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詠唱? それ、気合を入れるためのおまじないですよね? ~異世界キャンピングカーでダンジョンも王国もひっくり返す~  作者: Gaku


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第6話:覚醒と、石頭の奇跡 ~異世界転生は、机の角から始まる~

その男が王都で「英雄」と呼ばれるようになる、少し前。


 彼はまだ、英雄どころか、自分の部屋の片づけすら救えない男だった。


 日本の、とある地方都市。


 駅前から少し外れた、古い住宅街の一角に、そのアパートはあった。築年数だけなら、もはや建物そのものが人生の後半戦に突入しているような木造二階建て。外壁は雨風でくすみ、階段の鉄柵には赤茶けた錆が浮き、誰かが踏むたびに、きい、きい、と細い悲鳴を上げた。


 その二階の端。


 四畳半の部屋に、瞬はいた。


 窓には遮光カーテンが半端に閉められている。西日がその隙間から鋭く差し込み、薄暗い部屋の中に一本だけ、金色の刃のような光を落としていた。その光の中で、埃がゆっくりと漂っている。動きのない空気の中、埃だけが生き物のように浮かび、回り、沈んでいく。


 床には読みかけの文庫本が積まれていた。


 いや、積まれているというより、崩れかけた城壁だった。勇者、魔王、聖女、追放、最強、無双。背表紙の文字だけなら、ここはもう立派な異世界観光案内所である。


 机の上には、食べ終わったカップ麺の容器が二つ。中途半端に残ったスープが、夏の終わりの沼のような色で沈んでいる。酸っぱくなりかけた匂いが、古本の紙の匂い、湿った布団の匂い、そして何日も換気されていない部屋特有の重たい生活臭と混ざり合い、空気そのものを少し粘つかせていた。


 外では、遠くを走る車の音がしていた。


 ぶうん、と低く過ぎ去り、また静かになる。


 その静けさの中、瞬は薄い煎餅布団の上で寝転がり、文庫本を顔の前に掲げていた。


「……いいよなぁ」


 ぽつりと漏れた声は、天井に吸われた。


 ページの中では、少年が異世界へ召喚されていた。剣を握れば光が走り、魔法を唱えれば空が割れ、なぜか周囲の美少女たちは全員、彼の一挙手一投足に頬を赤らめている。


 瞬はその挿絵を、じっと見つめた。


 見つめすぎて、紙の向こうに穴が開きそうだった。


「俺にも来いよ、こういう展開……」


 彼は文庫本を胸の上に落とし、天井を見上げた。


 天井の隅には、蜘蛛の巣があった。小さな羽虫の死骸が一つ引っかかっている。そこに西日の端が当たり、銀色の糸がぼんやり光っていた。


 その光景を見て、瞬は妙に真剣な顔になった。


「トラック、突っ込んでこないかなぁ」


 木造アパート二階の四畳半で言う願望としては、かなり無茶だった。


 そもそも、ここまでトラックが突っ込んでくるには、まず細い路地を突破し、隣家の塀を破壊し、階段を登り、大家さんの鉢植えを全滅させた上で、正確にこの部屋を狙う必要がある。


 もはや事故ではない。


 職人技である。


 しかし瞬は、そんな現実的な問題には気づかなかった。


 彼にあるのは、ただ一つ。


 ここではないどこかへ行きたい。


 何者でもない自分が、何者かになれる場所へ行きたい。


 努力も、資格も、面倒な人間関係も飛び越えて、目を覚ました瞬間に全部が変わっていてほしい。


 そういう、どうしようもなく甘く、都合がよく、そして本人にとっては切実な願いだった。


「あー……異世界行きてぇ……」


 その声は、ひどく情けなかった。


 だが、本人は本気だった。


 瞬は再び本を開こうとした。


 その時だった。


 まぶたの奥に、急に鉛を流し込まれたような眠気が落ちてきた。


「ん……?」


 文字が揺れる。


 勇者の台詞が二重になる。


 挿絵の美少女が、なぜか三人に増える。


「お、これは……もしかして……召喚前の……眠気……?」


 そんな都合のいい解釈を口にした瞬の頭が、ぐらりと前へ倒れた。


 目の前には、安物の勉強机。


 その角。


 長年使い込まれて、表面の化粧板が少し剥がれ、しかし角だけは妙に硬く鋭く残っている、四畳半最強の凶器。


 瞬の額は、そこへ吸い込まれるように落ちていった。


 ごちんっ。


 音は、思ったより地味だった。


 だが、衝撃は地味ではなかった。


「いっっっっってぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!」


 瞬は跳ねた。


 布団の上で魚のように跳ねた。


 額を押さえ、足をばたつかせ、積み上げていた文庫本の山に踵をぶつけ、勇者と魔王と聖女が一斉に床へ崩れ落ちた。


「角! 机の角! お前、そんな殺意持ってたのかよ!」


 涙目で叫ぶ。


 だが、次の瞬間、世界がぐにゃりと歪んだ。


 部屋の輪郭が波打つ。


 西日の線が伸び、埃の粒が星のように滲み、カップ麺の容器さえ神々しい円盤に見えた。


「あれ……?」


 瞬の視界が白くなっていく。


 痛みが遠ざかる。


 部屋の匂いも、床の冷たさも、天井の蜘蛛の巣も、すべてが薄い膜の向こうへ離れていく。


(え、まさか)


 意識が沈む直前、瞬は思った。


(俺の異世界行き、トラックじゃなくて机の角なの……?)


 あまりにも締まらない。


 あまりにも情けない。


 だが、人生の転機というものは、案外そんなものなのかもしれない。


 次に瞬が感じたのは、土の匂いだった。


 湿っている。


 濃い。


 鼻の奥に、緑がそのまま入り込んでくるような匂い。


 雨上がりの森の土。


 踏み潰された若草。


 樹皮の湿り気。


 遠くで熟れた果実が落ち、甘く発酵しかけたような匂い。


 それらが一度に肺の中へ流れ込み、瞬は思わず大きく息を吸った。


「……うわ」


 目を開けた。


 緑だった。


 視界いっぱいに、緑があった。


 頭上には、見たこともないほど巨大な木々が枝を広げている。幹は太く、大人が何人も手をつないで、ようやく囲めるほどだった。枝葉は幾重にも重なり、その隙間からこぼれる陽光が、細かい金色の粒になって降っている。


 葉が風に揺れるたび、光も揺れた。


 明るい緑。


 深い緑。


 水を含んだような黒に近い緑。


 そのすべてが重なり、動き、きらめいていた。


 足元には苔が広がっている。水を含んだ柔らかな苔の上で、小さな花がいくつも咲いていた。青、橙、紫、見たことのない色。花びらの縁には露がつき、光を受けて細かく震えている。


 遠くで鳥が鳴いた。


 一羽ではない。


 高い声、低い声、笛のような声、笑っているような声。それらが木々の奥で重なり、森全体が息をしているようだった。


 風が抜ける。


 ざわわわわ……。


 葉が擦れ、枝が鳴り、草が倒れ、また起き上がる。


 瞬は、ゆっくりと上体を起こした。


 体が軽い。


 異様なほど軽い。


 昨日まで肩にへばりついていた重さがない。腰のだるさも、目の奥の疲れも、布団で寝すぎた時の嫌な痛みもない。指を曲げるだけで、全身に油を差したばかりの機械のような滑らかさが走った。


「……ここ、どこだ?」


 答える者はいない。


 だが、瞬の顔は少しずつ笑みに変わっていった。


 知らない森。


 異常に軽い体。


 机の角で意識を失った直後。


 そして、目覚めた先に広がる、明らかに日本ではない景色。


 瞬の頭の中で、長年読み込んできた物語の知識が、鐘を鳴らした。


 これは。


 来た。


 ついに来た。


「……勝った」


 瞬は、まだ何にも勝っていないのに、勝利を確信した。


 ゆっくりと立ち上がる。


 右手を握る。


 その瞬間、掌の中で空気がぎゅっと潰れたような感覚があった。


「お?」


 指先に力を込める。


 ぱき。


 小さな音がした。


 見ると、握っていたわけでもない近くの小枝が、なぜか圧に負けたように折れていた。


 瞬は目を輝かせた。


「はいはいはいはい。そういうことね。能力ありね。特典ありね。完全に理解した」


 理解していなかった。


 だが、彼の中では理解したことになった。


 瞬は足元の小石を拾った。


 何の変哲もない、親指の先ほどの石である。表面には湿った土がつき、森の光を受けて鈍く光っている。


 少し離れた場所に、大きな岩があった。


 苔に覆われた、家ほどもある岩だった。長い時間そこにあり続けたのだろう。根が絡み、草が生え、小さな虫が表面を歩いている。


 瞬は肩を回した。


「まあ、まずは軽くテストだな」


 水切りでもするような気軽さで、彼は小石を投げた。


「とりゃ」


 次の瞬間。


 世界が爆発した。


 どごおおおおおおおおおんっ!


 小石が空気を裂いた。


 いや、裂くどころではなかった。通り道の空気が白く濁り、見えない壁をぶち破ったような衝撃波が左右へ広がった。足元の草が一斉に倒れ、花びらが吹き飛び、木々の葉が裏返る。


 小石は赤い線になって大岩へ突き刺さった。


 そして、大岩は内側から弾けた。


 破片が四方へ飛び散り、苔が粉になり、鳥たちが悲鳴のような声を上げて空へ逃げる。地面が揺れた。土煙が立ちのぼり、木漏れ日を飲み込んで、森の一角が茶色い霧に包まれた。


 しばらくして、風が煙を押し流した。


 そこに岩はなかった。


 代わりに、巨大な穴が空いていた。


 黒い土が剥き出しになり、まだ細く湯気を上げている。


「……」


 瞬は穴を見た。


 自分の指先を見た。


 もう一度、穴を見た。


 そして、満面の笑みになった。


「物理法則、退職届出してるじゃん!」


 森の奥で、何かが逃げていく足音がした。


 しかし瞬は気づかない。


 彼の耳には、自分の胸の高鳴りしか聞こえていなかった。


「やばい。これ、やばいぞ。俺、マジで最強かもしれない。いや、かもしれないじゃない。たぶん最強。いや、もう最強でいいだろ」


 瞬は拳を握り、青空へ突き上げた。


 その拍子に、足元の地面がめりっと沈んだ。


「おっと」


 彼は少しだけ足を上げた。


 靴跡が、土に深く刻まれている。


 普通なら、そこで恐怖する。


 この力は危険だと。


 自分は何か取り返しのつかないものになってしまったのではないかと。


 けれど瞬の脳内に、その回路はなかった。


 彼はただ、にやりと笑った。


「始まったな」


 風が吹いた。


 森の葉が鳴り、金色の光が彼の肩に落ちる。


 異世界の大地に立つ、ひとりの男。


 世界を救う覚悟はない。


 人の痛みを知る準備もない。


 あるのは、過剰な期待と、根拠のない自信と、机の角から始まった奇跡だけ。


 その時、森の奥から、低い唸り声が響いた。


「グルルルルル……」


 瞬は振り返った。


 木々の影の中で、赤黒い巨大な何かが動いていた。


 普通の人間なら、その場で腰を抜かすほどの気配。


 だが瞬は、目を輝かせた。


「お」


 彼は笑った。


「チュートリアル戦、来たな」


 森の葉が、ざわりと震えた。


森の奥から現れたそれは、熊に似ていた。


 ただし、瞬の知っている熊ではない。


 まず、大きい。


 木々の間からのそりと姿を現したその魔獣は、肩の高さだけで瞬の二倍近くあった。赤黒い毛皮は鋼の針のように逆立ち、太い前脚が地面を踏むたびに、湿った土がぐしゃりと潰れる。爪は短剣ほども長く、口の端からは粘ついた涎が糸を引いて垂れていた。


 吐き出される息は熱く、獣臭い。


 森の青い匂いの中に、血と腐肉と泥を煮詰めたような臭気が混ざる。


 鳥たちは一斉に鳴きやんだ。


 葉擦れの音さえ、少し遠のいたように思えた。


 魔獣の黄色い目が、瞬を捉える。


 低い唸り声が、腹の底を震わせるように森へ広がった。


「グルルルルルル……」


 普通なら、足がすくむ。


 普通なら、逃げ道を探す。


 普通なら、自分が食物連鎖のどのあたりにいるのかを、魂ごと理解する。


 だが、瞬は普通ではなかった。


 というより、普通を机の角で置き忘れてきた。


「おお……!」


 瞬は目を輝かせた。


「でっか。すげぇ。完全にファンタジーの熊じゃん。序盤の森に出てくるやつじゃん。え、これ倒したら毛皮とか素材になる? ギルドで売れる? いや、その前にギルドってどこ?」


 魔獣は、瞬の反応に一瞬だけ動きを止めた。


 獲物が逃げない。


 怯えない。


 むしろ嬉しそうに近づいてくる。


 森の王として恐れられてきた魔獣にとって、それは屈辱に近い反応だった。


「グアアアアアアアアッ!」


 怒りに満ちた咆哮が、森を揺らした。


 空気がびりびりと震え、近くの花びらが衝撃で散る。木の葉についた水滴が一斉に落ち、ぱらぱらと小さな雨のように地面を叩いた。


 魔獣が前脚を振り上げる。


 丸太よりも太い腕。


 大岩を砕く爪。


 それが、瞬の頭上へ影を落とした。


「はいはい、わかった。元気なのはいいことだぞ」


 瞬は、右手を軽く上げた。


 そして、魔獣の額に向けて、中指と親指を構える。


 デコピンだった。


 世界最強の危険生物に対して、あまりにも失礼な選択だった。


「おすわり」


 ぱちん。


 乾いた音がした。


 次の瞬間、魔獣の巨体が消えた。


 いや、正確には吹き飛んだ。


 どごおおおおおおおおおんっ!


 魔獣は横方向へ砲弾のように飛び、木々を十数本まとめてへし折りながら、森の奥へ一直線に突き抜けていった。折れた幹が遅れて倒れ、地面に激突するたびに、ずしん、ずしん、と重い音が続く。


 最後に、遠くの空で何かがきらりと光った。


「……あ」


 瞬は、デコピンした指を見つめた。


 そして、魔獣が消えた方向を見る。


 森には、まっすぐな破壊の道ができていた。


 草は倒れ、木は折れ、土はえぐれ、極彩色の花々は無残に散っている。


 風が吹いた。


 壊された森の隙間を通って、妙に乾いた音が鳴った。


「……力加減、むずっ」


 瞬は真顔で呟いた。


 だが、反省は五秒で終わった。


「まあでも、初戦勝利ってことで!」


 彼は拳を握り、勝手に勝利宣言をした。


 その瞬間、腹が鳴った。


 ぐうううう。


 森の静寂に、かなりはっきり響いた。


「……異世界でも腹は減るのか」


 瞬は周囲を見回した。


 枝の間から差し込む光は、少しずつ斜めになっている。森の奥には、まだ見知らぬ鳥の声が響き、どこか近くで水が流れる音もしていた。さらさら、という細い音。小川かもしれない。


 瞬はそちらへ歩き出した。


 歩くたび、地面が少しへこむ。


 本人は気づいていない。


 草の上を踏む靴音は、普通なら柔らかく沈むはずだった。だが瞬が踏むと、みし、みし、と土の奥から悲鳴のような音が返ってくる。苔は潰れ、根は沈み、小さな虫たちが必死に逃げていった。


 やがて、森が開けた。


 そこには澄んだ小川が流れていた。


 水は透明で、底の丸石まで見える。陽光が水面で跳ね、銀色の鱗のようにちらちらと光っていた。岸辺には背の低い草が生え、風に揺れている。小さな黄色い花が、流れのそばで控えめに咲いていた。


「おお、綺麗」


 瞬はしゃがみ込み、両手で水をすくった。


 冷たい。


 手のひらから腕へ、すっと冷気が上がってくる。口に含むと、驚くほど澄んだ味がした。日本の蛇口から出る水とは違う。舌に引っかかるものがなく、体の奥までそのまま流れ込んでいくようだった。


「うまっ」


 彼は何度も水を飲んだ。


 その時、川の中を魚が泳いでいるのが見えた。


 銀色の魚。


 指先ほどではない。腕ほどの長さがある。流れの中をすばやく走り、石の影へ隠れていく。


「よし、飯だな」


 瞬は手を伸ばした。


 軽く水面を叩く。


 ばしゃん、という音ではなかった。


 どぱあああああんっ!


 川が一瞬、左右へ割れた。


 水柱が上がり、魚が十匹ほど宙へ舞った。ついでに川底の石も何個か舞った。瞬は慌てて両手を広げる。


「おっとっとっと!」


 魚が降ってくる。


 石も降ってくる。


 水も降ってくる。


 瞬はそれらを器用に避けたり受け止めたりしながら、最終的に魚を三匹だけ確保した。残りの魚は、なぜか近くの木の枝に引っかかってぴちぴち跳ねている。


「……漁、向いてるかもしれない」


 たぶん向いていない。


 瞬は魚を眺めた。


 火を起こす道具はない。


 調理器具もない。


 当然、塩もない。


 だが、彼には異世界へ来たばかりの男特有の、根拠のない万能感があった。


「まあ、焼けばいいんだよな。火……火……」


 周囲を見回す。


 倒木がある。


 乾いた枝もある。


 瞬はそれらを適当に集め、川辺に積んだ。


 そして、真剣な顔で指先を枝へ向ける。


「火よ、出ろ」


 何も起きない。


「ファイア」


 何も起きない。


「ファイヤーボール」


 何も起きない。


「炎よ、我が呼び声に応え――」


 言いかけて、瞬は急に恥ずかしくなった。


「いや、誰も見てなくてよかったわ」


 彼は耳まで赤くなりながら、枝を二本拾った。


「原始的にいこう」


 枝をこすり合わせる。


 軽く。


 本人としては、軽く。


 次の瞬間、摩擦熱どころではないものが発生した。


 ぼっ。


 枝が燃えた。


 いや、枝だけではない。


 瞬の手元にあった木片が一瞬で赤くなり、白く光り、次の瞬間には小さな火柱になった。


「おお! すごい!」


 喜んだ直後、火柱が少し大きくなった。


「おお?」


 さらに大きくなった。


「おおお?」


 気づけば、川辺に立派な焚き火が完成していた。


 というより、少ししたら山火事になりそうな勢いだった。


「待て待て待て、そこまで本気出せとは言ってない」


 瞬は慌てて川の水を手ですくい、火にかけた。


 じゅわああああっ!


 白い蒸気が一気に上がる。


 魚は、焼けた。


 かなり焼けた。


 外側は黒く、中はたぶん無事。瞬は枝に刺した魚を見つめた。


「初異世界料理としては、まあ……ワイルド寄りだな」


 彼はかぶりついた。


 熱かった。


「あっつ! 熱っ! でもうまっ!」


 味付けはない。


 だが、腹が減っている時の焼き魚は偉大だった。焦げた皮の苦み、淡白な身の甘さ、川魚特有の匂い。それらを瞬は「これぞ冒険の味」と勝手に美化しながら食べた。


 食べ終えた頃には、空が少し赤みを帯びていた。


 木々の影が長く伸び、森の奥が暗くなり始めている。昼間は生命力に満ちていた緑が、夕暮れの光を浴びて、どこか深く濃い色へ変わっていた。


 瞬は立ち上がる。


「さて、街だな」


 彼は森の切れ目へ向かった。


 途中、足元に大きめの石があった。


 瞬はそれを何気なく蹴った。


 こつん。


 石は流星になった。


 ひゅごっ、と空気を裂き、森の彼方へ飛んでいく。しばらくして、遠くで、どごん、という音が聞こえた。


「……」


 瞬は足を止めた。


「今のは、石が悪い」


 責任転嫁を済ませ、彼は再び歩いた。


 森を抜けると、視界が開けた。


 草原だった。


 夕暮れの光が、一面の草を金色に染めている。風が吹くたび、草原は大きく波打ち、さらさらと乾いた音を立てた。遠くには、白い城壁が見えた。夕陽を受けて、城壁の上部が淡く輝いている。門のあたりには人や馬車の影が動き、小さな黒い点のように見えた。


「街だ」


 瞬の顔が、ぱっと明るくなった。


「ついに来た。異世界の街。つまり、ギルド。つまり、受付嬢。つまり、美少女」


 論理の階段を三段ほど飛ばしていた。


 彼は城壁へ向かって歩き始めた。


 最初は普通に。


 だが、遠い。


 思ったより遠い。


 草原は広く、城壁は見えているのに、なかなか近づかない。


 瞬は少し考えた。


「走るか」


 そして、地面を蹴った。


 ずどんっ!


 瞬の体が前へ射出された。


 景色が横へ流れる。


 風が顔を叩く。


 草が波どころではなく、進行方向の左右へ一斉になぎ倒される。土が後ろへ爆ぜ、鳥が逃げ、草原に一本の不自然な線が刻まれていく。


「速っ! 俺、速っ!」


 本人は笑っていた。


 だが、速度感覚がまだ壊れている。


 前方に馬車が見えた。


 商人らしき男が、荷台に積んだ木箱を押さえながら街へ向かっている。馬はのんびり歩いていた。夕暮れの穏やかな街道。何も問題はない。


 そこへ、背後から瞬が接近した。


 突風。


 轟音。


 草と土と、謎の圧。


「うわあああああああ!?」


 商人が悲鳴を上げた。


 馬が驚いて前脚を上げる。


 荷台の木箱が跳ねる。


 瞬は慌てて止まろうとした。


 足を踏ん張る。


 その瞬間、街道が削れた。


 ざざざざざざざざざっ!


 瞬は土煙を上げながら停止した。


 彼の足元には、深い二本の溝ができていた。まるで巨大な農具で道を耕したようだった。


「す、すみません! 大丈夫ですか!」


 瞬は慌てて振り返る。


 商人は荷台にしがみつき、目を見開いていた。


 馬も目を見開いていた。


 どちらも、人生で初めて「人間が走って馬車を追い抜きかける」という現象を目撃した顔だった。


「な、何者だ、お前さん……」


「通りすがりの新人です」


「新人の速度じゃねぇ!」


 商人は震える声で叫んだ。


 その時、街道脇の草むらが揺れた。


 数人の男たちが飛び出してくる。


 革鎧。


 短剣。


 薄汚れた布。


 見るからに盗賊だった。


「へへへ、荷を置いて――」


 先頭の男が台詞を言い切る前に、瞬と目が合った。


 瞬は嬉しそうに笑った。


「お、イベントだ」


「え?」


「盗賊イベントだろ? 街に入る前のチュートリアルその二」


 盗賊たちは顔を見合わせた。


 商人は青ざめた。


 瞬だけが楽しそうだった。


「じゃあ、ちょっと待っててください。軽く追い払うんで」


 瞬は地面に落ちていた小石を拾った。


 盗賊たちの顔から血の気が引いた。


 なぜか本能が告げていた。


 あれは小石ではない。


 あれは終わりだ。


「ま、待て」


 盗賊の一人が手を上げた。


「俺たちはまだ何もしてない」


「でも、今からする感じだったろ?」


「気のせいだ」


「短剣持ってるじゃん」


「これは……果物をむく用だ」


「草むらから出てきて?」


「野外果物だ」


 かなり苦しい言い訳だった。


 瞬は少し考えた。


 そして、小石をそっと捨てた。


 盗賊たちが、ほっと息をつく。


「じゃあ、平和的にいこう」


 瞬はにこやかに近づき、先頭の盗賊の肩を軽く叩いた。


 ぽん。


 盗賊の膝が、かくんと折れた。


「ぐえっ」


 地面にめり込んだ。


「ごめん! 軽く! 軽くだった!」


 瞬は慌てた。


 残りの盗賊たちは、声も出さずに逃げ出した。


 全力だった。


 草原の向こうへ、夕陽を背に、実に見事な逃走である。


「……あれ、逃げた」


 瞬は肩をすくめた。


「やっぱり平和的解決って大事だな」


 どこが。


 商人は、馬車の上で震えていた。


 だが、やがて状況を理解したらしく、慌てて頭を下げる。


「あ、ありがとう! 助かった! あんた、すごいな!」


「いやいや、たまたまです」


「たまたまで盗賊が土に刺さるか!」


 商人は地面にめり込んだ盗賊を見て、顔を引きつらせた。


 瞬は盗賊の襟首をつまみ、軽く引き抜いた。


 ぽん、と抜けた。


 盗賊は白目をむいていたが、生きてはいるようだった。


「よし。安全確認」


 瞬は満足げに頷く。


 商人は、尊敬と恐怖が混ざった顔で彼を見た。


「お前さん、王都へ行くのか?」


「はい。ギルドに登録しようと思って」


「そうか……だったら乗っていけ。助けてもらった礼だ」


「いいんですか?」


「ああ。ただし、馬が怯えるから絶対に急に走るな」


「了解です」


 瞬は馬車に乗った。


 馬は、彼をちらりと見て、鼻を鳴らした。


 その目は明らかに「こいつを乗せて大丈夫なのか」と言っていた。


 馬車は夕暮れの街道を進んだ。


 車輪が石を踏み、がらがらと音を立てる。草原を渡る風が、荷台の布を揺らした。遠くの城壁は少しずつ近づき、門の松明が赤く灯り始めている。


 瞬は荷台の端に座り、胸を高鳴らせていた。


 王都。


 ギルド。


 冒険者。


 受付嬢。


 依頼。


 美少女。


 彼の頭の中では、必要な単語と欲望が見事に同じ箱へ詰め込まれていた。


「なあ、兄ちゃん」


 商人が前を向いたまま言った。


「名前は?」


「瞬です。佐藤瞬」


「シュン……変わった響きだな」


「異国風ってことで」


「シュンか。覚えておくよ。盗賊を一瞬で追い払ったシュン」


「一瞬で瞬……」


 瞬は少し気に入った顔をした。


 その時、門の方から人のざわめきが聞こえてきた。


 商人が街門の兵士へ声をかける。


「おーい! 盗賊に襲われかけたが、この兄ちゃんが助けてくれたぞ!」


 兵士たちの視線が、瞬へ集まる。


 瞬は荷台から立ち上がり、軽く手を振った。


「どうも、新人です」


 夕陽を背にしたその姿は、妙に絵になっていた。


 背後には壊滅的にえぐれた街道。


 少し離れた場所には、縛られた盗賊。


 助かった商人。


 そして、まったく傷一つない謎の男。


 兵士たちは顔を見合わせた。


 誰かが呟く。


「……英雄みたいだな」


 その言葉に、瞬の耳がぴくりと反応した。


「え、今なんて?」


「いや、英雄みたいだと……」


 瞬の顔が輝いた。


「いい響きですね」


「自分で乗るのか……」


 城門の上で、松明が揺れた。


 王都の中からは、夕飯の匂いと人々の声が流れてくる。焼きたてのパン、肉を焼く煙、馬の匂い、石畳を叩く靴音。そのすべてが、瞬には祝福のように感じられた。


 門をくぐる。


 白い城壁の内側には、別世界のような街が広がっていた。


 石造りの家々。


 赤い屋根。


 軒先に吊られたランタン。


 市場から聞こえる商人の声。


 子供たちの笑い声。


 夕暮れの光が街路を金色に染め、人々の影を長く伸ばしている。


 瞬は馬車の上で、ゆっくりと息を吸った。


「……最高だ」


 彼は笑った。


 この街の暗がりに、布で顔を隠した少女がひとり歩いていることなど、まだ知らない。


 自分の能天気な光が、誰かの傷を照らしてしまう日が来ることも、まだ知らない。


 ただ今は、目の前の異世界に胸を躍らせていた。


「よし」


 瞬は荷台から飛び降りた。


 軽く着地したつもりだった。


 石畳が少し割れた。


「……」


 商人と兵士たちが黙った。


 瞬は足元を見て、咳払いをした。


「この石畳、年季入ってますね」


「今、明らかにお前さんが割ったぞ」


「歴史の重みってやつです」


「違うと思う」


 瞬は聞こえないふりをした。


 そして、通りの先に見える大きな建物へ視線を向ける。


 剣と盾の看板。


 冒険者ギルド。


 そこから漏れてくる酒と肉の匂い、荒くれ者たちの笑い声。


 瞬の胸は、期待でいっぱいになった。


「待ってろ、俺の異世界ライフ」


 彼は拳を握る。


「まずはギルドだ」


 夕暮れの王都に、風が吹いた。


 通りの旗がばたばたと鳴り、遠くの屋根に止まっていたカラスが一羽、黒い翼を広げて飛び立った。


 その声は、まるで警告のように空へ響いた。


 だが、瞬の耳には届かなかった。


 彼の頭の中では、すでに受付嬢との運命的な出会いが、勝手に三通りほど再生されていたからである。


 こうして。


 机の角で始まり、小石で森を破壊し、デコピンで魔獣を星にしかけ、軽い肩叩きで盗賊を地面に埋めた男は、王都へ入った。


 本人にとっては、晴れやかな冒険の第一歩。


 周囲にとっては、歩く災害の入国。


 世界はまだ知らない。


 この男が、やがて多くの人を救い、多くの物を壊し、多くの常識を粉砕しながら、それでも誰かの手を取る存在になっていくことを。


 そして彼自身も、まだ知らない。


 「痛いのも辛いのも嫌だ」と願った男が、いつか他人の痛みから逃げられなくなる日が来ることを。


 王都の空は、夕焼けに赤く染まっていた。


 その赤い光の下で、瞬は冒険者ギルドへ向かって歩き出した。

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