3 ヴァイオレット・オースティン侯爵令嬢
リディアは教室へ行く気にはなれず、そのまま校舎裏に駆け込んだ。
それ以上、エリオットと女子生徒たちの仲睦まじい姿を見たくはなかった。
「エリオット……」
彼のことを考えると、自然と目から涙が零れた。どうしようもなく、惨めで苦しかった。
何故私のことは一度も視界に入れないのに、あの子たちには優しくするのか。私と彼女たちの何がそんなに違うのか。そのような疑問が浮かんでは、消えていく。
そのときになって、リディアはようやくあることに気が付いた。
――あぁ、私彼のことを愛していたんだわ。
認めざるを得なかった。初めて出会った頃、ほかの誰よりも美しい彼に一目惚れしたのだ。長い間、その事実に気付くことはなかったけれど。
彼を愛していたことを知り、余計に胸が痛くなった。
彼女はしばらく、一人校舎裏で泣いていた。
十分近く経過すると、朝のホームルームを知らせるチャイムが鳴り響いた。
そろそろ教室へ戻らなければいけない。
リディアは泣いていたことを気付かれないように涙を手で拭い、教室への道を歩き出した。
「……」
あのような光景を毎日のように見させられているリディアの心は、既に限界に近づいていた。
***
―――「あら、フロイト令嬢。今日はいつもより遅かったのですね」
「……オースティン令嬢」
B組の教室へ入り、席に着いた彼女に声をかけたのは隣の席のヴァイオレット・オースティン侯爵令嬢だった。
紫紅色の髪の毛は緩くウェーブがかかっており、同じ色のパッチリとした瞳が印象的なご令嬢である。
オースティン侯爵家はフロイト侯爵家には劣るものの、王国内でもかなりの名門だった。他の令嬢たちはリディアを遠巻きに眺めているだけの中、隣の席に座る彼女だけはこうやって度々話しかけてくれるのだ。
本当のことを言うわけにはいかないリディアは、はぐらかした。
「……実は、今日は寝坊してしまって、ギリギリになってしまったんです」
「あら、フロイト令嬢でもそのようなことがあるのですね。何だか意外ですわ」
ヴァイオレットは疑うこともなくその言葉を信じ、リディアの意外な一面にフフッと笑った。
「もうすぐ授業が始まりますわ。早く準備をしませんと」
「ええ、そうですわね」
彼女は手に持っていたカバンを机の上に置き、中を開けた。
カバンには、数種類の教科書が入っている。どれもアカデミーの授業で使う、大切なものだ。
もうすぐ授業が始まってしまうというのに、リディアはどの教科書を取るべきか、悩んでしまった。
(一限って何だっけな……)
毎週決められている時間割が、今日に限って何故か思い出せなかった。
変だな、第二学年が始まってもう二ヵ月近く経っているというのに。暗記していた内容を突然忘れてしまうのは初めてだった。
あたふたしている彼女に、声をかけたのは隣の席のヴァイオレットだった。
――「一限は物理の授業ですわ」
「……オースティン令嬢」
リディアと目を合わせた彼女が、ニッコリと微笑んだ。
(そうだわ、物理だったわ……私ったら、しっかりしないと)
リディアはカバンの中から物理の教科書を取り出し、机の上に置いて席に着いた。
彼女のおかげで何とか醜態を晒さずに済んだようだ。リディアは隣にいるヴァイオレットに小声で話しかけた。
「……教えてくださってありがとうございます、オースティン令嬢」
「いえいえ、お気になさらないでください。誰にでもそういうときはありますから」
教育係たちのように情けないと叱りつけることも無く、ただヴァイオレットはリディアに共感を示した。
「あら、オースティン令嬢にもそういうことがあるのですか?」
「ええ、よくありますよ。特に時間が経つと……覚えていたものも忘れてしまいます。前の定期テストの内容なんてほとんど覚えていませんし。人間なんてそういうものではありませんか?」
彼女のその言葉は、リディアの心を縛り付けていた頑丈な鎖を解いてくれるようだった。
何故そんなこともできないのか、そんな簡単なことすら覚えられないのか。彼女が幼い頃から常に周囲の大人たちに言われ続けてきたことだった。
ヴァイオレットも高位貴族の令嬢として、同じような経験をしてきているはずだ。
「……その通り、だと思います。この世の全てを暗記するだなんて、普通に考えたら不可能ですよね」
気付けば、リディアは無意識にそんなことを口にしていた。
絶対にそうしなければならない、という心の枷が解けたかのようだった。
「何だか私たち、とっても気が合いますわね」
「たしかに……言われてみればそうですね」
同じ高位貴族の令嬢で、同じ長女として生まれたリディアとヴァイオレット。
そのような境遇が、二人の心の距離をグッと縮めた。
***
一限の物理が終わり、時間は流れて昼休みになった。
多くの生徒はアカデミー内にあるカフェテリアに行ったり、家から持参したお弁当を持ち出して中庭で食べたりする時間だ。
お腹空いたね、と話しながら教室にいた生徒たちがぞろぞろと外へ出て行く。リディアはそんな彼らを、羨ましそうに眺めていた。
昼休憩は、ほとんどの生徒が友人や恋人、または婚約者との時間を過ごすときでもある。
しかし、リディアがエリオットと昼食を摂ったことは一度も無かった。彼がいつも何かと理由を付けて断るからである。
『エリオット様、これから私と一緒にランチを……』
『今日は時間が無い、また今度にしてくれ』
時間が無いとはただの建前で、本当はリディアと一緒にいたくないだけだろう。
第二学年に上がってからは、一つ年下のエミリーたちと目立つ場所で平然と食事をするようになった。
公爵家の令息が、年下の下位貴族の女の子を堂々と連れ回していたら何を言われるか。彼が分からないはずがない。
リディアはエリオットに何回か苦言を呈したことがあったものの、いくら言っても彼はエミリーたちの交流をやめなかった。
リディアはカバンの中から、二つのランチボックスを取り出した。
侯爵家のシェフが持たせてくれたリディアとエリオットの昼食だった。彼女がアカデミーに入学してからというもの、毎日のようにエリオットの分まで作ってくれていたのだ。
しかし、彼が受け取ってくれたことは一度も無い。
リディアは家族や使用人たちに心配をかけたくないからと、そのことをずっと黙っていた。女一人で二人分の弁当を食べるのは大変だったので、彼の分は差し入れとしていつも誰かに渡していた。
リディアがそこまでするのには理由があった。
優しい両親や侯爵邸の使用人たちは、彼女とエリオットとの仲を応援してくれていた。
そんな彼らに、ずっと無視されているんですなんて言えるわけがなかった。
絶対に家同士を巻き込む大事になってしまう。それだけは避けたかった。
「――フロイト令嬢」
「……オースティン令嬢?」
そのとき、浮かない顔のリディアを覗き込んだのはヴァイオレットだった。
てっきり他の生徒たちと同じようにカフェテリアへ行っているかと思っていたが、ずっとリディアを待っていたようだった。
「令嬢、どうしてこちらに……?」
「――私、ずっとフロイト令嬢とは親しくなりたいと思っていたのですよ」
「まぁ……私とですか?」
リディアは驚いた。これまで、貴族令嬢で彼女に話しかける人はほとんどいなかったからだ。
あの人気者のヴァイオレットが、自分と仲良くなりたいだなんて。夢でも見ているのではないかと思ってしまうような出来事だ。
衝撃で固まるリディアに、ヴァイオレットはある提案をした。
「よろしければ、今日のお昼は私と二人で食べませんか?」
「ふ、二人で……?」
お昼を食べる、それもヴァイオレットと二人で。
友人がほとんどいないリディアにとって、それは前代未聞だった。
「フロイト令嬢?」
呼びかけられて我に返ったリディアは、手に持っていたランチボックスの片方を、ヴァイオレットに手渡した。
「うちのシェフが作ってくれたんです……二つあるので、よろしければいかがですか?」
「まぁ、フロイト家の専属シェフの料理を食べられますの!?」
こんなにも嬉しいことはありませんわ、と彼女は貴族令嬢らしからぬ様子ではしゃいだ。
子供のように純真無垢なその姿を見ていると、何だかヴァイオレットが万人から好かれている理由がわかるような気がした。
「今日は良い天気ですから、中庭にでも行きましょうか」
「ええ、そうですね」
ヴァイオレットは頷き、二人はそれぞれランチボックスを手に持って外へ出た。
人々の間を通り、中庭へ出ると、複数人の生徒たちがお弁当を食べている姿が目に入った。
友人同士で食べている者や、恋人同士で食べさせ合いっこしている者もいる。
「食後のお茶は私が用意しますわ。香りの良い茶葉を最近手に入れたんですのよ」
「まぁ、とっても楽しみです」
リディアはフフッと笑みを溢した。
ヴァイオレットが地面にシートを敷き、二人は靴を脱いでその上に座った。
「わぁ、とっても美味しそうだわ!」
「うちのシェフの料理は一級品ですよ」
ボックスの蓋を開けたヴァイオレットは歓声を上げ、早速フォークを手に取った。
彼女がおかずをフォークで差し、口に運ぼうとしたそのとき、聞き慣れた声が耳に入った。
「――エリオット様、こっちです!」
それからすぐ、彼女の視界の端にピンク色の髪の毛が入った。
その後を追うように、二人の少女が走ってくる。
「早く早く!置いて行っちゃいますよ!」
「今日の放課後は私たちと遊ぶ約束ですからね?」
その声に、食事に手を付け始めていたヴァイオレットが顔を上げて呟いた。
「あら?あの方は……」
しばらくして、長身の男子生徒が彼女たちの後にやって来た。
彼は大きめのバスケットを手に持ち、ようやく彼女たちに合流した。
「――ちょ、ちょっと待ってくれ……そんなに急がなくてもいいだろう……」
俯いていたリディアは、疲れ切ったような声におそるおそる顔を上げた。
あぁ、やっぱり。
――そこにいたのは、彼女の婚約者のエリオットだった。
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