11章【壊れかけた歌姫と不器用な騎士 ~零れた涙~】
森の境界線――「生」と「死」を分かつその曖昧な境目に辿り着いた瞬間、冷たい金属の擦れる音と共に、聞き慣れた鋭い声が飛んできた。
「勝手に動くなと何度も言っているだろ、セオドール!」
霧の向こうから現れたのは、苛立ちを隠そうともしないレオンと、その隣で眉を吊り上げたシーナだった。
「フィオナを勝手に連れ出すなんて、どういうつもり!? 私に許可を取りなさい!!」
シーナの罵声が響く。
だが、いつもなら軽口で返すはずのセオドールの口から、言葉は出てこなかった。
セオドールはフィオナを抱えたまま、ただ幽霊でも見たかのような顔で立ち尽くしている。
フィオナにいたっては、シーナの声すら耳に入っていないようだった。
その瞳は虚空を見つめ、さっきまで自分の目の前で起きていた「絶望」の残像を追いかけている。
「……おい、どうした」
二人の異様な様子に、レオンの声から刺が消え、代わりに深い不信感が宿った。
レオンは一歩踏み出し、セオドールの肩を掴む。
「……何があった?」
「…………わかんねぇ」
セオドールは、ようやくそれだけを絞り出した。嘘ではない。見たものをどう形容すればいいのか、セオドールの持つ語彙では追いつかない。
「わかんねぇんだよ、レオ
……あそこに何がいるのか
テメエが何を相手にしてるのか
……“人だったのかすら”わからねぇ」
セオドールが、これほどまでに弱気な、あるいは困惑した表情を見せることなど、騎士団に入って以来一度もなかった。
フィオナは、震える手で自分の胸元を隠した。
あんな、理屈の通じない化け物が蠢く闇の中に、ディアを残してきた。
あの優しすぎる少女を、一人きりにしてしまった。
「……とりあえず、ここでは目立ちすぎる
場所を変えるぞ」
レオンは周囲を警戒するように視線を走らせ、短く告げた。
ここに長居することは、自分たちの秘密を晒すことに他ならない。
■□■□
移動した先、外縁騎士団の奥まった一室には、既にテオが待っていた。
彼は窓辺で一人、冷めた紅茶を眺めながら、彼らの帰還を“知っていた”かのような顔で迎え入れる。
「おや、皆様お揃いで
予定よりも少し騒がしいお帰りのようですね」
「テオ……貴様、セオドールたちに何をさせた」
レオンが低く、脅すような声で問い詰める。
テオは眼鏡を指で押し上げ、ふっと口元を歪めた。
「私はただ、フィオナの『お礼を言いたい』という純粋な願いを叶えるお手伝いをしただけですよ
護衛として、信頼できるセオドールを添えて」
「フィオナ様の騎士は、貴方のはずですが?」
「私も暇ではないのですよ――子守りなら他の騎士で十分でしょう?
それとも“彼”は巻き込みたくありませんか?」
「ッ」
「……レオ、やめろ」
レオンがテオの胸ぐらを掴もうとしたのを、セオドールが制した。
セオドールは、机の上に砕け散った黒い魔石の残骸を黙って見つめている。
テオはそんな一同を見渡し、満足げに目を細めた。
「では、見たものについて説明をしましょう」
■□■□
「そんなに、アレに褒められたのが嬉しいのか」
ヴァルは、ディアの髪に触れる。
声は低く、隠しきれない不機嫌さが滲んでいた。
「……だって、ヴァルと同じこと言ってくれる人、初めてだったから」
ディアは悪びれる様子もなく、むしろどこか誇らしげにそう言った。
『隠すのもったいないだろ』――セオドールが投げかけた、あの真っ直ぐすぎる言葉。
ヴァルは鼻を鳴らし、視線を逸らす。
自分だけが知っていればいいと思っていた。
この白が、雪のように清らかで、誰にも侵されるべきではない特別な色であることを。
それを、ガサツな騎士の男に土足で踏み荒らされたような、妙な苛立ちが胸を焼く。
「……アレは、何も分かっていないだけだ」
「そうなのかな?
でも、すごく綺麗な目をして言ってたよ
……嘘をついている色じゃなかった」
ディアは、ヴァルの胸元に頭を預け、嬉しそうに目を細める。
『綺麗だな』
ヴァルにそう言われた時、ディアは初めて、自分の髪を切り落とさなくて良かったと思えた。
「みんなと違う」ことは、この森では「間違っている」ことではなかったから。
けれど――。
……あの時も、今日みたいに風が止まった
ディアは、自分の白い指先を見つめながら、数年前の記憶を辿る。
ヴァルと森を歩いていた時のことだ。
森のざわめきが消え、ぬるりとした湿り気が肌を撫でた。
そこには、今日見たものと同じ“黒い人型”が立っていた。
『……ぁ、……あ……』
それは、ボロボロになった帝国の魔女の服を纏っていた。
けれど、その中身は既に人ではない。
体中を、ドロドロとした黒い泥のようなものが這い回っている。
『……ディア、下がっていろ
それはもう、中身が腐り落ちている』
ヴァルが前に出ようとした。
しかし、ディアの足は動かなかった。
その“人型”の奥底から、消え入りそうな、けれど確かな“誰かの色”が見えたから。
『……まって、ヴァル……泣いてる』
『……何?』
ディアは、怯えるヴァルの制止を振り切り、その異形へと歩み寄った。
黒い泥に埋もれた顔の隙間から、わずかに見えたのは――“翠”の色。
『……エ、ミ………あ……』
その成れの果ては、壊れた楽器のような声で、誰かの名を呼んでいた。
ディアがその頬に触れた瞬間、黒い泥が牙を剥くように弾けた。
『……っ!!』
『ディア!!』
ヴァルが切り裂き、ディアを抱き寄せた。
『……たすけて、って……言ってた』
『……』
『……でも、私、なにも――できなかった』
黒い泥は剥がれ落ち、その下から現れたのは、安らかな顔で灰となって崩れていく少女の幻影だった。
■□■□
「……ディア?」
ヴァルの低い声に、ディアは現実に引き戻された。
自分の髪に触れていた指先が、わずかに震えている。
「……ううん
なんでもない……ただ、ちょっと思い出しちゃっただけ」
ディアは無理に微笑んでみせたが、胸の奥に溜まった“翠の影”は消えてはくれない。
今日、ディアが救おうとしたあの人も。
どうすれば――助けてあげられるかな
風が、窓の外で不気味に鳴いた。
まるで、森の奥で今も蠢いている「黒い影」たちの、すすり泣きのように。
■□■□
テオは淡々と口を開いた。
「先ほど遭遇したものについて、説明しておきましょう」
フィオナの肩が、わずかに揺れる。
「……あれは」
言葉が続かない。
テオは一度だけ視線を落とし、すぐに戻した。
「瘴気に侵された人間の末路です」
その声音に、感情はなかった。
「一定以上の瘴気を取り込んだ場合、肉体は変質し、やがて魔物へと至ります」
淡々とした説明。
まるで、ただの事実を並べているだけのように。
「ですが――」
わずかに間を置く。
「完全に魔物化する前段階において、あのような不安定な状態になることがあります
それを――“影憑き”と呼んでいます」
フィオナの指が、きゅっと握られる。
「……助けを、求めていました」
震える声だった。
テオは、静かに頷く。
「ええ」
否定しない。
「しかし、それも一時的な反応に過ぎません」
その一言は、あまりにもあっさりしていた。
「意識が残っているように見えるのは、神経の残滓によるものです、いずれにせよ――」
テオは、ゆっくりと言葉を区切る。
「助かることはありません」
部屋の空気が、重く沈む。
フィオナは何も言えなかった。
ただ、あの時の声が、耳の奥で何度も響く。
――たすけて
その沈黙を破ったのは、別の声だった。
「……初めて、聞きましたね」
レオンだった。
いつの間にか壁際に立ち、静かに視線を落としている。
「そのような状態があるとは、報告書にも記録されていない」
テオはわずかに視線を向ける。
「必要のない情報は、共有されませんから」
穏やかな声だった。
だが、どこか線を引くような響きがある。
レオンは、目を細める。
「……つまり、知る必要がないと判断された?」
「混乱を招くだけです」
その言葉に、レオンは小さく息を吐く。
「……なるほど」
納得したような声音。
けれど、その視線はわずかに鋭い。
「全て処分対象、ということですか」
「ええ」
迷いのない返答。
「例外なく」
短く、断じる。
その言葉が、やけに重く響いた。
「……理解しました」
そう言って、静かに目を伏せる。
セオドールが、壁に背を預けたまま口を開く。
「……あれは、本当に魔物なのか?」
低い声。疑うような、確かめるような。
テオは、わずかに目を細めた。
「そう教育されています」
その答えは、微妙にずれていた。
だが、誰もそこに踏み込まない。
テオは静かに言葉を継いだ。
「遭遇できる確率は低かったのですけど
実際に見てもらわないと……信じないでしょう?」
その一言に、空気が変わる。
セオドールの視線が鋭くなる。
「危険だと、分かっていてフィオナを行かせたのか!!」
テオは、穏やかに微笑んだ。
「だから、貴方に護衛を頼んだのですよ?
私よりも戦闘経験は豊富なので」
その笑みは、どこまでも柔らかく――
そして、どこか冷たかった。
セオドールは拳を固く握りしめたが、返す言葉が見つからない。
「……ッ、私は!」
沈黙を破ったのは、フィオナだった。
彼女は震える足で立ち上がり、テオの机に歩み寄る。
「助かることはないなんて、そんなの……!
あの時、ディア様が触れたら、あの人は笑ったんです
一瞬だけ、本当に穏やかな顔をして……」
「それは『死』による解放です、フィオナ」
テオはフィオナの言葉を遮り、冷たく言い放った。
「……救われたと錯覚するのは自由ですが、
現実は――何も残らないだけです
最後に手を下したのはヴァルディス様でしょう?」
フィオナは、自分の胸元で砕け散った魔石の砂を見つめた。
「ついでに、もう1つ大切なことを教えてあげます」
テオは、ほんのわずかに視線を細めた。
「――魔女は力を使えば死にます」
窓の外、夜の森はさらに深く、濃い闇となって、すべてを飲み込んでいた。
■□■□
テオが投げたその言葉は、部屋の中の熱をすべて奪い去った。
フィオナは、目を見開いたまま凍りついている。
「……え……?」
掠れた声が、ようやく零れる。
「魔力とは、魔女にとっての生命力そのものです
無理に引き出せば――当然、器は保ちません」
静かな声。
けれど、その内容はあまりにも残酷だった。
レオンは知っていた。
知っていて――その事実を、ずっと隠していた。
「命が消えると知りながら、それでも魔女を守り続ける」
テオはわずかに首を傾げる。
「……いえ、逃げ出さないように縛る“鎖”と言った方が正しいでしょうか」
その一言が、静かに突き刺さる。
フィオナの視線が、ゆっくりとシーナへ向いた。
「……姉様も、知っていたんですね」
震えた声。
シーナは、何も答えない。
ただ、わずかに目を伏せる。
それだけで、十分だった。
私に魔法を使わせないようにして――
自分の命を、削っていたの?
理解してしまった。
だからこそ――何も言えなかった。
フィオナは、その場にいる誰にも視線を向けず。
ただ、部屋を飛び出した。
「……フィオナ!」
シーナの呼び止める声にも振り返らない。
そのまま、部屋を飛び出していく。
セオドールが舌打ちし、後を追った。
激しい足音が廊下に響き――やがて、遠ざかっていく。
静寂が落ちた。
残されたレオンは、ただ。
深く、深く。
足元に落ちる、自分の影を見つめていた。
■□■□
溢れそうになる涙を、必死に手の甲で拭う。
けれど、拭っても拭っても、視界は歪むばかりだ。
外縁騎士団の冷たい廊下を、足をもつれさせながら走り抜ける。
どこへ行けばいいのかも分からない。
ただ、逃げ出したかった。
「……待てっつってんだろ、フィオナ!」
背後から響いた強い足音。
角を曲がろうとした瞬間、大きな手がフィオナの肩を掴み、その勢いのまま彼女の体は壁へと押し留められた。
「……っ、セオドールさん……!」
「……はぁ、……足、速いんだな、テメエ」
セオドールは荒い息を吐きながら、フィオナを逃がさないようにその両肩をがっしりと掴んでいる。
フィオナは下を向いたまま、肩を震わせていた。
「離してください……! 私、最低です……
何も知らないで、
姉様に、無理をさせて……っ」
フィオナは、溢れそうになる涙を必死にこらえ、奥歯を噛み締める。
「私が、弱いから
ディア様も、姉様も、――私を守ろうとする」
自分の不甲斐なさを許せず、泣くことすら自分に禁じようとするその姿は、見ていて痛々しいほどだった。
セオドールは、しばらく沈黙した後、掴んでいた肩から片手を離し、乱暴に自分の頭をかいた。
「……あの眼鏡の言うことを、全部まともに受けるんじゃねえよ」
「でも、……!」
「事実が何だろうが
テメェは、今俺の目の前にいるだろ?」
セオドールは、フィオナの顎を少しだけ強引に持ち上げ、自分を見させた。
赤く腫れた瞳。
必死に震えを止めようとする唇。
「……いいか、フィオナ
身体の寿命がどうとか
理屈なんてどうでもいい」
セオドールの声は低く、けれどどこまでも真っ直ぐだった。
「魔法を使わなくても、お前は――人を幸せにすることできてるだろ」
「……ッ、私にそんなこと」
「お前の歌で、何人が笑顔になった?
少なくともあの場にいた騎士は皆、笑ってたぜ」
彼は、フィオナの頬を伝う一筋の涙を、親指の付け根で不器用に拭った。
「泣きたい時は、ちゃんと泣け」
「……っ……」
その言葉が、フィオナの最後の堤防を壊した。
「……う、……ぅあ、あああぁ……っ……!」
フィオナはその場に崩れ落ち、セオドールの胸元に顔を埋めて、声を上げて泣き出した。
セオドールは、困ったように眉を寄せながらも、その細い背中を大きな手でゆっくりと叩き続ける。
「……ったく
俺は慰めるのなんて、得意じゃねえっつの……」
独り言のように呟きながら、セオドールは彼女を隠すように、その広い肩で周囲の視線を遮った。
「……落ち着いたか」
「……っ……はい、すみません、汚れちゃいました……」
「気にするな
……こんなもん、洗えば落ちる」
フィオナが顔を上げると、セオドールはわざとらしく自分の胸元を指差して鼻を鳴らした。
まだ赤く腫れたフィオナの瞳を、彼はそらすことなく見つめる。
その視線は、鋭い騎士のそれではなく、不器用な兄のようでもあった。
セオドールはふっと視線を廊下の陰へと移すと、低く声を響かせた。
「おい、いい加減出てこいよ」
壁の向こう側から、気まずそうな顔をしたシーナと、表情を押し殺したレオンが姿を現した。
二人は、フィオナが泣き止むのをずっと待っていたのだろう。
「……あ……」
フィオナはゆっくりと歩み寄ると、シーナの細い手を両手でぎゅっと握りしめた。
「姉様……私、怒っています」
真っ直ぐに見つめるフィオナの瞳。
シーナは一瞬、戸惑ったように目を泳がせたが、観念したように小さく吐息を漏らした。
「……うん」
「でも、私のこと考えてくれたんですよね」
「……フィオナ」
「私も姉様を守ります
だから……これからは隠し事しないで下さい
もう、独りじゃないんですから」
その言葉に、シーナは目を見開いた。
守られていると思っていた妹が、自分を守ると言った。
その震えながらも力強い手の熱に、シーナの冷えていた胸の奥が少しだけ解けていく。
「……わかったわ……約束する」
その様子を少し離れて見ていたセオドールは、隣のレオンに視線を投げた。
「お前も話せよな
……あいつらみたいに、全部とは言わねえからよ」
「……機密事項をそう簡単に話せるか
俺の立場も考えろ」
レオンはいつものようにぶっきらぼうに突き放したが、その声にさっきまでの刺々しさはなかった。
セオドールは薄く笑い、さらに踏み込む。
「他に隠してることあるのか?」
「……あるに決まってるだろ」
レオンは、遠く森の向こう側を見据えたまま、迷いなく答えた。
「そうか……ま、期待せずに待っといてやるよ」
セオドールはそれ以上追求せず、再び歩き出した。
その背中を、レオンはしばらくの間、何も言わずに見つめていた。




