第90話:琥珀の檻と、凍りついた時間 〜握りしめた拳をほどくことは、新しい種を蒔くことである〜
地下深くに隠された避難所。 そこはかつて、エルフたちが緊急時のために用意した備蓄庫だったが、今は死を待つ棺桶と化していた。
天井の岩盤から、ピチャリ、ピチャリと、黒い雫が滴り落ちてくる。 その雫が床に落ちると、ジュウという音も立てず、ただ無音で石を侵食し、広がっていく。
「……結界が、保たない」
守備隊長シルヴァンは、青ざめた顔で天井を見上げていた。 彼らを守っていた最後の魔法障壁。数十人の魔導師が交代で魔力を注ぎ込み、必死に維持してきた光の膜が、今、黒いシミに覆い尽くされようとしていた。 上から聞こえてくるのは、獣の咆哮ではない。 ズズズ……ジュル……という、何か巨大な軟体動物が這い回り、大地を啜り上げるような湿った音だ。 その音を聞くたびに、避難民たちの肩が震える。
地上の森はもうない。 あの黒いタールの化け物が、木々も、動物も、泉の水さえも飲み込み、森全体を「黒い泥の海」へと変えてしまったのだ。
「隊長……! もう魔力が……!」
部下の魔導師が、鼻から血を流して崩れ落ちる。 パリンッ。 乾いた音が響いた。 天井の結界に亀裂が入る。 その隙間から、ドロリとした黒い液体が、滝のように雪崩れ込んできた。
「ひっ、いやぁぁぁぁ!」 「来るな! 来るなぁ!」
狭い地下空間はパニックに陥った。 だが、逃げ場はない。入り口は瓦礫で塞がれ、今や唯一の出口だった天井からは、死そのものが降り注いでいる。 黒い泥は、意思を持っているかのように鎌首をもたげた。 目はなく、口もない。 ただ、生命力の高いもの――エルフたちの方へと、正確に狙いを定めて波打つ。
「火を放て! 凍らせろ!」
シルヴァンが叫び、残った兵士たちが魔法を放つ。 だが、それは悪手だった。 放たれた炎の球は、黒い泥に触れた瞬間に吸収され、泥の体積を倍に膨れ上がらせただけだった。 魔法さえも「餌」にする。 この理不尽な捕食者の前では、エルフの誇る魔導技術など、自らを太らせて食われるためのスパイスにしかならない。
「……駄目だ」
シルヴァンの剣が手から滑り落ちた。 目の前で、部下の兵士が泥に足を捕らえられた。 「助けてください!」と叫ぶ間もなく、黒い波が彼を頭から飲み込む。 悲鳴すら上がらない。 ただ、泥の中で何かがもがくように波紋が広がり、数秒後には静かになった。 骨も、装備も残らない。完全なる消失。
絶望が、地下室を満たしていく。 老人たちが祈り、母親が子供の目を塞ぐ。 終わりだ。エルフの歴史も、誇りも、この汚泥の中で永遠に失われるのだ。
その時、シルヴァンの視線が、部屋の隅にある「巨大な根」に止まった。 それは、かつて地上にそびえ立っていた「世界樹」の根の一部だ。 地上部分は焼かれ、枯れてしまったが、地下深くにあるこの根だけは、まだ微かに脈打っているように見えた。
「……賭けるしか、ないか」
シルヴァンは、狂気にも似た決意を目に宿し、生き残った魔導師たちに向かって叫んだ。
「総員! 攻撃を中止しろ! 魔力を攻撃に使うな!」 「で、ですが隊長! 何もしなければ飲み込まれます!」 「攻撃しても飲み込まれるだけだ! ……術式を変える! 『琥珀の棺』だ!」
その言葉に、魔導師たちが息を呑んだ。 それは、古代エルフの禁呪の一つ。 対象を強固な結晶の中に封じ込め、時間を停止させる絶対防御魔法。だが、それは術者自身の命をも封じ込め、解除されるまで永遠に眠り続けることを意味する「自決」に近い魔法だった。
「我々には、あの化け物を倒す力はない。逃げる場所もない」
シルヴァンは、迫りくる黒い波を指差した。
「だが、ここで我々の『時間』を止めることはできる! 飲み込まれて消滅するより、未来へ希望を繋ぐんだ! いつか……誰かが我々を見つけてくれる、その時まで!」
悲痛な選択だった。 勝利ではない。ただの延命措置かもしれない。 それでも、エルフたちは頷いた。 無に帰すよりは、石になってでも存在を残したい。アリア姫が戻ってきた時、誰もいなくなっているよりは。
「やります!」 「我らの命、森に捧げん!」
魔導師たちが世界樹の根を取り囲み、手をかざす。 シルヴァンがその中心に立ち、詠唱を始めた。 黒い泥が、彼らの目の前まで迫る。 腐臭が鼻をつく。死の感触が肌を撫でる。
「……発動ッ!!」
カッ! 世界樹の根が、黄金色の光を放った。 その光は地下室全体に広がり、空気を、時間を、そして絶望に震えるエルフたちを包み込んでいく。
パキ……パキパキ……。
黒いタールの波が、あと数センチで子供たちに触れるというところで――展開された黄金の結晶が、彼らをドーム状に包み込んだ。 タールの波はその外壁に弾かれ、彼らという「時間」だけが、濁流の中で切り離された。
光は、エルフたち自身をも飲み込んでいく。 足元から体が硬化し、意識が遠のいていく。
(姫様……どうか、ご無事で)
シルヴァンは、薄れゆく視界の中で、外の世界が黒い泥に埋め尽くされていくのを見た。 だが、この琥珀の中までは入ってこれない。 勝ったわけではない。 ただ、負けを先送りにしただけだ。 いつかこの結晶が解ければ、また絶望と向き合うことになるかもしれない。
けれど、今はこれでいい。 この静寂こそが、私たちが守り抜いた最後の砦だ。
完全に光に満たされ、地下室は沈黙した。 そこには、黒いタールの海に沈みながらも、巨大な琥珀の中に守られ、恐怖に顔を歪めながらも手を繋ぎ合うエルフたちが、美しくも恐ろしい彫像となって残された。
地上の森は死に絶え、黒い沼が広がっている。 だが、その地下深く、泥の海の底で、微かな希望の種火だけは、消えずに眠りについていた。 いつか訪れる「銀色の流星」が、この堅牢な棺を見つけ出し、こじ開けるその時を待ちわびて。




