第8話:薬草採取と、伝説の怪鳥 〜「ちょっとだけ」は、だいたい大惨事の入口である〜
王都の朝は、やけに澄んでいた。
東の空から昇った太陽が、白亜の城壁の縁を淡い金色に染めている。夜のあいだ石畳に溜まっていた冷気は、少しずつ光に押し出され、通りの隅へ追いやられていった。軒先に吊られた小さな看板が、朝風を受けて、きい、きい、と控えめに揺れている。
パン屋の煙突からは細い煙が上っていた。
焼きたてのパンの香ばしい匂いが、まだ眠たげな通りをゆっくりと流れていく。市場の方では、果物を並べる木箱の音が、ことん、ことん、と響いていた。遠くで馬が鼻を鳴らし、荷車の車輪が石畳をこする、ごろごろという低い音が朝の空気に混ざる。
そんな清々しい朝の王都に、ひときわ場違いな足取りで歩く男がいた。
佐藤瞬である。
「ふふふふふ……」
彼は笑っていた。
とても気持ち悪く笑っていた。
本人としては、爽やかな冒険者の朝を演出しているつもりだった。だが、すれ違った通行人が半歩だけ距離を取る程度には、顔が緩みきっていた。
理由は単純だった。
初依頼。
そして、リナである。
昨日、ギルドの扉を壁にめり込ませ、測定水晶を粉にし、屋根に空を開けた瞬に、リナは笑顔で言った。
『明日の朝、初心者向けの依頼を用意しておきますねぇ!』
あの声。
あの笑顔。
あの金髪のツインテールの揺れ。
瞬の脳内では、その場面だけが何度も何度も再生されていた。しかも、再生されるたびに、リナの笑顔は少しずつ輝きを増している。もはや現実の彼女より三割ほど光っていた。
「薬草採取……薬草採取か」
瞬は拳を握った。
「地味だが、いい。こういう基本を丁寧にこなす男こそ、あとで信頼される。リナちゃんもきっと言う。『シュンさん、ちゃんと初心者依頼も頑張るんですねぇ! 素敵ですぅ!』って」
言っていない。
まだ何も言っていない。
だが、瞬の頭の中ではすでに言ったことになっていた。
ギルドの建物が見えてきた。
昨日の被害は、まだ生々しく残っていた。扉は応急処置として板を打ちつけられ、どうにか開閉できる状態になっている。屋根に空いた穴には、雨よけの布が斜めに張られていた。風が吹くたび、その布がばさばさと鳴り、まるで建物そのものが「もうやめてくれ」と訴えているようだった。
瞬はその前で立ち止まり、少しだけ神妙な顔をした。
「昨日は悪かったな、ギルド」
建物に謝った。
通りかかった冒険者が、それを見て無言で方向転換した。
瞬は気にせず扉を開けようとした。
今度は慎重に。
指先でそっと押す。
みし。
板が鳴った。
「……」
瞬は一度手を止めた。
深呼吸する。
「優しく。俺は優しい。扉に優しい男だ」
再び押す。
ぎい、と扉が開いた。
壊れなかった。
瞬は小さくガッツポーズをした。
「成長したな、俺」
「扉を普通に開けただけで達成感を出さないでください」
中にいた職員が、疲れた顔で言った。
ギルドの中は、昨日よりも妙に静かだった。
まだ朝早いせいもある。昨夜の酒の匂いが木床に残り、窓から差し込む光の中で埃がゆっくり舞っていた。何人かの冒険者がテーブルについているが、瞬を見ると、全員が示し合わせたように視線を逸らした。
昨日、天井が吹き飛ぶ瞬間を見た者たちである。
彼らは学んでいた。
この新人に必要以上に関わってはいけない。
たとえ本人が満面の笑みで近づいてきたとしても、それは人懐こい犬ではない。尻尾を振る大型台風である。
だが、ただ一人。
そんな空気など完全に無視して、朝から太陽のように輝いている少女がいた。
「シュンさぁぁん! おはようございまぁす!」
リナだった。
カウンターの向こうで、金髪のツインテールが元気よく跳ねる。朝日を受けた髪は蜂蜜を溶かしたように艶めき、大きな緑の瞳は、今日もやたらと明るい。
瞬の心臓が、どん、と跳ねた。
床も少し揺れた。
「おはよう、リナちゃん。今日の朝日は、君に挨拶するために昇ったみたいだね」
ギルド内の空気が、一瞬だけ冷えた。
奥のテーブルで水を飲んでいた冒険者が、静かにむせた。
リナは笑った。
「わぁ! 朝からすごい勢いですねぇ! その調子で薬草も採ってきてくださいねぇ!」
「任せて」
瞬は胸を張った。
「根こそぎ採ってくる」
リナの笑顔が、ぴたりと止まった。
「根こそぎはだめですぅ」
「え?」
「必要な分だけですぅ。薬草はまた生えてくるように、根っこは残して採るんですよぉ」
「なるほど……」
瞬は真剣に頷いた。
「上だけ根こそぎ」
「根こそぎから離れてくださぁい!」
リナはカウンターの上に一枚の紙を広げた。
そこには簡単な地図が描かれている。王都の西門、草原、川、小さな森、そしてさらに奥にあるごつごつした岩山。
「目的地はこの辺りですぅ。西の草原にあるヒール草を十束。初心者さん向けなので、街からあまり離れなくても見つかるはずですぅ」
「十束。了解」
「奥の岩山までは行かなくて大丈夫ですからねぇ」
「岩山」
「行かなくて大丈夫ですぅ」
「なるほど」
「本当に大丈夫ですぅ」
「わかった。岩山は、行かなくて大丈夫」
瞬はしっかり復唱した。
リナは安心したように頷いた。
だが、この時点で、リナは重大な勘違いをしていた。
瞬が言葉を理解したことと、それを守れることは、まったく別の話だった。
*
王都の西門を抜けると、世界は一気に広くなった。
城壁の内側にあった人の声や靴音が背後へ遠ざかり、代わりに、草原を渡る風の音が耳に満ちていく。朝の光はまだ柔らかく、膝丈ほどの草を淡い緑に照らしていた。風が吹くたび、草は一斉に身を傾け、さわさわ、さわさわと細かな音を立てる。
その音は、王都の石畳を叩く靴音とはまったく違った。
柔らかく、広く、遠くへ続いていく音。
草の葉先には朝露が残っている。太陽の光が当たると、小さな水滴が銀色にきらめいた。足元では名も知らない白い花が揺れ、そこへ小さな蝶が舞い降りる。羽の表面に淡い青が走り、風に乗ってふわりと浮いた。
瞬はその景色を見て、深く息を吸った。
「いいなぁ……異世界の外、めっちゃいいなぁ」
風が頬を撫でる。
草の匂いがした。
青く、少し湿っていて、どこか甘い匂い。
瞬は歩き出した。
こつ、ではない。
王都の石畳ではないから、靴音は柔らかく沈むはずだった。
だが、瞬が一歩踏み出すたび、足元の土が、どむ、と低い音を立ててへこんだ。
「ふふふーん、薬草、薬草ー」
鼻歌交じりに歩く。
どむ。
どむ。
どむ。
彼が通ったあとには、綺麗な草原の中に、深い足跡が点々と残っていった。小さな虫たちが慌てて逃げ、草の間に隠れていた野ウサギが耳をぴんと立て、次の瞬間には全力で走り去った。
瞬は気づかない。
彼の視線は、薬草を探すことに向いていた。
「ヒール草……ヒール草ね」
彼はしゃがみ込んだ。
目の前には、草がある。
右にも草。
左にも草。
前にも草。
後ろにも草。
つまり、全部草だった。
「……全部それっぽい」
瞬は真顔になった。
リナから特徴は聞いていた。
細長い葉。
淡い香り。
葉脈が少し白い。
日当たりのいい場所に生える。
なるほど、と思った。
そして今、草原に出て理解した。
草は、だいたい細長い。
草は、だいたい日当たりのいい場所に生えている。
草は、だいたい草の匂いがする。
「難易度、高くない?」
初心者向け依頼で、早くも詰まりかけていた。
瞬は腕を組んだ。
風が吹く。
草が揺れる。
どこかで鳥が鳴く。
実に平和な景色だった。
その平和な景色の真ん中で、瞬は急に目を細めた。
「こういう時は、あれだな」
彼は右手を目元にかざした。
「鑑定眼」
何も起きなかった。
「……」
瞬は少し恥ずかしくなった。
周りに誰もいないことを確認する。
誰もいなかった。
よかった。
「いや、今のは練習。次、本番」
もう一度、草原を見る。
「薬草よ、光れ」
当然、光らない。
だが、瞬の目は常人のものではなかった。
遥か遠く、草原の奥。
岩場の手前にある斜面で、一枚の葉が朝日に反射して、ほんの一瞬だけきらりと光った。
普通の人間なら見逃す。
瞬は見た。
そして、勝手に解釈した。
「見えた」
彼の顔に、自信が戻った。
「やっぱり俺、鑑定できるわ」
できていない。
ただ視力が良すぎただけである。
瞬は光った方へ向かって歩き出した。
リナは言った。
奥の岩山までは行かなくていい、と。
だが、瞬の中ではこう変換されていた。
岩山まで行かなくてもいい。
つまり、行ってもいい。
彼は実に軽やかな足取りで、草原の奥へ進んでいった。
足元の草が踏まれ、土がへこみ、彼の通ったあとに一本の道のようなものができていく。風に揺れていた草の波は、瞬の足跡の周囲だけ妙に乱れ、まるで巨大な何かが這った跡のようになっていた。
やがて、草原の緑が少しずつ薄くなった。
地面が硬くなる。
靴底に当たる感触が、柔らかな土から、乾いた石へ変わっていく。
ざり。
ざり。
小石を踏む音が響き始めた。
前方には、赤茶けた岩山がそびえている。
さえずりの岩山。
名前だけは可愛らしい。
だが近づくほど、その景色は可愛らしさから遠ざかっていった。岩肌は荒く、太陽を受けてじりじりと熱を帯びている。草原を渡ってきた風も、ここでは乾いて硬くなり、砂粒を巻き上げて頬をかすめた。岩陰には細い草がわずかに生えているだけで、花の甘い匂いも、蝶の軽やかな羽音も消えていた。
空だけが広い。
青く、眩しく、何も隠してくれない空。
瞬は額に手をかざした。
「おお、岩山だ」
彼は地図を取り出した。
リナの丸い字で、岩山の手前に小さく印がついている。
『ここより奥は、なるべく行かないでくださいねぇ』
瞬はそれを見つめた。
そして、にっこり笑った。
「なるべく、なら大丈夫だな」
大丈夫ではない。
この世界の「なるべく」は、瞬のような男に渡してはいけない言葉だった。
彼は岩場へ足を踏み入れた。
ざり。
石が鳴る。
風が強くなる。
岩の隙間を抜ける風は、笛のような音を立てた。ひゅうう、と細く高い音。どこかで鳥が鳴いているようにも聞こえる。さえずりの岩山という名は、きっとこの風の音から来たのだろう。
瞬はそれを聞いて、のんきに頷いた。
「いい名前じゃん。さえずってる感じする」
その時。
岩山の上の方で、何かが動いた。
ぱらぱら、と小石が落ちてくる。
瞬は顔を上げた。
高い崖の上。
太陽を背にした巨大な影が、ゆっくりと翼を広げていた。
羽ばたき一つで、風が変わった。
草原から吹いていた軽い風ではない。
重い。
大きい。
空そのものが押し下げられるような風。
瞬の髪が揺れ、足元の砂が舞い上がった。岩陰に生えていた細い草が、根元から震える。
影が鳴いた。
ぎゃあああああああああっ!!
その声は、鳥のさえずりとは程遠かった。
空気を裂き、岩肌にぶつかり、何度も反響する。耳の奥がびりびりと震え、遠くの草原にいた鳥たちが一斉に飛び立った。
崖の上の影が、太陽の前からずれた。
姿が見える。
巨大な鳥だった。
翼を広げれば、小さな家なら丸ごと影に飲み込めるほどの大きさ。羽毛は鋼のように黒く光り、一枚一枚が刃物のように硬そうだった。曲がった嘴は槍の先のように鋭く、鉤爪は牛一頭を掴んでも折れなさそうな太さをしている。
ロック鳥。
この地域で、空の支配者と呼ばれる魔物。
普通の冒険者なら、その姿を見ただけで冷や汗が背中を伝う。歴戦の者であっても、声を失う。逃げる判断が一瞬でも遅れれば、命はない。
岩山の上から見下ろすその目には、獲物を選ぶ冷たさがあった。
空気が止まる。
風さえ、恐れて身を潜めたようだった。
瞬は、その巨大な影を見上げた。
眩しそうに目を細める。
そして、言った。
「……でっかい鳩だな」
でっかい鳩。
その言葉が、岩山の乾いた空気の中へ落ちた。
一瞬、世界が黙った。
風も止まったように思えた。岩の隙間を抜けていた細い音も消え、足元の小石が転がる音さえ聞こえない。空の上で羽を広げた巨大な怪鳥だけが、ぎろりと黄色い目を細めて、瞬を見下ろしていた。
その沈黙は、怒りの前触れだった。
「ギャアアアアアアアアアッ!!」
怪鳥が鳴いた。
いや、鳴いたというより、空が裂けた。
声が岩肌にぶつかり、跳ね返り、何重にも重なって瞬の全身を叩く。足元の砂が震え、崖の途中から細かな石がぱらぱらと落ちてきた。遠くの草原では、鳥たちが一斉に飛び立ち、朝の青空に黒い点となって散っていく。
瞬は耳を押さえた。
「うわっ、声量すごっ。近所迷惑ってレベルじゃないぞ」
怪鳥は翼を大きく広げた。
黒い羽が太陽を遮る。
その瞬間、岩場に影が落ちた。明るかった赤茶けた地面が一気に暗くなり、熱を持っていた石の表面が、急に冷えたように見える。風が変わった。さっきまで頬を撫でていた乾いた風ではない。上から押し潰すような、重く荒い風だった。
怪鳥が飛び降りる。
巨体が空を滑った。
翼が一度羽ばたくだけで、砂が舞い上がり、瞬のローブの裾が激しく揺れる。鋭い鉤爪が、太陽の光を受けて白く光った。あの爪で掴まれれば、人間など紙袋のように破れるだろう。
普通なら、逃げる。
全力で逃げる。
だが瞬は、顎に手を当てていた。
「これ、倒したら素材になるよな……いや、でも薬草採取の依頼で巨大鳥持って帰ったら、リナちゃん困るか? いや、びっくりして褒めてくれるか? 『シュンさん、薬草のついでに鳥さんまでぇ!?』って」
考える方向が、すべて間違っていた。
怪鳥の爪が迫る。
「おっと」
瞬は軽く横へ跳んだ。
軽く。
本人としては、ただ半歩避けただけだった。
ずどんっ!
地面が爆ぜた。
瞬の体は横方向へ矢のように飛び、十数メートル先の岩壁に足から着地した。岩肌が、めきり、と嫌な音を立てる。
「おわっ」
着地しただけで、岩壁に足跡がついた。
怪鳥の爪は、瞬が立っていた場所をえぐった。石が砕け、砂煙が上がる。地面には深い三本の溝が刻まれた。
「危ないなぁ」
瞬は岩壁から地面へ降りた。
その瞬間、足跡のついた岩肌が、少し遅れて崩れた。
がらがらがらっ。
石が落ちる。
瞬は振り返り、真顔で言った。
「老朽化かな」
違う。
完全に瞬のせいだった。
怪鳥は怒り狂っていた。
自分の一撃を避けた小さな人間。
しかも、怯えるどころか、岩山の心配をしている。
怪鳥の喉が膨らむ。
次の瞬間、口から鋭い風の塊が吐き出された。
見えない刃のような突風が、一直線に瞬へ向かってくる。進路上の小石が弾け、岩肌に細い傷が何本も走った。
「うお、風攻撃!」
瞬は目を輝かせた。
「ファンタジーっぽい!」
彼は右手を前に出した。
「じゃあ、こっちも風で返す!」
掌を軽く振った。
ばさっ。
普通なら、虫を払うような動きだった。
だが、瞬の場合は違った。
空気が丸ごと殴られたように歪んだ。
どんっ!!
瞬の手元から放たれた風圧が、怪鳥の風を正面から押し返す。それどころか、押し返した勢いのまま岩山の斜面へ突っ込み、砂と石と草をまとめて吹き飛ばした。
赤茶けた岩肌に、一直線の傷が刻まれる。
斜面の草がごっそり倒れた。
その中に、淡い緑色の葉が揺れていた。
白い葉脈。
細長い葉。
ほのかに甘い香り。
瞬は目を見開いた。
「あっ、薬草!」
戦闘中である。
怪鳥はまだ空にいる。
だが、瞬の意識は一瞬で薬草へ移った。
「リナちゃんが言ってたやつ、これだ!」
彼は斜面へ向かって走った。
ざり、ざり、という石を踏む音が、すぐに、どどどどどっ、という地鳴りのような音へ変わる。岩山の斜面を、瞬はほぼ垂直に駆け上がった。足が岩を蹴るたび、石片が後ろへ飛び、砂煙が尾を引く。
怪鳥が追いかけてくる。
黒い影が上空を覆い、翼の風が斜面を叩いた。細い草が根元から震え、岩の隙間の砂が吹き上がる。
瞬は薬草の前で急停止した。
急停止したつもりだった。
斜面に二本の深い溝が走った。
「えっと、根っこは残す。根っこは残す……」
彼はしゃがみ込んだ。
薬草の葉を慎重につまむ。
本当に慎重だった。
指先だけで、そっと。
ぷち。
一本、綺麗に採れた。
「おお!」
瞬は感動した。
「できた! 俺、繊細!」
その背後で、怪鳥が嘴を開いて突っ込んできた。
「ギャアアアアッ!」
「うわ、今いいところ!」
瞬は薬草を左手に持ったまま、右手を後ろへ振った。
追い払うつもりだった。
蚊を払うくらいの気持ちだった。
ばこんっ。
瞬の手の甲が、怪鳥の嘴に当たった。
次の瞬間、怪鳥の巨体が空中で一回転した。
「ギャッ!?」
巨大な翼がばたつき、羽が空へ散る。怪鳥は崖の上へ吹っ飛び、そこに生えていた枯れ木を何本も巻き込みながら転がった。
どがががががっ。
岩山が震える。
細かな石が雨のように落ちてくる。
瞬は薬草を両手で守りながら、顔を上げた。
「あ、やばい。やりすぎた?」
怪鳥は崖の上で目を回していた。
生きてはいる。
だが、完全に戦う気をなくしていた。
その姿を見て、瞬は少し安心する。
「よかった。殺してない。俺、優しい」
空の支配者を平手で気絶寸前にした男の言葉としては、相当ずれていた。
瞬は薬草採取に戻った。
一本。
二本。
三本。
十束必要だ。
彼は真剣だった。
リナに言われた通り、根は残す。葉だけを採る。採りすぎない。必要な分だけ。
……のはずだった。
だが、問題があった。
瞬の「束」の感覚が、かなり大きかった。
彼は両腕いっぱいに薬草を抱えた。
「一束」
山ほどあった。
さらに抱える。
「二束」
もう背丈を越えた。
十束を集め終えた頃には、瞬の前には小さな草の山ができていた。薬草だけで、荷車一台分はある。
瞬は満足げに頷いた。
「完璧」
完璧ではない。
だが、根は残っていた。
斜面の上部だけが、妙に丸坊主になっているだけだった。
その時、崖の上で怪鳥がよろよろと立ち上がった。
黄色い目が瞬を見る。
先ほどまでの怒りはない。
あるのは、恐怖だった。
怪鳥は、そっと翼を広げた。
逃げようとしている。
瞬は手を振った。
「じゃあな、でっかい鳩! 次から人を襲うなよ!」
怪鳥はびくっと震えた。
そして、全力で飛び去った。
翼が風を起こし、黒い羽が何枚か空から落ちてくる。巨大な影はみるみる小さくなり、青空の向こうへ消えていった。
岩山に静けさが戻る。
風が吹いた。
ひゅうう、と岩の隙間が鳴る。
先ほどまで怪鳥の叫びが反響していた場所に、今は薬草の甘い香りと、崩れた岩の乾いた匂いだけが漂っていた。
瞬は薬草の山を背負おうとした。
だが、山が大きすぎる。
「うーん」
彼は周囲を見回した。
ちょうど、怪鳥が落としていった巨大な羽があった。黒く硬い羽。一本だけで、板のような大きさがある。
「これ、そりにできるな」
発想は悪くなかった。
瞬は薬草を羽の上に積み、蔓のような草で適当に縛った。
そして、その巨大な羽そりを片手で引きながら、岩山を下り始めた。
ずざざざざざざざっ。
薬草満載の羽そりが、斜面を削りながら進む。
岩山の下には、一本の新しい道ができた。
瞬は満足そうに笑った。
「これで帰ったら、リナちゃん絶対喜ぶぞ」
その頃、王都のギルドでは。
老冒険者が、窓の外を見ていた。
西の空。
さえずりの岩山の方角から、黒い巨大な影が一羽、ものすごい勢いで逃げていくのが見えた。
その怪鳥は、普段なら人間を見下ろす空の王だった。
しかし今は、明らかに何かから逃げていた。
羽を乱し、時々後ろを振り返りながら、必死に遠くへ飛んでいく。
老冒険者の顔から、血の気が引いた。
「……おい」
彼の声が震えた。
「まさか、あいつ……」
ギルド内が静まり返る。
その沈黙は、昨日の水晶爆散の前とよく似ていた。
重く、嫌な予感だけが満ちている沈黙。
そこへ、遠くから音が聞こえてきた。
ずざざざざざざざざざざっ。
何かを引きずる音。
石畳を削る音。
そして、妙に明るい鼻歌。
「ふふふーん、薬草、薬草ー」
ギルドの扉の向こうに、影が差した。
リナがぱっと顔を輝かせる。
「あ、シュンさん帰ってきましたねぇ!」
老冒険者は、ゆっくりと額に手を当てた。
「……今度は何を持って帰ってきたんだ」
扉の向こうで、瞬の声が響いた。
「リナちゃーん! 薬草、ちょっと多めに採ってきた!」
その直後。
応急修理したばかりの扉が、薬草満載の巨大な黒羽そりに押されて、みしみしと悲鳴を上げた。
ギルド中の人間が、同時に思った。
終わった、と。




