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詠唱? それ、気合を入れるためのおまじないですよね? ~異世界キャンピングカーでダンジョンも王国もひっくり返す~  作者: Gaku


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第9話:暴走する名声、加速する勘違い 〜君が笑ってくれるなら、僕はピエロにでもなる〜

 王都の朝は、昨日までとは少し違っていた。


 石畳を照らす太陽の光は、いつもと同じように白く、家々の赤い屋根を淡く輝かせている。通りを渡る風も、パン屋の煙突から流れてくる香ばしい匂いも、市場に並ぶ果実の甘い香りも、昨日と大きく変わらない。


 それなのに、空気だけが妙に浮き立っていた。


 街角に立つ人々が、いつもより少し声を潜めている。荷車を押す商人が、隣の店主へ顔を寄せる。井戸端で水を汲んでいた女たちが、桶を持ったまま、同じ方向をちらちらと見ている。


 その視線の先にいるのは、一人の青年だった。


 佐藤瞬。


 昨日、薬草採取に出かけたはずなのに、伝説級の怪鳥を引きずり、山ほどの薬草と、見たこともない光る鉱石を持って帰ってきた新人冒険者である。


「おい、あれだろ?」


「ああ、昨日の……」


「ロック鳥を片手で引きずってきたっていう……」


「いや、話が大きすぎるだろ。いくらなんでもそんな――」


「でも、見張り台の兵士が腰抜かしたって聞いたぞ」


「ギルドの屋根も吹っ飛ばしたらしい」


「それは別件らしいぞ」


「別件で屋根が吹っ飛ぶって何だよ」


 ささやき声が、通りのあちこちで生まれては、風に乗って広がっていく。


 だが、瞬はその視線にまったく怯えていなかった。


 むしろ、少し胸を張っていた。


 朝の光を浴びながら、彼は冒険者ギルドへ向かって歩いている。革靴が石畳を踏むたび、こつ、こつ、と軽い音が鳴った。本人としては軽やかに歩いているつもりだったが、足元の石はところどころ微妙に沈んでいる。


 それでも瞬は気づかない。


 なぜなら、彼の頭の中には、もっと大事なことでいっぱいだったからだ。


(昨日のリナちゃん、めちゃくちゃ喜んでたな……)


 思い出すだけで、頬が緩む。


『すごいすごいですぅぅ! 薬草だけじゃなくて、街を脅かしていた怪鳥まで倒しちゃうなんてぇぇ! 英雄ですぅぅ!』


 リナの声が、脳内で都合よく何度も再生される。


 実際のリナは、途中で事務処理の山を前に少し遠い目をしていた気もする。だが、瞬の記憶の中では、その部分は綺麗に削除されていた。


 彼の中に残っているのは、笑顔。


 拍手。


 きらきらした瞳。


 そして「英雄ですぅぅ!」という甘い響きだけだった。


「英雄か……」


 瞬は小さく呟いた。


 悪くない。


 いや、かなりいい。


 日本の四畳半で天井の蜘蛛の巣を見つめながら、「トラック突っ込んでこないかなぁ」とぼやいていた頃の自分に教えてやりたい。


 机の角に頭をぶつけた先には、こんなにも都合のいい世界が待っているぞ、と。


 そして、金髪ツインテールの受付嬢が、満面の笑みで褒めてくれるぞ、と。


「今日も頑張るか」


 瞬は拳を握った。


 その瞬間、そばを通っていた犬が、びくっとして横道へ逃げた。


     *


 冒険者ギルドの前には、すでに人だかりができていた。


 重厚な木の扉は、昨日の騒動で何度目かの修理を受けたばかりだった。まだ新しい板の色だけが妙に浮いていて、金具の一部も不自然に光っている。扉の上には、修理職人が貼ったらしい小さな札がぶら下がっていた。


『強く押さないでください』


 瞬はその札をじっと見た。


 そして、神妙に頷いた。


「わかってる。俺はもう、昨日の俺じゃない」


 彼は扉にそっと手を当てた。


 優しく。


 丁寧に。


 赤子の頬に触れるように。


 ぎい、と扉が開いた。


 壊れなかった。


 ギルド内にいた冒険者たちから、小さなどよめきが起きた。


「開けたぞ……」


「普通に開けた……」


「成長してる……」


「いや、扉を壊さないだけで感動される新人って何だよ」


 瞬はその反応を、好意的に受け止めた。


(ふっ……みんな、俺の進化に気づいたか)


 違う。


 全員、ただ安心しているだけだった。


 ギルドの中は、朝から妙な熱気に包まれていた。


 窓から差し込む陽の光が、空気中の埃を淡く照らしている。木の床には、昨夜こぼれた酒の匂いがまだ少し残っていた。奥の食堂からは、焼いたベーコンと黒パンの香りが漂ってくる。カウンターの周囲には依頼書を持った冒険者や町の人々が集まり、いつもよりずっと賑やかだった。


 その中心に、リナがいた。


「シュンさぁぁぁん! おはようございまぁぁす!」


 朝から声が大きい。


 金髪のツインテールが、彼女の動きに合わせてぴょんと跳ねる。緑色の瞳は今日もまぶしいほど明るく、口元には営業用なのか本心なのかわからない満開の笑顔が咲いていた。


 瞬の視界から、周囲の冒険者たちが消えた。


 リナだけが光って見えた。


「おはよう、リナちゃん。今日も太陽より眩しいね」


 ギルドの端で、誰かが水を吹いた。


 リナは両手を合わせて笑う。


「まあ! 朝から飛ばしてますねぇ! でも、今日は本当にシュンさんにお願いしたい依頼がいっぱいなんですぅ!」


「俺に?」


「はいぃ!」


 リナはカウンターの上に、どさっと依頼書の束を置いた。


 紙の山だった。


 瞬は目を瞬かせた。


「……多くない?」


「昨日のロック鳥事件で、シュンさんの噂が一気に広がっちゃいましてぇ。朝から依頼人さんが押し寄せてるんですぅ」


 リナはにこにこしている。


 しかし、目の下にほんの少しだけ疲れが見えた。いつもの明るさはあるが、その奥で事務処理に追われた人間特有の光がちらついている。


 瞬はそれを見た瞬間、胸の奥に火がついた。


(リナちゃんが困っている)


 それだけで十分だった。


 依頼の内容など、まだ一文字も読んでいない。


 報酬も知らない。


 危険度も知らない。


 だが、瞬の中ではすでに決まっていた。


「全部やる」


 ギルド内が静まり返った。


 今度の沈黙は、昨日の水晶爆散前とは違う。


 誰もが「聞き間違いであってくれ」と願う、祈りのような沈黙だった。


 リナでさえ、少しだけ目を丸くした。


「全部、ですかぁ?」


「ああ」


 瞬は胸を張る。


「リナちゃんが困ってるなら、全部やる」


 リナの頬が、ほんのり赤くなった。


「シュンさん……」


 ギルドの奥から、古参の冒険者がぼそりと呟いた。


「おい、止めろ。あれは町が持たねぇ」


 別の冒険者も頷く。


「新人が依頼を全部受けるって言った時点で普通は笑うところだが、あいつの場合、本当に全部終わらせそうなのが怖い」


「終わらせるだけならいい」


「そうだな。問題は、終わらせ方だ」


 瞬には聞こえていない。


 彼はリナの笑顔だけを見ていた。


「まずは、どれから?」


「ええっとぉ……こちらですぅ」


 リナは一枚目の依頼書を差し出した。


「王都南区の用水路に泥が詰まって、水の流れが悪くなっているそうですぅ。依頼内容は、簡単なドブ掃除ですねぇ」


「ドブ掃除」


 瞬は真剣な顔で依頼書を見た。


 異世界に来て、初めての名声爆上がり後の依頼。


 その内容が、ドブ掃除。


 少しだけ想像と違った。


 だが、リナが見ている。


 彼女の緑の瞳が、期待を込めてこちらを見ている。


 瞬の中で、ドブ掃除は突然、王都を救う聖なる任務に変わった。


「任せろ」


 彼は依頼書を受け取った。


「俺が、水の流れを取り戻す」


 言い方だけは、やたら壮大だった。


     *


 南区の用水路は、王都の中でも古い区域にあった。


 狭い路地が入り組み、建物同士の隙間は細い。上から張り出した木製の看板が風に揺れ、軒先に干された布が朝の光を受けて白く光っている。石畳の表面には長年の水跡が黒く残り、角の丸くなった石の隙間からは、小さな草が顔を出していた。


 用水路は、路地の中央を浅く走っている。


 本来なら澄んだ水がさらさらと流れているはずだった。だが今は、泥や落ち葉、折れた木片が詰まり、水は重たく濁っていた。ぬるい匂いが立ち上り、近くの住民たちは顔をしかめている。


「すみませんねぇ、冒険者さん」


 依頼人の老人が、腰を曲げて瞬に頭を下げた。


「最近、水が流れなくなっちまって。掃除しようにも、奥の方まで詰まっていて手が届かんのです」


「なるほど」


 瞬は腕を組んだ。


 水路を覗く。


 確かに泥が詰まっている。


 水がほとんど動いていない。


 ここで普通の冒険者なら、長い棒や道具を使い、泥をかき出し、少しずつ流れを戻すだろう。


 瞬は違った。


「詰まりを取ればいいんですよね?」


「ええ、まあ」


「了解です」


 瞬はしゃがみ込み、用水路の縁に手を置いた。


 老人が首をかしげる。


「あの、道具は……」


「あります」


 瞬は自分の右拳を見せた。


「これが」


 老人の顔が固まった。


「あの、冒険者さん?」


「大丈夫です。軽くやります」


 その言葉を聞いた近所の子供が、なぜか母親の後ろへ隠れた。


 瞬は拳をゆっくり上げた。


 そして、用水路の脇の地面を、こつんと叩いた。


 こつん。


 本人としては、本当に軽くだった。


 次の瞬間。


 どごんっ。


 地面の奥で、何かが破裂したような音がした。


 用水路の水が、一瞬だけ沈む。


 次に、地下のどこかで眠っていた水脈が目を覚ました。


 ごぼ。


 ごぼごぼ。


 ごぼぼぼぼぼぼぼっ!


「え?」


 老人が目を見開いた。


 水路の底から、勢いよく水が噴き上がった。


 泥が吹き飛び、落ち葉が舞い、木片が空中へ跳ね上がる。濁っていた水が一気に押し流され、透明な水が激しい勢いで路地を走り始めた。


「おお!」


 瞬は目を輝かせた。


「出た!」


「出すぎじゃあああ!」


 老人の叫びが、南区に響いた。


 水は用水路から溢れた。


 石畳の上を流れ、路地を横切り、近くの八百屋の前まで押し寄せる。木箱に入っていた野菜がぷかぷか浮き始め、店主が悲鳴を上げた。


「俺の大根が船出した!」


「追え! 大根を追え!」


「いや、水を止めろ!」


 子供たちは大喜びだった。


「わー! 川だー!」


「水祭りだー!」


 靴を脱いで走り出す子供たち。洗濯物を慌てて取り込む女たち。桶を持って水を汲み始める男たち。路地は一瞬で大騒ぎになった。


 瞬は少し焦った。


「お、落ち着いてください! 水は出ました!」


「出過ぎてるんだよ!」


 老人は怒鳴ったが、数秒後には表情を変えた。


 用水路の奥から流れてくる水は、澄んでいた。


 冷たく、清らかで、夏の井戸水のように光っている。南区はここ数日、水の流れが悪く、住民たちは困っていた。泥の臭いに悩まされ、洗濯もままならず、飲み水も別の区まで取りに行っていた。


 その水が今、勢いよく戻ってきている。


 多少、勢いがありすぎるだけで。


「……水が戻った」


 誰かが呟いた。


「本当に流れてるぞ!」


「井戸より冷たい!」


「これで洗濯できる!」


 住民たちの顔が明るくなる。


 老人は、濡れた裾を見下ろし、それから瞬を見た。


 怒ればいいのか、感謝すればいいのか、非常に悩んでいる顔だった。


 そして最終的に、両手を合わせた。


「ありがとう、冒険者さん。多少、いや、だいぶ派手だが……助かった」


 瞬は胸を張った。


「お安い御用です」


 足元では、流された大根が水路の角に引っかかっていた。


 子供がそれを拾い上げ、誇らしげに掲げる。


「大根、救出!」


 南区に笑い声が広がった。


 瞬はその光景を見て、満足げに頷いた。


(よし。いい仕事をした)


 この後、用水路の水量調整のために職人たちが半日走り回ることになるが、瞬はまだ知らない。


     *


 ギルドへ戻ると、リナが目を輝かせて待っていた。


「シュンさぁぁん! もう終わったんですかぁ!?」


「水、出してきた」


「出してきた?」


「詰まりを取ったら、ちょっと水脈も開いた」


「水脈も?」


 リナの笑顔が、ほんの少しだけ固まった。


 ちょうどその時、南区の住民が何人もギルドへ駆け込んできた。


「助かったぞ!」


「水が戻った!」


「ありがとう、英雄さん!」


「ただ、八百屋の大根が流された!」


「でも楽しかった!」


 リナの固まった笑顔が、再び明るくなる。


「すごいですぅぅ! シュンさん、初めての水路依頼で水不足まで解決しちゃうなんてぇ!」


 瞬の鼻の下が伸びた。


「いやぁ、それほどでも」


 完全にそれほどあった。


 リナはすぐに次の依頼書を差し出した。


「では次ですぅ! 王都北西の廃倉庫に盗賊団が潜んでいるそうですぅ。町の人たちが困っていますぅ!」


「盗賊団」


 瞬の目が光った。


「それはわかりやすい」


 彼は依頼書を受け取った。


「悪いやつを倒せばいいんだな」


「はいぃ! でも、できれば建物は壊さずに――」


 リナが言い終える前に、瞬は歩き出していた。


「任せて!」


「最後まで聞いてくださぁぁい!」


 リナの声がギルドに響いた。


 だが、瞬の足取りはもう止まらない。


 彼の頭の中では、盗賊団を倒して戻ってきた自分に、リナがさらに輝く笑顔で「さすがですぅ!」と言っている未来が、完全にできあがっていた。


 王都の空は、昼へ向けて高く澄んでいく。


 白い雲がゆっくり流れ、城壁の上の旗が風に鳴っている。


 瞬はその光の中を、意気揚々と歩いていった。


 自分がどれほど周囲を振り回しているのか、少しも知らないまま。


 そして、誰かに褒められたいという単純な願いが、今日も王都の常識を粉々にしていくことを、本人だけがまだわかっていなかった。


北西区の廃倉庫は、王都の華やかな通りから少し外れた場所にあった。


 大通りの賑わいは遠く、ここまで来ると人の声は急に少なくなる。石畳には荷車の古い轍が黒く残り、壁際には雨水の乾いた跡が筋になっていた。路地の隙間に生えた雑草が、昼の風に頼りなく揺れている。太陽の光は建物の屋根に遮られ、細い路地の底には薄い影が沈んでいた。


 廃倉庫は、その奥にあった。


 大きな木の扉は片方が傾き、錆びた金具が風に揺れて、きい、きい、と嫌な音を立てている。割れた窓からは、古い木箱の匂いと、湿った埃の匂いが流れてきた。中からは、男たちの笑い声が聞こえる。


「へへ、王都の連中も腰抜けばかりだな」


「ギルドの冒険者だって、ここまでは来ねぇよ」


「昨日から変な新人が出たって噂もあるが、どうせ尾ひれがついた話だろ」


 瞬は、扉の前で立ち止まった。


 そして、真剣な顔で考えた。


(建物は壊さずに、だったよな)


 リナの声が、脳内に響く。


『できれば建物は壊さずに――』


 最後まで聞かなかったことを、今さら思い出した。


「よし。壊さない」


 瞬はそっと扉に手を当てた。


 ぎい。


 扉が開く。


 今度は壊れなかった。


 瞬は小さく頷いた。


「成長してる」


 中にいた盗賊たちが、一斉に振り返った。


 薄暗い倉庫の中には、八人ほどの男がいた。木箱の上に腰かけている者、短剣を研いでいる者、酒瓶を片手にしている者。全員が、突然入ってきた瞬を見て、少しだけ固まった。


「誰だ、てめぇ」


「冒険者です」


 瞬は明るく答えた。


「依頼で来ました。できれば建物を壊さずに捕まえたいです」


 盗賊たちは顔を見合わせた。


 次の瞬間、どっと笑った。


「聞いたか? 建物を壊さずにだってよ!」


「まず自分の心配をしろよ、坊主!」


「一人で来るとか、いい度胸じゃねぇか!」


 瞬は困ったように頭をかいた。


「いや、俺もできれば穏便に終わらせたいんですけど」


「穏便に終わるかよ!」


 先頭の盗賊が短剣を抜いた。


 鋭い刃が、割れた窓から差し込む光を受けて白く光る。


 倉庫の中の空気が、ぴんと張った。


 埃が光の筋の中をゆっくり落ちている。その一粒一粒が見えるほど、奇妙に時間が遅く感じられた。外では風が雑草を揺らし、乾いた葉が壁をこする、かさかさという音がしている。


 瞬は、短剣を見た。


 盗賊を見た。


 そして言った。


「じゃあ、武器だけ壊します」


「は?」


 瞬の姿が消えた。


 盗賊たちには、そう見えた。


 実際には、瞬が少し速く動いただけだった。


 ただし、その「少し」が人間基準ではなかった。


 ぱきん。


 最初の短剣が折れた。


 ぱきん、ぱきん、ぱきん。


 続けて、別の剣、棍棒、隠し持っていた小刀まで、全部が瞬の指先で折られていく。盗賊たちは動くこともできず、自分の手元から武器だけが消えていく光景を見ていた。


「え」


「は」


「今、何が」


 最後に、瞬は盗賊の一人が持っていた酒瓶を見た。


「あ、これは武器じゃないか」


「そ、それは俺の酒だ」


「じゃあ返します」


 瞬は丁寧に酒瓶を男の手に戻した。


 男は震えながら受け取った。


「ありがとう……?」


 なぜ礼を言ったのか、自分でもわかっていない顔だった。


 瞬は満足そうに頷いた。


「よし。建物は壊してない」


 その時、盗賊の一人が背後から飛びかかった。


 瞬は反射的に振り向いた。


 肩が軽く当たった。


 どごんっ。


 盗賊が木箱の山へ突っ込んだ。


 木箱は砕けた。


 倉庫の壁は無事だった。


 瞬はほっとした。


「セーフ」


「セーフじゃねぇ!」


 盗賊たちの叫びが重なった。


     *


 半刻後。


 ギルドの前に、縄でぐるぐる巻きにされた盗賊たちが並べられていた。


 通りを歩いていた人々が足を止める。


「盗賊団だ!」


「北西区の廃倉庫にいた連中じゃないか!」


「ずっと困ってたんだよ!」


「誰が捕まえたんだ?」


「また、あの新人らしいぞ」


 ざわめきが大きくなる。


 瞬は盗賊たちの横で、少し誇らしげに立っていた。倉庫は壊していない。壁も屋根も無事。壊れたのは木箱だけ。本人としては、かなり上出来だった。


 リナがギルドから飛び出してきた。


「シュンさぁぁん! 盗賊団も、もう終わったんですかぁ!?」


「うん。建物は壊してない」


「本当ですかぁ!?」


「木箱は少し」


「少しなら……たぶん……たぶん大丈夫ですぅ!」


 リナは両手を握りしめ、目を輝かせた。


「すごいですぅ! 水路も直して、盗賊団も捕まえて、まだお昼前ですよぉ!」


 その一言で、瞬の胸に火がついた。


 褒められた。


 また褒められた。


 褒められると、人は走り出す。


 少なくとも、瞬は走り出した。


「次は?」


「え?」


「次の依頼」


 リナは、ぱちぱちと瞬きをした。


「ええっとぉ……でも、少し休んだ方が……」


「大丈夫。リナちゃんの依頼なら、俺はいくらでも動ける」


 リナの頬が、また少し赤くなった。


「シュンさん……」


 周囲の冒険者たちは、青ざめた。


「止めろ」


「その顔をするな」


「受付嬢が照れるたびに王都が削れるぞ」


 だが、リナは依頼書の束に手を伸ばしてしまった。


 そこから先は、王都にとって長い一日になった。


 東区の老舗パン屋では、石窯の煙突に詰まった鳥の巣を取り除く依頼があった。


 瞬は屋根へ跳んだ。


 跳んだだけで、屋根瓦が数枚浮いた。


 鳥の巣は無事に取れた。


 ついでに煙突の煤も一瞬で吹き飛ばした。


 店主は泣きながら焼きたてのパンを差し出した。


「ありがとう! 煙突が新品みたいになった!」


「屋根瓦、三枚ほど旅立ちましたけどねぇ!」


 隣家の住民が叫んだ。


 瞬はパンを受け取りながら、リナへの土産にしようと決めた。


 西区の広場では、暴れ馬が荷車を引いたまま走り回っていた。


 瞬は馬の前に立った。


 馬は止まった。


 正確には、瞬を見た瞬間、前脚を折りたたむようにして座った。


 誰よりも危機察知能力が高かった。


「賢い馬だな」


 瞬は馬の頭を撫でた。


 馬は涙目だった。


 南門近くの鍛冶屋では、巨大な金床を移動させる依頼があった。


 職人が五人がかりでも動かせなかった金床を、瞬は片手で持ち上げた。


「どこに置きます?」


「……そ、そこ」


 職人が震える指で示す。


 瞬はそっと置いた。


 どん。


 床が沈んだ。


「すみません」


「いや……地面が弱かったんだろう」


 職人は遠い目で言った。


 北区では、家の屋根に引っかかった子供の凧を取る依頼があった。


 瞬は指先で風を起こし、凧をふわりと浮かせた。


 そこまではよかった。


 風が少し強すぎて、凧は空高く舞い上がり、王城の方へ飛んでいった。


 子供は泣いた。


 瞬は慌てて空へ跳び、凧を取って戻ってきた。


 着地で小さな噴水が揺れた。


 子供は凧を抱いて笑った。


「お兄ちゃん、すごい!」


 瞬は少し照れた。


 そして思った。


(これもリナちゃんに報告しよう)


 夕方が近づく頃には、王都のあちこちで瞬の噂が膨らんでいた。


「南区の水を戻したらしい」


「盗賊団を瞬きする間に捕まえたらしい」


「暴れ馬を目で止めたらしい」


「金床を指一本で持ったらしい」


「王城まで飛んだ凧を追いかけて空を走ったらしい」


「空を走った?」


「いや、もう何でもいいだろ。あいつならやりそうだ」


 噂は、風より速かった。


 夕暮れの光が王都を赤く染める頃、ギルドの前には依頼人と見物人が集まり、ちょっとした騒ぎになっていた。石畳に伸びた人々の影が重なり、通りの端の草が足元で踏まれて揺れている。屋台の煙が夕陽に染まり、橙色のもやのように漂っていた。


 瞬は、両手いっぱいに礼品を抱えて戻ってきた。


 焼きたてのパン。


 なぜか馬用の干し草。


 鍛冶屋からもらった小さな鉄の置物。


 子供から渡された木の実。


 そして依頼完了の紙束。


「リナちゃん、ただいま!」


 ギルド内が静まり返った。


 リナはカウンターの向こうで、依頼完了報告書を見た。


 瞬を見た。


 もう一度、紙束を見た。


 その目が、だんだん輝いていく。


「シュンさん……」


「うん」


「今日一日で……これ全部……?」


「うん。リナちゃんが困ってたから」


 リナの瞳が潤んだ。


「すごいですぅ……!」


 その一言で、瞬の心は完全に勝利した。


 ギルド内に拍手が起きた。


 最初は一人。


 次に二人。


 やがて、冒険者たちも、依頼人たちも、街の人々も、笑いながら手を叩き始めた。


「英雄だ!」


「王都の便利すぎる英雄だ!」


「いや、便利って言うな!」


「でも実際、便利だぞ!」


 笑い声が広がる。


 瞬は頭をかいた。


「いやぁ、そんな英雄なんて」


 言いながら、顔はにやけていた。


 完全に喜んでいた。


 その時、リナが両手を胸の前で握りしめた。


「シュンさんは、本当にすごいですぅ! 困っている人を放っておけない、優しい英雄さんですぅ!」


 瞬は固まった。


 優しい英雄。


 その言葉は、彼の胸の奥に深く刺さった。


 日本にいた頃、誰かにそんなふうに言われたことはなかった。


 ただの暇な男。


 何者でもない男。


 部屋の隅で異世界物語を読みながら、自分ではない誰かになりたいと願っていた男。


 その自分が、今、誰かに必要とされている。


 リナが笑っている。


 人々が拍手している。


 それだけで、瞬はこの世界を好きになった。


 好きになりすぎた。


「任せてくれ」


 彼は胸を張った。


「俺はこの街のために、何でもする」


 その言葉に、ギルド内から歓声が上がった。


 だが、老冒険者だけは、酒の入った木杯を握りしめ、窓の外を見ていた。


 夕陽の向こう。


 王都の外れ。


 そこに広がる影を、じっと見つめていた。


「……何でも、か」


 彼は低く呟いた。


「そういうやつほど、一番大事なものを見落とすんだがな」


 誰にも聞こえなかった。


 歓声にかき消された。


 その頃、王都の片隅。


 細い路地の奥で、布で顔を隠した少女が、壁にもたれて座り込んでいた。


 メイだった。


 夕暮れの光は、その路地には届かない。高い建物に挟まれた狭い空には、赤く染まった雲がわずかに見えるだけだった。石畳は冷え始め、壁際の苔が湿った匂いを放っている。


 遠くから、歓声が聞こえた。


「英雄!」


「シュン!」


「ありがとう!」


 その声は、路地の奥まで薄く届いた。


 メイは顔を上げなかった。


 腹が鳴る。


 喉が乾いている。


 左目を隠す布の下で、紫の瞳が暗く沈んでいる。


 同じ王都に、光の中心で笑う者がいる。


 同じ王都に、影の底で息を潜める者がいる。


 けれど、その二つはまだ出会わない。


 歓声は遠く、温かい。


 だからこそ、メイのいる路地の冷たさは、いっそう深くなった。


 彼女は膝を抱え、ただ小さく息をした。


 王都の夜が、静かに降りてくる。


 そして、その夜の奥で、まだ誰も気づいていない大きな影が、ゆっくりと動き始めていた。

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