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詠唱? それ、気合を入れるためのおまじないですよね? ~異世界キャンピングカーでダンジョンも王国もひっくり返す~  作者: Gaku


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第7話:爆走、一目惚れのギルド ~太陽のような君に、僕は下心を隠さない~

王都の夕暮れは、まるで街そのものが大きな金貨になったように輝いていた。


 西へ傾いた太陽が、白亜の城壁を斜めから照らしている。高い壁の上に並ぶ旗は、乾いた風を受けて、ばたばたと力強く鳴っていた。赤や青に染められた布地が夕陽を吸い込み、影になり、また光を返す。その下を、荷馬車がきしみながら通り過ぎていく。


 石畳には、一日の熱がまだ残っていた。


 馬の蹄が、かっ、かっ、と硬い音を立てる。車輪が石の継ぎ目を越えるたび、ごとん、ごとん、と低く響く。通りの端では、屋台の男が焼いた肉を串に刺し、脂が炭火に落ちて、じゅう、と香ばしい煙を上げていた。風が吹くたび、その匂いに焼きたてのパンの甘い香り、革袋に入った酒の酸っぱい匂い、人々の汗と土埃の匂いが混ざって、瞬の鼻先をくすぐった。


「……すげぇ」


 佐藤瞬は、王都の大通りの真ん中で立ち止まっていた。


 正確には、立ち止まりすぎて後ろの荷馬車に軽く怒鳴られていた。


「おい兄ちゃん! 道の真ん中で口開けて突っ立つな!」


「あ、すみません!」


 瞬は慌てて横へ避けた。


 横へ避けただけだった。


 だが、足元の石畳が、みし、と嫌な音を立てた。


「……」


 瞬はそっと自分の足元を見下ろした。


 石畳に、薄くひびが入っていた。


 彼は何事もなかったように片足でそのひびを隠した。


「歴史ある街って、床も繊細なんだな」


 違う。


 完全に瞬のせいだった。


 だが、彼の頭の中ではすでに、この王都は「自分のために用意された異世界冒険の舞台」として処理されている。すれ違う人々の声も、屋台の匂いも、城壁の輝きも、すべてが胸を高鳴らせる合図だった。


 あの四畳半の部屋とは違う。


 埃っぽい布団もない。


 酸っぱくなったカップ麺の匂いもない。


 天井の隅に張りついた蜘蛛の巣もない。


 ここには、風がある。


 光がある。


 人の声がある。


 そして何より――。


「ギルドがある」


 瞬は、通りの先に掲げられた看板を見つめた。


 剣と盾を交差させた、重厚な木の看板。


 その下には、大きな建物があった。石造りの一階部分に、黒く使い込まれた木の柱。分厚い扉には無数の傷が刻まれ、まるでこれまで押し開けてきた冒険者たちの荒々しさを全部吸い込んできたようだった。


 扉の隙間からは、ざわめきが漏れている。


 男たちの笑い声。


 ジョッキをぶつける音。


 誰かが机を叩く音。


 肉を焼く匂いと、酒の匂いと、革鎧に染みついた獣の匂い。


 瞬の胸が、どん、と鳴った。


「来た……」


 彼は拳を握った。


「ついに来たぞ、冒険者ギルド……!」


 その声は、小さく震えていた。


 感動で。


 期待で。


 そして、頭の中で勝手に再生されている受付嬢との出会いの場面で。


 瞬の脳内ではすでに、彼が扉を開けると同時に、金髪美少女受付嬢が「まあ、なんて素敵な新人さん!」と目を輝かせ、周囲の冒険者たちが「ただ者じゃねぇ」とざわつき、なぜか吟遊詩人が背後で演奏を始めるところまで完成していた。


 現実は、だいたいそううまくいかない。


 だが今の瞬は、現実を自分に都合よく曲げる力にだけは、誰にも負けなかった。


 彼は深く息を吸った。


 夕暮れの風が、頬を撫でる。通りの端に生えた細い草が、石畳の隙間でかすかに揺れていた。人々の靴音が、背後から前へ、前から背後へ、絶え間なく流れていく。


 その流れの中で、瞬だけが大げさに構えた。


「よし」


 そして、扉に手をかけた。


 押す。


 本人としては、普通に押した。


 ほんの少し、気合いを入れただけだった。


 ばああああああああんっ!!


 扉は開いた。


 開いたというより、壁に全力で逃げ込んだ。


 蝶番がぎゃん、と悲鳴を上げ、左右の扉が内側の壁へ叩きつけられる。衝撃でギルド内の空気が一気に押し込まれ、突風となって奥へ走った。テーブルの上の紙が舞い上がり、誰かの帽子が飛び、ジョッキの泡が横へ流れた。


 一瞬で、ギルドの中が静まり返った。


 さっきまで笑っていた冒険者たちが、口を開けたまま固まっている。肉をくわえた男の顎が止まり、カードを配っていた女の手が宙で止まり、奥で皿を洗っていた職員まで、濡れた皿を持ったまま振り返っていた。


 沈黙。


 それは、ただ音がないだけではなかった。


 誰もが呼吸を忘れたような、厚みのある静けさだった。舞い上がった埃だけが、夕陽の光を浴びながら、きらきらと空中を漂っている。壊れた扉の金具が、からん、と床に落ちた音だけが、やけにはっきり響いた。


 その中心で、瞬は満面の笑みを浮かべた。


「新規登録、お願いしまっす!」


 元気だけは、百点満点だった。


 返事はなかった。


 冒険者たちは固まったままだった。


 強面の男が、壊れた扉を見る。


 瞬を見る。


 もう一度、扉を見る。


「……扉、死んだぞ」


 誰かがぽつりと呟いた。


 瞬は振り返り、扉を見た。


 左右の扉は壁にめり込み、片方は少し斜めになっていた。蝶番は半分外れ、木の破片が床に散っている。


「……王都の扉って、意外と開放的なんですね」


「壊したんだよ!」


 ギルドのあちこちから、同時に怒号が飛んだ。


 瞬は反射的に頭を下げた。


「すみません! 力加減がまだ王都仕様じゃなくて!」


「王都仕様って何だ!」


「森仕様なら扉ごと建物が消えてたかもしれないので、成長はしてます!」


「成長の方向が怖い!」


 ざわめきが戻ってくる。


 ただし、それは歓迎ではなかった。


 困惑。


 警戒。


 少しの恐怖。


 そして、目の前に現れた男が頭のおかしい新人なのか、本当に危険な何かなのかを測りかねている、微妙な空気。


 だが瞬には、その空気がこう変換されていた。


(注目されてる……!)


 彼の顔が、さらに明るくなった。


 その時。


「わぁぁぁぁぁ! すごい登場ですねぇぇぇ!」


 ギルドの奥から、底抜けに明るい声が響いた。


 瞬の視線が吸い寄せられた。


 カウンターの向こうに、少女がいた。


 金色の髪が、夕陽を受けて蜂蜜のように輝いている。左右の高い位置で結ばれた髪が、彼女が身を乗り出すたびに、ぴょん、と元気よく跳ねた。大きな瞳は、若葉をそのまま閉じ込めたような緑色で、光を受けるたびにきらきらと揺れる。


 頬は明るく、笑顔は大きく、声はやたらと高い。


 彼女の周囲だけ、ギルドの酒臭い空気が一瞬で春になったように見えた。


 少なくとも、瞬にはそう見えた。


「……」


 瞬の時間が止まった。


 床に散った木片。


 呆然とする冒険者たち。


 壊れた扉。


 空中に漂う埃。


 全部が背景になった。


 彼の視界には、受付嬢の笑顔しか映っていなかった。


(いた)


 瞬の心臓が、どくん、と跳ねた。


(俺の異世界、いた)


 意味はわからない。


 だが、本人の中ではそれで十分だった。


 受付嬢はぱたぱたと手を振りながら言った。


「いらっしゃいませぇ! 冒険者登録ですねぇ? でもその前に、扉、大丈夫ですかぁ? 扉さん、完全に横になりたそうですけどぉ!」


 瞬は、きりっとした顔を作った。


 作ったつもりだった。


 実際には、鼻の下が少し伸びていた。


「扉より、君の無事が大事だ」


 ギルド内に、別の沈黙が落ちた。


 先ほどの破壊による沈黙ではない。


 何か見てはいけないものを見た時の沈黙だった。


 受付嬢だけが、ぱちぱちと目を瞬かせた。


「わぁ! 急に詩みたいなこと言いますねぇ! 頭を打ちましたかぁ?」


「実は、少し前に机の角で」


「本当に打ってましたぁ!」


 彼女はけらけら笑った。


 その笑い声は、鈴というより、勢いよく振った鈴を十個まとめて落としたような賑やかさだった。


 瞬は胸を押さえた。


(俺の過去まで受け入れてくれた……)


 受け入れてはいない。


 ただ反応しただけだった。


「私は受付のリナですぅ! 冒険者登録をご希望ですねぇ?」


「はい。瞬です。佐藤瞬」


「シュンさん! 変わった響きですねぇ! 異国の方ですかぁ?」


「まあ、遠いところから来ました」


「どのくらい遠いんですかぁ?」


 瞬は少し考えた。


「机の角を経由するくらいです」


「すごく近そうで、すごく遠そうですねぇ!」


 リナは納得したのかしていないのかわからない顔で、カウンターの下から羊皮紙を取り出した。


「では、こちらにお名前を書いてくださぁい。文字は書けますかぁ?」


「任せてください」


 瞬は羽ペンを受け取った。


 羊皮紙に向かう。


 不思議なことに、この世界の文字は読めた。書けた。理由はわからない。だが、瞬は深く考えなかった。


(異世界補正、便利すぎる)


 彼はさらさらと名前を書く。


 ただし、力が入りすぎた。


 羽ペンの先が、羊皮紙を突き破り、下の木製カウンターにまで細い溝を刻んだ。


「……」


 瞬はそっと羽ペンを持ち上げた。


 羊皮紙には名前が書かれていた。


 そして、カウンターには名前が彫られていた。


 リナが目を丸くする。


「わぁ! 署名が二層構造ですぅ!」


「記念性を重視しました」


「ギルド備品を彫刻しないでくださぁい!」


 奥の職員が叫んだ。


 瞬はまた頭を下げた。


「すみません! でも、一生忘れない登録になったかと!」


「忘れたいです!」


 リナは笑いながら、羊皮紙を確認した。


「はい、シュンさんですねぇ。では次に、登録料の銀貨一枚と、簡単な実力確認を行いますぅ」


「実力確認」


 瞬の目が輝いた。


 来た。


 ついに来た。


 異世界ギルド名物、能力測定。


 ここで強すぎる力を見せて、周囲がどよめき、リナが目を潤ませ、「シュンさん、すごいですぅ!」と言うに違いない。


 瞬の頭の中では、すでに拍手が鳴っていた。


 リナはカウンターの下から、両手で水晶玉を取り出した。


 それは、夕陽を受けて淡く光っていた。透明な球の内側には、霧のような白い筋がゆっくり流れている。表面は磨き上げられ、ギルドの天井や冒険者たちの顔が丸く歪んで映っていた。


 周囲の冒険者たちが、少しずつ近づいてくる。


 新人の測定は、彼らにとって格好の見物だった。


 誰かが小声で言う。


「さっき扉壊したやつだろ」


「筋力だけなら上位かもな」


「いや、あれは筋力っていうか災害だろ」


「水晶、大丈夫か?」


 その最後の一言に、リナがにこっと笑った。


「大丈夫ですぅ! これは王都ギルドでも上級品の測定水晶ですからぁ! ちょっとやそっとじゃ壊れませんよぉ!」


 瞬は胸を張った。


「安心してください。軽くやります」


 ギルド内の数人が、同時に冷や汗をかいた。


 彼らは知らない。


 この男の「軽く」は、扉を壁に埋める。


 この男の「ちょっと」は、街道を耕す。


 この男の「軽い気持ち」は、後に王都の修繕予算を震え上がらせる。


 リナは水晶を台座に置いた。


「では、この水晶に手を乗せて、少しだけ力を流してくださいねぇ。本当に少しで大丈夫ですぅ」


「少し。了解」


 瞬は右手を水晶へ伸ばした。


 指先が触れる直前、ギルド内の空気が妙に張り詰めた。


 誰も喋らない。


 酒場の奥で鳴っていた笑い声も止まった。


 外の通りから聞こえていた馬車の音さえ、遠くなった気がした。


 水晶の表面に、瞬の指先が触れる。


 冷たい感触。


 透明な球の奥で、白い霧がゆっくりと揺れた。


(軽く。軽くだ。リナちゃんの前で、紳士的に、爽やかに、でもちょっとすごい感じで)


 瞬は、ほんの少しだけ力を込めた。


 ほんの少しだけ。


 本人の感覚では。


 水晶の奥に、光が灯った。


 最初は、小さな点だった。


 それが、すぐに大きくなる。


 白。


 青。


 赤。


 金。


 緑。


 紫。


 色が次々に弾け、水晶の内側で渦を巻く。


「お……?」


 誰かが声を漏らした。


 水晶が震え始めた。


 台座が、かたかたと鳴る。


 カウンターの上の紙が浮き、リナの金髪のツインテールが、見えない風に持ち上がった。


「シュ、シュンさん? その、もう少し弱めても――」


「え? これでも弱めてますけど」


 その瞬間、水晶が太陽になった。


水晶が太陽になった。


 比喩ではなかった。


 カウンターの上に、真昼そのものを丸めて置いたような光が生まれた。白い閃光がギルドの隅々まで走り、壁に貼られた依頼書の文字も、古びた木目も、冒険者たちの開いた口も、すべてが一瞬で色を失った。


「うおっ!?」


「目が! 俺の目が朝日を直視したみたいに!」


「昼か!? 今、昼になったのか!?」


 悲鳴が飛び交う。


 ジョッキを持っていた男は、眩しさにのけぞって酒を鼻から吸い込み、隣の女冒険者は咄嗟に盾を構えた。だが、盾の表面に反射した光がさらに別方向へ跳ね、奥で寝ていた酔っぱらいの顔面を直撃した。


「ぐあああ! 夢の中まで明るい!」


 瞬は水晶に手を置いたまま、目を細めていた。


「おお……綺麗だな」


「綺麗で済ませていい明るさじゃねぇ!」


 誰かが叫んだ。


 その時、水晶の奥で、ぱきり、と小さな音がした。


 誰もが聞いた。


 騒ぎの中でも、その音だけは異様にはっきり響いた。真冬の薄氷に最初のひびが入るような、嫌な音だった。


 リナの笑顔が、ほんの一瞬だけ固まった。


「あ」


 水晶の表面に、細い亀裂が走った。


 一本。


 二本。


 三本。


 それは蜘蛛の巣のように広がり、透明な球体の内部で暴れる光が、ひびの隙間から細い刃のように漏れ始める。


 ギルド内の空気が、ぴんと張り詰めた。


 誰も動けなかった。


 床板が低く鳴る。


 カウンターの上の書類が浮き上がる。


 リナの金髪が、見えない風を受けてふわりと広がる。


 瞬は、ようやく少しだけ不安そうな顔になった。


「……これ、もしかして、まずい?」


「今それを聞きますかぁぁぁ!?」


 リナの声が裏返った。


 次の瞬間。


 ぱああああああんっ!!


 水晶が弾けた。


 ただ割れたのではない。


 砕けた。


 粉々に。


 いや、粉よりも細かく、光そのものが破片になったように、きらきらとした粒になって空中へ散った。


 その瞬間、ギルド内に白銀の雪が降った。


 水晶の粉が夕陽を受け、舞い、回り、冒険者たちの髪や肩に降り積もる。酒臭いギルドの空気が、一瞬だけ幻想的な光に満たされた。


 だが、幻想だけでは終わらなかった。


 水晶に入りきらなかった力が、天井へ向かった。


 ごんっ。


 低い音。


 次に、めきめきめきっ、という木材が悲鳴を上げる音。


 そして。


 ずがあああああんっ!!


 天井の一部が吹き飛んだ。


 屋根板が空へ跳ね上がり、瓦礫が外へ舞い、丸く開いた穴から夕暮れの空が顔を出す。赤く染まった雲が、まるで何事もなかったかのようにゆっくり流れていた。


 風が吹き込んできた。


 屋根に空いた穴から、ひゅう、と冷たい風が降りてくる。その風に乗って、外の草の匂い、馬車の土埃、遠くの屋台の焼き肉の匂いが混ざった。


 ギルド内は、完全に沈黙した。


 さっきまでの怒号も悲鳴も消えている。


 聞こえるのは、水晶の粉が床へ落ちる、さらさらという微かな音だけだった。


 その静けさは、底なし沼のように重かった。


 誰かが息を呑む音さえ、大きく聞こえる。


 瞬はゆっくりと手を離した。


 カウンターの上には、台座だけが残っていた。


 水晶はない。


 あるのは、きらきらと光る粉と、煙のように漂う魔力の名残と、修繕費という名の現実だけだった。


「……」


 瞬は台座を見た。


 天井の穴を見た。


 リナを見た。


 そして、非常に気まずそうに笑った。


「安物……だったりします?」


 奥から、低い声が飛んだ。


「王都ギルド最高級品だよ!」


 ギルド職員の一人が、頭を抱えていた。


「三年分の備品予算を使って買ったんだぞ!」


「三年分……」


 瞬の額に、じわりと冷や汗が浮いた。


 背中にも、冷たい汗が伝う。


 異世界に来てから初めて感じる、敵意ではない怖さ。


 それは請求書の気配だった。


「えっと……分割払いとか」


「冒険者登録前から借金を背負う新人がどこにいる!」


「ここに……」


「名乗るな!」


 冒険者たちがざわつき始めた。


「やばいぞ、あいつ」


「水晶を粉にした」


「屋根まで抜いたぞ」


「でも、顔は完全に悪気なかったぞ」


「悪気なく屋根を飛ばすのが一番怖いんだよ」


 瞬は居心地悪そうに頬をかいた。


 木の粉と水晶の粒が、指先にくっついた。


 その時。


 ぱち、ぱち、ぱち。


 拍手の音がした。


 全員が振り返る。


 リナだった。


 彼女は水晶の粉を頭から浴びて、全身をきらきら光らせていた。金髪には細かな粒が散り、緑の瞳は先ほどの閃光よりも明るく輝いている。


「すごぉぉぉぉい!!」


 リナは両手を胸の前で握りしめた。


「水晶って、こんなふうに弾けるんですねぇ! 花火みたいでしたぁ! しかも屋根まで開いて、空が見えますぅ! 換気ばっちりですねぇ!」


 ギルド中の視線が、リナへ集まった。


 この子は本気で言っている。


 誰もが同時に理解した。


 瞬は、心を撃ち抜かれた。


(天使だ)


 修繕費の恐怖が、一瞬で吹き飛んだ。


(いや、女神だ。いや、この世界、神いるか知らないけど、とにかく光だ)


 リナは笑顔のまま、壊れた台座を指差した。


「測定結果は、ええっと……測定不能ですぅ!」


「測定不能!」


 瞬はその言葉に胸を張った。


 意味は危険である。


 だが響きは格好いい。


「つまり、すごいってことですか?」


「はいぃ! 少なくとも、普通じゃないですぅ!」


「普通じゃない……」


 瞬は噛みしめるように呟いた。


 日本の四畳半では、普通以下だった。


 誰からも見られず、期待されず、部屋の隅に積もる埃みたいに過ごしていた。


 それが今、普通ではないと言われている。


 しかも、目の前の明るすぎる受付嬢に。


 それだけで、胸の奥が熱くなった。


「リナちゃん」


「はいぃ?」


「俺、この世界で頑張るよ」


「わぁ! 急にやる気ですねぇ!」


「君のために」


「私のためですかぁ?」


 リナは小首をかしげた。


 ツインテールがふわりと揺れる。


 瞬の心臓が、また変な音を立てた。


「もちろん」


 彼は真剣な顔で言った。


「君が望むなら、俺は月だって引き寄せる」


 ギルド内の空気が凍った。


 冒険者の一人が真顔で呟く。


「やめろ。絶対にやめろ」


 別の者も言う。


「月に迷惑をかけるな」


 リナだけが、けらけら笑った。


「月はそのままで大丈夫ですぅ! まずは依頼をちゃんとこなしてくださいねぇ!」


 彼女はカウンターの下から、別の書類を取り出した。


「登録は完了ですぅ。ランクは……うーん、水晶がなくなっちゃったので、とりあえず仮登録ということで!」


「仮登録」


「はいぃ! 正式な細かい判定はできませんでしたけど、シュンさんは危ないくらいすごい人なので、最初は簡単な依頼からお願いしますぅ」


「危ないくらいすごい」


 瞬はまたその言葉を気に入った。


 危ない、という部分を都合よく聞き流し、すごい、だけを胸にしまった。


「明日の朝、初心者向けの依頼を用意しておきますねぇ」


「初心者向け。いいですね」


「薬草採取ですぅ!」


 瞬は固まった。


「薬草……採取」


「はいぃ! 街の外にある草原で、ヒール草という薬草を摘んできてもらうだけですぅ。初心者さんの基本ですからぁ」


 瞬の頭の中で、少しだけ何かがしぼんだ。


 もっとこう、竜退治とか。


 盗賊団壊滅とか。


 古代遺跡で眠る聖剣とか。


 そういう派手なものを想像していた。


 だが、リナが笑っている。


 それだけで、薬草も急に尊いものに思えてきた。


「任せてください。俺が草を救います」


「草は救わなくて大丈夫ですぅ。摘んできてくださぁい」


「一本残らず?」


「必要数だけでお願いしますぅ!」


 奥の老冒険者が、ぼそりと言った。


「……こいつ、草原を丸ごと持ってきそうだな」


 その言葉に、周囲の何人かが真剣な顔で頷いた。


 リナは書類に何かを書き込みながら、ふと思い出したように顔を上げる。


「あ、場所は西のさえずりの岩山の近くですぅ。ちょっと変な鳥が出るって噂もありますけど、シュンさんなら大丈夫ですよねぇ?」


「鳥?」


 瞬は目を輝かせた。


「焼き鳥ですか?」


「たぶん違いますぅ!」


 その瞬間、ギルドの奥で、老冒険者の顔色が変わった。


「おい、待て。さえずりの岩山だと?」


 酒で赤かった顔が、急に青ざめている。


「あそこに出る鳥ってのは、まさか……」


 老冒険者の言葉を遮るように、屋根の穴から風が吹き込んだ。


 ひゅうう、と細い音を立てて、夕暮れの冷たい空気がギルド内へ落ちてくる。水晶の粉が床の上でわずかに舞い、赤い光を受けてちらちら光った。


 瞬は、老冒険者の不安などまったく気づいていない。


 リナも、にこにこと書類を整えている。


「では、明日の朝から初依頼ですねぇ! 頑張ってください、シュンさん!」


 リナの笑顔。


 その一言。


 瞬の中で、世界はまた都合よく輝いた。


「ああ」


 彼は胸を張った。


「君の期待に応えてみせる」


「はいぃ! あと、扉と屋根の修理代もいつか応えてくださいねぇ!」


「……はい」


 そこだけは、少し声が小さくなった。


 ギルドの外では、夜が近づいていた。


 王都の大通りにはランタンが灯り始め、石畳に橙色の光が丸く落ちている。風が路地を抜け、建物の隙間に生えた細い草を揺らした。遠くで馬車の車輪が軋み、誰かの笑い声が夜の空気に溶けていく。


 瞬はギルドの入り口に立った。


 壊れた扉は、職員たちが必死に壁から引き剥がそうとしている。ぎしぎし、ばき、と不穏な音が鳴るたび、瞬はそっと視線を逸らした。


 空を見上げる。


 屋根に空いた穴からではなく、ちゃんと外の空を。


 夕焼けの名残が、雲の端を赤く染めていた。もうすぐ夜になる。王都のどこかには、今も人々の明かりがあり、温かい食事があり、誰かの帰る場所がある。


 その同じ街の暗がりに、布で顔を隠した少女がひとりいることを、瞬はまだ知らない。


 自分が追いかけている明るい物語のすぐ隣で、誰かが声もなく震えていることを、まだ知らない。


 今の彼が見ているのは、リナの笑顔と、明日の初依頼と、これから始まる自分の冒険だけだった。


「薬草採取か」


 瞬は拳を握った。


「完璧にこなして、リナちゃんに褒めてもらう」


 目的は純粋だった。


 純粋すぎて、少し危なかった。


 彼は軽い足取りで、夜の王都へ歩き出す。


 こつ。


 こつ。


 石畳を踏む靴音が、夕暮れの余韻の中に響く。


 その一歩ごとに、ほんのわずかに石が沈む。


 本人だけが、それに気づいていない。


 背後のギルドでは、老冒険者が屋根の穴から見える赤い空を見上げ、低く呟いた。


「……さえずりの岩山の怪鳥に、あいつを行かせるのか」


 誰も答えなかった。


 ただ、風だけが穴から吹き込み、水晶の粉をさらさらと床の上に滑らせていく。


 その音は、静かな警告のようだった。

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