第92話:歓迎されない帰還と、馬小屋の晩餐 〜真の故郷とは、地図ではなく心の温度である〜
森の奥深くへと進むにつれ、空気はさらに濃密さを増していった。
肌にまとわりつくような湿気と、古木が放つ芳醇な樹液の香り。そして何より、空間そのものを満たす圧倒的な魔力の濃度が、ここが人界とは隔絶された異郷であることを告げていた。
やがて、鬱蒼と茂る木々の隙間から、視界が開けた。
瞬たちは、思わず息を呑んで足を止めた。
「うわぁ……すっげぇ」
そこにあったのは、空中に浮かぶ巨大な都市だった。
樹齢数千年、いや万年を越えるであろう、天を突くほどの巨木――世界樹。その太い枝の上に、優美な曲線を描く建物が連なっている。
建物は石や木材を切り出して加工したものではなく、生きた木々を魔法で誘導し、編み上げるようにして形作られたもので、自然と人工が見事に融合していた。
枝と枝の間には蔦で作られた吊り橋が渡され、無数の光る精霊たちが蛍のように舞い踊り、都市全体を淡い緑色の光で包み込んでいる。
エルフの集落。
それは、おとぎ話の中からそのまま抜け出してきたかのような、幻想的な美しさだった。
だが、目を凝らしてよく見れば、その美しさには痛々しい傷跡が刻まれていた。
黒く焼け焦げた枝。
崩れ落ちた回廊。
都市を守る結界の光が、所々で薄くなり、明滅している場所もある。
獣人軍による襲撃の爪痕だ。彼らがどれほど激しい戦火に見舞われ、必死に防衛したのか、その傷跡が無言で物語っていた。
「姫様!
アリア姫様がお戻りだ!」
「おお、奇跡だ! 精霊のご加護だ!」
アリアの姿を認めた見張りの兵士が声を上げると、瞬く間に住民たちが集まってきた。
吊り橋を渡り、広場へと駆け寄ってくるエルフたち。
老若男女、皆一様に安堵と喜びの表情を浮かべ、アリアを取り囲む。
「ご無事で何よりです」「もうダメかと思っておりました」
涙を流して喜ぶ彼らの姿は、アリアがいかにこの里で愛され、希望の象徴であったかを証明していた。
しかし。
その歓喜の輪は、アリアの後ろにいた瞬たちが一歩足を踏み入れた瞬間に、凍りついた。
ピタリ、と歓声が止む。
数百の瞳が、一斉に瞬たちに向けられる。
そこにあるのは、歓迎の色ではない。
まるで、清潔に磨かれた食卓の上に、泥だらけのドブネズミが這い上がってきたのを見た時のような、生理的な嫌悪と、剥き出しの警戒心。
「……なんだ、あれは」
「人間だ。なぜ人間がここに?」
「穢らわしい……」
「空気が汚れる」
ひそひそという囁き声が、さざ波のように広がっていく。
透明な氷の壁が、瞬たちとエルフたちの間に立ちはだかっているようだった。
アリアに向けられていた温かな眼差しとは対照的な、絶対零度の視線。
アリアが必死に声を上げる。
「みなさん、聞いて! 彼らは私の命の恩人なの!
彼らが助けてくれなければ、私はここにはいなかったわ!」
だが、その言葉も彼らの心の壁を溶かすには至らない。
「恩人? 人間が?」
「姫様は騙されているのでは?」
「きっと何か裏があるに決まっている。人間とはそういう生き物だ」
固定観念(色眼鏡)とは、恐ろしいものだ。
彼らは「人間=悪」というフィルターを通してしか、世界を見ることができない。どんなにアリアが真実を訴えても、その事実は歪曲され、「悪意ある企み」として脳内で処理されてしまう。確証バイアスが、彼らの耳を塞いでいた。
そこへ、一人の老エルフが進み出てきた。
地面に届くほど長く白い髭を蓄え、魔力を帯びた重厚な杖をついた、長老格の人物だ。
「姫様。……ご無事の帰還、心より慶賀いたします」
彼は恭しく頭を下げたが、すぐに冷ややかな目で瞬たちを一瞥した。その目は、ゴミを見る目だった。
「しかし……人間風情を神聖な居住区に入れるわけにはまいりません。結界が穢れますゆえ」
「長老! 彼らは客として……」
「なりませぬ!」
長老は杖をドンと突き、アリアの言葉を遮った。
「姫様を連れ帰った功績に免じて、勾留は免除しましょう。ですが、彼らの居場所はあそこです」
長老が骨張った指で指差したのは、集落の端、ゴミ捨て場の近くにある今にも崩れそうな廃屋だった。
屋根は穴だらけで空が見え、壁は腐りかけて苔むし、風が吹けばギシギシと悲鳴を上げる粗末な小屋。
かつては家畜小屋か、あるいは物置として使われていたのだろう。
「あそこで大人しくしている分には、見逃してやります。……食事も、家畜の残飯でよければ恵んでやりましょう」
あからさまな侮辱。
お前たちは家畜と同等だという、無言のメッセージ。
アリアが顔を真っ赤にして抗議しようとした。
だが、それより早く、赤い影が動いた。
「はぁぁぁぁぁ!?」
アリスが、ブチ切れた。
彼女は優雅に持っていた扇子をバシッと閉じ、仁王立ちになって長老を睨みつけた。
「ふざけるんじゃないわよ、この化石ジジイ!
私のクイーン・アリス号より快適なスイートルームを用意しろとは言わないけど、これはあんまりじゃない!?」
彼女は廃屋を指差し、早口でまくし立てる。
「あんな隙間風だらけの小屋で、私の繊細な肌が荒れたらどうしてくれるの!?
賠償金請求するわよ!? 慰謝料も込みで! そもそも建築基準法違反でしょ、あんなの!」
アリスの剣幕に、長老がたじろぐ。
人間ごときが、あろうことか長老に口答えするとは夢にも思っていなかったのだろう。
「な、なんと無礼な……! つまみ出せ!」
「まあまあ、アリス。落ち着けって」
瞬が、苦笑いしながらアリスの肩を叩いた。
彼は怒るどころか、どこか面白がるように廃屋を眺めている。
「屋根があるだけマシだろ。……ま、俺たちには『アレ』があるしな」
瞬は、アリスに向かってウインクした。
アリスは「ふんっ」と鼻を鳴らし、髪をかき上げた。怒りで紅潮した頬を扇子で仰ぐ。
「そうね。……あんなボロ小屋、頼まれたって願い下げよ。帰りましょう、私たちの『城』へ」
一行は、長老の言葉を無視して、きびすを返した。
その堂々とした態度に、エルフたちがざわめく。
「待ちなさい! どこへ行く気だ!」
長老が叫ぶが、ゼイクが振り返りもせず、冷ややかに言い放った。
「貴殿らの『おもてなし』には感謝するが、遠慮しておく。我々には、ここよりも遥かに清潔で、快適で、文明的な拠点があるのでな」
彼らは、エルフたちの困惑を背に、森の入り口に停めてあったクイーン・アリス号へと戻っていった。
***
車内に戻ると、そこは別世界だった。
完璧な空調によって保たれた適温、体を包み込むようなふかふかのソファ、そしてキッチンから漂うコーヒーの良い香り。
外の冷たい視線とは無縁の、温かい楽園。
「あーあ、やっぱりこうなるか」
瞬がソファにダイブし、天井を仰いだ。
「期待はしてなかったけど、ここまで露骨だと逆に清々しいな」
「まったくですわ。エルフの知性とは、偏見を正当化するための言い訳に過ぎないのかもしれませんね」
エリーゼが、悔しそうにティーカップを用意する。カチャリという陶器の音が、少し乱暴だ。
そこへ、アリアが駆け込んできた。
彼女は息を切らし、泣きそうな顔で頭を下げた。
「ごめんなさい……。本当に、ごめんなさい……!」
彼女の声が震えている。
自分の同胞が、大切な仲間たちを傷つけた。その申し訳なさで、胸が押し潰されそうだったのだ。
自分にとって大切な場所(故郷)が、同じく大切な人(仲間)を拒絶する。その板挟みの苦しみ。
「アリアさんのせいじゃありません」
メイが、優しくアリアの手を握った。
幻影魔法で黒く偽装された瞳が、優しくアリアを見つめる。
「私たちは大丈夫です。……ほら、ここはこんなに温かいですから」
メイは、アリアをソファに座らせ、温かいシチューを差し出した。
湯気と共に、野菜とミルクの甘い香りが広がる。
「馬小屋の残飯なんかより、こっちの方が百倍美味いしな!」
瞬が笑って、パンをシチューに浸してかじる。
アリアは、スプーンを握りしめたまま、うつむいた。
車内の温かさと、外の冷たさ。
仲間たちの優しさと、同胞たちの冷酷さ。
その対比が、彼女の心をかき乱す。
どちらが本当の「家」なのだろう。
血の繋がった同胞がいる、あの美しいけれど冷たい場所か。
それとも、種族も生まれも違う他人たちがいる、この鉄の箱の中か。
「……アリア殿」
ゼイクが静かに言った。彼は鎧の手入れをしながら、アリアに視線を向けた。
「今はまだ、彼らには見えていないだけだ。我々の本当の姿がな。……時が来れば、きっとわかる」
今はまだ、霧の中だ。
偏見という名の霧が晴れるまで、焦らずに待とう。
瞬たちの、怒りもせず、諦めもしない態度は、アリアにとって唯一の救いだった。
その時、車窓の外から、重厚な角笛の音が響いた。
ブオオオォォォ……。
王宮からの、正式な招集の合図。
「……呼ばれたわ」
アリアが顔を上げる。
「王宮へ行かなくちゃ。両親に……報告を」
彼女は立ち上がった。シチューは一口も喉を通らなかった。
その背中には、王女としての重圧と、決意が滲んでいた。
「行ってくるわ。……必ず、あなたたちの名誉は守ってみせる」
彼女は一人、車を出て行った。
冷たい森の夜気の中へ。
その小さな背中を見送りながら、瞬は呟いた。
「……無理すんなよな」
彼らはまだ知らない。
王宮でアリアを待ち受けているのが、再会の喜びなどではなく、もっと冷酷で、絶望的な「親の愛」であることを。
想像以上の対応に、一同の間には「早く帰ろう」という空気が漂っていたが、アリアだけは、一人で嵐の中へと向かっていった。




