第六章 春を拒む影 後編
幸福とは、案外静かなものなのかもしれない。
暖炉の火が燃える音。
書類をめくる指先。
誰かが淹れてくれた紅茶の香り。
そして、ふと顔を上げたとき、見慣れた人がそこにいること。
リディアは、そんな日々を少しずつ愛おしく思うようになっていた。
凍りついた滝を訪れてから、数日が過ぎた。
あの日、帰りの馬車で思いがけず涙をこぼしてしまったことも、談話室でアルジェンの肩に頭を預けたことも、今では大切な記憶になっている。
彼は、何も急かさなかった。
過去を語ることも、涙を止めることも、無理に笑うことも求めなかった。
ただ、隣にいてくれた。
それだけで、どれほど救われたことだろう。
あの日以来、リディアはときおり、彼を名前で呼ぶようになっていた。
まだ少し照れくさくて、いつもの「伯爵様」に戻ってしまうこともある。
それでも、彼がそのたびにほんのわずか表情を和らげることに、リディアは気づき始めていた。
そんな小さな変化が、嬉しかった。
けれど。
冬の静けさは、必ずしも平穏だけを運んでくるわけではない。
その日の午前。
ヴォルフェルト伯爵邸には、エルデンフェルト王国から交易使節団が訪れることになっていた。
*
「……あら?」
書斎の一角で資料を整理していたリディアは、一枚の記録に目を留めた。
先日の鉱山視察で確認した出荷予定と、今月の輸送費の見込み。
二つを並べると、わずかに気になる箇所があった。
「……こちらの輸送費、予定されている出荷量に対して、少し高いような……」
小さく呟き、もう一度数字を追う。
採掘量。
運搬に必要な人手。
雪による輸送の遅延。
どれも、独立した数字ではない。
それぞれが結びつき、領地の暮らしや産業を支えている。
もっとも、書類に記された数字だけで判断できることには限りがあった。
先日の視察でも、現場でなければ分からない事情がいくつも見つかっている。
リディアは気になる箇所に小さく印をつけ、確認事項として別紙へ書き留めた。
そのとき、廊下の向こうから足音が聞こえてきた。
「……そういえば」
彼女は顔を上げた。
「今日は、エルデンフェルトからお客様がいらっしゃるのでしたわね」
エルデンフェルト王国。
ニヴェリスと交易関係を結ぶ隣国であり、南方から運ばれる物資の中継地でもある。
冬の間は山道の多くが雪に閉ざされるため、交易の維持には細やかな調整が欠かせない。
今回の使節団も、通行可能な経路と天候を慎重に見極めながら、ようやく到着する予定だった。
リディアは資料を揃え、机の端へ寄せた。
今日はアルジェンと使節団との協議がある。
自分にできることがあれば、少しでも役に立ちたい。
そう考えながら、書類の表紙を整えていた。
まだ、そのときは知らなかった。
今日この書斎で交わされる言葉が、ようやく穏やかになり始めた日々へ、小さな影を落とすことになるとは。
*
やがて、重厚な扉が開いた。
「……待たせたな、リディア」
聞き慣れた声に、彼女は顔を上げた。
「アルジェン様」
アルジェンは、玄関広間で使節団を出迎えたばかりだった。
その隣には、一人の女性が立っている。
品よく整えられた衣装。
無駄のない、洗練された立ち居振る舞い。
落ち着いた眼差しの奥には、相手の言葉を慎重に見極める知性が感じられた。
「エルデンフェルトからの使節団が到着した」
アルジェンは、リディアへ穏やかに頷いた。
「紹介しよう。こちらは交易交渉官のセレスティーヌ・ヴァレンベルク卿だ」
続いて、隣の女性へ視線を向ける。
「セレスティーヌ、こちらはリディア。現在、私の執務を手伝ってもらっている」
そして、机上に整えられた資料へ目を向けた。
「今回の協議に必要な交易記録も、彼女が整理してくれた」
セレスティーヌは、わずかに眉を上げた。
「まあ」
それから、興味深そうに微笑む。
「あのヴォルフェルト伯爵が、ずいぶんと頼りにしていらっしゃるのですね」
「……事実を述べただけだ」
「ええ、もちろん」
セレスティーヌは、涼しい顔で頷いた。
だが、その口元には、ほんの少しだけ悪戯っぽい笑みが浮かんでいる。
アルジェンは小さく息を吐いた。
「……余計なことは言わなくていい」
「まだ何も申し上げておりませんわ」
そのやり取りに、リディアは思わず目を瞬かせた。
どうやら、二人は以前から親しい仕事仲間らしい。
普段のアルジェンとは少し違う、気安いやり取りが新鮮だった。
リディアは、丁寧に一礼した。
「初めまして、ヴァレンベルク卿。リディアと申します」
柔らかく微笑む。
「伯爵様には、日頃より大変お世話になっております。どうぞよろしくお願いいたします」
「こちらこそ、よろしくお願いいたします。リディア様」
セレスティーヌも、優雅に会釈を返した。
その際、彼女はリディアの所作へ、ほんのわずか注意を向けた。
背筋の伸ばし方。
言葉の選び方。
相手へ敬意を示しながらも、必要以上にへりくだらない態度。
よく教育を受けた女性なのだろう。
そう感じた。
だが、それ以上の詮索はしなかった。
交易の場では、相手の素性よりも、まず目の前で交わされる言葉を見極めることが大切だったからだ。
「リディア」
アルジェンが声をかけた。
「今日の協議には、君も同席してもらえるだろうか」
「私も、ですか?」
「ああ。交易に関する資料を最もよく把握しているのは、君だからな」
アルジェンは、机上の書類へ目を向けた。
「必要なときに、意見を聞かせてほしい」
リディアの表情が、ぱっと明るくなった。
「はい。喜んで!」
彼女は、嬉しそうに微笑んだ。
「少しでもお役に立てるのでしたら、何よりですわ」
アルジェンもまた、穏やかに頷いた。
やがてギルバートも同席し、交易協議が始まった。
机の上には、セレスティーヌが持参した資料が広げられていく。
周辺諸国の交易路。
関税。
物資の流通状況。
冬季の輸送計画。
どれも、リディアにとって興味深いものだった。
彼女は必要な箇所へ目を通しながら、丁寧に記録を取っていった。
*
「……では、冬季の輸送量については、昨年と同程度を維持できる見込みなのだな」
アルジェンが、資料を確認しながら尋ねた。
「現時点では、その予定ですわ」
セレスティーヌは頷いた。
「ただし、南方からの物資については、少し事情が変わり始めています」
「……事情?」
「ええ」
彼女は、別の資料を取り出した。
「南方の一部地域で、関税制度の見直しが進められているのです」
アルジェンは、静かに眉を寄せた。
「……どの国だ?」
セレスティーヌは、地図の一角を指し示した。
「ルミエラ王国です」
その瞬間。
リディアの指が、止まった。
「…………」
羽根ペンの先が、紙の上でわずかに震える。
ルミエラ。
耳にするだけで、胸の奥が冷たくなる名前。
遠く離れた、温かな土地。
潮風の香り。
陽射しに照らされた庭園。
そして、思い出そうとするたびに胸が痛む、いくつもの記憶。
リディアは、そっと目を伏せた。
――どうして。
どうして、ここでその名を聞くことになるのだろう。
今朝までは、いつもと変わらない穏やかな一日だった。
それなのに。
たった一つの国名が、胸の奥にしまい込んでいたものを揺り起こしてしまった。
「……リディア?」
アルジェンの声がした。
彼女は、はっと顔を上げた。
「……はい」
慌てて微笑もうとする。
けれど、アルジェンは何も尋ねなかった。
ただ、彼女の手元へ一瞬だけ視線を落とし、それからセレスティーヌへ向き直った。
「……続けてくれ」
その声は、いつもと変わらず落ち着いていた。
セレスティーヌは頷いた。
「現在、ルミエラでは輸出入に関する規定の変更が相次いでいます」
彼女は資料を一枚めくった。
「表向きは財政の立て直しを目的としたものですが、商人たちの間では、特定の商会に不利な条件が課されているのではないかという話も出ています」
「……一律の改定ではないのか?」
「正式な布告だけを見れば、そうは読み取れません。ですが、実際の通関手続きでは、商会によって扱いに差があるという報告が届いております」
アルジェンは、黙って資料へ目を落とした。
「……確認は取れているのか」
「まだ十分ではありません」
セレスティーヌは、慎重に答えた。
「情報の出どころも一定ではありませんし、単なる手続き上の混乱という可能性もございます」
彼女は、少しだけ声を落とした。
「ただ、宮廷内でも人事の変更が続いているようでして……。少なくとも、以前と同じ状況ではないのでしょう」
リディアは、静かに息を吸った。
宮廷。
その言葉が、胸の奥へ重く沈んだ。
今、あの場所では何が起きているのだろう。
自分が知っていた人々は、どうしているのだろう。
そして。
あの日から、何が変わってしまったのだろう。
知りたい。
けれど、知るのが怖い。
相反する気持ちが、胸の中で絡み合った。
リディアは、膝の上でそっと指を握り込んだ。
ここで取り乱すわけにはいかない。
今の自分は、ヴォルフェルト伯爵の執務を手伝う立場なのだから。
彼女は、ゆっくりと息を整えた。
「……ヴァレンベルク卿」
小さく声をかける。
セレスティーヌが顔を向けた。
「はい、リディア様」
「その関税の見直しは、ニヴェリスへ運ばれる物資にも影響しているのでしょうか?」
声には、わずかな緊張が残っていた。
けれど、問いかけは明確だった。
セレスティーヌは頷いた。
「ええ。現時点では限定的ですが、今後の価格に影響する可能性があります」
「……そうですか」
リディアは、机上の資料へ目を落とした。
そこには、冬を越すために必要な物資の一覧が記されている。
食料。
薬草。
生活に欠かせない日用品。
数字の向こうには、領民たちの暮らしがある。
今は、目の前のことを考えよう。
そう自分に言い聞かせた。
「……でしたら、まずは現在の備蓄量を確認する必要がございますわね」
アルジェンが、静かに顔を上げた。
リディアは続ける。
「新しい交易路を探すことも大切ですけれど、今は冬の最中です」
彼女は、地図上の山道を指し示した。
「無理に輸送経路を増やせば、かえって費用や事故の危険が大きくなってしまいます」
セレスティーヌが、興味深そうに頷いた。
「なるほど」
「まずは春までに必要な物資の量と、現在の備蓄を照らし合わせること」
リディアは、慎重に言葉を選んだ。
「そのうえで、既存の取引先からどこまで安定して調達できるかを確認するべきかと存じます」
彼女の指が、地図上のエルデンフェルトへ移った。
「新しい仕入れ先や輸送経路については、今から情報を集めておくのがよろしいのではないでしょうか」
少し考え、付け加える。
「すぐに大きく動くのではなく、春以降に選べる道を増やしておくのです」
アルジェンは、黙って耳を傾けていた。
先ほどまで、彼女の手はかすかに震えていた。
それでも、仕事へ向き合おうとしている。
ただし、それを無理に続けさせることが正しいとは限らない。
アルジェンは、彼女の表情を確かめた。
リディアは、今はしっかりと資料へ目を向けている。
彼は、静かに頷いた。
「……妥当な判断だと思う」
その言葉に、リディアが顔を上げた。
「私も、同じ方向で考えていた」
アルジェンは、セレスティーヌへ視線を向けた。
「既存の輸送経路を維持しつつ、春以降に備えて代替の供給先を調べたい」
「承知いたしました」
セレスティーヌは頷いた。
そして、ふとリディアへ視線を向けた。
「……一つ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
「はい?」
「リディア様は、交易の実務について、以前から学ばれていたのですか?」
リディアは、ほんの一瞬だけ目を瞬かせた。
だが、すぐに柔らかく微笑んだ。
「……少しだけ、学ぶ機会がございました」
「そうでしたか」
セレスティーヌは、それ以上尋ねなかった。
ただ、感心したように頷く。
「数字だけでなく、その先の輸送や暮らしまで考えていらっしゃる。実務に携わる者として、見習いたい姿勢ですわ」
「まあ……そのように仰っていただけるなんて」
リディアは、少し照れくさそうに微笑んだ。
「ありがとうございます」
その様子を、アルジェンは静かに見つめていた。
彼女の過去について、知らないことは多い。
だが、目の前にいるリディアの聡明さは、誰かの評価を借りずとも分かっている。
そのことが、彼には誇らしかった。
*
協議は、その後もしばらく続いた。
輸送量の調整。
冬季の価格変動。
春以降の取引についての見通し。
必要な事項を確認し終える頃には、窓の外の陽射しが少し傾いていた。
「……では、本日の協議はここまでとしよう」
アルジェンが、資料を揃えながら言った。
「セレスティーヌ、遠路ご苦労だった」
「こちらこそ、有意義なお話ができました」
セレスティーヌは、穏やかに微笑んだ。
「詳細については、改めて文書をお送りいたします」
「ああ。頼む」
ギルバートが立ち上がり、使節団の案内を引き受けた。
セレスティーヌは、最後にリディアへ向き直った。
「リディア様」
「はい」
「本日は、お話しできて嬉しかったですわ」
彼女は、柔らかく微笑んだ。
「また、交易についてご意見を伺える機会があれば幸いです」
リディアもまた、丁寧に一礼した。
「こちらこそ、ありがとうございました。大変勉強になりましたわ」
セレスティーヌは頷き、ギルバートと共に書斎を後にした。
扉が閉まる。
室内には、静けさが戻った。
*
リディアは、机の上に残された資料を揃えていた。
いつものように。
丁寧に、一枚ずつ。
けれど、指先にはまだ、わずかな強張りが残っていた。
「……リディア」
アルジェンの声がした。
彼女は顔を上げた。
「はい、伯爵様」
アルジェンは、机の向こうから静かに歩み寄った。
「……疲れていないか?」
「……大丈夫ですわ」
リディアは微笑んだ。
「今日は、とても勉強になりました」
「そうか」
彼は頷いた。
だが、すぐには話を終えなかった。
「……先ほど、少し顔色が悪かった」
リディアの指先が止まる。
「…………」
アルジェンは、穏やかに続けた。
「何があったのか、尋ねるつもりはない」
その言葉に、リディアはゆっくりと顔を上げた。
「ただ、無理をしていないか、それだけが気になった」
灰青色の瞳が、静かに彼女を見つめていた。
責める響きはない。
疑う眼差しもない。
ただ、心配してくれている。
リディアは、そっと目を伏せた。
「……少しだけ」
小さく答える。
「……驚いてしまったのです」
アルジェンは、黙って耳を傾けた。
「昔のことを……思い出してしまって」
それ以上は、言葉にならなかった。
胸の奥に、まだ触れられないものがある。
けれど。
以前なら、こうして口にすることさえできなかっただろう。
アルジェンは、静かに頷いた。
「……そうか」
そして、彼女の手元にある書類へ目を向けた。
「今日は、もう十分に働いてくれた」
リディアが、少し驚いたように顔を上げる。
「……ですが、まだ整理が……」
「それは明日で構わない」
アルジェンは、穏やかに微笑んだ。
「急ぎの仕事ではないからな」
リディアは、しばらく彼を見つめていた。
それから、少しだけ困ったように笑った。
「……伯爵様は、時々ずるいですわ」
「……ずるい?」
「はい」
彼女は、そっと目を細めた。
「私が無理をしていると、すぐに気づいてしまわれるんですもの」
アルジェンは、一瞬だけ目を瞬かせた。
そして、静かに笑った。
「……君が分かりやすいというわけではないさ」
彼は、少しだけ言葉を探した。
「ただ……気にかけているからだろうな」
リディアの頬が、ほんのりと赤くなる。
「…………」
アルジェンも、自分の言葉に少し遅れて気づいたらしい。
わずかに視線を逸らした。
「……ともかく、今日は休んでくれ」
リディアは、思わず小さく笑った。
「……はい」
そして、そっと頷く。
「ありがとうございます、アルジェン様」
その呼び方に、アルジェンの表情がわずかに和らいだ。
リディアは、その変化を見て、また小さく微笑んだ。
けれど。
書斎を出る前、彼女は一度だけ机上の地図へ視線を向けた。
遠く南方に記された、一つの国。
そこから届いた知らせが、まだ胸の奥に重く残っている。
何も知らないままでは、いられないのかもしれない。
そんな思いが、ふとよぎった。
リディアは、静かに目を伏せた。
そして、何も言わずに書斎を後にした。
*
それから数日後。
ヴォルフェルト伯爵邸には、いつもの日常が戻っていた。
エルデンフェルトの使節団との協議も、ひとまず落ち着いている。
リディアは別室で、輸送記録の整理を手伝っていた。
その頃。
アルジェンの書斎には、ギルバートが訪れていた。
「……伯爵」
扉の向こうから、落ち着いた声がした。
「南方の交易情勢について、追加の報告がございます」
アルジェンは、鉱山の産出記録から顔を上げた。
「……入れ」
ギルバートが入室する。
手には、一件の報告書があった。
普段なら、軽口の一つでも添えるところだった。
だが、今日の彼はいつになく慎重な表情をしている。
アルジェンは、すぐに察した。
「……何かあったのか」
「まだ、確かなことではありません」
ギルバートは、静かに答えた。
「ただ、少々気になる情報が届いております」
アルジェンは、手にしていたペンを置いた。
「……聞こう」
ギルバートは、報告書を差し出した。
「ルミエラ王国の関税措置については、セレスティーヌ卿からの報告と、おおむね一致しております」
アルジェンは、静かに頷いた。
「……ああ」
「それに加えて、南方から来た商人たちの間で、いくつか妙な話が出ているようです」
「……妙な話?」
ギルバートは、報告書の一箇所を指し示した。
「冬季に閉鎖される北方の街道について、通行状況を繰り返し尋ねていた者がいたそうです」
アルジェンは、黙ってその箇所へ目を落とした。
「……商人が街道の状況を尋ねること自体は、珍しくないだろう」
「ええ。その通りです」
ギルバートは頷いた。
「ですが、物資の輸送予定を持たない者まで、同じようなことを尋ねていたという話がありまして」
アルジェンの眉が、わずかに動いた。
「……確認は取れているのか」
「いいえ」
ギルバートは、はっきりと答えた。
「情報の出どころも限られております。単なる噂話という可能性も十分にあります」
彼は、少しだけ声を落とした。
「ただ、南方の情勢が不安定になっている時期です。念のため、ご報告しておくべきかと」
アルジェンは、静かに頷いた。
「……適切な判断だ」
報告書を机へ置く。
そして、しばらく考え込んだ。
冬季の閉鎖街道。
南方の商人。
不自然な問い合わせ。
それだけでは、何も断定できない。
だが、気になることがないわけではなかった。
アルジェンの脳裏に、数日前のリディアの姿が浮かんだ。
ルミエラの名を聞いた瞬間。
彼女の指先が、わずかに震えた。
あの変化を、彼は見逃していなかった。
けれど。
だからといって、二つの出来事を安易に結びつけることはできない。
リディアが南方の国に何らかの思い出を持っていたとしても、それが今回の交易情勢と関係しているとは限らないのだから。
「……ギルバート」
アルジェンは、静かに口を開いた。
「この件については、引き続き情報を集めてくれ」
「承知いたしました」
「ただし、憶測で人を疑うことのないように」
彼は、まっすぐに旧友を見つめた。
「交易に関わる者たちの動向と、街道の安全について調べればいい」
ギルバートは頷いた。
「……リディア様については?」
アルジェンは、一瞬だけ黙った。
それから、静かに答える。
「……彼女の過去を調べる必要はない」
ギルバートが、顔を上げた。
「彼女自身が話したくないことを、私が勝手に暴くべきではないからな」
その声には、迷いがなかった。
「だが、領内に危険が及ぶ可能性があるなら、それは別の問題だ」
アルジェンは、報告書へ視線を落とした。
「街道の警備と、冬季の通行記録の確認を進めてくれ。何か具体的な動きがあれば、すぐに知らせてほしい」
「……承知いたしました」
ギルバートは、静かに頷いた。
そして、しばらく旧友を見つめていた。
「……伯爵」
「何だ?」
「一つだけ、お聞きしてもよろしいでしょうか」
普段の軽妙な口調とは違う、真剣な声だった。
アルジェンは、ゆっくりと視線を戻した。
ギルバートは、まっすぐに彼を見つめた。
「あなたが守ろうとしているのは、彼女の秘密ですか」
一度、言葉を切る。
「……それとも、彼女自身ですか?」
書斎に、静寂が落ちた。
暖炉の薪が、ぱちりと音を立てる。
アルジェンは、しばらく何も言わなかった。
その問いは、思いがけないものではなかった。
むしろ、いつか自分自身が向き合わなければならないと分かっていたものだった。
秘密を守ること。
彼女の事情を無理に聞き出さないこと。
危険から遠ざけること。
それらは、保護した者に対する責任としても、領主としても必要な判断だった。
けれど。
なぜ、彼女が涙を流すと、これほど胸が痛むのか。
なぜ、彼女が笑うと、自分まで満たされた気持ちになるのか。
なぜ、明日も、その先も、彼女と同じ時間を過ごしたいと思うのか。
その答えを、アルジェンはまだ一つの言葉にできずにいた。
だが。
何を大切にしたいのかだけは、もう分かっていた。
彼は、静かに目を閉じた。
そして、ゆっくりと息を吐く。
「……彼女自身だ」
目を開けたとき、その瞳に迷いはなかった。
ギルバートは、黙って耳を傾けていた。
「秘密を守ることは、彼女の意思を尊重するためのものだ」
アルジェンは、静かに続けた。
「だが、私が大切にしたいのは、彼女が安心して日々を過ごせることだ」
その声には、穏やかな強さがあった。
「彼女が何を抱えているのか、私はまだ知らない」
アルジェンは、窓の外へ視線を向けた。
「……だからこそ、知ったつもりになってはいけないのだろう」
ギルバートは、静かに頷いた。
「……ええ」
「ただ、もし彼女の身に危険が迫ることがあるなら」
アルジェンは、ゆっくりと視線を戻した。
「そのときは、私にできる限りのことをする」
その言葉は、決して大仰なものではなかった。
領主として、守るべきものがある。
危険を見誤れば、自分だけでなく領民にも影響が及ぶ。
だからこそ、慎重でなければならない。
けれど。
その慎重さを、何もしない理由にはしたくなかった。
「……彼女の意思を尊重しながら、必要な備えをしておきたい」
アルジェンは、静かに言った。
「それが、今の私にできることだ」
ギルバートは、しばらく旧友を見つめていた。
そして、少しだけ表情を和らげる。
「……伯爵」
「何だ?」
「あなたは、本当に変わられましたね」
アルジェンは、眉をひそめた。
「……何がだ」
ギルバートは、穏やかに微笑んだ。
「以前から、あなたは領民のことを誰よりも大切に考えていらっしゃいました」
そして、少しだけ悪戯っぽく目を細める。
「ですが今は、その大勢の中の一人を、ずいぶんと特別に気にかけていらっしゃる」
アルジェンは、しばらく黙っていた。
否定しようと思えば、できた。
彼女は有能な助手だ。
領地のために必要な人材だ。
保護した者の安全を守るのは、当然の責務だ。
以前なら、いくらでも理由を並べられただろう。
けれど。
今は、そのどれもが十分な答えには思えなかった。
「……そうかもしれんな」
アルジェンは、静かに言った。
ギルバートが、わずかに目を見開く。
「……おや」
「……何だ」
「いえ。てっきり、いつものように否定なさるものかと」
アルジェンは、小さく息を吐いた。
「……事実を否定しても仕方がないだろう」
ギルバートは、思わず笑みを深めた。
「……なるほど」
そして、少しだけ声を落とす。
「では、そのお気持ちを、いつかリディア様にも?」
アルジェンは、しばらく答えなかった。
窓の外では、細かな雪が降り続いている。
リディアは今、別室で仕事をしているはずだった。
きっと、いつものように真剣な顔で数字を追っているのだろう。
時折、何かに気づいて小さく首を傾げる。
そして、彼に相談するときには、嬉しそうに微笑む。
その姿が、自然と脳裏に浮かんだ。
「……今は、まだ」
アルジェンは、静かに答えた。
「彼女には、考えなければならないことがあるのだろう」
彼は、机上の書類へ目を落とした。
「私の気持ちまで、急いで受け止めてもらう必要はない」
ギルバートは、黙って頷いた。
アルジェンは、少しだけ微笑んだ。
「……それに」
「それに?」
「私自身、まだ整理がついていない」
ギルバートは、一瞬だけ目を瞬かせた。
そして、静かに笑った。
「……それは、なかなか珍しいことですね」
「……君は本当に、余計なことを言う」
「長年のお付き合いですから」
ギルバートは、涼しい顔で答えた。
アルジェンは、呆れたように息を吐いた。
だが、その口元には、かすかな笑みが浮かんでいた。
*
やがて、ギルバートは報告書をまとめた。
「では、街道の件は引き続き確認いたします」
「ああ。頼む」
「ただし、伯爵」
ギルバートは、扉へ向かいかけてから振り返った。
「……何だ?」
「ご自身の休息も、どうかお忘れなく」
アルジェンは、わずかに眉を寄せた。
「……分かっている」
「本当でしょうか」
「……ギルバート」
「はい」
「君は、最近少し口が達者になったな」
ギルバートは、穏やかに微笑んだ。
「以前からでございます」
アルジェンは、何も言い返さなかった。
ギルバートは一礼し、静かに退室した。
扉が閉まる。
再び、書斎に静寂が戻った。
アルジェンは、しばらく机上の報告書を見つめていた。
冬季の街道。
南方の情勢。
まだ確かめられていない、小さな噂。
今の段階では、何も断定できない。
だが、だからといって、見過ごしてよいわけでもなかった。
アルジェンは、報告書を閉じた。
そして、窓の外へ視線を向ける。
白銀の世界が、どこまでも広がっていた。
その景色を眺めているうちに、ふと、数日前のことを思い出した。
凍りついた滝。
帰りの馬車で涙をこぼしたリディア。
そして、談話室の暖炉の前で、自分の肩へ頭を預けてきた彼女。
――アルジェン様。
あのときの声が、今も耳に残っている。
彼女が初めて自分の名を呼んだ瞬間。
胸の奥に灯った温もり。
あれは、何だったのだろう。
アルジェンは、静かに目を伏せた。
まだ、うまく言葉にはできない。
けれど。
彼女が笑っていると、嬉しい。
彼女が苦しんでいると、胸が痛む。
明日も会いたい。
その先も、できることなら同じ景色を見ていたい。
その願いは、もう否定できなかった。
「……リディア」
誰もいない書斎で、小さく名を呼ぶ。
彼女は、まだ自分の過去を語れない。
その理由を、彼は知らない。
そして、今はまだ、知らなくてもよいと思っていた。
大切なのは、彼女が自分の意思で歩いていけること。
その隣に立つことを、彼女が望んでくれるなら。
自分もまた、そこにいたい。
アルジェンは、静かに目を開けた。
遠く南方では、何かが動き始めているのかもしれない。
その影が、いつかこの地へ届くのかもしれない。
だが、まだ見ぬ危険を恐れるあまり、今ある日々を見失うわけにはいかなかった。
守るべきものを守るために。
確かめるべきことを確かめるために。
そして、彼女が安心して笑える明日を、これからも重ねていくために。
アルジェンは、再びペンを取った。
その手に、迷いはなかった。
窓の外では、雪が静かに降り続いている。
冬は、まだ終わらない。
春の訪れも、まだ遠い。
けれど。
白銀の国の静かな書斎で。
銀狼は、胸の奥に灯り始めた想いを、もう見ないふりはしなかった。




