15 後悔先に立たず
リディアはヴァイオレットの背中から、そっとエリオットを覗き込んだ。
驚くことに、彼はその言葉を受けても顔つきを変えなかった。深い海のように青い瞳が、ヴァイオレットを捉えている。
――そして、その視線が一度だけ後ろにいるリディアに向けられた。
しかしその視線はすぐにヴァイオレットへと戻された。
「……舞台?一体何の話だ?」
「公子、私の母親が元女優で今は演出家をしているということは知っていらっしゃいますよね?」
エリオットは言葉少なく、あぁと頷いた。
少なくとも、他のご令嬢に対しては紳士的で優しい人だが、リディアと親しくしているヴァイオレットは別なのだろうか。それともただリディアがここにいるから自然とそういう態度になっているだけ?
どちらにせよ、今の彼は普段の彼とは別人のように冷たかった。
「私も母の影響で幼い頃からそのような仕事に興味があって、王立アカデミーでは演劇部に所属していますの。それで今回、私の制作したミュージカルの主演を是非リディア嬢にお願いしたいと思ったんです」
「……」
ヴァイオレットはいかがお考えですか?とニッコリ笑った。まるで取引先の相手に交渉しているかのようだ。
エリオットはもしかすると、リディアが舞台に出るのを良く思わないかもしれない。しかし、だからといって彼女も簡単に退くつもりは無かった。
一度やると決めた以上、最後までやり遂げたい。少なからず、そのような思いを抱き始めていた。
それに、何より……
――あなたに、私の行動を制限する資格なんてないはずよ。
婚約者として大切にされているのならまだしも、エリオットはいつも彼女に冷たかった。婚約者の義務も果たさないくせに、こういうときにだけ干渉してくるだなんて身勝手にもほどがある。
エリオットは何かを考え込むように腕を組んだまま、黙っている。
しばらくすると、彼は呆れたようにため息を吐いた。
「――ミュージカルだと?そんなもの、できるわけないだろう」
「……!」
リディアに主演など務まるわけがない。彼はそう決めつけて冷たく吐き捨てた。
そして彼の心無い言葉は、それだけにとどまらなかった。
「何故お前がミュージカルの主演に選ばれたのかは知らないが……お前に恥をかかせようとしているだけだ。くだらない意地を張るな。どうせできないんだから、最初からやめておけ」
「……ッ」
まるでそういう風になる未来が見えているかのように、彼は当たり前とでも言わんばかりに言い放った。
婚約者が大勢の前で恥を晒すのが気に食わないのか。まるで私のことを所有物だとでも思っているかのような口ぶりだ。
(いくら何でも、それは聞き捨てならないわ……!)
リディアは我慢できなくなり、エリオットの前に出た。
今、彼は私だけでなく誘ってくれたヴァイオレットまでもを侮辱した。そう考えると、黙ってはいられなかった。
――私はもう、あなたに従順な婚約者ではないのだ。
前の一件でリディアを縛りつけていた鎖は外れ、もう彼女は自由だった。
「――お言葉ですが、エリオット様にそのようなことを言われる筋合いはありません」
「………何だと?」
リディアはエリオットの前に立ち、彼を真っ直ぐな瞳で見上げた。
いつものように低姿勢ではなく、凛とした佇まいで。そのような彼女が珍しいからか、彼は一瞬だけ面食らったように見えた。
「舞台に出たいというのは私の意思です。それに、ヴァイオレット嬢は私に恥をかかせようとしているわけではありません――どうせできないだなんて、そんなこと勝手に言わないでください」
「…………お前、本気なのか?」
エリオットはあり得ない、とでも言いたそうに驚いた様子でリディアを見下ろしていた。
私がミュージカルに出るのがそんなに気に入らないのか。少なくとも、私を気にかけてそのようなことを言っているわけではないだろう。
――この人はそこまでして、私を苦しめたいのか。
でもね、あなたの思い通りにはさせない。彼の思惑がわかっているからこそ、余計にそう思える。
「馬鹿なことを言うな」
「私が舞台の主演を務めるのが馬鹿なことだとおっしゃるのですか?」
「そうだ、俺はお前のためを思って言っているんだぞ」
”お前のため”という言葉に、リディアはおかしくて笑いが出そうになった。
今まで私を気遣ってくれたことなんて一度もないくせに。エリオットの言うリディアのためとは、彼の思い込みに過ぎなかった。
本当に彼女のためを思うのならば、背中を押すのが正しいのではないか。
「お前のためだなんて、いい加減なことを言わないでください」
「何だと?」
「エリオット様が私のために何かしてくださったことが今までに一度でもありましたか?私は記憶にありませんが――浮気相手のエミリーさんと勘違いしたのでは?」
エミリーを浮気相手と呼ばれたことが相当頭に来たのか、エリオットは顔を真っ赤にしてリディアを怒鳴りつけた。
「勝手にすればいい!舞台にでも何でも上がって大恥をかけばいいんだ!」
「……それがあなたの本心なんですね」
リディアはポツリと呟くと、彼をギロリと睨んだ。
「……行こう、ヴァイオレット」
「リディア!」
リディアはヴァイオレットの腕を引き、エリオットの前から立ち去った。ヴァイオレットは心配そうに何度も彼女を呼びかけたが、絶対に後ろは向かなかった。
一度たりとも、エリオットの方を振り返ることは無かった――
***
リディアとヴァイオレットが立ち去ったあと、エリオットは一人路地裏で立ち尽くしていた。
「……」
拳をギュッと握りしめた彼は、先ほど彼女に向けられた憎悪の視線を思い浮かべた。リディアからあのような目を向けられるのは初めてだったせいか、彼の脳裏をしばらく独占していた。
エリオット自身も、言い過ぎたという自覚が全くないわけではなかった。
わかっているからこそ、余計に後悔してしまうのだ。
彼は一人きりの路地裏で、ボソッと呟いた。
「何故、俺はいつもあんなことばかり言ってしまうんだ……」
そんな彼の悩みは今日も誰にも気付かれることなく、暗くなり始めた空に消えて行った。
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