第99話:帰郷の冷たさと、本当の「居場所」 〜古い衣を脱ぎ捨てて、心は風の吹く方へ〜
獣人の国での激闘を終えた一行は、再び国境を越え、エルフの森へと戻ってきた。 季節は、深まりゆく冬の只中にあった。 かつては鮮やかな紅葉に彩られていた森も、今は厚い雪に覆われ、すべての音が吸い込まれたような静寂に包まれている。木々の枝には鋭い氷柱が下がり、吐く息は白く濁って消えていく。
魔導キャンピングカー「クイーン・アリス号」の車窓から、流れる白い森を見つめながら、アリアは胸を高鳴らせていた。 (報告しなきゃ。……獣人の国の誤解は解けたわ。魔族の介入も証明できた。これでもう、無益な争いは終わるはず) 彼女は期待していた。 この朗報を持っていけば、父様や母様、そして頑固な長老たちも、きっとわかってくれるはずだ。 瞬たちの功績を認め、彼らを「恩人」として歓迎してくれるはずだ。 人間とエルフが手を取り合う、新しい未来がここから始まるのだと。
だが。 現実は、あの森を吹き抜ける凍てつく風よりも、遥かに冷酷だった。
森の入り口。 巨木の間を抜けてクイーン・アリス号が停車し、タラップが降りる。 降り立った一行を待っていたのは、歓迎のファンファーレでも、感謝の言葉でもなかった。 武装したエルフの兵士たちが、氷のように冷たい目で彼らを取り囲んでいたのだ。 彼らの弓の切っ先は、森を荒らす魔物ではなく、瞬たち人間に向けられていた。
「……立ち去れ」
兵士たちの後ろから現れた長老が、冷ややかに言い放った。 地面に届くほどの白い髭を蓄えたその顔には、感謝の色など欠片もなかった。あるのは、変わらぬ軽蔑と、異物を排除しようとする頑なな拒絶だけ。
「行きはルカの顔に免じて通行を許したが、二度目はない。穢らわしい人間を、これ以上神聖な森に入れるわけにはいかん」
長老は杖を雪に突き立て、鼻で笑った。
「なぜですか!?」 アリアが前に出て叫ぶ。白い息が弾ける。 「彼らは獣人の国を救い、戦争を終わらせたのです! 魔族の陰謀も暴き、平和を取り戻しました! 彼らは英雄なのですよ!?」
「それがどうした」 長老の声は揺るがない。 「獣人がどうなろうと、我々には関係ない。奴らは野蛮な獣だ。滅びようが栄えようが、高潔な我々が関知することではない」
彼は、汚いものを見る目で瞬たちを指差した。 「それに……人間ごときが英雄? 笑わせるな。どうせ、何か汚い手を使ったのだろう。あるいは、魔族と通じていた自作自演か」
聞く耳を持たない。 彼らの中には「人間は悪だ」「人間は劣っている」という結論が先にあり、すべての事実はその結論に合わせて歪められて解釈されてしまう。 確証バイアスという名の分厚い色眼鏡が、彼らの目を曇らせ、真実を見えなくしていた。
「アリアよ。お前は毒されている」 長老は、憐れむような、それでいて失望を隠さない目でアリアを見た。 「人間に誑かされ、王族としての誇りを失ったか。……嘆かわしい」
アリアは、言葉を失った。 何を言っても無駄だという絶望感が、鉛のように胃の腑に溜まる。 彼らは「変わりたくない」のだ。 自分たちの小さな世界、古い価値観、安全な偏見の中に閉じこもっていたいのだ。 外の世界を知り、変化を受け入れることは、彼らにとって「恐怖」でしかないから。 「諸行無常」――すべては変わっていくという真理を受け入れられず、過去の栄光や固定観念にしがみついている哀れな姿。
「……帰りなさい」 長老はアリアに背を向けた。 「お前が正気に戻るまで、王宮への立ち入りは禁ずる。……その薄汚い人間たちと共に、どこへなりとも行くがいい」
追放。 事実上の、絶縁宣言だった。
アリアは、雪の上に立ち尽くした。 寒さが、コートを突き抜けて心臓まで届くようだった。 故郷を守るために戦った。みんなのために必死で走った。 なのに、返ってきたのは拒絶だけ。 私の居場所は、もうここにはないの?
彼女はゆっくりと振り返り、瞬たちの顔を見た。 申し訳なさで、胸が張り裂けそうだった。
「……ごめんなさい」 アリアは頭を下げた。 雪の上に、熱い涙がポタポタと落ちて穴を穿つ。 「ごめんなさい……あなたたちは、命がけで戦ってくれたのに……こんな……こんな仕打ち……!」
悔しかった。情けなかった。 自分の無力さが、どうしようもなく憎かった。
だが。 頭の上に、ポンと温かい手が乗せられた。
「謝るなよ」
顔を上げると、瞬が笑っていた。 いつもの、能天気で、少し乱暴で、でも誰よりも優しい笑顔。
「俺たちは、エルフ族のためにやったんじゃねぇよ」
彼は、仲間たちを見た。 ゼイクも、腕を組んで頷いている。 アリスも、扇子で口元を隠しながら微笑んでいる。 エリーゼも、メイも、みんな優しい目をしていた。
「俺たちは、アリア、お前のためにやったんだ」
瞬は、アリアの涙を親指で乱暴に拭った。
「お前が『故郷が心配だ』って泣いてたから。お前のその涙を止めたかっただけだ。……長老ジジイに褒められたくてやったわけじゃねぇ」
見返りなんて求めていない。名誉も賞賛もいらない。 ただ、友達が笑ってくれればそれでいい。 その純粋な想いが、アリアの凍りついた心を溶かしていく。
「……う、うぅ……」 アリアは、瞬の胸に顔を埋めて泣いた。 失ったもの(故郷への執着)の大きさよりも、得たもの(仲間との絆)の温かさのほうが、今は遥かに大きく感じられた。 「王女」という看板が崩れ落ち、ただの「アリア」に戻った瞬間だった。
風が吹き抜け、木々の雪を散らす。 しばらくして、瞬が空を見上げて伸びをした。
「さて、役目も果たしたし……帰るか」
その言葉を聞いた瞬間、アリアの背筋が凍った。 心臓がドクンと嫌な音を立てる。
帰る? 彼らは、行ってしまうの? 私は……ここに残るの?
クイーン・アリス号のエンジンがかかる低い音が響く。 仲間たちが、車内へと戻っていく。 「早く戻って温かい紅茶でも飲みましょう」とアリスが言っている。 「夕飯はシチューにしましょうか」とメイが笑っている。 その温かい輪の中に、私はいない。
(嫌だ)
アリアの心が叫んだ。 あの温かい場所に戻りたい。 コタツで蜜柑を食べたい。 くだらないことで喧嘩して、笑い合いたい。 一人で、この冷たい森に残されるなんて耐えられない。
でも、言えない。 私は王女だ。次期女王として育てられた身だ。 国を捨てて、自分だけ逃げるなんて許されるはずがない。 それは責任放棄だ。裏切りだ。 「王女」という役割への執着が、彼女の足を縫い止める。
アリアは拳を握りしめ、必死に笑顔を作った。 「さようなら」と言わなくちゃ。 笑って、彼らを見送らなくちゃ。
「……お元気で」 声が震える。喉が詰まって、言葉が出ない。
その時。 横にいたエルフの青年、ルカがボソリと言った。
「……行きたいなら、言わないと伝わりませんよ」
アリアがハッとして彼を見る。 ルカは、かつてアリアを人間の国へ案内してくれた従者であり、今回の旅の案内人だ。 彼は、いつも冷静な顔を崩し、困ったように眉を下げていた。
「人間は察しが悪いですからね。言葉にしないと、置いてかれますよ」
「で、でも……私は王女で……国が……」
「国なら、僕らがなんとかします」 ルカは、真剣な顔で言った。 彼はアリアの背中に手を当て、強く、ドンと押した。
「古い考えの年寄りたちは、僕ら若い世代が説得します。……だから姫様は、自分の行きたい場所へ行ってください」
それは、彼なりの精一杯の反逆であり、主君への最後の忠義だった。 あなたの幸せを、僕たちは望んでいるのです、と。 役割に縛られるのではなく、あなた自身の人生を生きてください、と。
アリアの瞳が揺れる。 クイーン・アリス号が、ゆっくりと動き出していた。 銀色の巨体が、雪煙を上げて遠ざかっていく。
行ってしまう。 私の居場所が。私の家族が。
(……嫌だ!)
理屈も、責任も、立場も、全部どうでもよかった。 ただ、あの中にいたい。 彼らと一緒に生きたい。
アリアは走り出した。 雪を蹴って。ドレスの裾を泥で汚して。 なりふり構わず、全力で。
「待ってぇぇぇぇぇぇッ!!!」
彼女の声が、冬の森に響き渡った。 それは、過去を振り切り、未来を掴み取ろうとする、魂の叫びだった。




