37 愛という感情 ヘンリー視点
その頃、ヘンリーはオルトレーン帝国の皇宮で、実の父と向かい合っていた。
謁見の王の間で、彼は床に膝をついて項垂れていた。
正面にある玉座に座る皇帝は、満足そうな笑みでヘンリーを見下ろしていた。
「――よく帰ってきたな、我が息子よ」
「……」
ヘンリーはゆっくりと頭を上げたが、言葉を返すことはできなかった。
我が息子――なんて言われたのは初めてだった。
父帝と母后が期待していたのはいつも兄の皇太子で、可愛がっていたのはいつも妹の第一皇女だったからだ。
愛を向けられたことなんて一度もなかったヘンリーは、いつもと様子の違う父親に困惑していた。
今になって、自分にすり寄ろうとしているのか。
祖国で起きている問題は、ヘンリーも既に耳にしていた。父親の命ともなれば、皇子である彼は逆らうことができない。
「ヘンリー、お前も知っているだろう?」
「……兄上の一件でしょうか。存じております」
皇帝は立ち上がってくれと言ったが、ヘンリーは地面に膝をついたまま動かなかった。
――それが、二人の普段の距離感だった。
血の繋がった親子ではなく、皇帝と家臣のように。
二人の間には、重く複雑な空気が流れていた。それは少なくとも、親子のものではない。
いつからだろうか、家族との間に線を引くようになったのは。
「そうだ、ヘンリー。私の言いたいことはわかるな?」
「……つまり、兄上の代わりに私が皇帝になれと」
「そうだ、次期皇帝はお前しかいない」
――次期皇帝。
大陸で一番国力のあるオルトレーン帝国の皇帝は、世界最大の権力を持っていると言っても過言ではない。
この世にいる誰もが、喉から手が出るほど欲しがるものだろう。
しかし、ヘンリーは特別興味をそそられることはなかった。
彼はお世辞にも皇帝に向いているとは言えないし、面倒な政務などやりたくもなかった。
そんなヘンリーの気持ちになど全く気付いていないようで、皇帝は皇太子就任式はいつにしようかと話し始めた。
「今日は疲れただろう?部屋で休んでくれ」
「……はい、陛下」
皇帝はエーゼル王国から戻ってきた彼を労うように、優しく肩に手を置いた。
ヘンリーは父親のように振舞う皇帝をそれ以上見ていたくなくて、早々に謁見の間を立ち去った。
***
謁見の間から出たヘンリーは、すぐに留学前まで暮らしていた自室へと入った。
「二年ぶりか……」
久しぶりの自室は、二年前と変わったところが何もなかった。
自分の部屋など放置されていると思っていた彼は、少しだけ面食らった。
彼が暮らしているのは、父から直接与えられた第二皇子宮だ。
外観は煌びやかに見える大きな宮殿だが、中はあまり手入れがされていない。皇太子だけを寵愛していた両親が、彼の住む宮殿まで気にかけなかったからだ。
外部から人が訪れることもほとんどなく、侍女などの使用人たちも最低限。そのせいでヘンリーは一人寂しくこの場所で過ごしていた。
突然、部屋の扉がノックされた。
「――お兄様、入ってもいい?」
「……シャルロッテ?」
返事をすると、ゆっくりと扉が開いた。
開いた扉の隙間から顔を覗かせたのは、妹のシャルロッテ第一皇女だった。
かつて絶世の美女と謳われた皇后にそっくりな、美貌の第一皇女。
長兄の第一皇子とは仲の良い彼女だが、次兄のヘンリーとは疎遠だった。両親から愛されるシャルロッテと、愛されないヘンリー。立場上、仲良くなることなどできるはずがなかった。
「お兄様、帰っていたのね。嬉しいわ」
「……急に何の用だ?」
以前は虫けらでも見るような目で見下ろしていたシャルロッテが、今日はやけに低姿勢だった。彼女の行動の理由を、彼は瞬時に察した。
「ヘンリーお兄様が帰ってきてくれて助かったわ。バートお兄様が捕まってしまって……大変だったのよ」
「……そうか」
バートとは、第一皇子の名前だ。
大罪を犯した彼には国民たちの批判が殺到し、もはや両親も庇いきれない状況だ。
シャルロッテはバートと仲が良かったが、流石にこの状況で彼の肩を持つことはできないようだった。
「ねぇ、お兄様。お兄様は次の皇帝になるんでしょう?」
「……俺がいつ、そんなこと言った?」
ヘンリーは不機嫌そうにシャルロットを見た。
バートが使い物にならなくなったからヘンリーを立てようとしているのは、彼女も同じだった。
いや、国の未来を考えると彼が皇帝になるのが最も正しい選択なのだろう。
しかし、どうしても気が乗らなかった。
「お兄様、次期皇帝はあなた以外にいないわ!私やお父様、お母様を見捨てる気!?」
先に俺を見捨てたのはお前たちのほうだ――というヘンリーの言葉は、声になることはなく胸の中に消えて行った。
今はシャルロッテとみっともなく言い争える気分ではなかった。
「……出て行ってくれないか、今は考えることが多すぎる」
「そうね、お兄様も覚悟が必要だわ。スぺアとして生まれて急に皇帝になれって言われたんだから、すぐには受け入れられないわよね」
「……」
シャルロッテは昔からヘンリーを見下していた。
表では取り繕っていても、時折無意識に出る発言で彼は彼女の本心を知っていた。
一人になった彼は、背中から大の字でベッドに倒れ込んだ。
「リディア……」
なぜか、とても彼女に会いたくなった。
ニーゼル王国でアカデミーに通っていた頃は毎日のように会っていたせいか、少しでも離れるととても寂しく感じられた。
彼女を抱き上げたときの感触、触れた額から伝わる熱、目を合わせて照れた笑顔まで。
鮮明に、彼の記憶に残っている。
どうしてこんな気持ちになるのだろうか。王国を出てからというもの、彼女を想わない日は一日たりともなかった。
彼女を考えると穏やかになるこの心が、まさに答えだった。
「…………俺は、リディアのことを愛していたのか」
国のために皇帝にならなければならないという気持ちと、愛する女性と一緒になりたいという気持ち。
ヘンリーは今、二つの間で揺れていた。
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