第五章 灯火が結ぶ未来 後編
ルミナ祭の夜。
リディアとアルジェンは、灯火に彩られた街をゆっくりと歩いた。
マルタの屋台では、焼きたての菓子を二人で分け合った。
リディアがあまりにも幸せそうに頬張るものだから、マルタは上機嫌になり、帰り際には小さな包みまで持たせてくれた。
「またおいでよ、お嬢さん!」
その言葉に、リディアは何度も礼を言っていた。
帰りの馬車は、アルジェンの提案で少しだけ遠回りをした。
街を見下ろす高台からは、無数の灯火が雪の上に散りばめられた星のように見えた。
リディアは、しばらく言葉もなく窓の外を眺めていた。
やがて、隣のアルジェンへ顔を向ける。
「……伯爵様」
「何だ?」
「今日は、本当にありがとうございました」
その声は、どこか名残惜しそうだった。
「私、きっと忘れません。今日見た景色も、皆さんの笑顔も……全部」
アルジェンは、穏やかに微笑んだ。
「……それなら、案内した甲斐があったな」
「ふふっ。来年も楽しみですわね」
リディアは、そう言って微笑んだ。
アルジェンもまた、小さく頷いた。
「ああ。そうだな」
その夜、二人が交わしたのは、ただそれだけの言葉だった。
けれど、その何気ない会話は、互いの胸に静かな温もりを残していた。
*
それから、一か月が過ぎた。
あの夜、街を彩っていた無数の灯火は、すでに片づけられていた。
広場の氷の彫刻も祭りの役目を終え、今は雪に囲まれた静かな冬の景色の一部となっている。
けれど、リディアの手元には、あの夜の名残が一つだけ残っていた。
小さな女の子から贈られた、雪の結晶の紙飾り。
それは今、客室の机の引き出しに、大切にしまわれている。
――また来年も、おまつりに来てね。
あの言葉を思い出すたび、リディアは自然と微笑んだ。
来年。
その先。
以前なら、そんな遠い未来のことなど考えられなかった。
けれど今では、そこに小さな楽しみを見つけられるようになっていた。
ニヴェリスの冬は、まだ終わらない。
山々には深い雪が積もり、街道を吹き抜ける風は相変わらず冷たい。
それでも、晴れた日の陽射しには、ほんのわずかに季節の移ろいが感じられるようになっていた。
そんなある日の朝。
リディアは、いつもより少し早く身支度を整えていた。
今日はアルジェンに同行し、領内の第三鉱山へ視察に向かう予定だった。
そして、もう一つ。
鉱山の近くには、冬の間だけ凍りつく大きな滝があるという。
以前、市場を訪れた際、アルジェンが見せたいと話してくれた場所だった。
視察を終えた後、天候と道の状態が許せば、二人でその滝を見に行くことになっている。
リディアは、出発前から胸を弾ませていた。
*
「……鉱石を運ぶだけでも、随分と手間がかかるのですね」
書斎の一角で、リディアは資料をめくっていた。
窓の外には、白く霞む山並みが広がっている。
机に広げられているのは、第三鉱山の視察に向けて用意された概要資料だった。
鉱山の位置や主な採掘品目、冬季の輸送経路、過去の出荷実績をまとめたものだ。
人員の配置や個別の取引先に関わる詳細な記録は含まれていない。
それでも、数字を追うだけで、この土地で産業を維持する難しさが見えてくる。
馬車の維持費。
除雪に必要な人手。
積雪による輸送の遅れ。
冬季には、採掘そのものよりも、鉱石を安全に運び出すことの方が難しい日さえあるという。
「……それに、こちらの出荷予定ですが」
リディアは、一枚の資料へ目を留めた。
「伯爵様、少しお伺いしてもよろしいでしょうか?」
出発の準備をしていたアルジェンが、手袋をはめる手を止めた。
「……何か気づいたか?」
「はい」
リディアは、先月と今月の輸送予定を指し示した。
「採掘量の見込みはそれほど変わっていないのに、今月は輸送の回数が増えています」
彼女は慎重に言葉を選んだ。
「もちろん、積雪の影響で一度に運べる量が減ったのかもしれませんし、ほかにも事情があるのでしょうけれど……」
アルジェンは、黙って数字を追った。
「……なるほど」
彼はゆっくりと頷いた。
「確かに、理由を確認しておいた方がよさそうだな」
資料の端へ小さく印をつける。
「ギルバートも以前、第三鉱山の記録について気になる点があると言っていた。もっとも、今の段階で何か問題があると決めつけることはできないが」
「はい。現地の事情を伺ってみないことには、分かりませんものね」
「ああ」
アルジェンは、わずかに微笑んだ。
「その通りだ」
リディアは、ほっとしたように笑った。
アルジェンもまた、彼女の働きに満足していた。
この数か月で、リディアは領地の暮らしについて随分と詳しくなった。
ただ数字を読み比べるだけではない。
その数字の向こうにある、人々の生活や物資の流れを考えている。
それは、初めて彼女に資料を渡した日から変わらない姿勢だった。
「……今日も、気づいたことがあれば聞かせてほしい」
アルジェンは静かに言った。
「ただし、現場では私か鉱山長の指示に従ってくれ。危険な場所もあるからな」
「もちろんですわ」
リディアは、にっこりと笑った。
「お仕事のお邪魔にならないよう、気をつけます」
「……君が邪魔になるとは思っていないが」
アルジェンは少しだけ口元を緩めた。
「安全には気をつけてほしい、という意味だ」
「ふふっ。承知いたしました」
*
出発まで、まだわずかな時間があった。
リディアは資料を整理しながら、机の端に置かれた商業通信へ目を向けた。
交易や物価の動向を伝える、各国の情報をまとめたものだった。
日頃からそうした資料に目を通している彼女にとって、珍しいものではない。
けれど。
その紙面の一角に、ある国の名前が記されていた。
――ルミエラ王国。
「…………」
リディアの指が止まった。
ほんの一瞬。
書斎の温かな空気が、遠のいたような気がした。
目の前には、ただの印刷された文字がある。
それだけのことだった。
けれど、その文字を見つめているうちに、胸の奥へ冷たいものが沈んでいく。
リディアは、ゆっくりと紙面へ視線を落とした。
そこには、南方の交易に関する短い記事が載っていた。
いつもなら、自然と目を通していたはずの内容だった。
だが今は、どうしても続きを読むことができなかった。
指先が、かすかに強張る。
彼女はそっと息を吐き、紙面を伏せた。
「……リディア?」
不意に、アルジェンの声がした。
顔を上げると、彼がこちらを見ていた。
「……どうした?」
「……あ」
リディアは慌てて微笑もうとした。
「いいえ、何でもございません」
だが、その声は思ったよりも小さかった。
アルジェンは、彼女の表情を静かに見つめた。
先ほどまで、楽しそうに資料を読んでいたはずだった。
それが、何かを見た途端に変わった。
机の上には、伏せられた商業通信がある。
だが、彼はそれを手に取ろうとはしなかった。
「……少し、顔色が悪いな」
アルジェンは穏やかに言った。
「体調が優れないのか?」
「……いいえ」
リディアは首を振った。
「少し、考え事をしてしまっただけです」
「そうか」
アルジェンは頷いた。
そして、少しだけ声を和らげた。
「……無理に笑わなくていい」
リディアが、ゆっくりと顔を上げた。
「……伯爵様」
「何を考えていたのか、私には分からない」
彼は静かに続けた。
「だが、何か気がかりなことがあるのなら、今すぐ気持ちを切り替える必要はない」
責める響きはなかった。
問いただすような眼差しでもなかった。
ただ、彼女の様子を案じている。
それが分かる声だった。
「……私は」
リディアは、何かを言いかけた。
けれど、言葉が続かなかった。
アルジェンは、その沈黙を急かさなかった。
「……話したくないことなら、話さなくていい」
彼は、ゆっくりと告げた。
「君には、君自身の事情があるのだろう」
リディアの瞳が、かすかに揺れた。
「それを無理に聞き出すつもりはない」
アルジェンは、静かに微笑んだ。
「ただ、つらいときまで一人で平気な顔をする必要はない。少なくとも、この屋敷ではな」
その言葉に、リディアは目を伏せた。
彼は、何も尋ねなかった。
自分がどこから来たのか。
なぜ、あの雪原で倒れていたのか。
何を恐れ、何を隠しているのか。
知ろうと思えば、いくらでも尋ねることができたはずだった。
それでも、彼は待ってくれている。
そのことが、リディアには何よりありがたかった。
「……ありがとうございます」
彼女は、小さく答えた。
アルジェンは頷いた。
「今日の視察も、無理に同行する必要はないぞ」
「……え?」
「疲れているのなら、屋敷で休んでいても構わない。鉱山の仕事は、私が確認してくる」
そして、少しだけ微笑む。
「滝は逃げないからな」
リディアは、一瞬目を丸くした。
それから、思わず小さく笑った。
「……ふふっ」
アルジェンも、わずかに口元を緩めた。
「どうする?」
リディアは、少し考えた。
先ほど見た文字は、まだ胸の奥に残っている。
けれど、今は。
目の前にある仕事に向き合いたかった。
そして、約束していた景色を見たかった。
「……でしたら」
彼女は、ゆっくりと顔を上げた。
「予定通り、同行させていただいてもよろしいでしょうか?」
「もちろんだ」
「ふふっ。私、凍った滝をとても楽しみにしておりましたの」
「……そうだったな」
アルジェンは穏やかに微笑んだ。
「では、行こうか」
そして、念を押すように付け加えた。
「ただし、途中でつらくなったら遠慮なく言ってくれ」
「はい」
リディアは頷いた。
今度の笑顔は、少しだけ自然なものだった。
*
鉱山への道は、深い雪に覆われていた。
馬車の車輪が固く踏みしめられた雪を軋ませ、窓の外には針葉樹の森が続いている。
山々は白く染まり、遠くの稜線は冬の空に溶け込むようだった。
リディアは時折、手元の資料へ視線を落としながら、窓の外を眺めた。
先ほどの出来事が、完全に胸から消えたわけではない。
けれど、アルジェンの言葉を思い出すたび、心の奥に小さな温もりが灯った。
――話したくないことなら、話さなくていい。
その言葉が、何度も胸に浮かぶ。
彼は、知らないことを知らないままにしてくれた。
それが、今のリディアには何よりありがたかった。
馬車が大きく揺れると、アルジェンが顔を上げた。
「……大丈夫か?」
「はい。平気です」
「この辺りは、雪の下の道が少し荒れている。もうしばらく揺れるだろう」
「そうなのですね」
リディアは窓の外へ目を向けた。
「この道を通って、鉱石が運ばれていくのですか?」
「ああ。冬は特に手間がかかる」
アルジェンは、遠くの山並みを指し示した。
「あの尾根の向こうが第三鉱山だ。天候によっては、輸送を何日も見合わせることになる」
「……それでは、現場の方々も大変ですね」
「そうだな」
アルジェンは頷いた。
「だからこそ、無理な運行はさせないようにしている」
リディアは、静かに耳を傾けた。
数字の上では、輸送の遅れは単なる記録にすぎない。
けれど、その一行の向こうには、雪道を進む人々がいる。
そのことを、彼はよく理解していた。
*
鉱山へ到着すると、二人は現地の責任者から報告を受けた。
採掘の状況。
冬季の輸送計画。
作業員たちの安全管理。
アルジェンは領主として、時に厳しく、時に丁寧に質問を重ねていく。
リディアは、案内された安全な区域で話を聞き、事前に渡されていた概要資料へ必要な事項を書き留めた。
やがて、輸送予定についての説明になった。
「……今月は、出荷の回数が増えているようだが」
アルジェンが尋ねると、鉱山長は頷いた。
「はい。積雪の影響で、一度に積める量を減らしておりまして」
「なるほど」
「ただ、集計の時期がずれている分もございます。先月末に運び出せなかったものが、今月の予定に回っておりますので」
アルジェンは、静かに頷いた。
「それなら、帳簿上の区分をもう少し分かりやすくしておいた方がいいな」
「承知いたしました」
説明には筋が通っていた。
ただ、ギルバートが以前指摘していた記録の食い違いについては、別途確認が必要だった。
アルジェンは詳細な記録を後日照合するよう指示し、その場では結論を急がなかった。
リディアは、そのやり取りを静かに見守っていた。
疑問があれば確かめる。
だが、理由を聞く前から誰かを疑うことはしない。
アルジェンの仕事ぶりには、いつも変わらない慎重さがあった。
そして、作業員たちの安全について尋ねるときには、数字を確認するとき以上に真剣な眼差しを向けていた。
リディアは、そんな彼の横顔を見つめた。
この人は、やはり。
とても誠実な人なのだ。
*
視察を終える頃には、冬の日差しが山の斜面を淡く照らしていた。
幸い、天候は穏やかだった。
鉱山長に道の状態を確かめると、滝へ続く道も通行できるという。
アルジェンは同行していた者に帰路の予定を伝え、リディアを滝へ案内することにした。
「……ここから少し歩く」
彼は雪道の先へ視線を向けた。
「足元には気をつけてくれ」
「はい!」
リディアは嬉しそうに頷いた。
アルジェンは自然に腕を差し出した。
彼女もまた、ためらうことなくその腕に手を添える。
二人は雪を踏みしめながら、静かな山道を進んだ。
木々の間を抜ける風は冷たかったが、空は澄み渡っている。
やがて、遠くから低い音が聞こえてきた。
水の流れる音。
だが、その響きはどこかくぐもっていた。
「……もうすぐだ」
アルジェンが言った。
リディアは期待に胸を膨らませながら、歩みを進める。
そして。
木々の間を抜けた瞬間、目の前に広がった光景に、思わず足を止めた。
「…………!」
巨大な滝が、凍りついていた。
高い岩壁を覆うように、幾重もの氷柱が垂れ下がっている。
流れ落ちる水が、冬の寒さによってそのまま時を止められたかのようだった。
淡い青色の氷。
透明な結晶。
冬の日差しを受けて、無数の光がきらきらと輝いている。
「……まあ!」
リディアは、感嘆の息を漏らした。
「なんて美しいのでしょう……!」
彼女は、しばらく言葉もなくその景色を見つめていた。
「まるで、山そのものが宝石になってしまったみたい……!」
アルジェンは、隣に立つ彼女を見つめた。
この滝は、彼にとって見慣れた場所だった。
鉱山への視察の途中、何度も目にしてきた冬の景色。
美しいと思ったことはある。
だが、長く足を止めて眺めることは、ほとんどなかった。
それなのに今は。
リディアが隣にいるだけで、見慣れた氷の輝きがまるで違って見えた。
彼女の琥珀色の瞳には、青白い光が映り込んでいる。
その表情を見ていると、胸の奥が静かに満たされていく。
――君に、この景色を見せられてよかった。
そう思った。
*
しばらく滝を眺めていたリディアが、ふと顔を上げた。
「……そういえば、伯爵様」
「何だ?」
「ニヴェリスには、淡い青色をした珍しい鉱石があるのでしたわね?」
アルジェンは、わずかに目を細めた。
「……ニヴェリア鉱石のことか?」
「はい!」
リディアは頷いた。
「以前、書物で見かけたことがあるんです。こちらの国で採れる、とても美しい石だと」
「ああ」
アルジェンは、凍った滝へ視線を向けた。
「採れる場所は限られているし、良質なものはそう多くない。透明度の高い石は、加工すると独特の輝きを見せるんだ」
「まあ……!」
リディアは目を輝かせた。
「それは、ぜひ一度見てみたいです」
アルジェンは少し考えた。
「……そういえば、ヴォルフェルト家には、その石を用いた古い習わしがある」
「習わし、ですか?」
「ああ」
彼は、静かに頷いた。
「婚約の際に、ニヴェリア鉱石をあしらった品を贈ることがあるんだ」
リディアは、興味深そうに耳を傾けた。
「……それには、何か特別な意味があるのでしょうか?」
「ある」
アルジェンは、しばらく滝を見つめていた。
「この地で生まれた石を、これから人生を共にする相手へ贈る」
その声は、穏やかだった。
「それは、自分が大切にしてきた土地や暮らしを、その人と分かち合いたいという願いを表している」
リディアは、静かに息を呑んだ。
自分の大切な場所を。
誰かと、分かち合う。
アルジェンは続けた。
「古い意匠の一つに、『雪の雫』と呼ばれるものがある」
「……雪の雫」
「ああ。雪解けの雫をかたどった、小さな石飾りだ」
アルジェンは、淡い青色の氷を指し示した。
「冬の厳しさを知る者にとって、雪解けは特別なものだからな」
リディアは、ゆっくりと頷いた。
「……なるほど」
「長い冬を越えた先にも、共に歩いていこうという願いが込められているのだそうだ」
その言葉を聞いて、リディアは凍った滝を見上げた。
冷たい氷。
その奥を、今も流れ続けている水。
冬がどれほど長くとも、いつかは雪が解ける。
その日まで、誰かと共に歩いていく。
「……なんて」
リディアは、小さく呟いた。
「なんて、素敵な誓いなのでしょう」
アルジェンは、穏やかに微笑んだ。
「……そうだな」
そして、少しだけ照れくさそうに付け加えた。
「もっとも、私自身がその習わしについて深く考えたことは、これまであまりなかったのだが」
「まあ、そうなのですか?」
「ああ」
アルジェンは、凍った滝を見上げた。
「だが、こうして君と話していると、昔の人々がなぜそのような願いを込めたのか、少し分かる気がする」
リディアが彼を見つめた。
「……美しいものを、美しいと思える人と一緒に見る」
その声には、静かな温もりがあった。
「それだけのことが、こんなにも嬉しいものなのだな」
リディアは、しばらく何も言わなかった。
ただ、彼の言葉を大切に受け止めるように、静かに目を伏せた。
そして。
ふと、左手の薬指へ触れた。
手袋越しに、そっと。
そこには、何もない。
アルジェンは、その仕草に気づいた。
けれど、何も言わなかった。
リディアは、しばらく凍った滝を見つめていた。
やがて、静かに口を開く。
「……伯爵様」
「何だ?」
「誓いというものは……」
彼女は、少しだけ言葉を探した。
「交わすことよりも、守り続けることの方が、ずっと難しいのかもしれませんわね」
その言葉は、冬の空気の中へ静かに落ちた。
アルジェンは、すぐには答えなかった。
リディアは、自分でも少し驚いたように目を伏せた。
「……ごめんなさい」
小さく微笑もうとする。
「せっかくの美しいお話でしたのに、妙なことを申してしまいましたわ」
アルジェンは、ゆっくりと首を振った。
「……いや」
低く、落ち着いた声だった。
「妙なことではない」
リディアが顔を上げる。
アルジェンは、凍りついた滝を見つめていた。
「……君の言う通りだと思う」
彼は静かに続けた。
「誓いを口にすることは、そう難しくないのかもしれない」
冷たい風が、二人の外套を揺らした。
「だが、それを守り続けるには、言葉だけでは足りない」
リディアは、黙って耳を傾けた。
「人は、時に迷う。恐れる。自分の弱さに負けることもあるだろう」
アルジェンは、ゆっくりと彼女へ視線を戻した。
「だからこそ、誓いには覚悟が必要なのだと思う」
リディアの瞳が、かすかに揺れた。
「……覚悟、ですか」
「ああ」
アルジェンは頷いた。
「相手が穏やかに笑っているときだけでなく、苦しんでいるときにも、その隣に立ち続ける覚悟だ」
その言葉に、リディアは静かに息を呑んだ。
アルジェンは、彼女の表情を見つめた。
先ほどまで、あれほど嬉しそうに滝を眺めていた。
それが、ほんの一瞬で変わってしまった。
何かを思い出したのだろう。
それが彼女にとって、あまり楽しい記憶ではないことも分かった。
だが、アルジェンは理由を尋ねなかった。
今朝、彼女へ伝えた言葉を思い出していた。
――話したくないことなら、話さなくていい。
その言葉を、こんなところで覆すつもりはなかった。
「……リディア」
彼は、静かに名を呼んだ。
「はい……?」
「君が何を思い出したのか、私には分からない」
リディアは、ゆっくりと顔を上げた。
「だが、今の言葉は、私も覚えておきたいと思う」
「……伯爵様」
「誓いを立てるのなら、守り続ける覚悟が必要だ」
アルジェンは、静かに微笑んだ。
「……大切なことだな」
リディアは、しばらく彼を見つめていた。
そして、ゆっくりと頷いた。
「……はい」
その声は、少しだけ震えていた。
けれど、今度は無理に笑おうとはしなかった。
アルジェンは、彼女の様子を確かめると、そっと手を差し出した。
「……少し冷えてきたな」
いつもと変わらない、穏やかな声だった。
「そろそろ戻ろうか。日が傾けば、山道は一層冷え込む」
リディアは、差し出された手を見つめた。
大きな手。
雪道を歩くとき、いつも自然に差し出される手。
その手が、どれほど自分を安心させてくれるのか。
今なら、少しだけ分かる気がした。
「……はい」
リディアは、そっと自分の手を重ねた。
「ありがとうございます、伯爵様」
アルジェンは、穏やかに微笑んだ。
「……礼を言われるようなことではないさ」
「いいえ」
リディアは、静かに首を振った。
「……とても、嬉しかったんです」
アルジェンは、少しだけ目を細めた。
それ以上は尋ねなかった。
ただ、彼女の手を支えながら、ゆっくりと歩き始めた。
*
凍りついた滝は、何も語らずそこにあった。
幾重にも重なる氷柱。
淡い青色の光。
その奥では、今も水が流れ続けている。
表面は凍りついていても、内側には確かな流れがある。
リディアは、もう一度だけ滝を振り返った。
冬は、まだ終わらない。
雪が解ける日も、まだ遠い。
けれど。
この氷の奥にも、絶えることのない流れがある。
そのことが、今は不思議と心強かった。
「……伯爵様」
リディアは、隣を歩く彼を見上げた。
「今日は、こちらへ連れてきてくださって、本当にありがとうございました」
アルジェンは、穏やかに微笑んだ。
「……君に見せたいと思っていた景色だからな」
彼は、凍った滝へ視線を向けた。
「喜んでもらえたのなら、何よりだ」
「……はい」
リディアは、静かに微笑んだ。
「とても、素敵な景色でした」
その声には、先ほどまでの寂しさが少しだけ薄れていた。
アルジェンは、彼女の横顔を見つめた。
この滝を見せたいと思ったのは、彼女が喜んでくれるだろうと考えたからだった。
だが、今は。
ただ美しい景色を見せるだけでは足りないのかもしれない、と感じていた。
彼女が何かを思い出して、言葉を失うとき。
無理に笑おうとするとき。
そんなときにも、何も尋ねず隣にいられる人間でありたい。
そう願っていた。
それが何という感情なのか。
今すぐ答えを出す必要はない。
ただ、彼女と過ごす時間を大切にしたかった。
リディアは、アルジェンの腕にそっと手を添えた。
二人は並んで、雪の山道を歩き始めた。
彼の歩幅は、いつも彼女に合わせられている。
急かすことも、置いていくこともない。
ただ、隣を歩いてくれる。
その何気ない優しさが、リディアには何より温かかった。
遠くで、風が木々を揺らした。
凍りついた滝の奥では、見えない水が静かに流れ続けている。
リディアは、ふと自分の左手へ視線を落とした。
先ほど、無意識に触れた薬指。
そこには、今も何もない。
けれど。
彼女は、その手をそっと下ろした。
そして、隣を歩くアルジェンへ顔を向ける。
「……伯爵様」
「何だ?」
「春になったら、今度はどんな景色が見られるのでしょう?」
アルジェンは、少し考えた。
「……そうだな」
それから、穏やかに微笑んだ。
「雪解けの頃には、山の斜面に小さな花が咲く。川の流れも、今よりずっと賑やかになるだろう」
「まあ……!」
リディアの瞳が輝いた。
「それも、ぜひ見てみたいです」
「……ああ」
アルジェンは頷いた。
「そのときは、また案内しよう」
リディアは、嬉しそうに微笑んだ。
「……楽しみにしておりますね」
二人は、ゆっくりと山道を下っていった。
冬は、まだ終わらない。
けれど、その先には確かに春がある。
そして今、二人は同じ道を歩いていた。
白銀の山々は、静かにその背中を見守っていた。




