2:プライベートルーム
そして、北条栞の告げた【決行日】の朝が来た。
爽快に目覚めたジャッドは早出で出勤し、業務滞りなく定時に退勤した。
まるで少年のようにハキハキと足取り軽く、頬を染める事務員達にウィンクを返す。
ジャッドの足は自然と、グレアのいる保護区へと向いていた。
グレアの好きなチーズケーキを手にふと、個室のドアをノックする手が止まる。
ドアの向こうから、グレアのくすぐったげな笑い声がしたのだ。それはとても穏やかで、女の子らしい幸せに満ち溢れた笑い声だった。
相手はアーロンや看護師たちへのそれではなく、ウィングであろうとすぐにわかった。
サムソンからAは激務と耳にしていたジャッドは、まさかこんな速い時間にウィングとかち合う事になるとは思っていなかった。
ドアの隙間から漏れる光に萎れるように手が下がり、ジャッドは目を伏せ打たれ沈む。
手に下がるケーキの箱ばかばかしく、静かに踵を返した。
愛をはぐくむ2人の間で、未練がましく足を運んでいる自分が惨めで情けなかった。
ジャッドはグレアに後悔がないように、正式なプロポーズはミリアムの手が離れてからと思っていた。
きちんとけじめをつけていなかった自分の愚かさと、今になってグレアの存在が自分の中でどれほど大きかったかを痛感する。
グレアのさりげない仕草も、ふとした癖も全部もう手の届かないところにあるのだと。
ぼんやりこれまでの事を思い返してると、遠くでドアが閉まる音がした。
ウィングだろうと思った瞬間、ぽんと肩に手が乗る。ジャッドは仰天に振り返った。
ジャッドをにこやかに見上げるウィングが、穏やかに手話で語りかける。
〔ジャッドに会いたかった。いつもグレアに気をかけてくれてありがとう〕
足の速さをグレアから聞いてはいたジャッドだが、想像以上の速さに改めてウィングがヒトではない事を感じた。
同時、死んだ嫁もマーフォークゆえに周囲と馴染めなかったことを思い出す。やや気に染まないものの、ジャッドはくるりと靴先をウィングに向けた。
「グレアの調子はどうだ」
それとない振りにウィングは笑顔で頷いた。この世の汚いものなぞありませんよというような清廉潔白な少年面だ。
〔おかげさまで、とても順調だよ!〕
ジャッドはそんな事はわかっていた。訊きたい事はもっと別にある。もっと別な事なのだと。
「いいかモスマン、貴様とグレアは違う。今はよくとも、子どもが産まれると変わる事もたくさんある。
情熱が冷めた頃に、情や絆すら残らないような家庭は築いてくれるなよ」
ウィングはその諭すような声音にふとした。ジャッドが仕事の合間をぬってグレアの医療室に来るわけが、少しわかった気がした。
わかって、確信した。ウィングの手が迷いなく動く。
〔女の子はたくさんいるけど、グレアはこの世にただ1人だ〕
ジャッドは黙ってその手の流れを見ていた。肺の奥が冷たく焼ける感覚に、ジャッドは小さく重い溜息を吐く。
グレアとは終わったんだと。グレアには、こいつがいる。グレアがこいつを〔選んだ〕のだと。
ジャッドは目を伏せ一息つき、まっすぐウィングを見据えた。
「……上官命令だ。生涯をかけて幸せにしろ」
それにウィングは穏やかにほほ笑んだ。
(もしこいつが少しでも狼狽える素振りをしていたなら、ぶっ飛ばしていた)
ジャッドはふと、前会長の言葉を思い出していた。でも漠然と、この選択に後悔はないだろうという確信があった。
グレアの事が好きだった。きっとこれからもそうだろう。
事あるごとに思い出し、胸を痛める事もあれば、かつての思い出を糧にもするだろう。でも、それでいいのだと。好きな女の幸せを願わない男はいない。
それは落胆に近い諦めでもあった。不思議なことに、穏やかだった。
ふとウィングの視線が、少し下がる。
〔僕がいなくなっても、ジャッドがいるなら大丈夫だ〕
丁寧に繰り出される手話にジャッドは我が目を疑った。チカつく蛍光灯のように訝し気に目を細め、小首をかしげる。
「……何? それはどういう意味だ」
ウィングの祈るような瞳がジャッドに向けられる。その手の青いファイルが、静かにジャッドに突き出された。
……・……
機材置き場のさらに奥深く。
ジャッドは身をよじり、機材まみれの狭いスペースを進んでいた。
暗がりを見上げれば、遠くに鉄格子つきの小窓と、蛍光灯の抜かれた味気ない天井が続いている。
この一番奥にアーロンのプライベートルームがある事を知っているのは、古い付き合いがあるジャッドのみだ。
プライベートルームといっても登録上はただの倉庫で、用済みの食品用大型冷蔵室をくれてやっただけにすぎない。
そこに向かうジャッドの手には、ウィングからあずかった青いファイルがあった。
少しづつ歯車が狂っていくような、足元に穴が空いたような感覚が歩を速めていく。
機材を押しのけながら突き進む先、星のような灯りに目を細めた。
やがて奥まった場所に出て、巨大な豆腐の壁のような高性能断熱オーバードアに襟首を正す。
ノックに声は返らず、ふと握ったドアノブに鍵はかかっていなかった。
中は驚くほど広く、まるで展示会のように様々な機材がズラリと並んでいる。
軽く見渡したが、アーロンは不在のようだった。ジャッドは腕時計に目をおとし、ため息ひとつ。
ふと突き当たりの曲がり角で、長年の経験と勘から一瞬足が止まった。
人がいないような気配……洗練された気配の消し方は、手練れのそれだった。
ジャッドが静かに銃を抜いた、その一瞬のことだった。
飛び出した人影に銃口を向けたジャッドだったが、互いに銃口をあげる。
「すっすみません、不審者かと!」
現れた人影、アーロンが咄嗟に諸手を挙げた。
「ああびっくりした本ッ当怖かった……! ジャッドさんがアポなしだなんて珍しいですね。どうされたんです?」
ジャッドは銃をホルスターに戻し、軽く頷いて肩の力を抜く。
「……いや、声をかければよかった。遅くにすまない。少し訊きたい事があってな」
「え、はいはい、何でしょう?」
「このファイルの内容なんだが、……輝線スペクトル? の、クリプトンやDNA連鎖だの、とにかく意味がわからん。砕いて説明してくれ」
やっつけに手渡され、アーロンは慣れた様子にハイハイと青いファイルを開く。
「任せてください。え~と、どれどれ……えっ……」
一声、アーロンはそれきり固まってしまった。しかし視線は書類の文字を追っている。一枚めくる。また一枚。
その度アーロンの頬を冷や汗に近い脂汗が伝った。また一枚めくる。唇を噛み、また一枚。
嫌な沈黙だった。
青いファイルを開いたままデスクに置いたアーロンは、両手で顔を洗うように俯いた。
しばらく間があって顔を上げたアーロンのこめかみに、脂汗が一筋。
「ジャッドさん、これ……相当やばいやつじゃないですか」
ようやく絞り出たアーロンの声に、ジャッドは承知に頷いた。




