第89話:黒い泥濘と、喰われる森 〜絶望の衣(ころも)も、規格外の「洗濯」の前にはただの汚れに過ぎない〜
それは、アリアが転移魔法で飛ばされ、人間の世界で孤独な戦いを強いられていた頃の話だ。
エルフの森は、死に絶えようとしていた。 獣人軍の侵攻により、数千年の歴史を誇る巨木は焼かれ、清浄な空気は黒煙に穢された。多くの同胞が倒れ、あるいは連れ去られ、森の防衛線は崩壊していた。
だが、本当の悪夢は、獣人たちが去った後に訪れた。
森の最深部、世界樹の根元に広がる聖域。 そこに、獣人の呪術師たちが残していった「置き土産」があった。
それは、不気味な紋様が刻まれた、黒い壺だった。 生き残ったエルフの守備隊長、シルヴァンは、部下と共にその壺を取り囲んでいた。
「……なんだ、これは。とてつもなく邪悪な気配がする」
シルヴァンが眉をひそめた瞬間、壺にピシりと亀裂が入った。 次の瞬間、壺が内側から破裂し、中から「それ」が溢れ出した。
黒い、タールのような液体。 それは泥のようにも、コールタールのようにも見えたが、明らかに物理法則を無視した動きで広がっていった。 地面にこぼれ落ちた液体は、染み込むことなく、まるで意思を持ったアメーバのように蠢き、周囲の草木を侵食し始めた。
「ひっ……!?」
近くにいた兵士が悲鳴を上げた。 タールが触れた草花が、一瞬にして黒く変色し、液状に溶けて飲み込まれていく。 それだけではない。岩も、土も、そこに落ちていた剣さえも。 「それ」は、有機物も無機物も区別なく、触れるもの全てを無音で飲み込み、自身の体積を増やしていく。
「退がれ! 攻撃準備!」
シルヴァンの号令と共に、エルフたちが一斉に矢を放ち、魔法を撃ち込む。 風の刃がタールを切り裂き、炎の弾が着弾する。 だが。
「……嘘だろ?」
切れない。燃えない。 風の刃はタールを素通りし、炎はジュッという音もなく吸い込まれて消えた。 剣で斬りつけた兵士は、剣ごと腕を飲み込まれ、そのまま全身を引きずり込まれた。
「助け……!」
悲鳴を上げる間もなかった。 実体がないはずのドロドロとした流動体は、恐ろしいほどの吸引力を持っており、近づくもの全てをブラックホールのように飲み込んでいく。 飲み込まれた兵士は、抵抗する間もなく黒い液体の中に沈み、跡形もなく消滅した。
「物理攻撃無効……魔法吸収……!? そんな馬鹿な!」
シルヴァンは戦慄した。 これは生物ではない。 魔族が作り出した、世界を汚染し、全てを「無」に帰すための、殺戮プログラムそのものだ。
タールの化け物は、飲み込んだもののエネルギーを糧にして、急速に巨大化していった。 最初は水たまり程度だったものが、数分で池になり、やがて小山のような大きさへと膨れ上がる。 定まった形はない。 ある時は巨大な波のように、ある時は無数の触手のように形を変えながら、世界樹の根元を舐め尽くすように広がっていく。
「逃げろ!! 戦うな! これは勝てる相手じゃない!」
シルヴァンは叫んだ。 生き残ったエルフたちは、武器を捨てて逃げ惑った。 だが、化け物の侵食速度は早かった。 逃げ遅れた者が、足首を黒い触手に掴まれる。 助けようと手を伸ばした者もまた、その粘着質な泥濘に捕らわれ、道連れにされる。
森は、断末魔の悲鳴と、タールが蠢く「ズズズ……」という湿った音に包まれた。 美しかった泉も、精霊の宿る木々も、全てが黒い闇に飲み込まれ、消失していく。
かつての楽園の大地は、今や「黒い泥の海」へと変わり果てようとしていた。
シルヴァンたち少数の生存者は、地下にある古い隠れ里へと逃げ込んだ。 重い石の扉を閉ざし、強力な結界を張って、息を潜める。
地上からは、絶えず「何か」が這い回る音が響いてくる。 ズリ、ズリ、と。 獲物を探して彷徨う、形なき死神の足音。
彼らは知っていた。 この扉が破られるのも時間の問題だと。 あの化け物には、剣も魔法も通じない。近づけば終わる。 希望など、どこにもなかった。
暗闇の中で、シルヴァンは祈った。 どこかへ逃げた姫様だけでも、無事でいてくれと。 そして、二度とこの呪われた森へは戻ってこないでくれと。
――だが、運命は皮肉にも、その姫を最強の「異物」と共に、再びこの地へと呼び戻そうとしていた。




