19章【嘘吐きの軍師と信じる少女 ~崩壊する帝都~】
クロは不機嫌そうに尻尾を揺らした。
(……ディアのバカ)
冷たい隠し通路の奥へと消えていった、大好きなディアの気配。
それが今はもう、遠く離れた場所にある。
クロはレオンを起こそうと尻尾に力を込める。
だが、フードの隙間から見えるレオンの顔色は酷く悪かった。
(……疲れてる)
クロは小さく耳を伏せる。
(コイツに元気がないと……ディア、悲しいよね)
きっとアイツ(ヴァル)も気付いてる。
ディアに何かあれば真っ先に向かうはずだ。
……今すぐ命の危険があるわけではない。
(朝になったら起こす)
不満そうに尻尾を揺らしながらも、クロはレオンの傍らに寄り添うように体を丸めるとそっと目を閉じた。
――そして、朝。
日の出と共に、屋敷の中にレオンの悲痛な叫びが響き渡った。
「ディア様……!? どこですか!ディア様!!」
飛び起きてディアの部屋が空っぽであることに気づき、取り乱して叫び散らすレオンの顔面に、クロは容赦なくその太い尻尾をパァンと叩き込んだ。
「痛っ!? ……ク、クロ? なんでお前がここに……いや、それよりディア様を知らないか?」
「朝っぱらからうるせぇな、何事だよ!」
レオンの声に飛び起きたセオドールが、目をこすりながら廊下に飛び出してくる。その後ろからは、不安そうに顔を覗かせるシーナとフィオナ、エミリアの姿もあった。
「ディア様がいないんだ!
部屋のベッドはもぬけの殻で、どこを探しても姿が……っ!」
「なんだと!?」
セオドールが目を見開く。
一行がパニックに陥りかける中、部屋の前の壁に寄りかかり、腕を組んで目を閉じていたヴァルが、静かに目を開けた。その顔には、焦りも怒りも何もない。
「騒ぐな……問題ない」
ヴァルは鼻でフンと息を吐き、それだけを冷淡に告げた。
「問題ない、だと……!?」
レオンの瞳に、激しい怒りの炎が灯る。普段の冷静さを完全に失ったレオンは、ヴァルの胸ぐらを掴みかねない勢いで一歩詰め寄った。
「ディア様の身に何かあったらどうする!
なぜそんなに落ち着いていられるんだ!!」
ヴァルが凍りつくような赤い瞳でレオンを睨み返す。廊下の気温が、一瞬で数度下がったかのような錯覚を覚えるほどの殺気が奔る。
「――お前には何も出来ない」
「貴様……っ!!」
「おい、二人ともやめろっ!喧嘩してる場合か!?」
セオドールが慌てて二人の間に割って入る。レオンがこれほど感情を剥き出しにして誰かに掴みかかろうとする姿など、初めてだった。
その時、周囲を見回していたシーナが、ふとある異変に気づいて声を上げた。
「……ねえ、テオは? 」
「あぁ? あいつなら自分の屋敷なんだから、どっかで朝飯でも作ってんじゃ……」
セオドールが言いかけて、言葉を失った。
これだけ騒がしいのに、姿を表さない事があるだろうか。
確認するために探しに行くと、テオの部屋の扉は開け放たれており、中には誰の姿もない。
キッチンにも、リビングにも、気配は微塵もなかった。
「テオ様まで、いない……?」
フィオナが震える声で呟く。
ディアが消え、ヴァルは「問題ない」と言い張り、そして、この屋敷の主であり、唯一帝都の裏事情に詳しいテオまでもが、忽然と姿を消している。
「……まさか、テオがディア様を連れ出したのか?」
レオンの顔から、一気に血の気が引いていく。
朝の光が差し込む静かな屋敷の中で、最悪の予感だけが、頭の中を支配し始めていた。
■□■□
「とても楽しい余興が始まるから、ディアに……特等席を用意したよ」
アルベールにそう告げられ、長い回廊を連れ回された果てに辿り着いたのは、城の最上階に作られた、酷く冷たい小部屋だった。
バタン、と不快な金属音を立てて開けられたのは、重く硬い鉄の扉。
部屋の中は驚くほどに狭く、窓には硝子すら嵌められておらず、冷たい夜風が容赦なく吹き抜けている。
家具らしいものは何もなく、ただ部屋の隅に、藁に薄汚れた布を被せてあるだけの簡易的なベッドが、ぽつんと一つ置かれているだけだった。
それまでに連れて来られる道すがら、ディアが目にした城の部屋は、どれもこれも眩いほどの黄金や絵画で豪華に装飾され、塵一つ見当たらないほどに美しく整えられていた。
「アルベール様……“反省室”でなくとも、他に部屋は幾らでも空いていると思いますが」
ディアの後ろで、テオがいつもの仮面のような微笑を崩さないまま、けれど何処か焦燥を孕んだ声でアルベールに進言した。
彼なりに、ディアをこんな劣悪な環境に置くのを阻止しようと、必死に言葉を選んでいるのが分かる。
しかし、アルベールは楽しげに細めた瞳をテオへと向け、酷く淡々と、恐ろしいことを口にした。
「手足を壊して地下室に転がしておいても構わないのだけれど
……ここから外が見えた方が、ディアも楽しいだろ?」
「――っ」
テオの喉が、引き攣るように動いた。
“これ以上口を出せば、本当に四肢をへし折る”という、静かな脅迫だった。テオはそれ以上言葉を続けることができない。
「さあ、おいで――ディア
ここからじっくりと見物するといい」
アルベールの冷たい手が、ディアの背中を、まるで奈落の底へ突き落とすかのように静かに押し出す。
よろめきながら冷たい床へと踏み込んだディアの背後で、ガチャン!!と、容赦のない鉄の扉が閉まる音が、夜の静寂に高く響き渡った。
普通の人間の女の子なら、泣き叫ぶか、恐怖で震え上がって扉を叩くような絶望の空間。
けれどディアは、少しも動じる様子はなかった。
冷たい風が吹き抜ける部屋をゆっくりと1周見渡すと、何のためらいも、迷いもなく、部屋の隅にある簡易的なベッドへと歩み寄り、そのままちょこんと腰掛けた。
手のひらで、藁の上に被せられた布をそっと撫でてみる。
「……やわらかい」
ふふ、と小さな笑みがディアの口元から溢れた。
初めてヴァルと一緒に、“魔の森”の家に入った時のことを思い出す。
あの家は本当にボロボロで、蜘蛛の巣だらけで、ベッドなんてものは影も形もなかった。床に直接横たわるしかなくて、夜は魔獣の遠吠えが響いている。
それに比べたら、ここは頑丈な壁があって雨風も凌げる。横になれるベッドだって、ちゃんとある。
アルベールがどんな悪意を込めてここへ閉じ込めたとしても、ディアの基準からすれば、この部屋は十分に恵まれていると思えた。
ディアはごろん、とベッドに横たわり、小さな身体を丸めた。
硝子のない窓から吹き付ける夜風は冷たかったけれど、不思議と怖くはなかった。
「……ヴァル、怒ってるかな」
ぽつりと、夜の闇に呟く。
朝になって、自分がいないと知ったら、どれほど怒り狂うだろうか。
「レオンと喧嘩なんかしてないといいな
……クロにもあとで謝らないと」
けれど、ディアの心には、確固たる安心感があった。
どんなに遠く離れていても、自分がどこに囚われていても、ヴァルは、絶対に自分を見つけ出してくれる。
――信じているから、怖くない
テオがくれた『レオニス殿下を護る』という言葉だって、きっと嘘じゃない。
「……おやすみなさい、ヴァル」
まぶたを閉じると、すぐに心地よい泥のような眠りがディアを包み込んでいった。
アルベールが用意した“特等席”で、小さな少女は、誰よりも深く、穏やかな眠りに落ちていくのだった。
■□■□
帝都に獣のような咆哮と、鼓膜を裂くような悲鳴が響き渡った。
「な、何事だ……!?」
テオの屋敷で睨み合いを続けていたレオンたちも、ただ事ではない外の騒ぎに、弾かれたように表へと飛び出した。
目に飛び込んできたのは、月明かりの下、漆黒のドロドロとした影を全身から噴き出しながら暴れ狂う、異形の群れだった。
「……“影憑き”」
フィオナが恐怖に顔を歪めた。
「帝都に、瘴気が溜まる場所は無いはずなんですが」
「そんなこと今考えて仕方ないだろ?」
「……そうだな」
かつて見たものよりも遥かに濃い瘴気が、狂った人々の肉体を内側から蝕み、理性を完全に奪い去っていた。街の人々は逃げ惑い、帝都は一瞬にして血の香りが広がった。
「――とりあえず、被害が広がらないように対処するか」
セオドールが背中の大剣を引き抜き、正面から突っ込んできた影憑きの腕を力任せに弾き飛ばす。レオンもまた、正体を隠すフードが脱げかけるのも厭わず、腰の剣を抜いてセオドールの横に付いた。
「セオドール、奴の動きを止める! 合わせろ!」
「おうッ!!」
息の合った二人の共闘が炸裂する。セオドールが強烈な一撃で影憑きの姿勢を崩し、生じた隙にレオンが目にも留まらぬ速さでその脚を薙ぎ払い、地面へとねじ伏せた。
「エミリア様……浄化できますか?」
レオンの叫びに応じ、怯えながらも覚悟を決めたエミリアが前へ踏み出す。
「……っ、光よ、彼らの苦しみを取り去って」
エミリアの両手から、聖なる浄化の光が放たれ、暴れ狂う影憑きの身体を優しく包み込んだ。漆黒の瘴気がジリジリと音を立てて消滅していき、人間の形をした影が、静かにその動きを止める。
「っ、よかった……」
フィオナが希望を抱いた声を上げた、その瞬間だった。
「……嘘、だろ……」
セオドールが、呆然と呟いた。
瘴気が完全に消え去った地面に残されていたのは――生き延びた人間ではなく、水分を失い、どす黒く変色した、ただの『屍』だった。
最初から、瘴気によって命の火を使い果たされていたのだ。浄化しても、それはただの死体に戻るだけで、救うことなど最初からできなかった。
「……救え……ないの……」
エミリアは、静かに呟くと唇を強く噛み締めた。
「おい、見ろ……何処から溢れてきてやがるんだ、これ……!」
セオドールが血の気の引いた顔で周囲を指差す。
路地裏から、建物の屋根から、下水道の隙間から――まるであらかじめ配置されていたかのように、影憑きが、泥のようにドロドロと、際限なく溢れ出してくる。
「いやあああああッ!!」
「助けてくれ、誰か――ッ!!」
逃げ遅れた民衆の悲鳴が、あちこちから帝都の空へと弾け飛ぶ。
まるで、暗く深い闇が帝都の全てを飲み込もうとしているようだった。
□■□■
「――怯むな! 陣形を維持しろ!」
混沌を極める戦場に、驚くほど冷静で、かつ凛とした鋭い声が響き渡った。
白銀の甲冑を纏った、統率の取れた一団。第一中央騎士団が、瞬く間に影憑きの群れを包囲していく。その中心で、冷徹に采配を振るっていたのは、よく知っている人物だった。
「テオ……!?」
いつも緩く着崩していた上着をきっちりと正し、騎士団の頂点たる外套を翻すその姿は、いつもの掴みどころのない青年ではない。
「おい、あれ……テオだろ?」
「テオは、アンタよりも立場は上よ
まぁ……体力も剣術は人並みだけれどね」
「“魔女狂い”と馬鹿にされていますが、帝都においてテオ様は“最強の軍師”として知られています」
セオドールの声に答えるように、シーナとフィオナは簡単に説明をする。
テオ・アルケミストは、帝都が誇る若き天才であり、第一中央騎士団の司令塔として、立場的には騎士団の中でもトップに君臨する。
テオは、かつて人間だった異形たちを冷徹な目で見下ろし、部下たちへ一切の容赦なく言い放った。
「人の形をしているだけです……いつも通りに、処理してください」
「「「はっ!!」」」
テオの指示一つで、騎士たちが一斉に動き出し、影憑きを確実に無力化していく。普段は魔女にしか興味が無いような素振りを見せている男が、戦場においては恐ろしいほどの統率力を発揮していた。
指示を出し終えたテオは、呆然と立ち尽くすレオンたちの姿をその鋭い眼鏡の奥に捉えると、こちらへと近づいてきた。
「テオ、お前っ……! ディア様を何処に――」
詰め寄ろうとするレオンの言葉を、テオは手を挙げて制した。その表情は、いつもの嘘くさい笑みが完全に消え去り、極限の緊迫感を孕んでいる。
「レオン様、聞いてください……ディア様が、アルベールに連れて行かれました」
「――ッ!」
レオンの顔が、恐怖と怒りで一気に蒼白になる。
「詳細は後ほど、私が責任を持ってお話しします」
テオはレオンの目をまっすぐに見つめた。そこには、あの深夜の路地裏でディアに見せた、そして今もなおレオンを護ろうとする、一点の曇りもない『あたたかな視線』が生きていた。
「今は、帝都の民の避難の先導を頼みます」
「――ッ、ディア様は“無事”なんだな?」
「ええ、今のところは問題ありません」
「……そうか」
「ここで多くの血が流れれば、それこ……あの人の計画通りになってしまいます」
「テオ……」
レオンは、激しく葛藤するように拳を握りしめた。
「……お前を信じる
セオドール、 民を安全な場所へ誘導する」
「おう! わけわかんねぇけど、今は目の前の奴らを片付けるのが先だな!」
テオがディアを連れ出した張本人かもしれないという疑念。けれど、テオの瞳にある光が、どうしても裏切り者のそれには見えなかった。
□■□■
――遠く、遠くから、泣いている声が聞こえた。
ディアはゆっくりと身を起こした。
硝子のない窓へと歩み寄り、外の景色を眺める。さっきまで静まり返っていたはずの薄暗い帝都の街から、あちこちで不気味な炎が立ち上っていた。
吹き付ける夜風に乗って、人々の絶叫と、狂った獣のような悲鳴が城の最上階まで届いてくる。
ディアは小さく息を呑み、振り返って固く閉ざされた鉄の扉を一度だけ見つめた。
冷酷なアルベールが閉じ込めた檻。この扉が、内側から開くことは決してないのだと、直感で分かった。
もう一度、窓の外へ目を向ける。
窓枠は、小柄なディアの身体なら、身を乗り出せるだけの余裕があった。
遥か下を見下ろせば、月明かりに照らされた、冷たく硬い石床がただ広がっている。人間の足でここから落ちれば、どうなるかなど理解できないはずがない。
けれど、ディアの赤い瞳に、恐怖の色はこれっぽっちもなかった。
ただ静かに、愛しいその名を呟く。
「ヴァル」
世界で一番安心できる響き。
ディアはそっと目を閉じると、ためらうことなく、その小さな身体を冷たい夜風の中へと投げ出した。
視界が激しく反転し、重力に引かれて身体が急速に落下していく。
風が耳元で轟々と鳴り響く。
――だが、恐怖の浮遊感は、一瞬にして消え去った。
ドサリ、という重い音と共に、ディアの身体は冷たい石床ではなく、酷く不器用で、けれど安心する腕の中に、しっかりと受け止められていた。
鼻をくすぐる、いつもの懐かしい魔の森の匂い。
「―――もういいのか?」
頭上から降ってきたのは、呆れたような、けれどどこか酷く安堵したような、低く心地のよい声音だった。
ディアがゆっくりと目を開けると、そこには漆黒の髪を風に揺らしたヴァルが、いつも通りの不機嫌そうな顔でディアを抱きかかえていた。
「……うん、ありがとう」
ディアが胸に顔を埋めながらふわりと微笑むと、ヴァルはふんと鼻を鳴らし、腕の中の愛しい存在をさらにきつく抱き締め直した。
19章を読んでいただき、ありがとうございました!
帝都を舞台に、それぞれの想いが少しずつ動き始めました。
引き続き、お付き合いいただけたら嬉しいです!




