第93話:黒い絶望と、残酷な生贄 〜濁った鏡は景色を歪め、澄んだ水面は空を映す〜
エルフの王宮は、世界樹の幹そのものをくり抜いて作られた、自然と魔術の融合した壮大な空間だった。 天井からは琥珀色に輝く樹液がシャンデリアのように垂れ下がり、壁一面には森の歴史を物語る精緻な彫刻が施されている。玉座の背後には、森の守護神を祀る祭壇が鎮座し、神聖な空気を漂わせていた。 美しく、荘厳で、そして――息が詰まるほど静かだった。
アリアは、翡翠色の絨毯の上で、玉座の前に跪いていた。 目の前には、父であるエルフ王と、母である王妃が座っている。 数ヶ月ぶりの再会。 死地を乗り越え、奇跡的に生還した娘との対面。本来なら、涙を流して抱き合い、無事を喜び合う場面のはずだ。
だが、彼らの口から出た言葉は、アリアの淡い期待を冷たく、そして呆気なく裏切った。
「アリア、お前が無事でよかった。……だが、今はそれどころではないのだ」
王の声は、再会の喜びよりも焦燥にかられていた。 彼の視線は、アリアの顔ではなく、手元にある戦況報告書に向けられている。眉間には深い皺が刻まれ、王としての余裕は消え失せていた。
「獣人軍は一時撤退した。だが、奴らは去り際に、とんでもない『呪い』を森に残していきおった。……我々の聖域である『根の国』が、今まさに汚されているのだ」
王は苛立たしげに玉座の肘掛けを叩いた。
「奴が発生してからこの数ヶ月、王宮魔導師総出の多重結界でなんとか侵食を遅らせてきたが、それも限界だ。特にここ数日、奴の活性化が著しく、放出される波動が森の外にまで影響を及ぼし始めておるのだ。先日の魔物の暴走も、おそらく奴の不快な波動に当てられた魔物たちが、恐怖に駆られてパニックを起こした結果であろう。このままでは、都を支える世界樹そのものが腐り落ちるのも時間の問題だ」
王が指を弾くと、空中に巨大な水晶球が浮かび上がり、そこに森の最深部の映像が映し出された。 アリアは息を呑んだ。 そこは、かつて精霊たちが集い、清らかな湧き水が流れていた、世界樹の根元にある最も神聖な場所だったはずだ。
しかし今、そこは地獄のような光景に変貌していた。
黒い、タールの塊のようなもの。 それが、小山のように巨大化して鎮座している。 定まった形はない。不定形のスライムのようにブクブクと泡立ち、時折、飲み込んだ木々や岩の一部が浮き出ては、また沈んでいく。 触れたものは一瞬で黒く変色し、ドロリと液状化して吸収されていく。 それは生き物ではない。意思も、感情も感じられない。 ただひたすらに全てを「無」へと帰す、動く虚無だ。
「な、何ですか、あれは……!」
アリアの声が震える。映像越しでさえ、そのおぞましさが伝わってくる。
「わからん。剣で斬っても手応えがなく、魔法を撃ち込めばそれを吸収してさらに巨大化する。……地下に逃げたシルヴァンたちとの連絡も途絶えた。おそらく、既に飲み込まれてしまったのだろう……」
王が頭を抱え、呻くように言った。
「あれは獣人ごときが作れる代物ではない。……背後に『魔族』の影があるのは間違いないだろう」
魔族。 その言葉が、アリアの脳裏に冷たい閃きをもたらした。 常識の通用しない化け物。物理も魔法も効かない理不尽な存在。 ――それに対抗できるのは、同じく「常識外れ」な力を持つ者だけではないか?
瞬たちの顔が浮かんだ。 デコピンで熊を飛ばし、指パッチンで魔物の群れを消滅させる、あの規格外の男。 そして、複雑な演算で魔法を書き換えるアリスや、天才的な解析能力を持つエリーゼ。 彼らなら。
「お父様! あの人間たち……瞬たちなら、何とかしてくれるかもしれません!」
アリアは身を乗り出して訴えた。瞳に希望の光を宿して。
「彼らは特別なのです! ドラゴンすら退け、数千の魔物の群れを一瞬で消滅させる力を持っています! 彼らに頼めば……!」
バンッ! 乾いた音が響いた。王が玉座の手すりを叩いたのだ。
「黙れ! 人間ごときに何ができる!」
王は激昂した。その美しい顔が、怒りで醜く歪んでいる。
「我ら高潔なエルフの魔法が通じぬ相手に、魔力も持たぬ野蛮な猿知恵が通用するわけがなかろう! これ以上、神聖な森を人間の足で汚させるな!」
聞く耳を持たない。 種族の優劣という分厚い色眼鏡が、彼らの目を曇らせている。 「人間は劣等種である」という固定観念にしがみつき、目の前の現実を見ようとしない。
アリアが唇を噛んで押し黙った時、それまで沈黙を守っていた王妃が、ふわりと扇子を開いた。 彼女は美しかった。氷の彫像のように完璧で、そして体温を感じさせないほど冷ややかだった。
「あら、あなた。いいではありませんか」
王妃は、鈴を転がすような、優雅で甘い声で言った。
「アリアがそこまで言うのですもの。……やらせてみればよろしいのではなくて?」 「なっ、何を言うのだ!?」
王が驚いて振り返る。 王妃は、艶然と微笑んだ。その美しい瞳が、三日月のように細められる。 そこには、慈愛など微塵もなかった。あるのは、虫を殺す子供のような、無邪気な残酷さだけ。
「どうせ我々では手詰まりです。……ならば、彼らを『餌』として使いましょう」 「餌……?」
アリアの背筋が凍る。
「ええ。あの人間たちを化け物にぶつけて、注意を引きつけている間に、我々が強力な封印の儀式を行うのです」
王妃は、まるで今日のお茶菓子を選ぶような気軽さで続けた。
「人間というのは、往生際が悪く、しぶとい生き物ですわ。消化されるまでの数分間、化け物の気が逸れれば十分。その隙に、我々が準備を整えればよいのです」
彼女は扇子で口元を隠し、冷酷に目を細めた。
「もし彼らが飲み込まれてしまっても……それはそれで好都合ですわ。厄介な人間を処分する手間が省けますし、化け物の動きも、消化のために一時的に鈍るでしょうから」
王が、ハッとして顔を上げた。 そして、ニヤリと口元を歪めた。卑しい笑みだった。
「なるほど……一石二鳥か。捨て石にはちょうどいい」
アリアは、耳を疑った。 これが、親の言葉なのか。 これが、森の賢者と呼ばれ、高潔さを誇るエルフの王の言葉なのか。 自分たちの無能さを棚に上げて、娘の恩人を罠に嵌め、生贄にして助かろうとする。 その醜悪なエゴイズム。
「……ひどい」
アリアの声が震える。
「彼らは私を助けてくれたのよ!? 命の恩人なのよ!? それを……!」 「黙りなさい、アリア」
王妃の声が、鋭い氷柱のようにアリアを刺した。
「これは『大義』のためです。森を守るためなら、多少の犠牲は必要なのです。……あなたは王族として、情に流されず、正しい判断をしなさい」
正しい判断。 それは、他人を犠牲にして自分たちが生き残ることなのか。 「森のため」「民のため」という大義名分を掲げれば、恩人を裏切ることも許されるというのか。 そんなものが「正義」なら、私は王族なんてなりたくない。
アリアは、拳を握りしめて立ち上がった。 彼女の目から、失望の涙がこぼれ落ちる。 親への尊敬も、期待も、この瞬間に音を立てて崩れ去った。
「……わかりました」
彼女は絞り出すように言った。
「もう、結構です」
彼女は踵を返し、玉座の間を飛び出した。 背後で両親が「待ちなさい」「どこへ行く」と叫んでいたが、もう何も聞こえなかった。聞きたくもなかった。
***
森の入り口。クイーン・アリス号に戻った時、アリアの顔色は死人のように蒼白だった。 彼女はリビングに入ると、力が抜けたようにその場に崩れ落ちた。
「アリアさん!?」
メイが慌てて駆け寄る。 キッチンにいた瞬、ソファでくつろいでいたアリスたちも、異変を察知して集まってくる。
アリアは、顔を上げられなかった。 合わせる顔がなかった。 あんなに温かく迎えてくれた彼らを、私の親たちは殺そうとしている。 私がここに連れてきたせいで。私のわがままで。
「……逃げて」
アリアは、震える声で言った。
「今すぐ逃げて。……この森から出て行って」 「どうしたんだよ、アリア。何があった?」
瞬が膝をつき、彼女の顔を覗き込む。 アリアは、泣きながら全てを話した。 森の深部にある黒い化け物のこと。 そして、両親が瞬たちを「捨て石」にする計画を立てていること。
「ごめんなさい……! 本当に、ごめんなさい……!」
アリアは床に額をこすりつけた。 プライドも何もかもかなぐり捨てて、ただ謝罪した。
「あなたたちを巻き込んで……こんなひどい目に遭わせて……! 私が、私が馬鹿だったから……!」
重い沈黙が落ちた。 予想以上の悪意。裏切り。 普通なら、激怒して森を焼き払ってもおかしくない状況だ。 ゼイクが眉間に深い皺を寄せ、エリーゼが扇子を閉じてため息をつく。
だが。 聞こえてきたのは、軽やかな笑い声だった。
「ぷっ、あははは!」
瞬だった。 彼は、面白くて仕方がないというように、腹を抱えて笑っていた。
「なーんだ、そんなことかよ」
瞬は、アリアの頭をポンと叩いた。
「最初からわかってたことだろ? あいつらが俺たちを歓迎するわけねぇって」 「え……?」
アリアが涙に濡れた顔を上げる。
「期待してねぇよ、そんな連中に。……あいつらがクズなのは想定内だ」
瞬は、ニカっと笑って立ち上がった。 その笑顔は、どんな絶望も吹き飛ばす真夏の太陽のように明るく、そして強かった。
「でもな、アリア」
彼の声が、少しだけ真剣な響きを帯びる。
「お前が泣いてるなら、話は別だ」
彼は、腰の剣をポンと叩いた。
「俺たちは、エルフ王のために戦うんじゃない。……友達のアリアが好きな、この森を守るために、その化け物を退治してやる」
損得じゃない。 頼まれたからでもない。 ただ、友達が泣いているから。大切な仲間が愛した故郷だから。 そのシンプルな理由だけで、彼は命を懸けると言うのだ。
「……瞬」 「任せとけ。捨て石? 上等じゃん。俺たちみたいな頑丈な石は、喉に詰まって消化不良起こすぜ?」
アリスも、呆れたように肩をすくめたが、その口元は笑っていた。
「まったく、お人好しなんだから。……ま、売られた喧嘩は買う主義だけどね。王様たちには、後でたっぷり高額な請求書を送りつけてやるわ。慰謝料込みでね」
ゼイクが剣を点検し、静かに頷く。 「騎士として、女性の涙を見過ごすわけにはいかん」
エリーゼが杖を磨きながら微笑む。 「未知の化け物……研究材料としては最高ですわ」
メイが、アリアの手をぎゅっと握る。 「一緒に行きましょう、アリアさん」
誰も、逃げようとはしなかった。 誰も、アリアを責めなかった。 彼らは「裏切られた」ことよりも、「アリアの想い」を優先したのだ。
アリアの瞳から、堰を切ったように大粒の涙が溢れ出した。 それは悔し涙ではなく、彼らの底なしの優しさに触れた、感謝の涙だった。
(ああ、やっぱり) (この人たちは……私の、本当の家族だ)
血の繋がった同胞がいる、あの美しいけれど冷たい場所か。 それとも、種族も生まれも違う他人たちがいる、この鉄の箱の中か。
「……うん。お願い、力を貸して」
翌朝。 最強のパーティは、死地へと向かう。 黒い絶望を、笑い飛ばすために。 そして、腐りきった「親の愛」という呪縛を、断ち切るために。




