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詠唱? それ、気合を入れるためのおまじないですよね? ~異世界キャンピングカーでダンジョンも王国もひっくり返す~  作者: Gaku


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第4話:灼熱の渓谷と、声の大きすぎる家族たち 〜絆は、信じたい心ほど深く傷つけるものである〜

世界は、焼けていた。


 空の真ん中に貼りついた太陽は、まるで地上を見張る巨大な目のようだった。雲ひとつない青空から降り注ぐ光は、優しさなど少しも持っていない。白く、強く、容赦なく、岩も土も草も、人の影さえも薄く焼き焦がしていく。


 赤茶けた渓谷は、どこまでも乾いていた。


 岩肌には細かなひびが走り、そこに溜まった砂が風に吹かれてさらさらと落ちる。足元の石は熱を含み、靴底越しにもじわりと熱さが伝わってきた。遠くの景色は、立ちのぼる熱でゆらゆらと揺れ、そこに本当に岩山があるのか、ただの幻なのかさえ曖昧になる。


 風は吹いていた。


 けれど、その風は涼しさを運んではこない。熱せられた岩の間を通ってきた風は、乾いた息のように肌を撫で、喉の奥をさらに渇かせた。岩陰に生えた細い草だけが、かさかさと頼りない音を立てて揺れている。


 メイは、その渓谷を一人で歩いていた。


 頭からかぶった布は、強い日差しを遮るためではない。


 左目を隠すためだった。


 紫の瞳。


 それを見られた時に起きることを、メイはもう嫌というほど知っていた。


 麦畑の村。


 雨の宿場町。


 霧の湖畔。


 どこでも同じだった。


 最初は笑顔を向けられる。食べ物をもらう。役に立てば褒められる。守れば感謝される。けれど、布が外れた瞬間、すべてが裏返る。


 人の顔は、あんなにも簡単に変わる。


 温かかった手も、硬い銀貨も、まっすぐな言葉も、どれも最後には冷たいものへ変わった。


「……水」


 メイの唇はひび割れていた。


 声は、喉の奥で砂に変わりそうだった。


 ローブの内側は汗で湿っているのに、体の芯はどこか空っぽだった。空腹と疲労と日差しのせいで、足元の岩が二重に見える。歩くたび、靴底が石をこすり、じゃり、じゃり、と乾いた音を立てた。


 その時。


 風の中に、匂いが混じった。


 焼けた肉の匂いだった。


 濃く、荒々しく、脂っこく、そして今のメイにはあまりにも危険なほど魅力的な匂い。


 メイの足が止まる。


 警戒しなければならない。


 人がいるということは、また傷つくかもしれないということだ。


 近づくべきではない。


 そう頭ではわかっていた。


 けれど、腹は理屈を聞かなかった。


 ぐうう、と腹が鳴る。


 渓谷に反響しそうなほど大きな音だった。


 メイは、布の下で顔を赤くした。誰もいないのに、恥ずかしかった。


 肉の匂いは、岩陰の向こうから漂ってくる。


 メイは、音を立てないようにそっと近づいた。


 岩壁の影に身を寄せる。熱を持った石がローブ越しに背中を焼く。額から流れた汗が目尻へ伝い、布の内側でじわりと染みた。


 そして、角を曲がった。


「ぬんっ!!」


 そこには、筋肉がいた。


 いや、正確には、ライオンの顔を持つ大柄な獣人がいた。


 身長は二メートルを軽く越えている。肩幅は岩壁の一部かと思うほど広く、腕は丸太のように太い。太陽の光を浴びた茶色の毛並みは、汗でぎらぎらと光っていた。


 その巨体が、焚き火の前に座り、何か巨大な肉を棒に刺して回している。


 肉は、メイの知っている肉の大きさではなかった。


 小さな樽ほどある塊から脂が滴り、火に落ちるたび、じゅう、と音を立てて煙を上げている。その煙に混じる香ばしい匂いで、メイの意識は一瞬遠のきかけた。


 ライオン男が振り返った。


 金色のたてがみが、風に揺れる。


 鋭い牙。


 大きな手。


 ぎらりと光る目。


 メイは反射的に後ずさった。


(食べられる)


 そう思った。


 次の瞬間、ライオン男は目を見開き、豪快に笑った。


「おう! なんだァ!? 迷子の小リスかァ!?」


 声が、渓谷中に響いた。


 近くの岩陰から鳥が飛び立つほどの大声だった。


 メイはびくっと肩を震わせる。


「あ、あの、私は……」


「腹ァ減ってんだな!? わかるぞ! 目が死にかけの干し魚みたいになってる!」


「そんなにひどいですか……」


「ひどい! だが大丈夫だ! 肉を食えばだいたいのことは何とかなる!」


 ライオン男は、メイの返事を待たずに立ち上がった。


 地面が少し揺れた気がした。


 彼はずんずん近づいてくると、巨大な手でメイの肩をばしん、と叩いた。


 ばしん。


 メイの体が少し沈んだ。


「細い! 細すぎる! 骨が遠慮してるぞ!」


「骨は遠慮しません……」


「今日から遠慮禁止だ!」


 ライオン男は、なぜか勝手に納得したように頷いた。


「俺はガロン! この渓谷で暮らす者たちのまとめ役みたいなもんだ! お前、行くところないんだろ?」


 メイは黙った。


 図星だった。


 行くところなどない。


 帰る場所もない。


 けれど、それを口にすると、自分が本当に何も持っていない存在だと認めてしまう気がして、言葉にできなかった。


 ガロンは、メイの沈黙を都合よく受け取ったらしい。


「よし! 決まりだ!」


「何がですか」


「お前も今日から家族だ!」


 メイは、息を止めた。


 家族。


 その言葉は、あまりにも突然で、あまりにもまっすぐで、胸の奥に乱暴に投げ込まれた石のようだった。


「ちょ、ちょっと待ってください。私はまだ何も……」


「細かいことは飯の後だ!」


 ガロンはメイを片腕でひょいと抱えた。


 まるで荷物のように。


「えっ、あの、降ろして……!」


「暴れるな小リス! 落とすぞ!」


「落とさないでください!」


「なら暴れるな!」


 会話がまったく噛み合わないまま、メイはガロンに運ばれていった。


     *


 渓谷の奥には、集落があった。


 切り立った岩壁をくり抜いて作った住まいが、いくつも段々に並んでいる。岩の裂け目には布が吊られ、日よけの代わりに揺れていた。風が吹くたび、色あせた布がばたばたと音を立てる。


 そこには、人間とは少し違う姿をした者たちが暮らしていた。


 獣の耳を持つ子供。


 背の低いがっしりした男。


 青みがかった肌の小鬼。


 鳥の翼を持つ老人。


 誰もが日差しで焼け、汗をかき、声が大きく、そしてやけに距離が近かった。


「ボス! 新入りか!?」


「ちっせえ!」


「腹減ってそう!」


「肉だ肉!」


「酒もいるか!?」


「まだ子供っぽいぞ、酒はやめとけ!」


「じゃあ肉汁だ!」


 わあっと人が集まってくる。


 メイは反射的に布を押さえた。


 怖い。


 見られたくない。


 近づかれたくない。


 でも、集まってきた者たちは、メイの顔を無理に覗こうとはしなかった。布を怪しむ者もいるにはいたが、「暑そうだな!」とか「日よけか?」くらいで終わった。


 誰かがメイの手に木の杯を押しつける。


 中には、温かい肉汁のようなものが入っていた。


 香草の強い匂いと、獣の脂の匂いが混じっている。見た目は少し濁っていたが、空腹のメイには光って見えた。


「飲め!」


「……いただきます」


 メイは恐る恐る口をつけた。


 濃い。


 塩気が強い。


 油も強い。


 でも、体の奥に力が戻ってくるようだった。


 続いて、目の前に大きな皿が置かれた。


 いや、皿というより、板だった。


 その上に、黒く焼けた巨大な肉の塊が乗っている。よく見ると、それは大トカゲの丸焼きだった。皮は炭のように黒く、中の肉は妙に赤い。火が通っているのかいないのか、判断が難しい。


 メイは固まった。


 周囲の視線が集まる。


 ガロンが腕を組み、満面の笑みで頷いた。


「食え! 渓谷の祝い肉だ!」


「祝い……肉」


「そうだ! 新しい家族が来た時は、これを食う!」


 メイは、逃げられない空気を感じた。


 手を伸ばし、肉を少しだけちぎる。


 指先に、熱い脂がついた。


 口へ運ぶ。


 噛む。


 弾力がすごかった。


 肉というより、古い革靴に近かった。


 噛んでも噛んでも、なかなか小さくならない。しかも後から、野草と土と獣の匂いが、じわじわと口の中に広がってくる。


 メイの目が、布の下でわずかに泳いだ。


 だが、ここで吐き出すわけにはいかない。


 彼女は必死に飲み込んだ。


「……おいしい、です」


 一瞬、集落が静まり返った。


 次の瞬間。


「うおおおおおおおお!」


 歓声が爆発した。


「聞いたか! おいしいってよ!」


「見込みがある!」


「この子は強いぞ!」


「俺、初めて食った時泣いたのに!」


「俺は三日腹を壊した!」


「それを誇るな!」


 ガロンは感動したように目元を拭った。


「小リス……いや、メイ! お前は根性がある!」


 そして、また背中をばしんと叩いた。


 メイの口から、さっきの肉が戻りかけた。


「だ、大丈夫か!?」


「だい、じょうぶ……です」


 メイは何とか飲み込んだ。


 周囲はまた笑った。


 その笑い声は、粗かった。


 大きくて、無遠慮で、耳が痛くなるほどだった。


 けれど、そこに嫌な冷たさはなかった。


 少なくとも今は。


 メイは、杯を両手で握った。


 木の杯は温かかった。


 手の中に熱が残る。


 胸の奥にも、ほんの少しだけ熱が灯る。


 その熱が怖かった。


 でも、手放したくもなかった。


     *


 夜になると、渓谷は別の世界になった。


 昼間あれほど暴力的だった太陽は消え、岩肌は急速に熱を失っていく。風は冷たく、乾いていた。昼の熱が嘘のように、ローブの隙間から入り込む夜気が肌を刺した。


 空には、星が降るほどあった。


 岩山の黒い稜線の向こうに、細かな光が無数に散らばっている。星明かりは冷たく、しかし焚き火の炎は赤く温かかった。


 集落の広場では、ガロンたちが焚き火を囲んでいた。


 誰かが太鼓を叩き、誰かが歌い、子供たちは石を転がして遊んでいる。焦げた肉の匂い、酒の匂い、乾いた土の匂い。風が吹くたび、火の粉が夜空へ舞い上がり、すぐに暗闇の中へ消えた。


 メイは焚き火の少し外側に座っていた。


 逃げ道を確保する癖は、もう体に染みついている。


 誰かの輪の真ん中に入ることは、まだ怖かった。


 するとガロンが、どかりと隣に座った。


 地面が軽く揺れた。


「なあ、メイ」


「……はい」


「お前、人間の村で何かあったな」


 メイの指が、布の端を握った。


 ガロンは焚き火を見ていた。


 その横顔は、昼間より少しだけ静かだった。


「言いたくねぇなら言わんでいい。俺たちも似たようなもんだ。耳が違う、牙がある、肌の色が違う、そんなことで追い出された奴ばかりだからな」


 薪が、ぱちりと爆ぜた。


 火の粉がメイの足元に落ち、すぐに消える。


「でもな、ここじゃそういうのは関係ねぇ」


 ガロンは自分の胸を拳で叩いた。


 どん、と低い音がした。


「大事なのは、腹が減った時に一緒に飯を食うことだ。寒い夜に火のそばを分けることだ。笑う時は笑って、怒る時は怒る。そういう奴は、もう家族だ」


 メイは、何も言えなかった。


 家族。


 また、その言葉。


 ハーベストの老婆の「故郷」と同じくらい、危うくて甘い言葉。


 信じてはいけない。


 そう思った。


 でも、焚き火の赤い光がガロンの顔を照らしている。周囲では子供たちが笑っている。誰かがメイに肉をもう一切れ押しつけようとして、別の誰かに「やめろ、胃が死ぬぞ」と止められている。


 そのすべてが、少しだけ温かかった。


「ここにいていい」


 ガロンが言った。


「隠したいものがあるなら、隠したままでいい。無理に見せなくていい。だが飯は食え。痩せすぎだ」


 メイの胸の奥が、ぎゅっと痛んだ。


 それは、優しさに触れた時の痛みだった。


 怖い。


 信じたら、また壊れる。


 わかっている。


 それでも、メイは小さく頷いてしまった。


「……ありがとうございます」


 声は、焚き火の音に消えそうなほど小さかった。


 ガロンは満足そうに笑い、空を見上げた。


「よし! 明日はもっと食わせる!」


「それは少し怖いです」


「遠慮するな!」


「本当に遠慮ではなくて……」


 ガロンの大声に、周囲がどっと笑った。


 メイは困ったように俯いた。


 でも、その口元には、自分でも気づかないほど小さな笑みが浮かんでいた。


 夜風が、岩山を抜けていく。


 乾いた草が、かさかさと揺れる。


 星明かりの下、メイは久しぶりに、誰かの声が聞こえる場所で眠った。


 明日もこの火のそばにいられるのかもしれない。


 そう思ってしまった。


 それが、また自分を傷つける刃になるとも知らずに。


翌朝、渓谷はまた焼けるような光に包まれていた。


 夜の冷たさは、太陽が岩山の稜線から顔を出した途端、嘘のように消えていった。赤茶けた岩肌はじりじりと熱を帯び、地面からは薄い揺らめきが立ち上る。乾いた風が吹くたび、砂粒が足元をさらさらと走り、岩陰に残った細い草がかすかに鳴った。


 メイは集落の広場で、木の器を手にしていた。


 中身は朝食だった。


 昨日の大トカゲの肉を細かく刻み、謎の根菜と一緒に煮込んだものらしい。見た目は茶色く、湯気はたしかに温かい。ただ、匂いはまだ少し強かった。


「食え! 朝から食えば強くなる!」


 ガロンが目の前にどんと座り、満面の笑みで言った。


「……昨日も、かなり食べました」


「昨日食ったなら、今日はもっと食える!」


「その考え方は危ないと思います」


 メイが小さく呟くと、近くにいた子供たちが笑った。


 獣の耳を持つ小さな子が、メイの隣へ座り、じっと布の下の顔を覗き込もうとする。メイは反射的に身を引いたが、その子はただ首を傾げただけだった。


「メイ、暑くないの?」


「……少し」


「じゃあ、これあげる」


 子供は、拾ったらしい平たい葉をメイの頭に乗せた。


 日よけのつもりらしい。


 すぐに風で飛んでいった。


「あ」


「……ありがとう」


 メイがそう言うと、子供は得意げに胸を張った。


 その何気ないやり取りが、メイの胸に小さく染みた。


 ここでは、誰も無理に布を取ろうとしない。


 なぜ隠しているのかと問い詰めもしない。


 ただ、そこにいる。


 それだけで、メイは少しだけ息がしやすかった。


 焚き火の跡からは、まだ細い煙が上っている。煙は朝の光の中で白く伸び、すぐに乾いた風にちぎられていく。誰かが革を叩く音、鍛冶場のような場所で金属を打つ音、子供たちのはしゃぐ声。集落は荒っぽく、騒がしく、落ち着かない。


 けれど、その騒がしさは、昨日までのメイの孤独をほんの少し遠ざけてくれた。


 その時だった。


 渓谷の入口の方から、鋭い声が響いた。


「敵だああああ!」


 声は、岩壁にぶつかり、何度も反響した。


 笑い声が止まった。


 器を持っていたメイの手が、ぴたりと止まる。


 次の瞬間、集落の空気が一変した。


 子供を抱き寄せる母親。


 武器を手に走る男たち。


 火を消そうとする老人。


 岩棚の上から、鳥の翼を持つ見張りが飛び降りてきた。顔色が青い。


「谷の入口に兵士! 数が多い!」


 ガロンの表情が変わった。


 昨日まで豪快に笑っていた顔から、余分なものが消える。彼は近くに立てかけていた大きな斧を掴んだ。


「亜人狩りか」


 その言葉を聞いた瞬間、周囲の者たちの顔に恐怖が走った。


 遠くから、足音が聞こえてきた。


 ずん、ずん、ずん。


 揃った靴音。


 金属が擦れる音。


 乾いた渓谷の底を、冷たいものが進んでくるような音だった。


 やがて、谷の入口に銀色の列が見えた。


 鎧をまとった兵士たちだった。


 槍を構え、盾を並べ、砂煙を上げながら進んでくる。その後ろには弓を持つ兵士もいる。太陽の光が槍先に反射し、無数の白い点となってメイの目を刺した。


「散れ! 子供を奥へ!」


 ガロンの声が響く。


 集落は混乱に包まれた。


 泣き出す子供。


 荷物を抱えて走る女。


 転がった器から、朝食の汁が地面へ広がっていく。まだ温かい湯気が上っているのに、誰もそれを見る余裕はない。


 メイは立ち尽くしていた。


 胸の奥が、強く脈打つ。


 怖い。


 でも、逃げられない。


 昨日、火のそばに座らせてくれた人たち。


 肉を押しつけてきた人たち。


 葉っぱを頭に乗せてくれた子。


 ガロンが「家族」と呼んだ人たち。


 その人たちが、目の前で怯えている。


「構えろおお!」


 兵士の怒号が響いた。


 弓が引かれる。


 空気が張り詰めた。


 一瞬、渓谷からすべての音が消えたように感じた。


 風の音も、草の音も、誰かの息も。


 次の瞬間、矢が放たれた。


 ひゅん、ひゅん、ひゅん。


 乾いた空気を裂く音が、何本も重なる。


 悲鳴が上がった。


 岩に矢が当たり、火花のような白い欠片が散る。誰かが倒れた。赤いものが砂の上に広がる。


「やめて……」


 メイの手が震えた。


 もう失いたくなかった。


 やっと、少しだけ息ができる場所に来たのに。


 やっと、誰かの輪のそばで眠れたのに。


 また、壊される。


 メイの中で、熱が膨れ上がった。


「やめて!」


 彼女は飛び出した。


 ガロンが何か叫んだ気がした。


 だが、もう聞こえない。


 兵士たちの前に立つ。砂が足元で舞う。熱い風が布を揺らす。目の前には槍の穂先。後ろには、怯える集落。


 メイは両手を突き出した。


 胸の奥から、力があふれる。


 それは怒りだったのか、恐怖だったのか、願いだったのかわからない。


 ただ、止めたかった。


 これ以上、壊されたくなかった。


「来ないで!」


 空気が爆ぜた。


 どんっ!


 目に見えない壁が、兵士たちの最前列を押し返した。盾がひしゃげ、槍が折れ、数人の兵士が砂煙の中へ転がっていく。渓谷の岩壁が震え、細かな砂が上からぱらぱらと落ちた。


 兵士たちの動きが止まった。


 集落の者たちも、息を飲んだ。


 メイは肩で息をしていた。


 その時、強い風が吹いた。


 力を放った反動で、頭を覆っていた布がふわりと浮いた。


 メイは慌てて押さえようとした。


 だが、遅かった。


 太陽の光が、容赦なく彼女の顔を照らした。


 左目。


 隠していた紫の瞳が、灼熱の渓谷の中で鮮やかに光った。


「あ……」


 メイの喉が鳴った。


 兵士たちが後ずさる。


「紫の瞳……!」


「災いの魔女だ!」


「関わるな! 呪われるぞ!」


 正面から恐怖の声が上がる。


 けれど、メイが本当に怖かったのは、背後だった。


 ゆっくり振り返る。


 そこに、ガロンがいた。


 昨日、家族だと言ったガロン。


 隠したいものは隠したままでいいと言ったガロン。


 その大きな顔から、血の気が引いていた。


 彼の金色の目には、昨日の豪快な温かさがなかった。


 あるのは、深い恐れ。


 そして、信じたくないものを見てしまった者の顔だった。


「お前……その目……」


 メイの胸が、ひゅっと縮んだ。


「ガロンさん、私は……」


 言いかけた声は、集落の誰かの叫びにかき消された。


「紫の瞳だ!」


「あいつのせいだ!」


「兵士が来たのも、あいつがいたからじゃないのか!」


 言葉が、一つ、また一つと増えていく。


 恐怖は、乾いた草に落ちた火のように広がった。


「違う」


 メイは首を振った。


「私は、守ろうと……」


 しかし、誰も聞いていなかった。


 さっきまで同じ火を囲んでいた者たちが、じりじりとメイから離れていく。子供を抱いた母親が、メイを見るなり後ろへ下がった。


 葉っぱをくれた子供が、その母親の腕の中で、怯えた目をしていた。


 その目が、何よりも痛かった。


 ガロンは、奥歯を噛みしめていた。


 大きな拳が震えている。


 彼も迷っているのだと、メイにはわかった。


 でも、迷っている時点で、答えは出ていた。


 やがてガロンは、低く言った。


「……その女を、兵士に渡せ」


 時間が止まった。


 メイは、言葉の意味を理解できなかった。


 理解したくなかった。


「ガロン……さん?」


「そいつを差し出せば、俺たちは見逃してもらえるかもしれねぇ」


 声は苦しそうだった。


 けれど、はっきりしていた。


「俺は……家族を守らなきゃならねぇ」


 家族。


 昨日、メイを包んだ言葉。


 今、その同じ言葉が、メイを外へ押し出した。


「私も……」


 メイの声は震えた。


「私も、家族だって……」


 ガロンは目を逸らした。


 その瞬間、メイの中で、何かが音もなく崩れた。


 石を投げられた時よりも。


 銀貨を踏まれた時よりも。


 剣を向けられた時よりも。


 ずっと静かに、深く。


「捕まえろ!」


 誰かが叫んだ。


 集落の大人たちが、メイを囲もうとする。


 昨日、肉をくれた手。


 笑っていた顔。


 同じ火に当たっていた人たち。


 その手が今、メイを差し出そうとしている。


 メイは抵抗しなかった。


 力を使えば、全員を吹き飛ばせる。


 でも、そんなことをしたら、本当に彼らの言う通りになってしまう。


 災いをもたらす者。


 壊すだけの化け物。


 そうなりたくなかった。


 メイは、ゆっくりと後ろへ下がった。


 兵士たちは、まだ正面でざわついている。


 集落の者たちは、メイを押し出すように視線を向けている。


 どちらにも、居場所はなかった。


 メイは、息を吸った。


 乾いた空気が喉を傷つける。


 そして、空へ向かって手を上げた。


 紫の光が、彼女の掌から弾けた。


 昼の太陽の下でもはっきり見えるほど、鮮やかな光だった。


「こっちよ!」


 メイは叫んだ。


 兵士たちの視線が、一斉に向く。


「魔女が逃げるぞ!」


「追え!」


「賞金首だ!」


 兵士たちの狙いが、集落からメイへ移った。


 メイは走り出した。


 渓谷の出口へ。


 熱い岩の間を、砂を蹴って走る。


 背後から兵士たちの怒号と足音が追ってくる。矢が岩に当たり、かん、と鋭い音を立てた。砂煙が舞い、太陽が白くにじむ。


 メイは振り返らなかった。


 振り返れば、きっと見えてしまう。


 安心した顔を。


 助かったと息をつく顔を。


 昨日まで家族だと言った人たちが、自分が去ることでほっとしている顔を。


 見たくなかった。


 足がもつれる。


 息が切れる。


 喉が焼ける。


 それでも走った。


 風が、砂を巻き上げてメイの頬を打つ。布は半分外れかけ、紫の瞳に乾いた光が刺さった。


 涙は出なかった。


 渓谷の出口が近づく。


 岩の間から、まぶしい荒野が見えた。


 そこへ飛び出す直前、背後からかすかな声が聞こえた気がした。


「助かった……」


 誰の声かはわからない。


 でも、その言葉は矢より深く、メイの背中に刺さった。


 メイは荒野へ飛び出した。


 太陽は高く、世界はどこまでも乾いていた。


 遠くに揺れる景色は、すべて幻のように滲んでいる。


 メイは走り続けた。


 集落の笑い声も、焚き火の温もりも、ガロンの大きな声も、背後の砂煙の中へ消えていく。


「……私は」


 声が漏れた。


 誰に向けたものでもなかった。


「私は、一人でいい」


 その言葉は、乾いた風に砕かれて消えた。


 でも、消えてもいいと思った。


 誰にも届かなくていい。


 どうせ、届いたところで変わらない。


 メイはただ、前へ進んだ。


 足元の砂が熱い。


 空は青い。


 風は乾いている。


 そして胸の中だけが、冬のように冷えていた。

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