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紅き瞳は夜に溶ける  作者: かな
4/9

4章【揺らぐ騎士と無垢な魔女 ~ひび割れた仮面~】


この国は、俺から全てを奪った


だから、壊す


帝国も、この腐りきった秩序も――この手で


そのために、彼女を利用する


“魔女”の力を手に入れるための、最良の道具として


……そう決めたはずなのに


なぜか、胸の奥がざわついて、消えない



■□■□


セオドールを騎士団の詰所へ送り届けると、その足でベンチへと戻ったが――そこには、もう誰もいなかった。


「……あの過保護、少しは待つという選択肢はないのか」


ヴァルがいれば、護衛としては万全だろう。

レオンがいなくとも、問題なく対処できる。


“信頼”されていないことは、百も承知だった。


今から追いかけても日が沈む。

レオンは小さく息を吐き、明日の朝一で出向こうと踵を返した。





夜が明けると同時に、レオンは森へ向かっていた。

その足元の影が、不自然に、小さく揺れる。

低い唸り声が、かすかに漏れた。


「……どうかしたのか」


視線を落とす。

影の中の魔獣は、落ち着きなく蠢いていた。


「……おい、何を感じている」


問いかけても、返ってくるのは鋭い唸り声だけだ。


「……どうせ言葉など分からな――」


その瞬間。

ざわめいていたはずの森が、唐突に静まり返った。


「……風が、止まった?」


毒と瘴気に満ちた森が、まるで巨大な生き物が息を潜めたかのように、音を失っていく。

レオンは足を止めた。


風もない。

鳥の声もない。

――不自然なほど、何もない。


「……妙だな」


次の瞬間、言葉ではない“何か”が、頭の奥を揺らした。


「……ッ」


瘴気の流れが、微かに、けれど確実に一点へと収束していく。

嫌な予感が、冷たい刃のように胸の奥を掠めた。


その瞬間――影が、爆発するように大きく跳ねた。


「ッ……!?」


足元から伝わるのは、ただの焦りではない。

底冷えするような“恐怖”だった。

あの傲慢な魔獣が、これほどまでに怯えている。


「……急げ、と言いたいのか」


短く鋭い唸り声。

それが肯定だと、なぜか理解できた。

レオンは一瞬だけ空を見上げる。


――嫌な予感は、外れたことがない。


「……ディア様」


小さく名を呼び、次の瞬間には地を蹴った。

風を切り、森を駆け抜ける。

枝を払い、足場の悪さなど意に介さず、ただ前へ。

胸の奥で、何かがざわついている。


任務だからじゃない。


――それでも、遅れたくなかった。


■□■□


「ヴァル、よかったの?」


「問題ないだろ……あいつの居場所はここには無い」


収穫祭の帰り道。

レオンを待たずに家に戻った道中、ヴァルは吐き捨てるようにそう言った。

ディアの騎士として、レオンは毎日欠かさず森へ通い続けている。

その「勤勉さ」を、ヴァルだけは冷ややかに見ていた。

あれは、数日前のことだ。


『……では、本日はこれで失礼します』


レオンがいつものように別れを告げた時、机の上で筆を動かしていたディアの手が、ぴたりと止まった。


『……帰るの?』


責める響きさえない、あまりに無垢な問い。

レオンは一瞬だけ言葉を詰まらせたが、すぐに完璧な微笑みを貼り直した。


『ええ……支部への報告がありますので』


『……毎日?』


『はい』


迷いのない即答に、 ディアは少しだけ視線を落とした。


『……大変だね』


ぽつりとこぼれた言葉に、レオンは小さく息を吐く。


『任務ですから』


『――随分と律儀だな』


背後から、凍てつくような声が響く。

いつの間にか、ヴァルが壁にもたれかかり、二人を冷めた目で見つめていた。


『魔女の騎士が、毎日“報告”に戻るとは聞いたことがない』


鋭い視線が、真っ直ぐレオンに向けられる。


『“戻らなければならない理由”でもあるのか?』


空気が、わずかに張り詰めた。

ディアが二人の顔を交互に見上げる。


『……ヴァル?』


レオンは一瞬だけ目を細めたが、すぐに微笑みに戻した。


『わざわざ疑われる理由を作る趣味はありませんので』


『違うな』


即座に、ヴァルが切り捨てる。


『お前は、“疑われる側”に立つのが怖いだけだ』


その言葉に――

貼り付けたはずの笑みが、わずかに歪んだ。


『……』


短い沈黙の後、レオンは微笑み、何事もなかったかのように声を上げた。


『……ご冗談を』


ヴァルはそれ以上追及しない。

ただ、興味を失ったように視線を外した。


『まあいい……好きにしろ』


ディアは小さく頷く。

それでも――ぽつりと、呟いた。


『……森に、泊まればいいのに』


その言葉に、レオンの動きが止まる。


『……それはできません』



今度は、少しだけ強い声だった。


『報告を怠れば、それだけで疑われる理由になります』


『……そっか』


ディアは素直に頷いた。

それ以上は、何も聞かない。

ヴァルはその様子を横目で見て、ふっと息を吐く。


レオンは一度だけディアを見て、すぐに目を伏せた。


『では、また明日』


そう言い残すと、レオンは帝国へ帰っていく。


ヴァルはその背をしばらく見つめ、やがてディアの頭に手を置く。


ヴァルの声は、警告のように低く響いた。


『信用するなとは言わん……だが、信じすぎるな』


『……?』


意味が分からず首を傾げるディアに、ヴァルはそれ以上何も言わなかった。




「……中に入れ」


低く告げられ、ディアは素直に頷く。

家へ戻ると、森の静けさがやけに濃く感じられた。


「ゆっくり休め」


それだけを言い、ヴァルは視線を外す。


「……おやすみ、ヴァル」


「ああ」


短いやり取りを交わし、ディアは寝台に潜り込む。


――胸の奥に、小さな違和感が残っていた。


けれど、その正体に辿り着く前に、意識はゆっくりと沈んでいった。



■□■□


レオンが森の家に辿り着いた時、そこには異様な静寂が広がっていた。


いや――違う。


静かなのではない。

“抑えつけられている”ような、不自然な沈黙だった。


家を取り囲むように、無数の赤い瞳が暗闇の中で瞬いている。

ディアが“可愛い”と餌付けしていた、低級魔獣たち。

だが――様子が違う。


「……ッ」


一体の口元から、粘ついた唾液が糸を引く。

視線は、隣の個体へ。

次の瞬間――

ぐちゃり、と鈍い音が響いた。

隣の魔獣の喉に、牙が食い込む。

肉が裂け、血が噴き出す。

だが、それだけでは終わらない。


奪うように。


押し潰すように。


群れ全体が、一つの餌に群がるように――互いを喰い始めた。


「……なんだ、これは」


レオンの声が、わずかに低くなる。

だが、その異様な光景はすぐに変質する。

喰いちぎった肉を飲み込んだ個体が、ぴたりと動きを止めた。



「……ッ、来る!」


地を蹴る音。次の瞬間、数体が同時に飛びかかる。

先ほどまでの“低級”とは思えない速度。

レオンは剣を振るう。

斬ったはずの個体が、なおも牙を剥いて迫る。

腹を裂かれてなお、止まらない。


「再生……いや、違う……!」


肉が蠢く。裂けたはずの傷口が、歪に閉じていく。



まるで――無理やり繋ぎ合わせているかのように。


息を呑んだ瞬間――空気が弾けた。

一体が地を蹴り、牙を剥いて飛びかかる。

それを皮切りに、二体、三体と、まるで堰を切ったように襲いかかってきた。


「ッ……数が多い!」


レオンは一歩踏み込み、剣を振るう。

斬り払う感触。

だが、倒したはずの影の向こうから、次の牙が迫る。

互いに喉を鳴らし、隣の個体すら威嚇しながら、それでも標的を奪い合うように――狂った動きで迫ってくる。


「……なんだ、これは」


足元を掠めた爪をかわし、横薙ぎに一体を切り裂く。


「共食いじゃない……狙いは――」


その瞬間。

一体の魔獣が、不自然に家の扉へと顔を向けた。


「……ディア様、か――ッ!」


レオンの剣が閃き、その個体を地に縫い付ける。

だが止まらない。

むしろ、より激しく、より執拗に。


――奪い合っている。


その事実に気づいた瞬間。


「違う」


背後から、低く冷えた声が落ちた。

同時に、横を風が抜ける。

次の瞬間――数体の魔獣の首が、まとめて宙を舞った。

音すら遅れてやってくる。


「狙っている?

……惹かれすぎて、壊れただけだ」


ヴァルは淡々と告げる。


「これは――暴走だ」


レオンの動きが、一瞬だけ止まる。


「……壊れた?」


理解が追いつかない。

だが、目の前の異様な光景が、それを否定しない。

肉を喰らい、瘴気を溜め込み、

それでもなお“足りない”とでも言うように牙を剥く。


――確かに、壊れている。



ヴァルが腕を振り抜く。

それだけで、視界に映る魔獣が“崩れる”。

斬ったのではない。

触れた瞬間、存在ごと断ち切られたかのように。


「ヴァルディス様、この状況は初めてではないですね」


レオンは間合いを詰めてきた一体を突き刺しながら問う。


「魔獣の“暴走”について、報告が1度も上がっていませんが?」


「ディアが知らないだけだ」


吐き捨てる声。

飛びかかってきた個体を、視線すら向けずに両断する。


「ふやすなと忠告したのに、無視したのはディアだ」


その赤い瞳が、家の扉へと向く。

静かな寝息。

そのすぐ外側で――世界は狂っていた。


「本来、低級の魔獣に害は少ないはずです」


「“お気に入り”に手を出されるのは、誰だって気に食わないだろ?」


ヴァルが足元に視線を落とす。


「なぁ、クロ」


影が蠢いた。

次の瞬間――黒い魔獣が飛び出す。


(ディアは、誰にも渡さない)


低く唸り、喉笛に食らいつく。

一撃で仕留めきれなかった個体が暴れるが、クロは離さない。

噛み砕く音が響いた。


「……」


レオンはそれを一瞥し、剣を払う。

任せても問題ないと判断し、息を整える。


「つまり、ディア様を取り合っている、と」


「最初からそう言っている」


残っていた魔獣も、やがて数を減らし――

最後の一体が、ヴァルの手で沈んだ。

静寂が戻る。

だがそれは、先ほどまでのものとは違う。


「……終わったか」


レオンは周囲を見渡すと、言葉を零した。


「ディア様は、魔獣を惹きつける“何か”があるのか……?」


ヴァルは答えない。

ただ、扉の奥へと視線を向けるだけだった。




「……ヴァル?」


不意に、扉がゆっくりと開く。

目をこすりながら出てきたディアは不思議そうに辺りを見回した。


いつもより少しだけ、魔獣たちの数が少ない気がした。


「……みんな、どこかに行っちゃったの?」


不安げな問いに、レオンは完璧な微笑みを浮かべて答えた。


「収穫祭で騒がしかったですから

少し離れているだけですよ

ディア様、朝食にしましょうか?」



■□■□



「おい!!人の話はちゃんと聞け!!」


怒鳴り声が聞こえたが、レオンは無視して次の書類に手を伸ばした。

【魔獣の暴走】について、未だに報告できずにいる。

いずれはディアを間の森から連れ出し、街で暮らせるように算段をつけていたが、魔獣がディアを求めて攻め込んでくる可能性がある以上、手の出しようがない。


下手なことを言って目をつけられれば、余計に動きにくくなる。


原因が分かれば対処できるが、ヴァルディスはディアに真実を告げることを許さないだろう。



新しい書類に手を伸ばせば、バシッと書類の上に手が置かれた。


「レオ!!話を聞けよ!!」


「…聞いてます、魔の森の調査は却下だと何度も説明しましたよね?

騎士は使い捨ての駒ではないと上層部に伝えてあります

それから、騎士の昇格試験の内容についても話はつけてありますので」


「話をする時は人の目を見ろ!!」


書類の上から手が退く気配がないので、セオドールは容赦なく書類を奪い取る。

レオンは溜息を付くと仕方なく顔を上げた。


「団長、今は西門近辺の見回りのはずです」


「大丈夫だ、それはツンツン頭の奴に任せた」


「……カイルのことですか

せめて自分が管轄している騎士の名は覚えろよ」


「覚えるの苦手なことは、レオが一番わかってるだろ」


自信に満ち溢れて答えるセオドールの顔面を殴りたいが、レオンはグッと拳を握って耐えた。


「それで、いつオレに“白魔女”を紹介してくれるんだ?」


「何度も言わせるな、魔女と気軽に話せるはずないだろ」


「なら、魔の森の調査を承諾させろ」


「調査という名目だろうが、簡単に会えると思うな」


今まで、セオドールが魔女に興味を示したことは無いはずだ。

レオンは、眉間に皺を寄せながら「余計な仕事は絶対に、増やさないで下さい」と再び書類に向き合った。



淡々とした声。

だが、ペン先がわずかに止まる。

紙に小さなインクの染みが広がった。



セオドールはその一瞬を見逃さなかった。


「……レオ」


低く、先ほどまでとは違う声。


「お前、何隠してる?」


書類をめくる音だけが、部屋に落ちる。

レオンは答えない。


「魔の森の調査を止める理由が、“騎士を守るため”だけだと思ってるほど、オレは馬鹿じゃねぇ」


「……評価が高くて何よりです」


「茶化すな」


バン、と机が鳴る。


「ノエルの件もある

魔女が絡んでる以上、無関係なわけがない」


その名前に――


レオンの手が、一瞬だけ止まった。


「……だからこそ、軽率に踏み込むべきではないと言っているんです

魔の森は“人が入っていい場所”じゃない」


「じゃあ、お前は何で出入りしてる」


間髪入れない指摘に空気が張り詰める。

レオンはゆっくりと顔を上げて微笑んだ。


「任務です」


「嘘つけ」


即答だった。

セオドールの目が、真っ直ぐレオンを射抜く。


「任務であんな顔するかよ」


「……どんな顔ですか」


「――帰りたくなさそうな顔」


言葉が、落ちた。


レオンの瞳が、わずかに揺れる。


だが、それも一瞬。


「団長、仕事に戻ってください」


「レオ」


「以上です」


視線を落とす。

完全な拒絶だ。


しばらくの沈黙の後――


「……チッ」


舌打ちが一つ聞こえた。


「逃げんなよ」


それだけを残して、セオドールは部屋を出ていった。


扉が閉まる。

セオドールの足音が遠ざかるまで、レオンはしばらく動かなかった。



「……面倒な男だ」


深く息を吐いて、小さく呟く。



脳裏に浮かぶのは――


赤い瞳


狂った魔獣


そして――


「……ディア様」


無意識に零れた名に、自分で気づき、わずかに眉をひそめる。


「……優先順位を、誤るな」


自分に言い聞かせる声が、やけに虚空に響く。

手に持ったペンは、もう数分間、一文字も進んでいない。


……帰りたくない、だと?



セオドールの言葉を、鼻で笑い飛ばせなかった自分がいる。

かつての自分なら、「任務地を離れるのが惜しいほど、私は未熟ではありません」と、完璧な微笑みで切り返せただろう。


だが今は――。


瞼を閉じれば、浮かんでくるのは帝国の規律でも、昇格試験の要項でもない。




『……帰るの?』


あの、責める響きさえない無垢な声。

引き止めるでもなく、ただ「寂しい」という事実だけを突きつけられたような、あの瞳。


……あんな顔を、させるつもりはなかった


最初はただの「任務」だった。

利用価値のある「魔女」を監視し、手なずけ、帝国に有利な報告を上げるための、完璧な演技。


彼女の信頼を得るために、優しい騎士を演じていたはずだった。


それなのに。


「…………ディア様」


二度目。今度は、はっきりとその名を呼んだ。

甘い痺れが、胸の奥を激しく揺さぶる。


「ッ、なんだ……これは」


レオンは乱暴にペンを置くと、まだ半分以上残った書類を無理やり束ねた。



■□■□


夜の森は、昼間よりもずっと静かで、残酷な気がした。

毒と瘴気に満ちた空気が、騎士の鎧を……心を腐食させていくような感覚に陥る。




扉の前に立ち、息を整える。

騎士の仮面を、もう一度、完璧に貼り付ける。

復讐のために彼女を利用する、冷酷な男の仮面を。

コン、コン。

静寂を破る、ノックの音。

ほどなくして、扉がゆっくりと開いた。


「……どうしたの?」


ディアが顔を出し、不思議そうに尋ねた。

いつもは、朝来るはずのレオンが夜遅くに、突然現れる。


「いえ、その……」


怪訝な顔をされるか、あるいは怯えられるか。

不信を抱かれることは理解していた。


「おかえりなさい」


しかし、ディアは、驚くことも、疑うこともなく。

ただ、花が綻ぶような、あまりに無垢な微笑みを浮かべて、そう言った。


「……ッ」


その瞬間、心臓が大きく脈打った。

胸の奥の痛みが、甘い痺れとなって全身を駆け巡る。


「……ただいま戻りました、ディア様」


声が、いつもより少しだけ低く、熱を帯びた。

無意識に手が伸びる。


ディアの頬に、レオンの手が触れようとした、その瞬間――ガリッ、と。

鋭い爪が、レオンの手首を掠めた。


「……ッ!?」


低い唸り声と共にクロがディアの前に立ち塞がる。

その行動は明確な警告だと、なぜか理解できた。

ヴァルもディアを守るように背後から、レオンを睨んでいる。



「気安く触れるな」


ヴァルは吐き捨てるようにそう言うと、ディアの頭に手を置いた。


「……ヴァルディス様」


レオンは手首の血を拭い、微笑みを貼り付けたまま、ヴァルを見る。


赤い瞳。

そこにあるのは、ただの「外敵」に向ける、剥き出しの殺意だった。


(ディアに触るな!!!)


「クロ、怪我させちゃダメ」


(でも!!アイツ!!)


「仲良くするって約束したでしょ?」


唸り続けているクロを抱きかかえると、ディアは不安げにヴァルを見つめた。


「――はぁ、好きにしろ」


ヴァルは、興味を失ったように、冷めた目でレオンを見ると壁際に寄り掛かる。


「手当してもいい?」


ディアの細い指先が、レオンの手首に触れた。

その瞬間、復讐心という黒い霧が、甘い熱に塗り潰されていくのを自覚してしまった。


「……ディア様、これくらい、大したことは」


拒絶の言葉を紡ごうとした唇が、わずかに震える。完璧だったはずの“魔女の騎士”の仮面が、彼女の体温ひとつで、内側からドロドロに溶かされていく感覚に戸惑う。


「ダメ」


ディアは真剣な面持ちで、レオンの大きな手を自分の膝の上へと導いた。

慣れた手つきで水差しから布を浸し、血を拭っていく。


「…………」


無言のまま、レオンは自分を見下ろすヴァルの視線に気づいていた。

壁際に寄り掛かり、冷めた赤い瞳でこちらを射抜く。

その目は明らかに、『お前の本性を暴いてやろうか』と嗤っている。


……俺は、壊れているんだ

……いや、壊れ始めている



自分に言い聞かせながら、視線をディアの小さな手元に落とす。

彼女が傷口を拭うたび、冷たい夜の空気の中でそこだけが異常なほど熱を持っていた。


利用価値のある道具



復讐のための鍵



そう唱えるたびに、彼女の睫毛の揺れや、真剣に結ばれた唇に、意識が吸い寄せられていく。


「……痛む?」


ふいに顔を上げたディアと、至近距離で視線がぶつかった。

潤んだ瞳の中に、自分の「歪んだ顔」が映り込んでいるようで、レオンは思わず息を呑む。


「……ッ、」


「ごめんっ、包帯キツかった?」


「……いえ、何でもありません」


レオンは微笑みを貼り付け直したが、その声はいつもより低く、掠れていた。

彼女の指先が、包帯を巻く仕上げにレオンの肌を掠める。

その微かな刺激さえ、今の彼には毒のように回っていく。


『惹かれすぎて、壊れた……』


ヴァルの言葉が、鼓動のリズムに合わせて繰り返される。


「できた、これで大丈夫」


ディアが満足げに笑い、レオンの手をそっと放した。

熱が離れていく喪失感に、レオンの指先が無意識に空を掴む。


「……ありがとうございます

夜分に、お騒がせいたしました」


立ち上がり、一礼する。

その背後で、クロが依然として低く唸りながら、ディアの裾を咥えて自分から遠ざけようとしている。


「ヴァルディス様

明日は、予定通り朝に伺います」


「来るな」


ヴァルの冷酷な言葉を背中で受けながら、レオンは扉へと向かった。

一度も振り返らず、夜の森へと踏み出す。

胸の奥の痛みは、消えるどころか、ますます深く、甘く刻まれていた。





静まり返った室内。

遠ざかっていくレオンの足音を、ディアは扉の隙間からじっと見送っていた。


「……何しに来たのかな?

そんなに急いで帰らなくても、ここに泊まっていけばよかったのに」


夜の静寂に、その無垢すぎる独り言だけが溶けていく。


「ね、ヴァルもそう思うでしょ?」


「……知るか、さっさと寝ろ」


背後でヴァルが盛大に舌打ちをしたことにも気づかず、ディアはもう一度だけ、レオンが消えた暗闇を見つめて、そっと扉を閉めた。

読んでくださり、ありがとうございます。


優しさは、ときに人を救い、 ときに、壊します。


その手を取ることが、正しいのかどうか。

まだ誰にも分かりません。

次章もお付き合いいただけたら嬉しいです。

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