10 挑戦
逃げるようにエリオットの元を立ち去ったリディアは、そそくさと馬車に乗り込んだ。
御者にすぐに出してくれと命じた馬車が走り出した。二頭の馬が勢いを付けて走り、王都の街を駆けて行く。
あぁ、早く家に帰りたい。
こんなにも学園から離れたいと思ったのは初めてだった。
『――お前なんて、俺がいなかったら誰とも婚約できてないんだぞ!』
やっぱり、エリオットはずっと私のことをそういう風に思っていたのか。
そんな彼を信じ続けてきた自分があまりにも愚かで、彼女は自らを嘲笑した。気付けば涙は引っ込んでいた。もうエリオットのことで泣くのはやめようと、心がそう決めたようだった。
しばらくして、馬車がフロイト侯爵家に到着した。
リディアを始めとしたフロイト家の家族たちは王都にある本邸で暮らしている。普段は領地に住んでいる貴族たちも、アカデミーへ通う時期になると大半が王都の邸宅で暮らすか寮に入るかの二択だ。
平民であるエミリーもまた、入学に伴って王都にあるマンションで一人暮らしをしているようだ。
彼女の暮らすマンションは一人で住むにはかなりの広さで、しかも最も眺めの良い最上階だ。
とても平民が払えるような物件ではなく、生徒たちからは様々な憶測を立てられている。
「……」
――そのアパートの家賃はエリオットの実家であるローレンス公爵家が支払っているという噂が囁かれていることを、リディアは知っていた。
何の根拠も無いただの噂だが、おそらく事実なのだろう。
普段からエリオットとエミリーの仲の良さを見ているせいか、驚きもしない。彼はあの三人と親しくしているが、その中でも最も容姿の良いエミリーを特に気に入っているようだ。
馬車を下りると、侍女の一人が彼女を出迎えた。
「――お嬢様、お帰りなさいませ」
「……えぇ、ただいま」
侍女たちに心配をかけるわけにはいかず、リディアは何とか笑顔を取り繕った。
長年貴族令嬢として生きてきたおかげか、昔からそういうことは得意だった。
リディアはスクールバッグを手に持ったまま、邸宅内に入り、自室へと戻った。
部屋へ入ると、幼い頃からの専属侍女のヘラが部屋の掃除をしているところだった。
「リディアお嬢様、お帰りなさい」
彼女はリディアを視界に入れるなり、優しく微笑みかけた。
リディアはただいま、と軽く返事をした。机にカバンを置き、制服姿のままソファに腰を下ろした。
ついさっきまでエリオットと言い争いをしていたとは思えないほど、平穏な時間だった。
「お嬢様、学園生活は順調ですか?」
「……そうね、まぁまぁかしら」
家に帰って早速、彼女の頭の中を占めたのはヴァイオレットからの提案だった。
リディアはカバンを開け、彼女から渡された『王妃リリアーヌ』の台本を手に取った。
表紙にドレス姿の麗しい令嬢が描かれている――おそらくそれが主人公のリリアーヌだろう。
珍しいのか、ヘラがリディアの手元を覗き込んだ。
「あらお嬢様、それは何ですか?」
「私の友人が作ったミュージカルの台本よ」
「面白そうなお話ですね」
リディアは表紙をめくり、一ページ目を読み進めた。
劇としてはそれほど長くはなく、上演時間は大体三十分ほどのようだ。
――王妃リリアーヌ
愛人を囲う冷たい夫との政略結婚をする羽目になった王女リリアーヌ。
リリアーヌは王妃となるが、夫やその愛人から虐げられるお飾りの王妃としての日々を送る。
そんな中、リリアーヌはとある騎士の青年と出会い恋に落ちる。
リリアーヌと騎士の恋路、そしてそんな彼女を貶めようと画策する愛人、徐々に彼女に感心を抱き始める夫まで。
登場人物それぞれの複雑な思いが交錯する、なかなかに見ごたえのある物語だ。
(浮気する冷たい男だなんて……誰かさんにそっくりね)
リディアの脳裏に、ついさっき話したあの人の顔が浮かんだ。
「――それで、お嬢様はどの役をなさるんですか?」
「……………え?」
驚いて顔を上げると、目を輝かせたヘラが嬉々として尋ねた。
どの役をするかだなんて、まるで私が出演することが確定しているみたいではないか。
一応、誘われてはいるので答える。
「……提案されたのは、王妃リリアーヌだけど」
「わぁ、やっぱり!リディアお嬢様が脇役だなんてありえないですよね!主演しかありません、お嬢様!」
ヘラは興奮気味にまくし立てた。
そんな彼女には悪いが、リディアは出演するつもりは無かった。
「私にミュージカルだなんて……できるとは思えないわ」
「お嬢様、心配なさっているようですね。たしかに、絶対に上手くいくという保証はありません」
そこでヘラは、リディアの手を優しく取った。
「――新しく何かにチャレンジしてみるのはとても素敵なことだと思います」
「……新しく、チャレンジ」
「ええ、お嬢様は大変優秀な方ですもの。きっと上手にできますよ」
ヘラはニッコリとリディアに笑いかけた。
そこで彼女の頭の中に、エリオットの嘲笑う顔が浮かび上がった。
『お前は俺と婚約してること以外価値が無いんだ』
決してそんなことを言われたわけではない。
しかし、そのようにも受け取ることのできるさっきの言葉。
私があなたとの婚約以外価値が無い?いいや、そんなことはないはずだ。
リディアは思わずギュッと空いた方の拳を握りしめた。
―――私は、価値のある人間だ。
いくら婚約者とはいえ、エリオットに私の価値を決めることなどできるはずがない。
このとき、リディアの中にある考えが芽生え始めていた。
一度だけ、やってみようかな……?
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