目にしてきた冬の景色。


 美しいと思ったことはある。


 だが、長く足を止めて眺めることは、ほとんどなかった。


 それなのに今は。


 リディアが隣にいるだけで、見慣れた氷の輝きがまるで違って見えた。


 彼女の琥珀色の瞳には、青白い光が映り込んでいる。


 その表情を見ていると、胸の奥が静かに満たされていく。


 ――君に、この景色を見せられてよかった。


 そう思った。


 *


 しばらく滝を眺めていたリディアが、ふと顔を上げた。


「……そういえば、伯爵様」


「何だ?」


「ニヴェリスには、淡い青色をした珍しい鉱石があるのでしたわね?」


 アルジェンは、わずかに目を細めた。


「……ニヴェリア鉱石のことか?」


「はい!」


 リディアは頷いた。


「以前、書物で見かけたことがあるんです。こちらの国で採れる、とても美しい石だと」


「ああ」


 アルジェンは、凍った滝へ視線を向けた。


「採れる場所は限られているし、良質なものはそう多くない。透明度の高い石は、加工すると独特の輝きを見せるんだ」


「まあ……!」


 リディアは目を輝かせた。


「それは、ぜひ一度見てみたいです」


 アルジェンは少し考えた。


「……そういえば、ヴォルフェルト家には、その石を用いた古い習わしがある」


「習わし、ですか?」


「ああ」


 彼は、静かに頷いた。


「婚約の際に、ニヴェリア鉱石をあしらった品を贈ることがあるんだ」


 リディアは、興味深そうに耳を傾けた。


「……それには、何か特別な意味があるのでしょうか?」


「ある」


 アルジェンは、しばらく滝を見つめていた。


「この地で生まれた石を、これから人生を共にする相手へ贈る」


 その声は、穏やかだった。


「それは、自分が大切にしてきた土地や暮らしを、その人と分かち合いたいという願いを表している」


 リディアは、静かに息を呑んだ。


 自分の大切な場所を。


 誰かと、分かち合う。


 アルジェンは続けた。


「古い意匠の一つに、『雪の雫』と呼ばれるものがある」


「……雪の雫」


「ああ。雪解けの雫をかたどった、小さな石飾りだ」


 アルジェンは、淡い青色の氷を指し示した。


「冬の厳しさを知る者にとって、雪解けは特別なものだからな」


 リディアは、ゆっくりと頷いた。


「……なるほど」


「長い冬を越えた先にも、共に歩いていこうという願いが込められているのだそうだ」


 その言葉を聞いて、リディアは凍った滝を見上げた。


 冷たい氷。


 その奥を、今も流れ続けている水。


 冬がどれほど長くとも、いつかは雪が解ける。


 その日まで、誰かと共に歩いていく。


「……なんて」


 リディアは、小さく呟いた。


「なんて、素敵な誓いなのでしょう」


 アルジェンは、穏やかに微笑んだ。


「……そうだな」


 そして、少しだけ照れくさそうに付け加えた。


「もっとも、私自身がその習わしについて深く考えたことは、これまであまりなかったのだが」


「まあ、そうなのですか?」


「ああ」


 アルジェンは、凍った滝を見上げた。


「だが、こうして君と話していると、昔の人々がなぜそのような願いを込めたのか、少し分かる気がする」


 リディアが彼を見つめた。


「……美しいものを、美しいと思える人と一緒に見る」


 その声には、静かな温もりがあった。


「それだけのことが、こんなにも嬉しいものなのだな」


 リディアは、しばらく何も言わなかった。


 ただ、彼の言葉を大切に受け止めるように、静かに目を伏せた。


 そして。


 ふと、左手の薬指へ触れた。


 手袋越しに、そっと。


 そこには、何もない。


 アルジェンは、その仕草に気づいた。


 けれど、何も言わなかった。


 リディアは、しばらく凍った滝を見つめていた。


 やがて、静かに口を開く。


「……伯爵様」


「何だ?」


「誓いというものは……」


 彼女は、少しだけ言葉を探した。


「交わすことよりも、守り続けることの方が、ずっと難しいのかもしれませんわね」


 その言葉は、冬の空気の中へ静かに落ちた。


 アルジェンは、すぐには答えなかった。


 リディアは、自分でも少し驚いたように目を伏せた。


「……ごめんなさい」


 小さく微笑もうとする。


「せっかくの美しいお話でしたのに、妙なことを申してしまいましたわ」


 アルジェンは、ゆっくりと首を振った。


「……いや」


 低く、落ち着いた声だった。


「妙なことではない」


 リディアが顔を上げる。


 アルジェンは、凍りついた滝を見つめていた。


「……君の言う通りだと思う」


 彼は静かに続けた。


「誓いを口にすることは、そう難しくないのかもしれない」


 冷たい風が、二人の外套を揺らした。


「だが、それを守り続けるには、言葉だけでは足りない」


 リディアは、黙って耳を傾けた。


「人は、時に迷う。恐れる。自分の弱さに負けることもあるだろう」


 アルジェンは、ゆっくりと彼女へ視線を戻した。


「だからこそ、誓いには覚悟が必要なのだと思う」


 リディアの瞳が、かすかに揺れた。


「……覚悟、ですか」


「ああ」


 アルジェンは頷いた。


「相手が穏やかに笑っているときだけでなく、苦しんでいるときにも、その隣に立ち続ける覚悟だ」


 その言葉に、リディアは静かに息を呑んだ。


 アルジェンは、彼女の表情を見つめた。


 先ほどまで、あれほど嬉しそうに滝を眺めていた。


 それが、ほんの一瞬で変わってしまった。


 何かを思い出したのだろう。


 それが彼女にとって、あまり楽しい記憶ではないことも分かった。


 だが、アルジェンは理由を尋ねなかった。


 今朝、彼女へ伝えた言葉を思い出していた。


 ――話したくないことなら、話さなくていい。


 その言葉を、こんなところで覆すつもりはなかった。


「……リディア」


 彼は、静かに名を呼んだ。


「はい……?」


「君が何を思い出したのか、私には分からない」


 リディアは、ゆっくりと顔を上げた。


「だが、今の言葉は、私も覚えておきたいと思う」


「……伯爵様」


「誓いを立てるのなら、守り続ける覚悟が必要だ」


 アルジェンは、静かに微笑んだ。


「……大切なことだな」


 リディアは、しばらく彼を見つめていた。


 そして、ゆっくりと頷いた。


「……はい」


 その声は、少しだけ震えていた。


 けれど、今度は無理に笑おうとはしなかった。


 アルジェンは、彼女の様子を確かめると、そっと手を差し出した。


「……少し冷えてきたな」


 いつもと変わらない、穏やかな声だった。


「そろそろ戻ろうか。日が傾けば、山道は一層冷え込む」


 リディアは、差し出された手を見つめた。


 大きな手。


 雪道を歩くとき、いつも自然に差し出される手。


 その手が、どれほど自分を安心させてくれるのか。


 今なら、少しだけ分かる気がした。


「……はい」


 リディアは、そっと自分の手を重ねた。


「ありがとうございます、伯爵様」


 アルジェンは、穏やかに微笑んだ。


「……礼を言われるようなことではないさ」


「いいえ」


 リディアは、静かに首を振った。


「……とても、嬉しかったんです」


 アルジェンは、少しだけ目を細めた。


 それ以上は尋ねなかった。


 ただ、彼女の手を支えながら、ゆっくりと歩き始めた。


 *


 凍りついた滝は、何も語らずそこにあった。


 幾重にも重なる氷柱。


 淡い青色の光。


 その奥では、今も水が流れ続けている。


 表面は凍りついていても、内側には確かな流れがある。


 リディアは、もう一度だけ滝を振り返った。


 冬は、まだ終わらない。


 雪が解ける日も、まだ遠い。


 けれど。


 この氷の奥にも、絶えることのない流れがある。


 そのことが、今は不思議と心強かった。


「……伯爵様」


 リディアは、隣を歩く彼を見上げた。


「今日は、こちらへ連れてきてくださって、本当にありがとうございました」


 アルジェンは、穏やかに微笑んだ。


「……君に見せたいと思っていた景色だからな」


 彼は、凍った滝へ視線を向けた。


「喜んでもらえたのなら、何よりだ」


「……はい」


 リディアは、静かに微笑んだ。


「とても、素敵な景色でした」


 その声には、先ほどまでの寂しさが少しだけ薄れていた。


 アルジェンは、彼女の横顔を見つめた。


 この滝を見せたいと思ったのは、彼女が喜んでくれるだろうと考えたからだった。


 だが、今は。


 ただ美しい景色を見せるだけでは足りないのかもしれない、と感じていた。


 彼女が何かを思い出して、言葉を失うとき。


 無理に笑おうとするとき。


 そんなときにも、何も尋ねず隣にいられる人間でありたい。


 そう願っていた。


 それが何という感情なのか。


 今すぐ答えを出す必要はない。


 ただ、彼女と過ごす時間を大切にしたかった。


 リディアは、アルジェンの腕にそっと手を添えた。


 二人は並んで、雪の山道を歩き始めた。


 彼の歩幅は、いつも彼女に合わせられている。


 急かすことも、置いていくこともない。


 ただ、隣を歩いてくれる。


 その何気ない優しさが、リディアには何より温かかった。


 遠くで、風が木々を揺らした。


 凍りついた滝の奥では、見えない水が静かに流れ続けている。


 リディアは、ふと自分の左手へ視線を落とした。


 先ほど、無意識に触れた薬指。


 そこには、今も何もない。


 けれど。


 彼女は、その手をそっと下ろした。


 そして、隣を歩くアルジェンへ顔を向ける。


「……伯爵様」


「何だ?」


「春になったら、今度はどんな景色が見られるのでしょう?」


 アルジェンは、少し考えた。


「……そうだな」


 それから、穏やかに微笑んだ。


「雪解けの頃には、山の斜面に小さな花が咲く。川の流れも、今よりずっと賑やかになるだろう」


「まあ……!」


 リディアの瞳が輝いた。


「それも、ぜひ見てみたいです」


「……ああ」


 アルジェンは頷いた。


「そのときは、また案内しよう」


 リディアは、嬉しそうに微笑んだ。


「……楽しみにしておりますね」


 二人は、ゆっくりと山道を下っていった。


 冬は、まだ終わらない。


 けれど、その先には確かに春がある。


 そして今、二人は同じ道を歩いていた。


 白銀の山々は、静かにその背中を見守っていた。

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