第100話:雪原の追跡と、涙の「ただいま」 〜器を満たす水よりも、こぼれ落ちる雫こそが温かい〜
銀色の巨体、魔導キャンピングカー「クイーン・アリス号」は、白一色の世界を滑るように疾走していた。
エルフの森を抜け、北へと広がる大雪原。
窓の外では、強烈な寒風が吹き荒れ、雪煙がカーテンのように視界を遮っている。世界は厳しく、冷たく、生き物を拒絶するような静寂に満ちていた。
だが、分厚い装甲と結界に守られた車内では、いつもの穏やかで、少し間の抜けた時間が流れていた。
「うーん、暖房の効きがイマイチねぇ。魔力伝導率をいじったのが裏目に出たかしら」
運転席のアリスが、魔導計器を指先でコツコツと叩きながらぼやく。
「この揺れ……サスペンションの魔石が劣化しているのではないか? 重心のズレを感じるぞ」
ゼイクが、紅茶の液面を見つめながら真面目腐った顔で分析する。
「お茶が入りましたよ~。今日は森で採れたハーブティーです」
メイが湯気の立つポットを運び、エリーゼが「香りの成分を抽出するには温度が高すぎますわ」と講釈を垂れる。
誰も、口には出さない。
けれど、全員が感じていた。
――ソファの一角、いつもなら不機嫌そうに、あるいは照れくさそうに座っていたはずの少女の席が、ぽっかりと空いていることを。
その「空白」が放つ寂しさを埋めるように、彼らはいつも以上に喋り、動いていたのかもしれない。
助手席に座っていた瞬は、退屈そうに窓の外を眺めていた。
……いや、違う。
彼の視線は、前方ではなく、サイドミラー(後方確認用の魔鏡)に釘付けになっていた。
「……ん?」
瞬が目を細める。
白い地平線。車の通った轍だけが黒く伸びる一本道。
その遥か彼方に、何かが動いていた。
雪煙を上げ、転がり落ちるように、猛スピードで追いかけてくる小さな影。
「……なんか、来てね?」
瞬の呟きに、アリスが振り返る。
「は? 魔物?
今の速度なら振り切れるでしょ」
「いや、魔物じゃねぇ。……あの色は」
白銀の世界に、一点だけ鮮やかな色彩があった。
金色の髪。
そして、風になびく真っ赤なリボン。
「アリアだ!」
瞬が叫んだ瞬間、全員が弾かれたように窓に張り付いた。
「嘘でしょ!?」
「姫様が!?」
間違いなかった。
ドレスの裾を泥と雪で汚し、髪を振り乱し、なりふり構わず走ってくる少女。
身体強化の魔法を使っているのだろうが、それでも限界を超えているはずだ。息を切らし、転びそうになりながら、必死に手を振っている。
「ストップ! アリス、止めろ!」
瞬が叫ぶ。
「わかってるわよ!」
キキィッ!
アリスが急ブレーキ(逆噴射魔法)をかける。
巨大な車体が雪を巻き上げてスライドし、急停止した。
プシューッ。
ドアが開く音が、静寂の雪原に響く。
瞬たちが外に飛び出すと、アリアが最後の力を振り絞って飛び込んできた。
そのまま雪の上に倒れ込むかと思いきや、彼女は勢いそのままに瞬の胸に突っ込んできた。
ドンッ!
衝撃で瞬がよろめく。
「はぁ、はぁ、はぁ……!」
アリアは、肩で息をしていた。
顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃ。整えられていた髪はボサボサで、高貴な王女の威厳など欠片もない。
ただの、必死な女の子がそこにいた。
「……待ちなさいよ、バカ!」
アリアは、瞬の胸をドンと叩いた。
その手は、冷たく凍えていたけれど、熱い血が通っていた。
「迷惑なのは分かってる!」
彼女は叫んだ。喉が裂けんばかりに。
「王女が国を捨てるなんて、最低だってわかってる!
無責任で、わがままで、あなたたちにまた面倒をかけるだけだって、わかってるわよ!」
彼女の瞳から、ボロボロと大粒の涙がこぼれ落ちる。
それは、彼女が今まで背負ってきた「役割」や「常識」という殻を突き破って溢れ出した、本当の想い。
「でも……!」
彼女は瞬の服をぎゅっと掴んだ。
「私も連れて行ってほしい!
離れたくない!
あんな冷たい場所じゃなくて……あなたたちと一緒にいたいの!」
それは、彼女が生まれて初めて口にした、純粋な「欲望」だった。
どうしても手放せないものがあるなら。魂が引き裂かれるほど痛いなら。
その「執着」を抱きしめて、泥にまみれてでも追いかけること。それもまた、一つの「生きる道」なのだ。
瞬は、きょとんとしてアリアを見下ろしていた。
そして、数秒後。
プッと吹き出した。
「ぶっ……あははははは!」
「な、何よ!
人が必死に頼んでるのに、笑うことないじゃない!」
アリアが顔を真っ赤にして怒る。
瞬は、涙が出るほど笑ってから、優しくアリアの頭に手を置いた。
その手は温かかった。
「迷惑? 何言ってんだよ」
彼は、クイーン・アリス号の開け放たれたドアを親指で指した。
そこから見えるリビング。
窓際のソファ。
そこには、アリアがいつも愛用していたクッションと、彼女専用のマグカップが、片付けられることなくそのまま置かれていた。
「席なら、最初から空けてあるぞ」
アリアが息を呑む。
「お前は仲間だろ。……お前がいいなら、ここがお前の帰る場所だ」
最初から、彼らはアリアを置いていく気などなかったのだ。
「さようなら」と言われたから、その意思を尊重しただけ。
けれど、もし彼女が戻ってくるなら、いつだって迎え入れる準備はできていた。
「来るもの拒まず、去るもの追わず」。でも、「戻ってくるなら抱きしめる」。
それが、瞬たちの流儀だ。
「……まったく、遅いのよ」
アリスが顔を出して、呆れたように、でも最高に嬉しそうに笑った。
「おやつの時間、過ぎちゃったじゃない。スコーンが冷めちゃうわよ」
「護衛対象が増えるのは歓迎だ。……私の背中を守れる弓使いは、貴殿しかいないからな」
ゼイクが、不器用に顔を背けて兜の位置を直す。
「研究対象としても、まだデータが不足していましたの。エルフの生態サンプルとして、これからも協力していただきますわよ」
エリーゼが、嬉しそうに眼鏡を直す。
「おかえりなさい、アリアさん!」
メイが、満面の笑みで手を広げて飛び出してきた。
アリアの視界が、涙で滲んで何も見えなくなる。
ここは、私の場所だ。
森の宮殿よりも、黄金の玉座よりも。
ずっとずっと温かくて、騒がしくて、大切な場所。
アリアは、涙を拭わずに、メイの胸に飛び込んだ。
「……ただいま!」
雪原に、五人の笑い声が響き渡った。
***
車内に戻り、温かいお茶を飲んで落ち着いた頃。
アリスが、現実的なツッコミを入れた。
「でも本当に大丈夫なの?
一般人じゃないんだから。王女誘拐とかで国際指名手配になったら、私の商売あがったりよ?
慰謝料請求されたらどうするの?」
アリアは、温かいカップを両手で包み込みながら、くすくすと笑った。
その笑顔は、かつての張り詰めた王女の顔ではなく、憑き物が落ちたような、晴れやかな少女の顔だった。
「ええ、問題はあるかもね。……でも」
彼女は、窓の外、遠ざかる森の方角を一瞥した。
そこには、頑固な長老たちや、変わることを恐れる同胞たちが残っている。
彼らを見捨てる罪悪感がないわけではない。
けれど。
「だからと言って、もうあの人たちに、何かできることはないのよ。」
過去にしがみつく人たちを、無理やり変えることはできない。
人は、自分で変わろうと思わなければ変われないからだ。
私が犠牲になって森に残っても、彼らは「閉じた世界」の中で腐っていくだけだ。
だから、私は行く。
外の世界を見て、学んで、本当に強くなって。
いつか、彼らが外の世界に目を向けた時、手を差し伸べられるように。
「私は、私の人生を生きるわ。あなたたちと共に」
それは、逃げではない。
未来のための、前向きな旅立ちの宣言だった。
瞬は、満足そうに頷いた。
「よし! そんじゃ、出発だ!」
彼は運転席のアリスの肩を叩く。
「まあ、そういうことなら……みんなで帰ろうか!」
ヴォン! とエンジンが唸りを上げる。
クイーン・アリス号が加速する。
雪煙を上げて、銀色の巨体は地平線の彼方へと進んでいく。
冬の空は高く、どこまでも澄み渡っている。
彼らの行く手を祝福するように、魔導エンジンの排気が作り出した一筋の雲が、長く、長く空に伸びていった。
最強のパーティは、今日も行く。
騒がしくて、無茶苦茶で、でも誰よりも温かい旅路を。
終わりなき冒険の、新しい1ページがめくられた。




