5 砕けた心
翌朝、リディアは真っ赤に目を腫らした状態で家族たちの前に姿を現した。
そんな彼女を見た父侯爵が、心配そうに声をかけた。
「リディア……どうかしたのか?目が真っ赤だぞ」
「お父様……何でもないんです。ただ、ちょっと目が痒くてかいちゃっただけです」
「そうか……医者を呼ぼうか?」
リディアは首を横に振り、そこまでではないと答えた。
家族たちに、泣いていたことを知られたくなかったのだ。
「お父様、お母様。心配しないでください……アカデミーに行ってきます」
「何かあったらすぐに言いなさい、行ってらっしゃい」
リディアは挨拶をすると、カバンを持って邸宅を出て行った。
何だか学園までの道のりが、とても長いように感じられた。窓から外をボーッと眺めながら、彼女は馬車に揺られていた。今日はどんなことがあるんだろう。もう期待もしていなかった。
ただ、何事も無く平穏に終わればいいなと思うだけ。そんな願いが叶えられたことなんてほとんど無かったのだが。
アカデミーに到着すると、生徒たちがリディアを見てヒソヒソと噂話をしていた。
あぁ、やっぱり昨日エリオットがエミリーたちと出かけたことが早速噂になっているようだ。
予想はしていたことだったが、そんな風に好奇の目に晒されると何だか辛い。
リディアはその視線たちに耐え、馬車から下りた。
門から中に入り、教室までの道のりを歩く。いつもと変わらない、日常。誰もが腫物を扱うように彼女を遠ざける。
「――フロイト令嬢、おはようございます」
「……オースティン令嬢?」
浮かない顔で歩いていた彼女に話しかけたのは、昨日昼食を共にしたヴァイオレットだった。
彼女は軽く笑いながら、呆然とするリディアに近づいた。
「昨日、あんなことがあったから心配していたんですのよ」
「令嬢……」
多くいる生徒たちの中で、リディアに声をかけたのは彼女だけだった。
――私を、心配してくれていたの?
リディアは驚きで目を見開いた。今までそんなことを言ってくれた人は、家族以外にはいなかったからだ。昨日親しくなったばかりの彼女が、自分を気にかけていたのだということが信じられなかった。
ヴァイオレットはリディアを元気付けるようにその手を取り、両手でそっと包み込んだ。
「令嬢、変な噂を真に受ける必要はありません。ローレンス公子は聡明な方です。彼女たちと一緒にいるのも、きっと何かそうしなければならない理由があるからですわ。ですから、きっとすぐに以前のような仲に戻れますよ」
「……」
彼女はそう言いながら、柔らかく微笑んだ。
他人にこんなにも優しくされたのは、いつぶりだろうか。リディアの心は、たしかに揺れ動いていた。
(……彼女になら、全てを打ち明けられるかもしれない)
リディアの目に涙が滲み、彼女は無意識に口を開いていた。
「オースティン令嬢、私実は、エリオットに……」
勇気を振り絞って何とか出した言葉は、ある人物の声によってかき消された。
「――エリオット様、送ってくれてありがとうございます」
突如背後から聞こえた耳障りな音に、リディアは喉に何かがつっかえて声が出せなくなった。
彼女はゆっくりと首を動かし、声の聞こえた方を振り向いた。
「気にしないでくれ」
エリオットが、馬車から下りるエミリーたちに手を差し伸べているところだった。
平民のエミリーは馬車を所有しておらず、徒歩で通学しなければならない。
そんな彼女を憐れに思ったのか、エリオットはわざわざローレンス公爵家の馬車で毎日彼女を送っているのだという。
ついでに彼女と仲の良いマイラとアデルも一緒に。
エリオットが平民の少女のためにそこまでするとは、予想外だった。
貴族令息が婚約者を馬車で迎えに行くのはよくあることだが、当然リディアは一度もされたことが無い。
その時点で、彼女はエミリーたちに負けていると言っても過言ではなかった。
リディアは周囲からの視線を集めているエリオットたち一行を、ヴァイオレットと共に目立たないところから見つめていた。
見たくもない光景だったが、今動いた方が余計に目立ってしまう。
幸い生徒たちはエリオットとエミリーに注目していて、リディアのことなど気にかけてはいなかった。
あとは隙を見計らってこの場から離れればいいだけ――なんて、考えていたのは甘かった。
周囲の関心を集めている中、エミリーが口を開いた。
「――ところで、昨日のエリオット様の婚約者さんのことなんですけど……」
――エリオットの婚約者。
その言葉で、リディアはドキッとして思わず立ち止まった。
「……アイツがどうした?」
疎ましい婚約者のことが話題に上がったのが気に食わないのか、エリオットの声が一瞬にして低くなった。
彼女はきっと、リディア本人がこの場にいるとは思ってもいないのだろう。
彼らは気にすることなく、話し続ける。
エミリーはいつものようにさりげなく彼の体に手を触れながら尋ねた。貴族の家に生まれたご令嬢ならば、絶対にしないことだった。そしてそれを今日も、エリオットは咎めることすらしない。
「エリオット様、あの方をほったらかしにしてていいんですか?昨日、寂しそうにエリオット様のこと見つめてましたよ?」
「……」
驚くことに、エミリーはリディアのそのような視線に気付いていたのだ。知っていてあのような行動を取ったとは、何て身の程知らずな人なんだ。
そう思いながらも、このときのリディアは実は僅かに期待したりもしていた。
エリオットは、そんなエミリーの指摘に対して何て答えるのだろうか。
もし、彼が変わってくれるのなら私は――
しかし、エリオットは不快そうに眉をひそめたまま、吐き捨てた。
「――家同士で決めた婚約だ。俺は最初からアイツとの婚約なんて望んでいなかったんだ。それなのに毎日付きまとわれて迷惑していたんだよ」
「あら……」
「……!」
――その瞬間、壊れかけていたリディアの心がとうとう修復できないほど粉々に砕け散った。
(どうして……)
エミリーを始めとした周囲の生徒たちから驚きの声が上がった。
あんなにも優しく、紳士的なエリオットがそのようなことを口にするだなんて。一体二人の間に何があったというのか。この場にいる全員が、そのような疑念を抱かずにはいられなかった。
「ローレンス公子があのようなことを言うとは珍しいな……フロイト令嬢には裏があるんだろうか……」
「きっとそうに違いないわ、フロイト公子が何の理由も無く人を嫌いになるはずがないもの」
「結局、淑女の鑑と言われるリディア嬢も性格が悪かったのね」
人当たりの良い、紳士的で優しいエリオット・フロイト公爵令息。
そのようなイメージが彼に定着しているからか、誰もがリディア側に問題があるのだと疑った。
「ッ……」
崩壊し尽くした心が、それらの心無い言葉によってさらに抉られた。
とても、それ以上は聞いていられなかった。
リディアは顔を隠すように俯いたまま、その場から駆け出した。
突然走り去る彼女の後ろ姿に、ヴァイオレットは慌てて声をかけた。
「――フロイト令嬢!どうしたのですか!?―――リディア!」
彼女を唯一心配するその声は無惨にも、生徒たちの噂話にかき消されてリディア本人に届くことは無かった。
「……………………リディア?」
群衆の中心にいたエリオットだけが、その名前に反応した――
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