2 婚約者エリオット
今思えば、最初から婚約者であるエリオットとの関係は微妙なものだった。
二人の婚約が決まったのは、今から十一年前――まだお互いに六歳の頃だ。
エリオットとリディアはお互い会ったことも無い状態で縁談を結ばされ、婚約者となった。
当然、不安が無いわけではなかった。
しかし、貴族の令嬢であれば、政略結婚は誰もが通る道。そのためリディアは、エリオットとはできるだけ良い関係を築いていこうと思っていた。
彼女は優しい両親のように、愛し合う夫婦に憧れを抱いていたからだ。
「お初にお目にかかります。リディア・フロイトと申します」
「……」
顔合わせの日、リディアは淑女教育で習った美しいカーテシーをエリオットの前で披露した。
そんな彼は、一言も発することなく彼女をじっと見つめていた。
彼女は困惑したが、ただ自分のように緊張しているだけだろうと思ってそのときは気にしなかった。
――今思えば、このときから既にエリオットは気に入らなかったのかもしれない。
「あの、お父様が二人で庭園を歩いてきたらどうかって言っていました。よろしければ、一緒に行きませんか?」
「……あぁ」
エリオットはその提案に賛成したようで、素っ気なく頷いた。
リディアは婚約者となった彼を連れ、フロイト邸宅の庭を案内した。
「ここが、お母様が気に入っている薔薇園です。私も大好きで、息抜きしたいときによく来ているんです」
「……」
リディアがいくら話しかけても、エリオットは興味の無さそうに相槌を打つだけ。
冷たい彼に戸惑いを隠しきれなかったものの、ただ今はお互いのことをよく知らないからだと、リディアは自分に言い聞かせた。
きっとこうやって歩み寄っていれば、彼も変わってくれるはずだ。
いつかは、私を心から愛してくれるようになる――とリディアは信じていた。
そのような思いからか、彼女は躍起になっていた。
「あっちの花はスイートピーと言って……」
リディアは庭園の説明に夢中で、周りに目を向けるのを怠っていた。
――そのせいで、彼女はエリオットの前で醜態を晒してしまうこととなる。
「キャッ!」
リディアは足元の石に気付かず、つまずいて転びそうになってしまった。
彼女は咄嗟に、すぐ目の前にあったあるものを掴んだ。何とか立ったままの姿勢を保った彼女の頭上に、不機嫌な声が降り注いだ。
「…………何をしている?」
リディアが咄嗟に掴んだもの――それは、エリオットの服だった。
服を掴まれた彼は、不快そうに眉を上げた。まだ小さな少女の手が、彼の服を引っ張った。
「ご、ごめんなさい……転びそうになっちゃって……」
「……離せ」
エリオットは腕を引き、リディアの手を強引に剥がした。
その反動が大きかったのか、彼女は後ろによろめいた。
「キャッ!」
結局、彼女は尻餅をついて地面に倒れてしまった。
綺麗な黄色のドレスが土で汚れ、リディアは目に涙を滲ませた。
「……」
エリオットは転んだリディアに一瞬慌てるような様子を見せたが、手を差し伸べることはしなかった。
それどころか、そのまま彼女を置き去りに、庭園から去ってしまったのだった。
――それが、エリオットとの初対面の記憶だった。
***
婚約が決まってからというもの、リディアはできるだけ彼と親しくなろうと努力を重ねた。
定期的に手紙を送り、二人だけのお茶会を開いたり、どんなに体調が悪かろうとも誕生日パーティーに必ず参加していた。
「エリオット様、お誕生日おめでとうございます」
「……」
リディアは侍女に持って来させたプレゼントの箱を、エリオットに渡した。
彼は表情を変えないまま、彼女からの祝いの品を受け取った。
中身は彼女が特別に用意したオルゴールだった。喜んでくれたのかはわからない。彼はいつも何を貰っても無反応だったからだ。
しかし、エリオットは決して誰にでも愛想が悪いというわけではなかった。
むしろ、リディア以外の貴族令嬢には紳士的で優しい令息として知られていた。目の前で転んだ令嬢には必ず手を差し伸べ、具合が悪い女性を見つけるとお姫様抱っこで運んだりもしていた。
周囲の者たちはそんな彼を素敵な人だと称し、あなたは素晴らしい男性と結ばれることができるのだと羨ましがった。
しかし、そんなことを言われても当のリディアは全く嬉しくなかった。
――ほかの誰にも知られていないことだが、エリオットはリディアにのみ冷たいのだ。
最初は自分に何か問題があるのだと思っていた。
誰にでも優しいエリオットが、何の理由も無く人を嫌うはずがない。
そう思った彼女は、寝る間も惜しんで勉学に励んだ。
全ては、良き公爵夫人となるために。彼が自分に冷たいのは、努力が足りないからだと考えた。
しかし、そんな彼女の思いとは裏腹に、エリオットが彼女に優しく接することは無かった。
エスコートは義務的で、手紙を送ってもいつも決まった返事しか返ってこないことが増えていった。
このときから、リディアの心は少しずつ壊れ始めていた。
――紛れもない、婚約者であるエリオットの手によって。
そうしているうちに時間は流れ、二人は王立アカデミーに入学した。
同い年であるリディアとエリオットは、同時期に入学となった。首席となったのはエリオットで、リディアは次席だった。
彼はとても努力家で、周囲から聡明と言われるリディアですら勉学においては彼に敵わなかった。
アカデミーに入学したことで、彼女はエリオットと顔を合わせる日も増えた。
しかし、二人の関係は変わらないままだった。
エリオットはリディアと廊下で鉢合わせても、彼女を視界にすら入れることなく通り過ぎていく。
リディアが挨拶をしても素っ気なく返事をするだけで、絶対に目を合わせようとはしない。
――極めつけは、第二学年に上がってから彼の周囲をうろつき始めた三人の女子生徒だった。
――エミリー・オブライト。
特待生枠で入学した平民の女性で、歳はエリオットとリディアの一つ下。桃色の髪に、髪と同じ色の瞳を持つ非常に可愛らしい少女だった。
――マイラ・グレゴリー。
グレゴリー男爵家の令嬢で、エミリーと同い年。黒い髪に赤い瞳の、目を引く容姿をした少女だ。男爵家ではあるが名ばかりで、実家はほとんど権力を持ち合わせていない。
――アデル・ライラストン。
ライラストン男爵家の令嬢であり、エミリーとマイラと同じ第一学年の女生徒。燃えるような赤い髪に、空色の瞳を持った強気な印象を与える少女である。
この三人の女子生徒はどこからか現れ、エリオットに纏わりつくようになった。
驚くことに彼も三人を拒絶することは無く、学園内で毎日のように一緒に過ごしている。
この間なんて、公衆の面前でとんでもない発言をしていたことで話題にもなった。
『エリオット様大好き!私、エリオット様のような人と結婚したい!』
そう口にしたのは、たしかピンク色の髪のエミリーという女生徒だったはずだ。
リディアは偶然にも、その現場を目撃していた。
彼女がいることに気付いているのかいないのか。
エリオットはただ笑っていただけで、無礼な発言を咎めることすらしなかった。
自分には一度も向けられたことの無い、優しい笑み。
今までどれだけ努力しても手に入れられなかったというのに、何故ポッと出の彼女たちがそれを得られるのか。
羨ましくて、悔しくて、たまらなかった。惨めな思いをしながら、彼女は婚約者と少女たちの仲睦まじい様子を見ていなければならなかった。己のプライドはズタズタで、とても耐えられなかった。
リディアは一時は心を病んでしまうほど、彼らに悩まされていた。
しかし、もうその全てに諦めがついた。
「……どんなに頑張ったところで、手に入れられないものって存在するのね」
――彼女は愚かにも、今になってそのことを悟った。
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