第91話:緑の迷宮と、見えない仮面 〜悪意とは、ただ通り過ぎていく風の音である〜
季節の移ろいというものは、世界が最も美しく、そして同時に最も残酷な表情を見せる瞬間かもしれない。
魔導キャンピングカー「クイーン・アリス号」は、かつてアリアが生まれ育った故郷、人跡未踏の秘境「翡翠の森」の奥深くへと、その巨大な銀色の船体を滑らせていた。
窓の外を流れる景色は、息を呑むほどに鮮やかで、どこか狂気すら孕んでいた。
晩秋。
頭上を覆う樹齢数千年の巨木たちの葉は、燃え尽きる寸前の命を誇示するかのような深紅や、目が覚めるような黄金色に染め上げられている。その一方で、エルフの強力な魔力によって無理やり時を止められたかのような、青々とした常緑の葉が不自然に混在していた。
死に行く季節の色と、永遠に留まろうとする魔力の色。
その歪なコントラストが、この森の拒絶的な美しさを際立たせている。
風が吹くたびに、乾いた落ち葉がカサカサと骨のような音を立てて舞い上がり、金属の車体にぶつかっては砕ける。
高性能なフィルターを通してもなお、換気口から流れ込んでくる空気には、湿った苔の匂いと、枯れ始めた植物特有の甘酸っぱい腐敗臭が混じっていた。それは、部外者に対して「ここから先は入るな」と告げる、無言の警告のようにも感じられた。
そんな張り詰めた空気の中、クイーン・アリス号の快適な空調が効いたリビングでは、緊急の作戦会議が開かれていた。
「……いい? みんな、よく聞いて」
マホガニーのテーブルの端に座ったアリアが、祈るように両手を組んで言った。
彼女の表情は硬い。いつものような、美味しいご飯を前にした時の柔らかな笑顔はどこにもない。そこにあるのは、これから訪れる嵐を予感した、王族としての厳しさと、隠しきれない憂いだった。
「これから会う私の同胞たち……エルフ族が、あなたたちと『会話』をすると思わないでほしいの」
彼女の言葉に、隣に座っていたメイが不安そうに身を縮める。
瞬は、高級革張りのソファに深く沈み込みながら、コーヒーの入ったマグカップを両手で包んで温まっていた。湯気が立ち上り、焙煎された豆の香ばしい匂いが漂う。
「会話しないって、言葉が通じないのか? 古代語オンリーとか?」
「言葉は通じるわ。でも、心は通じない」
アリアは、痛々しいほど強く唇を噛んだ。白くなった唇に、血の気が戻るのを待たずに彼女は続ける。
「彼らは最初から耳を塞いでいるの。『人間は汚らわしい』『人間は敵だ』っていう分厚いフィルターを通してしか、あなたたちを見ない。……だから、きっと酷いことをたくさん言われると思うわ」
彼女は、テーブルに額がつくほど深々と頭を下げた。
誇り高きエルフの王女が、仲間のために頭を下げる。その肩は小刻みに震えていた。
「ごめんなさい。あなたたちを助けに来たのに、逆に傷つけることになるかもしれない。……今のうちに謝らせて」
重い沈黙が落ちた。
空調の低い駆動音だけが響く。
アリアの苦しみが、痛いほど伝わってくる。故郷を守りたいという切実な想いと、大切な仲間を侮辱されたくないという想いの板挟み。
それは、彼女の中で「どちらも大切だからこそ」生まれる苦しみ(ドゥッカ)だった。
だが、その沈黙を破ったのは、やっぱり瞬だった。
「まあ、想定内だろ」
彼はあっけらかんと言って、コーヒーをずずーっと行儀悪く啜った。
「え?」
アリアが顔を上げる。
「だって『みんな仲良く』なんてのは理想だろ? 現実はそう簡単じゃねぇよ。……俺だって、いきなり知らん奴が土足で家に上がり込んできたら、とりあえず塩まくしな」
瞬はニカっと笑った。その笑顔には、諦めではなく、ある種の「悟り」のような軽やかさがあった。
「アリアが気にすることじゃねぇよ。俺たちは、お前に頼まれて来たんじゃねぇ。……俺たちが勝手に、お節介を焼きに来たんだ」
彼は、「世界は思い通りにならない」という事実を、ただの天気のように受け入れていた。雨が降れば傘をさせばいい。相手が怒っているなら、その事実をただ認めればいい。そこに「なんでわかってくれないんだ」という執着を持たなければ、心は乱れない。
隣で、アリスも優雅に扇子を開いた。バサッという音が小気味よく響く。
彼女の瞳には、冷徹な計算と、仲間への深い信頼が同居している。
「そうね。損得勘定が通じない相手は一番厄介だけど……ま、適当に流しましょう。私は商売人よ?
理不尽なクレーム対応なんて日常茶飯事だわ。『お客様は神様です(ただし疫病神も含む)』ってね」
ゼイクも腕を組み、鋼鉄のように硬い表情を少しだけ和らげて頷く。
「騎士としても、外交の難しさは承知している。挑発に乗らぬよう、精神を統一しておこう。……まあ、瞬が暴走しないかどうかが一番のリスクだが」
「俺をなんだと思ってんだ!」
みんなの言葉に、アリアの瞳が潤む。
けれど、彼女はすぐに涙を拭い、次の、そして最大の懸案事項を口にした。
「ありがとう。……それから、もう一つ。これが一番大事なことなんだけど」
アリアは、真剣な眼差しでメイの方を見た。
「間違っても、メイの瞳は見られてはダメよ」
メイが、自分の右目を両手で覆う。
あの白いアイガードはもう外している。今は、綺麗な、透き通るような紫色の瞳が露わになっている。車内の暖かな光を受けて、アメジストのように輝くその瞳。
「エルフの中には、古い伝承を妄信している年寄りが多いの。『紫の瞳は災厄』『国を滅ぼす魔女の証』だって。もし見つかったら、問答無用で攻撃されるかもしれないわ」
かつて、アリア自身も信じていた迷信。
「紫色は怖い」という色眼鏡。それを乗り越えた彼女だからこそ、その根深さと、それが引き起こす恐怖の暴走を誰よりも理解していた。
無知(無明)からくる恐怖は、どんな理性的な言葉も届かない壁を作る。
「……わかりました。私、ずっと下を向いてます。フードも深く被って……」
メイが消え入りそうな声で言う。
せっかく「そのままでいい」「綺麗だ」と言ってもらえたのに。
また、隠さなければならない。
その事実に、瞬の眉がピクリと動き、不満げに歪んだ。
「待ってください」
そこで、キッチンにいたエリーゼが手を挙げた。
彼女はフラスコや試験管などの実験道具を片手に、涼しい顔で歩み寄ってきた。白衣のように羽織ったローブが翻る。
「下を向いて歩くなんて、危ないですし、何よりメイさんの可愛らしさが台無しですわ。……ここはこの天才魔女エリーゼにお任せあれ。科学(魔法)の力で解決しましょう」
エリーゼは愛用の杖を取り出し、メイの前に立った。
「光の屈折率を調整して、認識をずらす幻影魔法をかけます。……網膜に届く波長を少しだけいじるのです。じっとしていてくださいね」
彼女が杖を振るうと、細かな光の粒子がメイの顔の周りに集まった。
シャララン、という鈴のような、あるいは氷が触れ合うような繊細な音と共に、魔法が発動する。
「……あ」
アリアが声を上げた。
メイの右目が、変わっていた。
鮮烈な紫色は消え、左目と同じ、平凡な濡羽色に見えるようになっていた。
もちろん、物理的に眼球の色が変わったわけではない。外から見る人の目をごまかす、精巧なカモフラージュだ。蜃気楼のように、そこにあるはずの色を歪めているのだ。
「どこまで通じるかわかりませんが、肉眼で見る分には問題ないはずですわ。魔力探知をされたらバレますが、うっかり見られても、ワンクッションあったほうが安全ですからね」
エリーゼが得意げに胸を張り、フフンと鼻を鳴らす。
メイは手鏡を覗き込み、自分の平凡になった瞳を見て、少し複雑そうに、でも安心したように微笑んだ。
「ありがとうございます、エリーゼさん。……これなら、大丈夫です」
その笑顔を見て、瞬は少しだけ切なそうに目を細めた。
本当の自分を隠さなきゃいけない世界なんて、やっぱり間違ってる。
レッテルを貼って、中身を見ようとしない連中が支配する世界。
でも今は、彼女を守るのが最優先だ。現実は、理想通りにはいかない。だからこそ、工夫して乗り越えるのだ。
「よし! 準備完了だな!」
瞬はパンと手を叩き、空気を変えた。
「どんな頑固ジジイが出てきても、俺たちが盾になる。……アリア、案内頼むぜ」
***
クイーン・アリス号は、さらに森の深部へと進んだ。
やがて、木々の密度が濃くなり、車体がつかえて進めなくなったあたりで、一行は車を降りた。
アリスが指を鳴らし、巨大な車体をカプセル(亜空間収納魔法)にしまい込むと、そこはもう、濃密な魔力が漂う異界の入り口だった。
静かだ。
あまりにも静かすぎる。
鳥の声もしない。風の音さえ、木々に吸い込まれて消えていくようだ。
冷たい空気が肌を刺す。日差しは木々の葉に遮られ、薄暗い緑色の光となって降り注いでいる。まるで水底にいるような感覚。
「……来るわ」
アリアが緊張した声で言った。
ザワッ。
木々の枝が不自然にざわめいた。
影の中から音もなく姿を現したのは、武装したエルフの一団だった。
森の色に溶け込む緑色の軽鎧に身を包み、手には精巧な弓と細身の剣を持っている。
その動きは風のように軽く、足音ひとつ立てない。彼ら自身が森の一部であるかのような一体感。
彼らの視線が、一行を射抜く。
その瞳には、驚きや好奇心など微塵もなかった。
あるのは、氷のように冷たく、そして鋭利な「敵意」だけ。
彼らは瞬たちを「人間」として認識した瞬間、心のシャッターを下ろしたのだ。
「……アリア様」
先頭に立った隊長らしきエルフが、アリアを見て片膝をついた。
整った顔立ち、長い金髪。アリアと同じ種族の特徴を持つ美しい男だが、その表情は彫像のように硬い。
その声には、深い敬愛が滲んでいた。
「よくぞ……よくぞご無事で。我ら一同、精霊に感謝を」
「ええ、戻りました。……心配をかけてごめんなさい」
アリアが答える。
感動の再会。
――のはずだった。
隊長は立ち上がると、アリアの後ろにいる瞬たちに目を向けた。
その瞬間、彼の表情が一変した。
さきほどの敬愛の色は嘘のように消え失せ、まるで生ゴミを見るような、あるいは靴底についた泥を見るような、露骨な嫌悪と軽蔑の色が浮かぶ。
「……して、そちらの汚らわしい家畜(人間)どもは?」
家畜。
その単語に、ゼイクのこめかみに青筋が浮かぶ。アリスの扇子を持つ手に力がこもり、ミシッと音がする。
「彼らは私の恩人よ。ここまで送り届けてくれたの」
アリアが強い口調で庇う。彼女の声には、「彼らを侮辱することは許さない」という王族としての威厳が込められていた。
「恩人?
人間がか?」
隊長は鼻で笑った。美しい顔が醜く歪む。
「姫様、騙されてはいけません。人間は嘘をつき、裏切る生き物です。欲望にまみれ、森を焼き、仲間を売る。……きっと何かの対価を求めて、貴女様を利用しようとしているに違いない」
彼は、瞬たちの前に立ちはだかり、剣の柄に手をかけた。
後ろに控えるエルフたちも一斉に弓を構える。弦が引き絞られる音が、張り詰めた空気をさらに緊張させる。
「ここは神聖なるエルフの森。穢れた足で踏み入ることは許さん。……そこで待っていろ。姫様の安全が確認されるまで、一歩も動くな」
それは「待機命令」というより、「これ以上近づいたら殺す」という脅迫だった。
彼らにとって人間は、対話の相手ではない。排除すべき害獣なのだ。
「ああん? なんだその態度は」
瞬が一歩前に出る。
彼の黒い瞳が、静かに怒りを宿して光る。
「俺たちはアリアの友達だぞ。客人に挨拶もなしかよ」
「友達?」
エルフたちが一斉に失笑した。
それは、子供の妄言を聞いた大人のような、あるいは動物が言葉を喋ったのを見た時のような、冷ややかな嘲笑だった。
「短命で、野蛮で、魔力も持たない猿が、我々と対等だとでも? ……身の程を知れ」
ブチッ。
瞬の頭の中で、何かが切れる音がした。
自分への侮辱ならまだいい。だが、彼らは「友達」という関係性そのものを否定した。アリアとの絆を、猿の戯言だと嘲笑った。
瞬は拳を握りしめ、前に出ようとした。
ガシッ。
それを止めたのは、ゼイクの手だった。
「……よせ、瞬」
ゼイクの声は低く、抑えられていたが、瞬の肩を掴むその手は震えていた。彼もまた、はらわたが煮えくり返る思いなのだ。
「ここで揉めれば、アリア殿の立場が悪くなる。……我慢だ」
「でもよぉ……!」
「我慢だと言っている!」
ゼイクは、悔しそうに唇を噛み締めながら、エルフの隊長に向かって頭を下げた。
王立騎士団長だった男が。誇り高き騎士が。理不尽な侮辱に対して頭を下げる。
それは屈服ではない。大切な仲間を守るための、高潔な忍耐だった。
「……承知した。我々はここで待機する」
騎士としてのプライドを飲み込み、友のために泥をかぶる。
その姿を見て、アリスもフンと鼻を鳴らし、扇子で顔を隠した。
「ま、いいわ。……どうせ話が通じる相手じゃないと思ってたし。損切り(ロスカット)の判断は早いに越したことはないわね」
アリアは、悲しげに瞬たちを見た。
ごめんなさい、と口の形だけで伝える。
瞬は、ため息をついて、小さく手を振った。
「気にするな」と。その笑顔は少し引きつっていたけれど、アリアを安心させるには十分だった。
アリアは、エルフたちに囲まれて森の奥へと消えていった。
まるで囚人のように連行されていく彼女の背中が、木々の向こうに見えなくなる。
残されたのは、冷たい秋風と、見えない壁に隔てられた人間たちだけ。
頭上では、常緑の葉と紅葉した葉が擦れ合い、ザワザワと騒がしい音を立てている。
「……クソッタレが」
瞬が地面を蹴飛ばした。土が舞い上がる。
色眼鏡をかけた連中には、自分たちの「色」が見えない。
どんなに鮮やかな絆も、彼らの濁った目には「汚れ」にしか映らないのだ。
森の奥から、アリアの帰還を祝う歓声が聞こえてくる。
ラッパの音、太鼓の音。
だが、その歓声の輪の中に、瞬たちの居場所はなかった。
晩秋の森は、残酷なまでに美しく、そしてどこまでも冷たかった。




