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詠唱? それ、気合を入れるためのおまじないですよね? ~異世界キャンピングカーでダンジョンも王国もひっくり返す~  作者: Gaku


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第5話:冬の始まりと、閉ざされた心 〜心を閉ざすほど、光は遠ざかる〜

季節が変わったのだと、メイが気づいたのは、足元の音が変わったからだった。


昨日まで土は、乾いていても、まだわずかに柔らかかった。靴底が踏み込めば、砂や小石が逃げるように擦れ、枯れ草がかすかな音を立てて折れた。


けれど今朝の地面は違っていた。


ザリ。


一歩踏み出すたび、薄く張った霜が砕けた。


ザリ、ザリ、ザリ。


その音は、誰もいない朝の荒野に、ひどく大きく響いた。まるで世界そのものが息を潜め、メイの足音だけを聞いているようだった。


空は低かった。


厚く重なった雲が、北の山並みから流れ込んできて、陽の光をほとんど閉じ込めていた。雲の端には、わずかに白い光が滲んでいる。けれど、それは暖かさを運ぶものではなく、ただ「そこに太陽がある」と知らせるだけの、冷たい印だった。


風が吹く。


枯れた草が、一斉に身を伏せた。


ざわ、と低く波打った草原の音が、遠くへ流れていく。その音は夏の頃のような瑞々しい葉擦れではない。乾いた骨と骨が擦れ合うような、細く、軽く、寂しい音だった。


メイは、裂けかけたローブの前を握りしめた。


布はもう布と呼べるほど頼りになるものではなかった。泥で固まり、ところどころが破れ、夜露を吸って重くなっている。風が吹き込むたび、体の芯に小さな針を何本も刺されるような痛みが走った。


それでも、彼女は顔を覆う布だけは、何度も確かめた。


左目を隠す布。


その下にある紫の瞳。


それだけは、何よりも強く、世界から隠しておかなければならなかった。


「……」


喉の奥は乾ききっていた。


声を出そうとしても、砂を噛んだような痛みがあるだけで、言葉にならない。唇はひび割れ、舌は口の中で小さな石のように重かった。


それでも、メイは歩いた。


右足を出す。


霜が砕ける。


左足を出す。


靴底の破れたところから、冷たさが染み込んでくる。


また右足を出す。


考えることは、もうほとんどなかった。


村で笑ってくれた人たち。

食堂で銀貨を数えていた男。

湖のほとりで正しさを語った騎士。

焚き火の前で「家族」と呼んだ獣人たち。


思い出すたび、胸の内側にまだ傷があることを知らされる。だから、メイは思い出すことをやめた。


考えるのも、願うのも、信じるのも、やめた。


ただ歩く。


それだけなら、裏切られない。


空のずっと高いところで、黒い影が一つ、輪を描いていた。


カラスだった。


いつからついてきているのか、メイにも分からない。渓谷を逃げ出してからか。それとも、もっと前からか。気づけばその鳥は、一定の距離を保ちながら、彼女の頭上を飛んでいた。


羽ばたくたびに、黒い翼が灰色の空を切る。


風に押されて少し流され、それでもまた戻ってくる。何かを求めるようでもあり、ただ暇を持て余しているだけのようでもあった。


「……来ないで」


ようやく出た声は、ほとんど息だった。


カラスは答えない。


ただ、低く一声鳴いた。


その声は広い荒野に吸い込まれ、すぐに消えた。返事をする者はいない。木々も、草も、空も、何も言わない。


沈黙が戻る。


その沈黙は、耳が痛くなるほど深かった。


どこか遠くで枝が折れる音がした。


メイの足が止まった。


風が一瞬、止んだ。


枯れ草の波も消えた。霜の上を転がっていた小石も動かない。世界のすべてが、何かを待つように固まっていた。


次の瞬間、右手の雑木林が裂けた。


黒ずんだ木の幹に見えたものが、ぐにゃりと動いた。枝だと思っていた細長いものが、脚だった。枯れ葉をまとった巨大な影が、地面を蹴り、メイの方へ飛びかかってくる。


蜘蛛に似ていた。


けれど、ただの蜘蛛ではない。


牛ほどもある胴体に、枯れ木のような脚が何本も生えている。表面は湿った樹皮のようにひび割れ、その割れ目の奥から、赤黒い目がいくつも光っていた。開いた口には、白く濁った牙が並び、そこから糸を引く粘液が垂れている。


普通なら、悲鳴を上げる場面だった。


逃げ出す場面だった。


けれどメイは、動かなかった。


目の前に迫る牙を見ても、心臓は大きく跳ねなかった。恐怖が胸に届く前に、何か乾いた壁のようなものに遮られて、そこで消えていく。


ああ。


またか。


メイは、そう思っただけだった。


世界はいつも、何かを奪いに来る。


居場所を。

温もりを。

名前を。

信じたいと思った気持ちを。


そして今度は、命を。


巨大な影が、メイの頭上を覆った。


その時、彼女の右手が、ゆっくりと上がった。


力を込めたつもりはなかった。怒りもなかった。守りたいものもなかった。ただ、目の前に来たものを払いのけるように、細い指先が横へ動いた。


空気が、ひび割れた。


ドン、と鈍い音が荒野に沈んだ。


次の瞬間、蜘蛛の胴体が内側から弾けた。木片のような脚がばらばらに飛び、黒い体液が霜の上に散った。衝撃はそのまま後ろの木々へ走り、幹を三本まとめてへし折った。


倒れた木が、遅れて地面に落ちる。


ずしん。


その重い音が胸に響き、枝葉に積もっていた霜が白い粉のように舞い上がった。冷たい粒がメイの頬に触れ、溶けて、泥と血の乾いた跡を少しだけ濡らした。


メイは、自分の手を見た。


細い手だった。


汚れて、傷だらけで、爪の間に土が詰まっている。けれど、この手は簡単に命を壊せる。


守ろうとすれば、恐れられる。

助けようとすれば、拒まれる。

隠れていようとしても、襲われる。


なら、この力は何のためにあるのだろう。


「……いらない」


小さく吐いた声は、白くならなかった。


吐息になるほどの熱すら、今のメイの中には残っていないようだった。


カラスが折れた枝に降り立った。


黒い目で、砕けた怪物を見下ろす。それから、メイを見た。逃げる様子はなかった。怯える様子もなかった。


ただ、そこにいた。


何も知らない鳥だから怖がらないのか。

それとも、怖がる理由がないから逃げないのか。


メイには分からなかった。


分からないまま、彼女は再び歩き出した。


足元で霜が砕ける。


ザリ。


ザリ。


ザリ。


遠くの丘の向こうに、やがて石造りの城壁が見え始めた。


灰色の空の下で、その街だけが別の世界のように光っていた。高い壁の内側から、薄い煙が上がっている。夕方が近いのだろう。家々の煙突から立つ煙は、風に押されて横へ流れ、淡い橙色の灯りが、遠くからでもぼんやりと揺れて見えた。


王都。


旅人たちが何度も口にしていた街。


英雄がいるという街。


どんな魔物も一撃で倒し、どんな困りごとも笑いながら片づけてしまう、光のような男がいる場所。


メイは足を止めた。


頬を撫でる風が、急に冷たさを増した気がした。


「……英雄」


口の中で、その言葉を転がす。


甘い響きだった。


誰かを救う者。

誰かに望まれる者。

誰かの光になれる者。


メイとは、反対側にいる存在。


あの街の灯りは、きっと彼のためにあるのだろう。人々の笑顔も、歓声も、暖かな食卓も、すべて彼の周りに集まっているのだろう。


自分のようなものが近づけば、その光はきっと、肌を焼く。


それでも。


メイは、街へ向かって歩き出した。


希望があったからではない。


救われたいと思ったからでもない。


ただ、あの城壁の中を通らなければ、冬を越す場所も、次に進む道も見つからないからだった。


夕暮れの風が、枯れ草を低く揺らした。


その音は、誰かが遠くで囁いているように聞こえた。


――行くな。


――それでも、行くしかない。


メイは布をさらに深く引き下げ、紫の瞳を闇の奥へ閉じ込めた。


そして、光る街へ向かって、影のように歩き続けた。


街道は、城壁へ近づくほどに固くなっていった。


土の道が、いつの間にか平たい石を敷き詰めた道へ変わっている。靴底が触れるたび、音も変わった。


ザリ、ザリ、という霜を砕く音から、コツ、コツ、と乾いた石の音へ。


それは、メイが人の世界に近づいている証だった。


道の両脇には、冬枯れの草が低く広がっている。日が沈みかけ、草の先についた霜が、最後の光を受けて細い銀の針のように光っていた。だが、その美しさは温かくない。触れれば指先を切りそうな、冷たい輝きだった。


遠くの城壁の上には、松明の火が灯り始めていた。


炎は風に揺れ、赤い舌を伸ばして闇を舐めている。門の向こうからは、かすかな人の声が聞こえた。笑い声。馬のいななき。荷車の軋む音。鉄の鍋を叩くような生活の音。


そのすべてが、メイには遠かった。


同じ空気の中にあるはずなのに、厚い硝子の向こう側に閉じ込められた景色のようだった。


「あそこには、私の場所なんてない」


声に出したつもりはなかった。


けれど、言葉は白い息にもならず、ただ唇の間から零れ落ちた。


そのとき、街道の先に、三つの影が見えた。


焚き火の跡があった。


火はほとんど消えかけている。赤く残った炭が、風に吹かれるたびに、かすかに明滅していた。そのそばに、男たちが座り込んでいる。


一人は小太りで、脂の浮いた顔に酒の赤みを残していた。


一人は背が高く、痩せていて、頬がこけている。何かに苛立っているのか、短い枝で地面を何度も叩いていた。


もう一人は大柄で、ぼんやりとした目をしていた。だが、その体の大きさだけで、道を塞ぐ壁のように見える。


メイは、道の端へ寄った。


関わらない。


ただ通り過ぎる。


存在しないものとして、見逃してもらう。


ローブの前を握り、顔をさらに深く伏せる。足音を小さくする。呼吸さえ浅くする。


けれど、静かな夜ほど、小さな音はよく響く。


コツ。


メイの靴が、石を踏んだ。


男たちの視線が、いっせいに動いた。


「おい」


背の高い男の声だった。


乾いていて、細く、けれど耳に絡みつくような声。


メイは足を止めなかった。


もう一歩。


「おい、聞こえてんだろ」


小太りの男が立ち上がった。革の帯に吊るした小袋が、じゃらりと嫌な音を立てる。


メイは、胸の奥が冷えていくのを感じた。


風とは違う冷たさだった。体の外ではなく、骨の隙間に流し込まれるような冷たさ。


「……何も、持っていません」


自分でも驚くほど小さな声だった。


男たちは顔を見合わせ、笑った。


その笑いは、暖炉の前で交わされる笑いではなかった。獲物を見つけた獣が、牙の間から息を漏らすような音だった。


「何も持ってないかどうかは、こっちが見るんだよ」


小太りの男が近づいてくる。


メイは後ずさった。


足元の霜が砕ける。


ザリ。


その音が、やけに大きかった。


「やめてください」


「やめてください、だってよ」


痩せた男が枝を投げ捨てた。彼の目は、焚き火の残り火を映して、赤く揺れていた。


「こっちはな、機嫌が悪いんだよ。王都じゃ英雄様がどうだの、救い主がどうだの、みんな浮かれやがって。俺たちには仕事も回ってこねぇ」


「関係、ありません」


「あるんだよ」


男の声が低くなった。


「俺たちが不愉快なんだから、お前にも少し分けてやるって話だ」


大柄な男が、のそりと立ち上がる。


影が、メイの上に落ちた。


彼の手が伸びる。泥のついた太い指が、メイのフードに向かった。


メイは反射的に両手で布を押さえた。


「顔は、やめて」


それは懇願だった。


命を助けてほしいわけではない。


殴られたくないわけでもない。


ただ、そこだけは触れないでほしかった。


その布の下には、メイがこの世界で受けてきたすべての拒絶が隠れている。村の罵声も、投げられた石も、食堂の扉が閉まる音も、騎士の剣先も、亜人たちの逸らした目も、全部そこにある。


そこを暴かれることは、傷口をもう一度開かれることと同じだった。


「顔を隠してるってことは、やましいことがあるんだろ」


大柄な男が言った。


まるで、それが正しい決まりであるかのように。


「確認してやる」


「いや……」


メイは首を振った。


その瞬間、小太りの男が腕を掴んだ。


痛みが走る。


骨まで届くような力だった。反射的に振りほどこうとすれば、簡単に彼の腕ごと折れる。メイには、それができる。


できるのに、できなかった。


ここで力を使えば、また証明してしまう。


私は危ないものだと。


私は人のそばにいてはいけないものだと。


「ほら、見せろ!」


布が引かれた。


冷たい夜気が、額に触れた。


次に頬。


そして左目。


月が、雲の切れ間から顔を出した。


淡く冷たい光が、メイの顔を照らす。


紫の瞳が、夜の底で静かに光った。


時間が止まった。


男たちの呼吸が止まる音が、聞こえた気がした。


小太りの男の指から、布が落ちた。


「……紫」


痩せた男が、掠れた声で呟く。


大柄な男が、一歩下がった。さっきまで獲物を見る目をしていたその瞳に、今はむき出しの恐怖が浮かんでいる。


「災いの……」


「魔女だ」


言葉が落ちた。


その瞬間、世界はまた同じ形に戻った。


ああ、とメイは思った。


やっぱり。


分かっていた。


知っていた。


初めてではない。何度も繰り返されたことだ。誰もが同じ顔をする。最初は好奇心。次に驚き。最後に恐怖と嫌悪。


人の心が裏返る瞬間は、もう見飽きるほど見てきたはずだった。


それなのに、胸の奥は痛んだ。


何度刺されても、傷は慣れてくれない。


「来るな!」


小太りの男が石を拾った。


その手は震えている。けれど、投げる力だけは失われていなかった。


石が飛ぶ。


避けることはできた。


けれどメイは、避けなかった。


鈍い音がして、額に当たった。皮膚が裂け、熱いものが眉の横を伝う。血が左目のそばを流れ、紫の光を赤く濁らせた。


痛い。


でも、それ以上に静かだった。


心の中で、何かが沈んでいく。


水底へ落ちる石のように、ゆっくりと、二度と戻ってこない深さへ。


「化け物!」


「呪われるぞ!」


「行け、どこかへ行け!」


男たちは叫びながら後ずさり、やがて背を向けて走り出した。足がもつれ、何度も転びそうになりながら、王都の門の方へ逃げていく。


その背中を、メイはただ見ていた。


追いかける気はなかった。


怒る気もなかった。


泣く気もなかった。


風が吹いた。


落ちた布が、石畳の上を少しだけ滑る。


メイはゆっくりと膝をつき、それを拾った。土と泥と、男の手の脂で汚れていた。


それでも、それしかなかった。


彼女は布を額に当てた。血が染み込んで、じわりと黒くなっていく。痛みで視界がかすんだが、表情は動かなかった。


きつく、きつく、顔に巻き直す。


左目を隠す。


光を閉じ込める。


自分を閉じ込める。


「……大丈夫」


誰に言ったのか、自分でも分からなかった。


「これが、普通だから」


カラスが近くの杭に止まっていた。


いつもなら間の抜けた声で鳴くその鳥も、この時だけは鳴かなかった。ただ、黒い目でメイを見ていた。


その沈黙が、ひどく痛かった。


責められているわけではない。


慰められているわけでもない。


ただ見られている。


それだけで、メイは自分がまだそこにいることを思い知らされた。


「見ないで」


小さく言って、メイは立ち上がった。


足がふらつく。


額の傷から流れた血が、頬を伝い、顎から落ちた。


ぽたり。


石畳に小さな黒い点ができた。


それを踏まないように、メイは一歩前へ出た。


王都の門は、もうすぐそこだった。


門の向こうでは、暖かな灯りが揺れている。誰かの笑い声が聞こえる。焼いた肉の香りが風に乗ってくる。まるで世界が、そこだけ春を閉じ込めているかのようだった。


けれどメイの立つ場所には、冬しかなかった。


北風が背中を押す。


行きたくない。


けれど、戻る場所もない。


メイは、門へ向かった。


希望を求めてではない。


誰かに助けてもらうためでもない。


ただ、次に倒れる場所を探すために。


ただ、もう少しだけ歩くために。


城壁の上で松明が揺れた。


その火の粉が、夜空へ上がって消えていく。


メイはそれを見上げなかった。


うつむいたまま、影のように門をくぐる。


その瞬間、王都の中からひときわ大きな歓声が上がった。


「英雄様だ!」


「瞬様が帰ってきたぞ!」


光の方角へ、人々が駆けていく音がした。


メイはその流れに逆らうように、路地の暗がりへ足を向けた。


同じ街に、光と影が入った。


だが、その二つが出会うには、まだ少しだけ夜が深くなる必要があった。

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