24章【花の国と不思議な青年 ~それぞれの帰る場所~】
静まり返った執務室で、レオンは地図の上にそっと指を置いた。
「エリオス兄上を……帝国へ連れ戻せれば」
表向きは外交・国交のための滞在としているが、女性関係の悪評が原因で、半ば厄介払いのような形で隣国へ送られているルクシア帝国第二皇子、エリオス・ルクシア。
「……これも、皇族の勤めだな」
エリオスと協力関係を築ければ、帝国の体制は大きく変わる。
だが、その前に。
ディア様を、安全な場所へ帰さなければならない。
■□■□
エレノアの並々ならぬ尽力のおかげで、帝都の混乱は大分落ち着きを見せ始めていた。
「みんな、元気かな……」
膝の上に黒猫のクロを乗せ、ディアは小さな声を漏らした。
書類にサインを走らせていたレオンの手が、ぴたりと止まる。
いつまでも、ここに引き止めているわけにはいかない
握りしめた手にぐっと力が入り、書類の端に黒いインクが滲んで広がる。
その日の夜、レオンはテオを自室へと呼び出した。
「ディア様を、魔の森へ?」
「ああ」
「……私は片付けなければいけない仕事がある
セオドールと共に、ディア様の護衛としてついて行ってほしい」
静かに提案するレオンに対し、テオは意味深に目を細めた。
「――このままレオニス様が皇帝の後を継がれたとしても、反発する者など誰もいませんよ?
少々、身動きは取れなくなりますが」
「……」
「魔の森ではなく、この帝都に新しく居住地を与えるという案もあります」
レオン自身、魔の森の危険性は痛いほど理解している。
本来ならば、人間が住むべき場所でないことも重々分かっていた。
それでも――。
「ディア様が、帰りたい場所なんだ」
迷いのないその一言に、テオは静かに、深く頭を下げた。
「出発の準備が整い次第、お声がけいたします」
「……ああ、任せた」
■□■□
(ディア!!)
「……どうしたの、クロ?」
(アイツのこと、食べる!!)
クロの言う『アイツ』がレオンのことだと察すると、ディアは自分用に残していたお菓子をクロの口に放り込んだ。
「お腹、空いたの?」
(だって! アイツ!! またディアとボクのこと離れさせようとしてるの!!!)
ぷんぷんと怒るクロの頭を優しく撫でながら、ディアは「食べちゃダメだよ」と笑って呟いた。
夜になると、ディアは人目を避けながら、そっとレオンの部屋の前へと向かった。
静かに扉を開けると、ちょうど休むところだったのか、身軽な部屋着姿のレオンと目が合った。
「……ディア様!?」
驚きつつも、ディアの姿を認識したレオンは、少し困ったような、窘めるような口調で告げた。
「……真夜中に、男性の寝室を訪ねてはいけません」
「……なんで?」
首を傾げるディアの純粋な問いに、レオンは言葉を詰まらせ、ディアの背後に佇むヴァルへと視線を向けた。
「ヴァルディス様がご一緒だったとしても、今後はこのようなことがないようにお願いします」
すでに話の内容を悟っていたレオンは、ディアを部屋の中へ招き入れると、柔らかい椅子へと座らせた。
「テオからお聞きになったのですね
早くても二日後には、魔の森へ向けて帝都を出る準備が整います」
「なんの話し?」
「……魔の森に帰るお話ですが……その件ではないのですか?」
「クロがレオンのこと食べようとしてたから……様子を見にきたの」
「……」
レオンは思わず自身の足元の影を見つめたが、クロが影から出てくる気配はない。
拍子抜けするレオンに向かって、ディアは真っ直ぐな瞳で微笑みかけた。
「レオンが一緒に帰れるまで……待ってるよ?」
「っ、しかし……っ」
「大丈夫
帝都に行くって決まった時にね、騎士団の人にお金を渡して『皆のごはん』を届けてくれるようにお願いしてあるの」
「……ディア様」
「だからね、レオンが今したいことをして」
その透き通った赤い瞳に見つめられ、レオンの頬が微かに朱に染まった。
「っ……ありがとうございます」
絞り出すようなお礼を伝えるのが、精一杯だった。
「今日はもう遅いですので……明日、改めてお話しさせてください」
■□■□
翌朝。
レオンの前に、隣国へ向かう出発の準備を終えたテオが何食わぬ顔で現れた。
「レオニス様、隣国にも珍しい『魔女』がいるらしいですよ」
優雅に微笑むテオの背後――用意された馬車の中を覗き込むと、何故かフィオナとシーナがくつろいでいるのが見えた。
「レオ、諦めろよ! お前を一人で置いていくような薄情な奴は、ここにはいねぇぜ!」
馬車の陰から現れたセオドールの笑い声に、レオンは頭を押さえて深く重い溜め息を吐き出した。
「テオ……お前、最初から『魔の森』に向かう気なんてなかったな?」
「おや、滅相もございません……全員で寄り道をするだけですよ」
クスッと悪戯っぽく微笑むテオを前に、レオンは諦めたように口元を緩めた。
■□■□
「あの国に……俺は必要ない」
遠く故郷の方角を向いた窓の外をぼんやりと眺めながら、エリオスは静かに呟いた。
豪華な部屋には、甘ったるい香水の香りだけが残っている。
テーブルに置かれた酒瓶へと手を伸ばす。
“女道楽に狂う道化”。
人は好き勝手にそう呼ぶ。
だが、一人きりになったこの静寂の中だけは、貼り付けた笑顔を浮かべ続ける必要もなかった。
自分は、皇帝の器などではない。
誰よりも――自分自身が、その現実を嫌というほど理解していた。
完璧なアルベールも、真っ直ぐで人に愛されるレオニスも。
光を浴び、誰かに望まれ、愛される側の人たちだ。
母の欲望の道具として扱われ、周囲から『醜女の子』と蔑まれてきた自分とは、最初から持っているものが違いすぎる。
『どうせ何をしても嫌われるなら、最初から呆れられていた方がマシだ』
そう開き直った時から、少しだけ息をするのが楽になった。
厄介払いのように、この隣国へ送られた日も笑ってみせた。
「……エレノアは、元気にしてるかな」
脳裏に浮かぶのは、気品に満ちた一人の女性の姿。
隣国へ送られるあの日。
誰もが冷ややかな目で自分を見送る中、ただ一人だけ、切なさを滲ませた澄んだ瞳で別れを惜しんでくれた人だった。
「レオニスなら……幸せにしてくれるだろ」
それでも、彼女の存在だけが、この暗闇のような孤独の中で唯一の温もりとして胸に残っていた。
「……会いたいなんて言ったら、笑われるよな」
グラスに注いだ酒を口へ運び、エリオスは誰にも届かない溜め息を夜風へと溶かした。
■□■□
帝都を出発した馬車は、ゆっくりと隣国への街道を進んでいた。
レオンは窓の外へ視線を向け、小さく息を吐く。
「兄上……」
幼い頃から、エリオスはいつも笑っていた。
誰に馬鹿にされても。
どれだけ陰口を叩かれても。
まるで何も気にしていないように。
だが、その笑顔が本心ではないことくらい、レオンには分かっていた。
幼い頃の記憶を辿れば、いつも思い出すのは優しい記憶。
『レオは可愛いなぁ』
そう言って自分の頭を優しく撫でてくれたのは、第二皇子――エリオス兄上だ。
第三皇妃は、自分の欲望を満たすための道具として兄上を縛り付け、厳しく責め立てていた。
周囲の大人たちもまた、皇妃の顔色を窺いながら、兄上を『皇族の面汚し』と蔑んでいた。
それでも兄上は、母上からどれほど冷遇されようと、陰でどれほど悪口を言われようと、幼い自分の前では、いつも穏やかで優しい『兄』で居続けてくれた。
宮廷の茶会や評価の場で、皇妃が自分と兄上を比べようとする度に、兄上は自分の価値を下げ続けた。
『父上、レオニスの剣術を是非ご覧になってください
講師の先生も褒めていましたよ
俺も手合わせしましたが、とても筋がいい』
『アルベールは、飲み込みが早いですね
あと数日もあれば城内にある本を全て読み終えるんじゃないかなぁ
隣国から新しい本を取り寄せれば喜ぶと思いますよ』
今思えば、そうすることで、母の矛先が自分に向かないよう、幼いレオンの立場を守ろうとしていたのだと分かる。
大人たちが『エリオス殿下は出来損ないだ』『レオニス殿下の方が遥かに優秀だ』と噂し合っているのを耳にするたび、幼いレオンは胸が破れそうなほど悔しかった。
違う
兄上は出来損ないなんかじゃない
誰よりも優しくて、誰よりも強い人だ
『レオ、ここの計算式が間違っているよ』
『自分よりも、大きな人を相手にする時は踏み込みを変えて』
『今日はあのメイドさんの子供が誕生日らしいぞ
祝いの言葉を送ってあげれば喜ぶな』
『すごいぞ、レオ!』
どれだけ周囲が兄上を悪く言おうと、レオンにとってエリオスは誇りであり、ずっと追いかけたい憧れの背中だった。
レオンが剣術に打ち込み、皇子としての誇りを持ち続けられたのは、間違いなく兄上が自分を信じ、守り続けてくれたからこそだった。
――第二皇妃様が亡くなり、レオンが笑わなくなったあの日。
兄上は、それまでのように頭を撫でてくれることもなくなった。
しばらくして、第三皇妃が自ら命を絶った。
表向きは病死となっているが、城内で噂が広がるに時間はかからなかった。
静かな葬儀が終わった時、エリオスに数年ぶりに頭を撫でられた。
『俺みたいな奴が側にいたら、お前の邪魔になるからさ
……アルベールと仲良くしろよ?』
そう言ってヘラヘラと笑い、“女道楽”と悪評に身を投げ出していった。
それが、自分を庇い、巻き込まないための兄上なりの“嘘”なのだと、レオンは痛いほど分かっていた。
■□■□
「まもなくアルヴェイン王国の国境です」
馬車を走らせながら、テオは静かに口を開いた。
「アルヴェイン王国は、芸術と文化が栄える国です
美しい花々と優れた職人を数多く輩出していることから、『花と職人の王国』とも呼ばれています」
「花と職人の王国?」
ディアが興味深そうに首を傾げる。
「ええ、街には一年を通して様々な花が咲き誇り、ガラス細工や宝飾品、織物など、一流の職人が生み出す工芸品は世界中で高く評価されています」
その美しさを求め、多くの旅人や芸術家が訪れる国
争いよりも文化や芸術、他国との交流を大切にしている。
■□■□
花の香りに包まれた街並みに、優しい音楽が響いている。
帝国とはまるで違う穏やかな空気に、ディアは思わず足を止めた。
「……きれい」
色とりどりの花々。
笑い合う人々。
道端では職人たちが細やかな工芸品を並べ、子どもたちが無邪気に駆け回っている。
その光景に、自然と頬が緩んだ。
皆より少し遅れて歩いていた、その時だった。
ふわり、と風が吹く。
「あ……」
フードが、肩まで捲れ上がった。
陽の光を浴びて、雪のような白髪が揺れた。
場違いなほど美しい——白。
そして、燃えるような赤い瞳。
近くを歩いていた人々の足が止まった。
「……魔女」
誰かが、小さく呟く。
次の瞬間、人々は一歩、また一歩と距離を取った。
子どもを抱き寄せる母親。
怯えた表情でこちらを見る少女。
楽しげだった街の空気が、一瞬で凍りつく。
「っ……」
それは、当然の反応だった。
慣れていた。
帝国では、いつもそうだった。
だから平気なはずなのに。
どうしてだろう?
こんなにも胸が苦しいのは、初めてだった。
震える手でフードを掴もうとする。
隠さないと
早く
早く隠さなきゃ
けれど、指先は小さく震えるばかりで、思うように動いてくれなかった。
「大丈夫
みんな、君の綺麗な髪に見惚れていただけだよ」
背後からそっと聞こえた耳心地のいい声と同時に、捲れ上がっていたフードが優しく頭に被せ直された。
「っ、ぁ……」
顔を上げると、そこには美しく微笑みを浮かべた一人の青年が立っていた。
何かお礼を言わなければいけないのに、動揺と緊張で喉が張り付いたように声が出てくれない。
そんなディアの様子を察した青年は、目元を優しく和らげると、街の奥へと視線を向けた。
「ほら、お迎えが来たよ」
青年の視線の先――人混みを押し分けるようにして慌てた様子で近づいてくる、ヴァルとレオンの姿が見えた。
そのふたりの顔を目にした瞬間、ぎゅっと締め付けられていた胸がすっと軽くなっていくのを感じる。
「……また会えたら、僕とデートしてね?」
名前も知らない青年は、いたずらっぽく片目をウィンクしてみせると、呆然とするディアを残してすれ違いざまに人混みの中へと溶け込むように消えていってしまった。
「――ディア」
駆け寄ってきたヴァルが、心配そうに名を呼ぶ。
ディアは言葉を返す代わりに、そっとヴァルの差し出された手を握りしめた。
「なにかあったのか」
「……ううん、なんでもない」
この温もりから離れてしまわないように。胸の奥に残る小さな不安を消し去るように、ディアはヴァルの手をぎゅっと強く握り返す。
ヴァルは何も問いたださなかった。ただ、静かにその小さな手を包み込むように握り返してくれる。
「ディア様、申し訳ありません……!」
遅れて追いついたレオンが、深く頭を下げた。
「ううん、レオンのせいじゃないよ
私が勝手に立ち止まっちゃっただけ
……ごめんなさい」
「いえ、少しでもお側を離れてしまった私の落ち度です
怪我はありませんか?」
「うん、平気だよ」
レオンの真っ直ぐな眼差しと、自分を心から案じてくれる言葉に、ディアの心を包んでいた、冷たい影はすっかり消え去っていた。
ふと、青年が消えていった賑やかな街の奥へと視線を向ける。
不思議な人だった
被せ直されたフードの温もりにそっと触れながら、ディアはどこか懐かしい余韻を残すその青年の面影を思っていた。
■□■□
アルヴェイン王国第1王子であるセドリック・アルヴェインは、気品ある美しい所作で礼儀正しいお辞儀をすると、レオンへ向けて静かに語りかけた。
「レオニス殿下、ようこそお越しくださいました
遠路はるばるのご訪問、誠にありがとうございます」
「突然の訪問となってしまい申し訳ない、セドリック殿下」
「いえ、どうぞお気になさらないでください
……本日のご用件は、エリオスのことでしょうか?」
「ああ」
「誠に申し訳ないのですが
あいにくエリオスは現在、城を留守にしておりまして
すぐにお部屋を用意させますので、彼が戻るまでお待ちいただけますか?」
セドリックは控えていた侍従へ短く耳打ちすると、手際よくレオンたちを客間へと案内させた。
案内役の使用人たちが退室して完全に誰もいなくなると――セドリックは、重く深い溜め息を吐き出した。
実は、レオンたちが城へ到着するほんの少し前。
エリオスは門番へ
『弟が遊びに来てるみたいだから、彼らが帰ったら戻るね~!』
とだけ伝え城を出て行ってしまっていた。
「あいつ、絶対に戻ってくる気なんてないだろうな……」
セドリックは額を押さえ、頭痛に耐えるように眉間を寄せた。
『女好きで道楽ものの皇子が、国交のために我が国へ滞在する』
最初にその打診を受けた時、セドリックはどれほど面倒で頭の痛い人物がやってくるのだろうかと胃を痛めていた。
だが、そんな不安が杞憂に終わるまでに、大した時間はかからなかった。
角を立てず、誰に対しても波風を立てない人当たりの良さを持つエリオス・ルクシアは、あっという間にアルヴェインの城内に溶け込んでみせた。
ただ居座るだけでなく、“居候させてもらっている身だから”と自分から書類仕事の手伝いを買って出ることすらあった。
街へ繰り出せば、役人からの報告よりも早く、国民が真に困っている生の声や問題点を正確に拾い上げて持ち帰ってくる。
セドリックの目から見ても、確かに女遊びの癖だけは擁護できないものの――エリオスという男は間違いなく“優秀”だと評価せざるを得なかった。
けれど――。
「……楽しそうじゃないんだよなぁ」
豪華な酒場や絢爛な部屋で女たちを侍らせ、ヘラヘラと笑っている時のエリオスは、どこか冷めた仮面を被っているように見えた。
彼が本当の意味で楽しそうに、そしてどこか誇らしそうに愛おしげな顔をするのは……決まって、己の兄や弟の思い出話を聞かせてくれる時だけなのだと、セドリックは気づいていた。
エリオスを追いやった帝国の皇族であるレオンたちを、それでもセドリックは追い返すことができなかった。
「あいつの本当の居場所は……ここじゃないんだろうな」
セドリックは静かに目を閉じ、小さく苦笑した。
「だからこそ……帰れるのなら、帰してやりたい」
24章を読んでいただき、ありがとうございます!
それぞれの「帰る場所」と、すれ違う想いがどう交わっていくのか――
次章も楽しんでいただけたら嬉しいです。




