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紅き瞳は夜に溶ける  作者: かな
3/9

第3章【偽りの騎士と変わりゆく魔女 ~はじめての“ありがとう”~】



(ディア!遊びに行こうよ!!)


部屋の中でクロが飛び回るが、ディアは「ごめんね」と謝り、レオンに視線を戻した。


「クロ、大人しく影の中に戻れ」


レオンの言葉にクロは、見せつけるようなスピードで部屋の中を飛び回る。


(やだぁあ!!!ディアと遊ぶの!!)


「……ディア様に嫌われるぞ?」


(遊ぶ!!遊びたい!!!)


先日はこの言葉で大人しくなったが、今回は無理だった。

こっちが言ってる意味は理解してそうだが、クロの言葉は唸り声にしか聞こえない。

様子から察するにディアと遊びたいのだろうとは思うが、確かめるすべはない。

レオンはため息を吐くと、クロを無視して続きを始めることに決めた。


「ディア様、では――この前のッ!!!」


しかし、口を開くレオンの顔面にクロの尻尾があたる。バシンッといい音が響いた。


「痛ッ……クロ!!!」


(コイツ嫌い!!!)


これ以上騒がしくなると、ヴァルまで怒り出しそうだと感じたディアは、自身の膝を叩いてクロを呼んだ。


「クロ、お膝でお休みする?」


(する!!!ディア大好き!!!)


クロはディアの膝上で丸くなると、ゴロゴロと喉を鳴らし、寝息を立て始めた。


「お手を煩わせて、申し訳ありません」


「大丈夫だよ」


「ありがとうございます

では、今日は計算の練習をしましょうか?」


ディアに勉強を教えることになったのは数日前だ。




帝国に戻ったレオンを待ち受けていたのは、悲鳴だ。

魔の森に向かって3日間も行方が知れない。

“死んだ”そう思われるのが普通のことだ。

自ら望んで【終焉の白】の騎士を祈願するなど、正気の沙汰じゃない。


『……お前、生きてるんだよな?』


そう言って、恐る恐る触れようとする門番の手をレオンは笑顔で叩き落とす。


『触らないでください

……それから酒は控えるようにと伝達したはずですよね?

今度は減給だけで終わると思わないでください』


ディアが森に入ってから、魔獣被害は途絶えた。

代わりに広がったのは、どこか気の緩んだ空気だった。


『レオ、そんなに怒るなって

それよりも……なんで平気な顔で帰ってきてるのか教えてくれよ』


『ディア様のご慈悲により、命を繋ぎ止めることができました』


報告があるからと頭を下げて、その場を後にする。

騎士団のなかでも口が軽い男だ、【終焉の白】が騎士を救ったと面白おかしく話すことは容易に想像できた。

レオンは歩みを止めることなく目的の場所に向かう。



母が亡くなってから、第三皇子【レオニス・ルクシア】としの立場を隠し、母の姉の元でお世話になることを選んだのは、復讐の為だった。


勉強も、剣術も、必要ならば身につける。


どれだけ泥に塗れようが


この手が血で汚れようが


構わないと思っていた


【終焉の魔女】のことも利用できると考えていた




――それなのに、どうして“護りたい”と願ってしまったか




レオンは冷ややかな瞳で、遠い空を見上げる。


「……レオニス」


誰にも聞こえない声で、呟いたのは、捨てたはずの自分の名だった。


思い出せ。

忘れるな。


――――この国の醜さを。




レオンが報告を終えると、残念そうな顔をする人々が数人いた。


「ディア様に本来届けられているはずの資金についても話があるのですが、よろしいですか?」


気にせずに声をあげれば、肩を震わせ動揺を必死に押さえ込もうとする人がいる。

大まかな目星は付いていたが、これほどまでに楽に片付けることができるとは思っていなかった。

レオンは完璧な微笑みを崩さずに続ける。



「……それから

ディア様への任務依頼につきましても、今後はすべて私にお任せください

他の騎士の方々がこれ以上、あの深い瘴気に当てられて“使い物にならなくなる”のは、帝国の損失ですから」



話し合いが終わったのは、日が昇る少し前だった。

お金は全額とまでは行かなかったが、当面の間は困らない額を約束させることができた。

食事を取って、休んだら魔の森に行こうと考え自身の部屋に戻った瞬間

足元から魔獣――クロが飛び出してきた。


「……腹減ってたのか」


迷うことなく手に持っていた食事に喰らいつく小さな姿にレオンは呆れたように溜め息を吐く。


「他の人の前で姿を出さなかったのは、本能で危ないって感じてたのか?」


レオンの問にクロは小さな唸り声を上げるだけだ。

食事が終わると、クロは再び影の中へ戻っていく。

クロの存在が知られれば、言い訳をする間もなく処刑台に行くことになるだろう。


「頼むから、人前では出てくるなよ」


そう呟くとレオンは、休むために寝台に横になった。





昼を告げる鐘の音で目を覚ますと、レオンは慌ただしく部屋を飛び出す。

疲れていたとは言え、寝過ごしてしまった。

荷物をまとめ、市場で買い物を済ませると魔の森に向かう。



「遅くなり申し訳ありません」


謝罪と共に家の中に入れば、ちょうど食事を口に運ぶディアの姿があった。

レオンは知っていた。


――この家の中にある物は全て毒物だ。


「毒だっていいましたよね!?何食べてるんですか!!」


「スープだよ?これは、紫色で表面がザラザラしてるキノコ」


「お願いですから、食べないでください!!

サンドイッチを持ってきたので、今日はこちらを召し上がって下さい」


レオンが鞄から食事を取り出したそうとした瞬間、クロが飛び出した。

鞄の中に頭を突っ込んで、ゴソゴソと動いている。

前にも見た光景だと思いながらレオンは「クロ!!」と叫んだ。

ディアは「お腹すいてたの?スープも飲む?」と手元の皿をクロの横に置く。


騒がしくなる部屋の中で、ヴァルはレオンに視線を向け、冷たく言い放った。


「用がないのに来るな、帰れ」


「これまでに受け取るはずだった、資金の一部を渡しに来ました

それから

ディア様の“騎士”として、傍にいることは私にとって大切な任務なのでご理解いただけると幸いです 」


レオンは怯むことなく、ヴァルに笑顔を向けるとテーブルの上に硬貨を広げ始めた。


「必ず全額回収するので、もう暫くお待ちください」


「……色も大きさも違うんだね」


ディアの発言にレオンは手を止め、テーブルの上に置いた硬貨の中から金貨を手に取りティアの目の前に置く。


「ディア様、この金貨は銀貨にすると何枚になりますか?」


助けを求めるような顔でディアがヴァルに目を向けた瞬間、レオンの頭に1つの疑念が過ぎる。


「硬貨は帝国だけでなく、共通の貨幣です

価値が変わることはありません

ディア様は、読み書きはできていましたよね

誰から教わったのですか?」


帝国で管理されているディアの記録では、5歳から魔の森で暮らしている。

人間が近づけない場所で、まともな教育が施されているはずがなかった。


「ヴァルだよ、難しいのは分からなかったけど

読むことはできたから、分からない所は教えてもらった!

任務の依頼が来れば、報告しないといけないから」


「……買い物の仕方、国の歴史、動植物、日常生活において最低限必要な知識は教えてもらいましたか?」


レオンの問に答えたのはヴァルだった。

吐き捨てるような声で言わる。


「なくとも問題ないだろう」


「問題ありますよね!?」


一呼吸置くと、レオンは静かに告げた。


「ディア様、勉強しましょう」



■□■□


ディアに勉強を教え始めて1週間。

乾いた土が水を吸い込むように、ディアの覚えは早い。


「ディア様、1度実践してみましょうか?」


硬貨の価値も覚え、計算も一通りできるが、実際に使えないことには意味をなさない。

レオンの発言に、ディアは顔を伏せる。


「収穫祭が行われるんです

物の収穫に際し、感謝と祈願をこめて行なうもので」


「そんな騒がしい所に行く必要はない

“練習”ならもっと静かな時に行けばいい」


「賑やかの方が目立たない事もありますよ?

それに……見たことの無い物や美味しいも沢山あるので

ディア様のお気に入りが見つかればと思いまして」


俯いていたディアは、そっと顔を上げてヴァルを見る。

収穫祭に行ったことは無いが、この時期の街は賑やかになる事は知っていた。


「……行っていい?」


不安そうなディアの声に、ヴァルは小さく頷く。



ディアはほっと息を吐くと、嬉しそうに小さく笑った。



■□■□




帝国に近づくにつれ、ディアの足取りは重くなった。


「ディア様、……怖いですか?」


レオンは、震えるディアの指先にそっと手を重ねた。


「大丈夫です……私があなたの横にいます

何があっても私が護ります

だから、今日は楽しんでください」


街の人は、私が行ったら、また嫌な顔をするかもしれない。

でも、……もし、レオンが言うように、私が変われば、世界が少しだけ優しくなるなら


『ごめんなさい』じゃなくて、『ありがとう』って。

そんな当たり前の言葉を、言えるかな。



「ディア、嫌になったら、すぐ言え

人混みはお前が思っているよりずっと騒がしい」


ヴァルの手が優しく頭に触れた。

心配してくれているのだと分かっている。

それでも、ディアが望んだことを否定することはない。


「……大丈夫、」


いつもは逃げ込むように戻る森の入り口を背にして、ディアは一歩踏み出した。




森を抜けると、遠くから賑やかな音が聞こえてきた。

笑い声、音楽、金属がぶつかる軽やかな音。

空気が、いつもとは、まるで違う。


「……すごい」


ディアは思わず足を止めた。

街の入り口には色とりどりの布が飾られ、屋台が並び、人々が忙しそうに行き交っている。

焼いた肉の香りや甘い菓子の匂いが風に乗って漂ってきた。


「収穫祭ですからね」


レオンは小さく笑う。


「年に一度、皆が豊穣を祝う日です」


ディアはきょろきょろと辺りを見回した。

目に入るものすべてが新しく、知らないものばかりだ。



その時だった。


「……魔女だ」


「大男を連れてるぞ」


「魔の森の入口から来た」


「終焉の白」



誰かが小さく呟いた。

一瞬で、周囲の空気が変わる。

笑い声が止まり、視線が集まり、ひそひそとした声が広がった。


「……ッ」


ディアは息を飲み込むと、フードを深く被り、小さくなる。


レオンはディアの前に半歩出ると優しく笑いかけた。


「問題ありません

今日は祭りです

皆、忙しいだけですよ」


その言葉に、ディアは小さく息を吐いた。

――でも、まだ怖い気持ちが消えない。

俯いて、自分の足元だけを見て歩こうとしたその時だった。


(おいしそうな匂いする!! ディア! 食べよう!!)


影の中から、クロの興奮した声が聞こえる。


「クロ、大人しくしてろ……後で食べ物あげるから、絶対に姿を出すなよ?」


レオンにはクロの言葉は聞こえない。ただ魔獣の唸り声が、足元から微かに漏れているだけだ。


( ディア! あっちも!すっごくいい匂いする!!)


はしゃぎ回るクロの声に、ディアの頬がほんの少しだけ緩んだ。

顔を上げ、屋台に目を向けると“木の実のパイ”が並んでいた。


森で取れる木の実とは違い、艶がある。

パイ生地もこんがりと焼けていて、甘い香りが漂っていた。


子供の頃の記憶が無いディアが、唯一覚えていたのはパイの作り方だった。

誰が教えてくれたのかは分からない。

けれど、ふとした瞬間に思うことがある。

——きっと、優しい人だったのだろうと。


森に残っていた古い家は、雨風をしのげればいいだろうと帝国がくれたものだ。

何十年と人が住んでいない家はボロボロで、ヴァルが怒っていたのを今でも覚えている。

その家の中にある石窯を見た時だった。

突然、パイの作り方が頭の中に浮かび上がった。

最初は火加減が難しく、何度も焦がしてしまった。



ディアの視線の先にある物に気が付いたレオンは、優しく声をかけた。


「ディア様、やってみますか?」


ディアは服のポケットに入れた硬貨をギュッと握りしめると、小さく頷いた。



レオンが少し離れた位置で足を止め、優しく促す。レオンは手を出さず、けれど何かあればすぐに割り込める距離でディアを見守っている。


「……っ、あの」


ディアはおずおずと屋台のカウンターに近寄った。

店主は忙しそうに手を動かしていたが、目の前に立った“黒いフードの魔女”に気づくと、少し不審そうな顔で手を止める。


「……なんだい、お嬢ちゃん。ッ、あんた……森の、……」


店主の言葉が「魔女」という単語に触れそうになった瞬間、ディアの背筋に冷たい汗が流れた。

逃げ出したい。けれど、レオンと交わした約束が彼女を繋ぎ止める。


「……これを、ひとつ、ください」


ディアは震える手で、大切に持っていた銀貨を差し出した。小さな掌に乗った銀貨は、お祭りの灯りを反射してキラキラと輝いている。


「へえ、……ちゃんと金を持ってるのか」


店主は少し驚いた顔をしたが、レオンの鋭い視線に気づいたのか、あるいは銀貨の輝きに毒気が抜かれたのか、手早く一番大きなパイを紙に包んで差し出した。


「ほら、焼きたてだ、火傷すんなよ」


「……っ」


手渡された包みは、驚くほど温かかった。

ディアはパイを両手で受け取ると、胸がいっぱいになって、さっき練習した言葉を精一杯絞り出した。


「……ぁ、ありがとうございます……っ」


顔は見えないけれど、声は確かに届いた。



■□■□


人混みから抜け、祭りから離れた所にあるベンチに腰を下ろした。


何層にも重なった生地の間に、蜜で煮詰めた木の実がたっぷり詰まったパイ。

ディアは恐る恐る、それを口に運んだ。


「……あまい」


純粋な甘みと木の実に香ばしさが口いっぱいに広がった。


(ディア!ボクも食べる!!)


クロが影の中から飛び出すと、レオンは「バカっ」と頭を抱えていた。

少し大きめに割って、クロに差し出せば嬉しそうに食べ始める。


(うわっ、あまい!!おいしい!!!)


「クロ!!食べたらすぐに戻れ!!」


(弱い人間の言うことなんか聞いてやるもんか)


「森に帰ったら、いつもより多いご飯をあげるから戻てくれないか?」


影の中に戻ろうとしないクロに、レオンは交渉するようにお願いを始める。

さすがに街中に“魔獣”が居ると騒がれると、処分されるとディアでも分かるので協力するように声をかけた。


「クロ、帰ったらいっぱい遊んであげるから……戻れる?」


(うん!!わかった!!)


クロが影の中に戻ると、ほっとした空気が流れた――その直後だった。


「レオ!!」


怒鳴るような大声が響き、一人の男が近づいてくる。

鍛え上げられた体躯に、乱雑に羽織った外套。

帝国騎士の紋章が刻まれているにも関わらず、その立ち振る舞いはどこか粗暴で、品よりも威圧感が勝っている。


「テメェ!!オレが目ぇ離した隙に“白魔女”の騎士に志願するなんて何考えてやがる!!」


「……団長こそ、こんな所で何をしているのですか?」


レオンはため息混じりに振り返る。


「この時間帯は見回りを強化すべきでしょう

指揮官がふらついていては示しがつきませんよ」


「団長はテメェだろうが!!!」


「では、元団長が助言します

持ち場に戻って仕事をしてください」


レオンの言葉に、団長と呼ばれた男はディアへと鋭く視線を向けた。


「テメェが白魔女だな!!……レオを返せ!!」


怒鳴り声が空気を震わせる。

その勢いに、ディアの肩がびくりと跳ねた。

胸の奥が強く締め付けられ、思わず一歩後ずさる。


――怖い。


その瞬間、ヴァルが一歩前に出る。

ディアを隠すように、無言で立ち塞がった。


「いい加減にしてください」


呆れた声で言いながら、レオンは団長の頭を容赦なく叩く。

そのまま強引に押さえつけた。


「ッ、おい!!何しやがる!!」


「ディア様」


何事もなかったかのように、レオンは整った声で続ける。


「こちら、セオドール・クラウゼルです

教育が足りず、不快な思いをさせてしまい申し訳ありません」


押さえつけられたままのセオドールは、それでもなお暴れようともがいている。


「テメェ!!離せ!!まだ話は終わってねぇだろうが!!」


「終わっています」


レオンが冷たく言い放つのと重なるように、ヴァルは一歩踏み出した。

背筋を凍らせるような、低く、底冷えする声が響く。


「おい、下僕――目障りなソレを捨ててこい」


「下僕ではないですが」


軽くため息を吐き、「コイツを元いた場所に戻してきます」そう言って、レオンはセオドールを引きずるようにその場を後にした。


騒がしかった気配が遠ざかり、辺りに静けさが戻る。


ほんの少し前までの喧騒が嘘のようだった。


ヴァルはゆっくりと振り返り、ディアの隣に腰を下ろす。


「――帰るか?」


低い声で問いかける。

ディアは小さく首を振った。



――――まだ、帰りたくない。


そう言う代わりに、手に持っていたパイへと視線を落とす。

少し冷めてしまったそれを、そっとヴァルの口元へ差し出した。




「食べる?」


ヴァルは無言のまま口を開くと、パイに口を付ける。


「……どう? 美味しい?」


期待を込めて尋ねるディアにヴァルはふん、と鼻で笑ってこう告げた。


「甘すぎる

お前が森で焼く……実のパイの方が、よほど美味い」



ヴァルの言葉はどんな賛辞よりも深く、ディアの胸を温める。


(……ヴァルは、私の作るものが一番だって言ってくれた)


手の中のパイを、ぎゅっと握る。

ほんのりと残る温もりが、胸の奥にまで広がっていく。


自分が作ったものを「美味しい」と言ってくれる人がいる。

ただそれだけのことが、こんなにも嬉しいなんて――。


ディアはゆっくりと立ち上がった。


「……ディア?」


ヴァルが怪訝そうに声をかける。

けれどディアは小さく首を振ると、そのまま歩き出した。




向かう先は、先ほどの屋台。

パイを売ってくれた店の前に着くと、店主が怪訝そうに眉をひそめた。


「……なんだい、文句でも言いに来たのか?」


ほんの少しだけ、警戒するような声だった。

ディアは一瞬だけ言葉に詰まり、それでも小さく息を吸い込む。


逃げない。


今度は、“ちゃんと伝える”。


「……っ、あの」


震える声を必死に押さえながら、ディアは顔を上げた。


「……美味しい、です

……ありがとうございます」


ほんの短い言葉。

けれど、それはディアにとって初めての――恐怖ではなく、想いから紡いだ言葉だった。


店主は一瞬、ぽかんとした顔をする。


「……は?」


予想していなかったのか、間の抜けた声が漏れた。

それから、頭を掻きながらぶっきらぼうに言う。


「わざわざ、そんなこと言いに来たのかよ……」


少しだけ視線を逸らし、さっきよりも、ほんの少しだけ柔らかい声で続けた。


「……ありがとな

気に入ったなら、また買いに来い」


□■□■


「レオ!!」


ディア達から少し離れた場所で、セオドールを離した瞬間、胸ぐらを掴まれた。


「魔女の騎士になることは誇りだ……それは分かってる

だが、魔の森にいる“白魔女”の騎士になるなんて――お前はバカなのか!!」


「白魔女ではなく、ディア様ですよ」


レオンはセオドールの腕を軽く叩き、離すように促す。

遅かれ早かれ、彼が騒ぎ出すことは分かっていた。

だからこそ、不在の時を狙って“団長”にもした。

責任感の強い男だ。

他の騎士達を見捨てられないことも、分かっている。


セオドールとは幼い頃から共に過ごしてきた。

真実は何一つ告げていない。

それでも――レオン・セリウスにとって、大切な友人だ。


やがて、セオドールの手が離れた。


「……挨拶もなく去って、すまない」


レオンはそう言って、静かに頭を下げる。


「瘴気は平気なのかよ」


「ディア様が助けてくれたからな」


「魔女の騎士になることは、お前の意志なんだな?」


「ああ、命令なんてされてない」


「ノエルが魔女と駆け落ちした責任を取らされてるって聞いたが?」


「ただの騎士団の隊員一人に、何の責任が取れる?

それに――罰で“魔女の騎士”になれるはずがないだろ」


セオドールは納得しきれない顔のままだったが、レオンはわずかに笑みを浮かべた。


「頭を使って考えるのは苦手でしょう?

なら、自分の直感を信じてください」


軽く言い捨てる。


「いつまでも無駄話に付き合う時間はありません

私はこれで」


背を向け、歩き出す。


「……団長も、仕事をしてください」


その場を離れようとした時、背後から低い声が落ちた。


「ノエルも……なんで駆け落ちなんて選んだ

魔女の役目が終われば、一緒にいられるのに……

わざわざ魔の森に行くなんてな」


レオンの足が、一瞬だけ止まる。


「……ノエルにも、考えがあった……それだけですよ」


それ以上は何も言わず、歩き出した。

握り締めた拳に、わずかに力がこもる。


魔女は力を使えば、やがて髪や瞳から色を失い、静かに命を終える。


――それが、真実だ。


だが帝国は、【魔女は人々の為に力を使えば人間になる】と教え広めている。


天から与えられた奇跡の力。

私利私欲の為に使う者は、やがて地に還るのだと。

帝国の一部の人間と、魔女の騎士だけが、その真実を知っていた。

生まれた時から親元を離され、育てられる魔女達も、最初はそれを信じている。

だが、終わりが近づくにつれ――やがて気づく。

それが、偽りであることに。


魔の森へ逃げ込むのは、罪悪感に押し潰された魔女の騎士と、微かな希望を抱いた魔女達だ。


(ディア様は、どこまで知っているのだろう)


もし――すべてを知った時、

あの人は、どんな選択をするのか。

読んでいただき、ありがとうございます。

「ありがとう」という、当たり前の言葉。 それがディアにとって、どれほど遠くて、どれほど大切なものだったのか。

少しずつ変わっていくものと、 変えられないもの。

そのどちらも抱えながら、物語は進んでいきます。

次回もお付き合いいただけると嬉しいです。

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