17章【忘れられた守護者と優しすぎる魔女~残した約束~】
「…ッ」
狭い馬車の座席で、レオンは微かな重苦しさと、顔面を覆う感触に眉をひそめた。
不快感にうっすらと目を開けると、視界の大部分を占めていたのは、黒い毛並みと――赤い瞳。
「ク、ロ……? お前、何をして……」
まだ完全に覚醒していないレオンの顔面に、クロは容赦なくその小さな四肢を突っ張り、体重をかけてのしかかっていた。
(起きろ! はやく!! )
クロは必死に訴えているが、レオンには「ウグ、ウグ」という焦った唸り声にしか聞こえない。
「おい、クロ、どけ……うわっ」
起き上がろうとしたレオンの襟元を、クロは鋭い牙でガチリと噛み締めた。
小さな体を思い切り後ろに反らし、ちぎれんばかりの勢いでレオンの服を引っ張ると、馬車の扉に視線を向けた。
「っ、うるせぇ……な……」
隣で巨体を縮めていたセオドールが、寝ぼけ眼でモゾモゾと動き出す。
レオンはクロを抱き抱えるようにして馬車の扉を押し開けると、外へと飛び出した。
「……どうしたんだ?」
クロはレオンの腕の中からすり抜けて地面に着地すると、村の奥——洞窟の方向を向いて激しく声を上げた。
嫌な予感がする。
レオンは一言も発さず、民家の重い木の扉を乱暴に押し開けた。
「ディア様!!」
声を荒らげて踏み込んだ部屋の中には、小さなランプの燃え殻と、綺麗に畳まれた毛布。
そして、あまりの大きな音に驚いて跳ね起きたシーナとフィオナ、エミリアの姿しかなかった。
「なによ朝っぱらから……うるさいわね」
目をこすりながら不機嫌なシーナはレオンを睨みつける。
「ちょっと、人の話を聞いてるの?」
部屋のどこを見渡しても、ディアの姿が無い。
「……いない」
「は?何言って」
レオンの心臓がドクンと嫌な音を立てて跳ね上がった。
「昨夜は居ましたよ」
状況を一早く理解したエミリアが声をかける。
その言葉にシーナとフィオナも周囲を見渡してディアとヴァルが居ないことに気がついた。
「花でも摘みに行ってるだけでしょ」
シーナは時に気に止める様子もなく、簡単に答えたがレオンの表情が険しいままだった。
あの洞窟の奥でディアが何かを見つけ、ヴァルと共にそこへ向かったのだとしたら。
焦燥がレオンの理性を一瞬で焼き切った。
「おい、レオ?急に出てってどうしたんだよ」
レオンの後を追いかけてきた、セオドールにレオンは「シーナ様達を頼みます」と言い残すと駆け出して行く。
「おいレオン、待てっ——!」
背後から聞こえるセオドールの制止の声も耳に入らなかった。
レオンは馬車へ引き返すことも、他の面々の支度を待つこともせず、ただ一振りの剣を握りしめた。
■□■□
「マジで何考えてんだよ」
レオンが飛び出していった部屋の前で、セオドールは乱暴に頭を掻きむしった。
すぐに追おうと剣のベルトを締め直すセオドールの横で、テオはゆっくりと歩いて来る。
「おはようございます、随分と朝から騒がしいですね」
「テオ! レオの奴、一人で行きやがった!!」
「おや、そうなんですか」
平然とした態度で話すテオの態度を見て、セオドールはふと動きを止めた。
「……お前、気付いてたな?」
テオの動きが一瞬だけ止まる。
だが、すぐにいつもの冷徹な微笑を浮かべた。
「何のことでしょう」
「とぼけんな」
テオは小さくため息をつき答える。
「……気づいていたとしても
ディア様ご自身が、自らの意志で動いたのでしょう?
ヴァルディス様が傍を離れることは考えられない
……それに」
テオは冷たく光る目で洞窟の方向を見据えた。
「レオン様には少し、頭を冷やしていただく必要があります
ディア様のことになると、彼はあまりにも余裕を失いすぎる」
「だからって一人で行かせるかよ……! シーナ、フィオナ! エミリアもだ!支度しろ、すぐ追うぞ!」
「全員で向かう必要がありますか?
“魔女”を危険な場所に連れていくよりも
私か貴方が追うべきです」
テオの言葉にセオドールは、容赦なく言い放つ。
「嘘くさい笑みで、自分を偽る奴に大切な仲間を預けられるか!
お前がレオと友人なのは信じてやるけどな
仲間に危険なことさせる奴は大嫌いなんだよ」
■□■□
外の月明かりすら届かない、完全な暗黒。
昼間に一度訪れたはずの水源の洞窟は、夜になるとその不気味さを何倍にも膨らませ、二人を呑み込もうと大きな口を開けていた。
(いたい、くるしい、)
聞こえてくる声が、今もディアの脳裏を激しく揺さぶっている。
「……っ」
冷たい風に身震いしながら、一歩を踏み出そうとした瞬間。
フワッ、と足元が淡く、柔らかな白い光に照らされた。
「え……?」
光は松明のような激しい炎ではない。まるで地脈そのものが呼吸しているかのように、暗い岩肌を優しく、白く染めていた。
その光の筋は、まるで二人を奥へと誘うように奥へ向かって伸びている。
「呼んでるの……?」
ディアがぽつりと呟いた声は、静かな洞窟の壁に吸い込まれていく。
(たすけて)
脳裏に響く声が、より鮮明に、より近くに聞こえる。
ディアは確信した。
この光は、あの苦しんでいる子が、自分を呼ぶために紡ぎ出した軌跡なのだと。
「ヴァル、行こう」
ディアは迷わず、その白い光の跡を辿って歩き出した。
乾いた足音が不気味に響く。
ヴァルは何も言わず、ディアの斜め後ろにぴったりと影のように付き従っていた。
その赤い瞳は鋭く光の先を警戒している。
光の導きに従って、しばらく奥へと進んだ時だった。
ディアはふと、奇妙な違和感に襲われて足を止めた。
「……あれ?」
目の前には、暗黒の中にぽっかりと穿たれた、二つの“分かれ道”が存在していた。
昼間、レオン達はこの先まで徹底的に調べた。 隠し通路の有無まで確認した。
それなのに――。
今、目の前には確かに道が二つに分かれている。
「こっちでいいんだよね」
右側の通路の床にだけ、白い光の筋がすうっと奥へ向かって伸びている。
ディアはきゅっと拳を握り締め、迷いなくその小さな一歩を踏み出した。
■□■□
洞窟の入り口――。
朝の光すら届かない暗闇の奥へと、レオンは息を切らせながら踏み込んだ。
手元を照らす松明の明かりが、ひび割れた岩肌を不気味に浮かび上がらせる。
「ディア様!」
声を張り上げるが、返ってくるのは不気味な風の音だけだ。
さらに奥へ、昨日引き返した分岐点を越え、足を進めようとしたその時。
「——おい、レオ!!」
背後から響いた太い声と、肩を強く掴む分厚い手のひらに、レオンはハッとして振り返った。
松明の明かりの中に立っていたのは、険しい表情をしたセオドールだった。その後ろには、不満げなシーナとフィオナ、そして淡々と佇むテオとエミリアの姿もある。
「セオドール?なぜここに、それに……こんな場所に何故、全員を連れてきているんだ!?」
「ああ?お前が一人で飛び出していったから、迎えに来てやったんだろ!!」
セオドールは掴んだレオンの肩に、わざと強く力を込めた。
「レオン、お前、自分が何をしたか分かってんのか」
セオドールは珍しく"レオ"ではなく、その名を呼んだ。
「ディア様が中にいるかもしれないんだ! ヴァルディス様がいるとはいえ」
「だからって“報告”もなく単独で突っ込むのが正解かよ!」
セオドールの大喝が、洞窟の壁面に反響して重く響いた。
レオンは息を呑み、言葉を失う。
「お前……散々、騎士達に言い聞かせてたよな?
冷静さを欠いて、状況の報告も、作戦の共有もなしに一人で危険地帯に飛び込むなって」
「それは……」
「焦る気持ちはわかる
ディアが大事なのも痛いほどわかる
だから、レオン……俺たちを、頼れよ
お前一人が背負い込むな」
セオドールの真っ直ぐな言葉が、レオンの焦燥で焼け付いた頭を冷やしていく。
きつく握りしめていた剣の柄から、少しずつ力が抜けていく。
「……すまない」
レオンが静かに頭を下げると、セオドールはふっと表情を緩め、その肩をガシガシと叩いた。
「よし!
で、此処に居るのか?」
その問いに、レオンはすぐには答えなかった。
「……ここまでは来ている」
レオンの視線が、じっと地面へと落ちる。
「レオ? どうしたんだ?」
セオドールが眉をひそめていると、テオが歩み寄り、足元の乾いた土を松明で静かに照らし出す。
そこには、確かに二人の靴跡がある。
「……不思議ですね、ここで跡が消えています」
「あ?そんなことあるはず」
セオドールの言葉にテオは、松明の明かりをさらに近づけた。
乾いた土の上に深く、鮮明に残っていた二人の足跡が――まるで、そこから忽然と虚空へ消え失せたかのように、跡形もなく、完全に途切れている。
「おいおい、冗談だろ……? ここで引き返した形跡もねぇぞ?
どういうことだ、壁の中にでも吸い込まれたってのか!?」
レオンは無言のまま、足跡が途切れた境界線に膝をつき、その先の岩壁にそっと手を触れた。
冷たい、ただの硬い石の感触だった。
■□■□
白い光の筋に導かれ、右側の通路を突き進んだ先。
そこは、淡い燐光を放つ鉱石に囲まれた、広い地下空洞だった。
(……いた、い……苦しい……っ)
脳裏に響く悲鳴は、耳を塞ぎたくなるほどに大きくなった。
空洞の中央、かつては豊かな清流が湧き出ていたであろう干上がった池の底に、声の主はいた。
「っ……!」
黒い霧を全身から噴き出し、のたうち回る、大蛇の姿をした巨大な魔獣。
その鱗はボロボロに剥がれ落ち、割れた地肌からは、濁った血が滴り落ちている。
グルルルル……ッ!!
二人の気配を察知した瞬間、蛇の魔獣は濁った赤い目を剥き、狂ったように太い尾を激しく振り回した。
ドゴォン!! と凄まじい音が響き、硬い岩壁が砕けて破片が激しく飛び散る。
ヴァルが一瞬でディアの前に立ち塞がり、魔獣を睨みつけた。
「待って、ヴァル!」
ディアは慌ててヴァルの服の裾を引っ張り、とめる。
激しい砂煙の中、ディアはそっとヴァルの背中から一歩、前に踏み出す。
魔獣は今にもディアを噛み殺さんばかりに牙を剥き、再びその巨躯を狂暴に暴れさせている。
地響きが鳴り響き、荒れ狂う尾がディアのすぐ目の前を何度も猛スピードで通り過ぎていく。
――けれど。
どれだけ激しく空間を破壊しようとも、その攻撃の風圧さえ、不思議なほどディアの体に直接触れることはなかった。
まるで、ディアの小さな体を“意図的に避けている”かのように。
「……優しい子だね」
ディアは、最初からすべて分かっていたかのように、悲しげに、けれど慈しむように微笑んで呟いた。
(くるしいの、ノドが、かわいた……)
脳裏に直接届く声は、目の前の狂暴な姿とは裏腹に、まるで迷子の子供のように泣いていた。
「うん」
(おなかも、すいた……誰も、ボクを、呼んでくれない……)
「そうだね」
ディアはゆっくりと、歩みを止めずに大蛇へと近づいていく。
この子は、村の水源が完全に枯れ果てても、すぐ近くにある村へと下りて人間を襲うことはしなかった。ただ一人、この暗い暗い洞窟の奥に閉じこもり、飢えと渇きに耐えながら、狂いそうな痛みに一人で泣いていたのだ。
ヴァルは、大蛇を冷徹に見据えて告げた。
「これは魔獣ではない――精霊だ」
「精霊……? この子が?」
「土地の記憶、人間の『感謝』や『畏怖』の念を喰らって生きる、水源の守護神だったものだ
……だが、捨てられたな」
ヴァルは冷たく切れ込んだ瞳を大蛇のボロボロの鱗へと向けた。
「人間どもが感謝を忘れ、祈りを手放した
信仰という糧を失えば、内側から枯死していくしかない
……そこへ瘴気が流れ込み、無理やりこの形に歪められたな」
ヴァルはふっと冷ややかな鼻笑いを漏らす。
人間の身勝手さに、心底呆れ果てたかのような、冷酷な笑みだった。
「コレに優しさなどない
“人間を襲ってはならない”という契約に縛られ、呪い殺されかけているだけだ
……ひどく滑稽で、哀れな生き物だな」
吐き捨てられた言葉は冷たかったが、そこに悪意はなかった。
ヴァルはただ、ディアにこの生き物の“正体”と“絶望”を正確に伝えていた。
(助けて……熱いよ……)
脳裏で再び、子供のような声が泣く。
「ここで消えるのを待っていたんだね……」
ディアは胸を締め付けられながら、ヴァルの言葉を噛み締め、さらに大蛇へと両手を伸ばした。
「誰も悪意なんてない
ただ、忘れてしまっただけ
……それが、一番残酷だよね」
人間を恨むこともできず、けれど瘴気に耐えかねて暴れる精霊。
ディアがそっと両手を差し伸べると、大蛇は一瞬ピクリと動きを止め、その濁った赤い瞳に、ほんの一筋の涙のような綺麗な水滴を浮かべた。
■□■□
「……もう、大丈夫だよ」
ディアは、精霊のすぐ目の前まで進むと、そのボロボロの鼻先に自分の額をそっと預ける。
(……ありがと、う)
その言葉を残して、精霊は両手に収まるほどの“小さな、小さな蛇”の姿へと変わっていく。
「ヴァル……この子、消えちゃう……」
その小さな身体は未だにどす黒い瘴気に蝕まれ、今にも煙となって消え去ってしまいそうなほどボロボロに傷ついていた。
「何もできることはない」
ヴァルが冷酷な事実を告げる。けれどディアは、その消えゆく小さな命を救いたくて、ただ必死に毛布のようにローブの胸元へ抱え込んだ。
「……こんな暗い場所より、外に出してあげたい」
ディアは静かに呟くと、ヴァルと共に洞窟の出口へと歩き出した。
■□■□
「どこへ行った……」
レオンが焦燥に唇を噛み締めた、その時だった。
フワッ……と、目の前の硬い岩壁が、まるで水面のように歪んだ。
「――っ、全員、下がれ!」
レオンが瞬時に剣を抜き、殺気立って岩壁へと切っ先を向ける。セオドールたちが即座に横に並び、緊迫した空気が洞窟を満たした。
しかし、壁を歪めて現れた二人の影。その輪郭がディアだと認識した瞬間、レオンの指先から力が抜けた。
カチャリ、と硬質な音を立てて、レオンは躊躇いもなく剣を鞘に納める。
「――ディア様!!」
そこにいたのは、紛れもないディア、そして背後にヴァルの姿だった。
行き止まりのはずの壁を内側から通り抜けて、目の前に現れた。
「無事ですかっ!?」
「なんで……みんないるの?」
無事な姿を確認して深く安堵の息を吐き出すレオンだったが、すぐに全員の視線が、ディアの“手の中”へと集まった。
「……おい、それ……魔獣だよな?」
セオドールが驚きに目を見開く。
ディアの両手の中にいるのは、今にも消え入りそうな、黒い霧を吐き出すボロボロの小さな蛇。
後方に佇んでいたエミリアが一歩、また一歩と、何かに吸い寄せられるようにディアの前へと歩み出た。
エミリアの瞳は、苦しむ小さな蛇の姿を、じっと見つめている。
ボロボロになって消えていく存在。
その姿が、かつて帝都で『無能』と罵られ、捨てられた自分自身の姿に重なったのかもしれない。
エミリアは、そっと小さな蛇に手を伸ばした。
「エミリア?」
ディアが不思議そうに声をかける。
「……効果は無いかもしれませんけど
気休めにはなるでしょ?」
エミリアは自嘲気味に、けれどどこか決意を秘めた瞳で微笑むと、蛇の身体を包むように両手を重ね、静かに目を閉じた。
「万物に等しく注がれる慈悲の雫よ、この闇を払い給え
世界をあまねく照らす光の、その大いなる御名に感謝を
過ちを赦し、傷を癒やし――この命に、永久の祝福を――」
――それは、協会に来た時から、毎日欠かさず捧げていた、祈りだった。
最後の一節を呟き、祈りを捧げた、その瞬間だった。
洞窟の暗闇を完全に消し去るほどの、圧倒的で、温かい、眩いばかりの純白の光がエミリアの手元から爆発した。
「な、何よこれ……っ!?」
シーナが眩しさに腕で目を覆う。
「……っ!」
エミリア自身も、自分の手から溢れ出た光の量に驚き、大きく目を見開いていた。
その中で――クロだけが、嫌そうに耳を伏せて顔を背ける。
まるで、その光そのものを拒絶するように。
エミリアの祈りの光が小さな蛇の身体を包み込むと、瘴気がまるで雪が溶けるように一瞬で、綺麗に消滅していく。
濁った赤だった蛇の瞳は、澄み渡るような美しい琥珀色へと変わり、ボロボロだった鱗は、澄んだ空のように、白く、美しく輝き始めた。
「瘴気が……完全に消えた……?」
テオが驚愕に声を漏らす。
エミリアには、人間の肉体の傷を治す力はなかった。
けれど、それが治療ではなく“瘴気”そのものを取り除く力なのだとするならば――これから先、一体どれほどの利用価値があるだろうか。
「……面倒な力だな」
ヴァルが不快そうに顔を顰め、吐き捨てるように呟いた。
エミリアの放った純粋すぎる光は、あまりにも相性が悪く、鬱陶しいものだったからだ。
瘴気を払われ、本来の瑞々しい姿を取り戻した白い小さな蛇は、ディアの手の中で嬉しそうに小さな舌を伸ばし、感謝を伝えるようにディアの指にそっと身体を擦り付ける。
その愛らしい瞳が、まっすぐにディアを見つめた。
白い蛇の小さな口が、ぱちりと開く。
(――――――、――――――!)
「え……?」
ディアはそっと耳を澄ませた。
確かに、あの子は今、何かを一生懸命に叫んでいる。ディアの手のひらの上で、全身を使って、溢れんばかりの感情を伝えてくれようとしている。
けれど――ディアの耳には、もう何も聞こえなかった。
聞こえるのは、洞窟に吹き抜ける静かな風の音だけ。
ディアが言葉を交わせるのは、“魔獣”だけだった。
瘴気を落とされ、清らかな土地の“精霊”へと還ったあの子の声は、もうディアには届かない。
「……ごめんね……もう、お話しできないの」
ディアがちょっぴり寂しそうに、けれど愛おしそうに呟くと、ヴァルは無言のまま、ディアの小さな頭を大きな手でそっと包み込んだ。
言葉は聞こえなくても、その温もりだけで十分伝わっているだろ、と言うように。
白い蛇は、最後にディアの指先を優しくひと噛みするような仕草を見せると、その小さな身体を光の粒子へと変えていった。
キラキラと輝く美しい光が、ディアの手のひらから溢れ、暗い洞窟の奥へと吸い込まれるように消えていく。
ゴゴゴゴゴ……ッ!!
地鳴りのような音が、今度は心地よい響きとなって洞窟内に轟いた。
足跡が途切れていたはずの岩壁の奥から、冷たくて、恐ろしいほどに澄み切った瑞々しい「水」の音が響いてくる。
ザザァァァァァッ!!!
「姉様、この音……」
「ええ、水が溢れてくるわ」
干上がっていた地下空洞の底から、コンコンと、いや、凄まじい勢いで清らかな湧き水が溢れ出し、一瞬にして乾いた池を満たしていく。
「これで……村のみんなも、助かりますね」
フィオナが溢れる水を優しく見つめながら、嬉しそうに微笑む。
レオンは、勢いよく流れ出す清流のせせらぎの中、そっと自分のフードを深く被り直したディアの横顔を見つめていた。
彼女の差し伸べた小さな手が、確かにこの土地の絶望を救った。
「……ディア様、戻りましょう
村の井戸にも、もう水が戻っているはずです」
レオンが優しく手を差し伸べた、その時だった。
(ディア)
クロが二人の間に割り込むように飛び込み、レオンの手をぺしりと叩いた。
「あっ」
驚くディアをよそに、クロはそのまま肩へ飛び乗る。
(……なんで置いてったの)
不満そうに喉を鳴らすクロに、ディアは困ったように笑った。
「ごめんね」
(ボクも……ディアのこと、守れるのに)
小さな声は、どこか拗ねた子供みたいだった。
「うん、知ってるよ」
ディアが優しく頭を撫でると、クロはふいっと顔を背ける。
けれど、その尻尾だけはどこか嬉しそうに揺れていた。
エミリアは自分の両手をじっと見つめたまま、まだ信じられないといった様子で立ち尽くしていたが、テオの「エミリア様、置いていきますよ」という淡々とした声にハッとして、歩き出す。
暗かった水源の洞窟は、今や光を反射する美しい水面となり、彼らの行く道を優しく照らし出していた。
■□■□
洞窟から村へ戻ると、そこはすでにお祭り騒ぎのような喧騒に包まれていた。
「水が出たぞ! 井戸から水が溢れてる!」
「魔女様だ……!魔女様が、水源を直してくださったんだ!」
枯れ果てていた井戸から並々と湧き出る清流を囲み、村人たちは涙を流して歓声を上げている。こちらへ気づいた彼らが、救世主を迎えるように一斉に駆け寄ってきた。
「ありがとうございます、魔女様!」
「おかげで村は救われました!」
口々に浴びせられる、純粋な、けれどあまりにも身勝手な感謝の言葉。
ディアはその光景を、深く被ったフードの奥からじっと見つめていた。胸の奥が、引き裂かれるように痛む。
今は、こうして喜んで、感謝してくれている
でも、いつか水があることが当たり前になって
またみんなが忘れ去ってしまったら
――あの子は、またあの暗い洞窟の奥で、独りきりで呪われて苦しむの?
人間の喉元を過ぎれば忘れる習性を、ディアは知っている。
だからこそ、この哀れな輪廻をここで断ち切らなければならない。
「……ディア様?」
隣を歩くレオンが、彼女の異様な雰囲気に気づき、低く声をかけた。
ディアは何も答えず、ただ静かに、自分のフードへと小さな手を添えた。
そして、ゆっくりとそれを後ろへ跳ね上げる。
ハラリ、と朝の光の中に広がったのは——輝くような純白の髪。
そして、まっすぐに村人たちを射抜いたのは、恐ろしいほどに澄み切った、深紅の瞳。
「ひっ……!」
歓声は、一瞬にして凍りついた悲鳴へと変わった。村人たちが弾かれたように後ずさり、地面に尻餅をつく。
「白、髪……に、赤い目……」
「魔獣と同じ色だ……!」
「おい、アレは……あの『魔の森』に棲むっていう、魔女じゃないか!?」
「災いをもたらす魔女……“終焉の白”だ……っ!!」
恐怖に顔を歪め、自分を化物を見る目で睨みつける人間たち。
ディアは、その怯える声に答えるように、酷く美しく、残酷に微笑んだ。
「ねぇ、この村を、ずっと守ってくれていた子がいたこと……みんな、知っている?」
鈴を転がすような愛らしい声が、静まり返った村に不気味なほど響き渡る。
誰もが恐怖で言葉を失う中、ガタガタと震える老村長だけが、辛うじて声を絞り出した。
「す、水神様の……ことでしょうか……」
「知っているのに」
ディアの赤い瞳が、光を帯びて村長を、そして村人全員を見つめた。
「――どうして、“感謝”しないの?」
その一言に、村人たちは息を呑んだ。
年々、水源が細くなり、水が出ないことを理由に恒例の祭り事さえ取りやめ、いつしか祈ることも、感謝を捧げることもやめていた。
彼らの胸に、確かな罪悪感が突き刺さる。
「あの子はね、みんなに忘れられて、お腹をすかせて、喉を焦がして、死にそうになりながらも……大好きなみんなを絶対に襲わないように、一人でずっと耐えていたんだよ」
ディアが一歩進むたびに、村人たちは怯えて這いつくばる。
「もしも……また“あの子”を忘れて、苦しめるようなことがあれば」
ディアは小さな身体を凛と反らし、村人全員の鼓膜へ、呪いのようにその言葉を刻み込んだ。
「――今度は、私がこの村を消してあげる」
それは、優しさゆえの、最大最悪の脅迫だった。
「ひ、あぁぁ……っ!」
村人たちが頭を抱えて震え上がる。
レオンは、剣の柄に手をかけたまま、動かなかった。彼女が“魔女”として恐れられ、世界を敵に回そうとも、その背中を守り抜くと誓ったのだ。
「……そうでたか」
背後で、ヴァルが堪えきれないといった風に、愉悦に満ちた低い笑い声を上げた。
テオは眼鏡を指先で押し上げ、「やれやれ、手荒な釘の刺し方ですね」と呆れたように呟きつつも、その口元は興味深げに歪んでいる。
シーナやフィオナ、エミリアたちも、ディアの内に秘められた圧倒的な覚悟の強さに、ただ圧倒されて立ち尽くすしかなかった。
「……約束、破らないでね」
最後にそう言い残すと、ディアは再びフードを深く被る。
レオンは小さく息を吐いた。
また一人で危険な場所へ行ったことも。
無茶な脅しを口にしたことも。
言いたいことは山ほどあった。
けれど今は――無事でよかった。
それだけだった。
怯え、道をあける村人たちの間を、ディアは歩き出した。
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます!
ディアは「優しい」だけでは誰も守れないことを少しずつ知り、自分なりの守り方を選び始めます。
そして、エミリアにも少しだけ新たな力の片鱗が見え始めました。
次回はいよいよ帝都へ。
それぞれの想いが少しずつ動き始めます。
また次の章でお会いできたら嬉しいです!




