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詠唱? それ、気合を入れるためのおまじないですよね? ~異世界キャンピングカーでダンジョンも王国もひっくり返す~  作者: Gaku


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第3話:霧の湖畔と、正しさを掲げる騎士 〜正しさは、人を守るふりをして人を傷つける刃である〜

雨の夜を抜けた先に、白い朝があった。


 森は、まだ眠っているようだった。


 夜の雨を吸い込んだ土は黒く湿り、踏みしめるたびに、くちゅり、と小さく沈んだ。落ち葉は水を含んで重くなり、靴底に貼りつく。木々の枝からは、雨粒がひとつ、またひとつと落ちていた。


 ぴちょん。


 ぴちょん。


 その音は、広い森の中ではあまりに小さいはずなのに、今のメイには妙にはっきり聞こえた。


 風は弱かった。


 それでも、湖のほとりに生えた細い草は、霧の中でかすかに揺れている。葉先に宿った水滴が朝の淡い光を受け、薄い銀色に光った。霧は湖の水面からゆっくりと立ち上がり、地面を這うように広がっている。


 世界の輪郭が、すべてぼやけていた。


 遠くの木も、湖の対岸も、空の色さえも、白い布の向こうに隠されたように淡い。鳥の声も少ない。時折、名も知らない小鳥が一羽だけ鳴き、その声が霧の中へ吸い込まれていく。


 メイは、湖のほとりにしゃがみ込んだ。


 両手で水をすくう。


 指先が触れた瞬間、氷の針が肌に刺さるような冷たさが走った。


「……冷たい」


 声は、霧に飲まれて消えた。


 メイは水で顔を洗った。頬についた泥が流れ、額の古い傷に水が染みる。ほんの少し痛んだ。あの村で投げられた石の傷。宿場町で塩を浴びせられた時、また開きかけた傷。


 もう、何がいつの痛みなのか、わからなくなっていた。


 それでも左目だけは、布で固く覆っている。


 濡れて重くなった布を、メイは何度も指で確かめた。


 外れていない。


 見えていない。


 それだけで、少しだけ息ができた。


 人里から離れた森の湖畔。


 ここなら誰もいない。


 誰もメイを見ない。


 誰も、紫の瞳に怯えない。


 石も飛んでこない。


 罵声も聞こえない。


 ただ、水の匂いと、湿った苔の匂いと、風が葉を撫でる音だけがある。


 メイは、膝を抱えて湖を見つめた。


 湖面は鏡のようだった。霧のせいで遠くは見えないが、近くの水面には白い空と黒い枝が逆さまに映っている。小さな波が立つたび、その景色はゆらりと崩れ、またゆっくり元に戻った。


(ここに、ずっといられたら)


 そんな考えが浮かんだ。


 浮かんですぐ、メイはそれを押し込めた。


 ずっと、という言葉は危ない。


 前にもそうだった。


 麦畑の村で、ここにいていいと言われた。


 雨の宿場町で、働けばここにいられると思った。


 でも、どちらも壊れた。


 だから、今度こそ何も願わない。


 ただ今日の朝をやり過ごす。


 ただ息をする。


 ただ、次に行くための力が戻るのを待つ。


 それだけでいい。


 ――カチャ。


 霧の向こうから、金属の触れ合う音がした。


 メイの肩が跳ねた。


 小さな音だった。


 けれど、静かな湖畔では雷のように大きく感じられた。


 カチャ、カチャ。


 次は複数の音。


 鎧。


 剣。


 人の足音。


 湿った土を踏む靴音が、少しずつ近づいてくる。


「隊長、この辺りは霧が濃すぎます! 前が見えません!」


「弱音を吐くな。美しき使命は、霧ごときに妨げられぬ!」


 声がした。


 男たちの声だ。


 メイは反射的に立ち上がり、近くの木陰へ隠れようとした。


 その時、足元の小枝を踏んだ。


 ぱきり。


 乾いた音が、無情に響いた。


「むっ!」


 霧の向こうから鋭い声。


「そこにいるのは誰だ!」


 メイは固まった。


 逃げなきゃ。


 そう思うのに、足が動かない。昨日までの雨と空腹と疲れが、体の奥に重石のように沈んでいる。


 霧が揺れた。


 その中から、銀色の鎧をまとった男たちが現れた。


 先頭に立つ男は、他の者よりひときわ派手だった。


 磨かれすぎた鎧は、朝の弱い光を受けて白く光っている。胸元には意味があるのかないのかわからない飾りがいくつもつき、肩当ては必要以上に大きい。金色の髪は、こんな湿った森の中でも崩れず、見事な形を保っていた。


 靴には泥がついていない。


 いや、正確には、泥を踏むたびに彼は顔をしかめ、すぐに部下へ布で拭かせていた。


 男は、メイを見た。


 霧に包まれた湖畔。


 濡れた草の上に立つ、布をかぶった細い少女。


 左目を隠し、泥に汚れ、けれど朝もやの中ではどこか幻のように見える姿。


 男の目が、大きく見開かれた。


「おお……」


 メイは身構えた。


 怒鳴られる。


 怪しまれる。


 捕まえられる。


 そう思った。


 だが、男は突然、片膝をついた。


 しかも、かなり大げさに。


「見つけたぞ……!」


「……え?」


「伝説に語られる、湖の守り人よ!」


 メイは、言葉を失った。


 後ろの騎士たちも、一瞬だけ黙った。


 だが、すぐに一人が小声で言った。


「隊長、伝説にそんな話ありましたっけ」


「ある。今、私の心に浮かんだ」


「それ、伝説じゃなくて思いつきでは」


「黙れ。美しいものは、常に伝説なのだ」


 男は胸に手を当て、立ち上がった。


「私は王立騎士団、白銀小隊隊長、アレイン。弱きを助け、乱れを正し、この世から汚れを払う者だ」


 アレインは、霧の中で剣を抜いた。


 刃が白く光る。


 そして、必要以上に優雅な動きで、それを空へ掲げた。


「湖の守り人よ。我らの高き志を、その清らかな目で見届けていただきたい!」


 メイは、自分の布を押さえた。


「あの……私は、そういうものでは……」


「なんと慎ましい!」


 アレインが感動したように震えた。


「自らの尊さを誇らぬ、その静かな佇まい。まさしく本物だ!」


「違います。本当に、ただの……」


「ただの、などと言わないでください!」


 アレインは強く言った。


「あなたはこの霧の湖に立っていた。つまり、湖に選ばれた存在。私の胸がそう告げています」


(胸で決めないでほしい)


 メイは、心の中で小さく呟いた。


 しかし、部下たちまで妙に納得し始めていた。


「たしかに、霧の中に立ってるとそれっぽいですね」


「布で顔を隠してるのも、何か大事な感じがします」


「俺、ちょっと拝みたくなってきました」


「やめてください」


 メイは慌てた。


 だが、彼らは聞いていない。


 アレインは、すでにメイを「湖の守り人」として扱うことに決めたらしい。自分の中で決めたことを、事実のように押し通す強さがあった。


 それは強引だった。


 面倒でもあった。


 けれど、石は飛んでこなかった。


 誰も、メイの布を剥がそうとはしなかった。


 それだけで、メイはその場からすぐに逃げ出せなかった。


     *


 その後、奇妙な時間が始まった。


 アレインたちは、この森に潜む「悪いもの」を探しているらしかった。何が悪いのか、どこにいるのか、はっきりしたことは誰も知らない。


 ただアレインだけが、まるで世界のすべてを見通しているような顔で歩いていた。


「乱れた枝」


 彼は、道端の折れた枝を指差した。


「美しくない。誰かがここを乱した証拠だ」


「隊長、それは昨日の雨で折れたのでは」


「雨も時に乱れを生む」


「雨にまで厳しい」


 メイは少し離れた場所を歩いた。


 逃げる機会は何度もあった。


 だが、アレインは何かとメイに話しかけてくる。


「湖の守り人よ、足元がぬかるんでいます。お気をつけください」


「湖の守り人よ、冷えてはいませんか。私の外套を――」


「隊長、その外套は昨日洗ったばかりだからって誰にも触らせなかったやつでは?」


「清らかな存在に貸すなら話は別だ」


「……私は大丈夫です」


 メイは小さく答えた。


 心のどこかで、戸惑っていた。


 この人たちは変だ。


 とても変だ。


 けれど、今のところ優しい。


 少なくとも、メイを追い立てようとはしていない。


 昼近くになると、霧は少しずつ薄れていった。


 湖面に淡い陽が差し、銀色の光が水の上に細く伸びる。濡れた草の上では、小さな虫が羽を震わせていた。風が吹くと、湖畔の草が一斉に揺れ、葉についた水滴がぱらぱらと落ちた。


 メイの腹が鳴った。


 ぐう。


 静かな湖畔に、無慈悲な音が響いた。


 アレインが振り返る。


 部下たちも振り返る。


 メイは布の下で顔を赤くした。


「湖の守り人も、腹は減るのですね」


「……減ります」


「なんと身近で尊い」


 アレインがまた感動していた。


 食べ物を持っていなかったメイは、仕方なく湖へ入った。冷たい水が足首を包み、すぐに布の裾まで濡らす。湖底の泥が足の裏にぬるりと触れた。


 水面の下で、魚がきらりと光る。


 メイは息を止めた。


 次の瞬間、腕を水中へ突っ込む。


 ばしゃん!


 水しぶきが上がり、銀色の魚がメイの手の中で跳ねた。


 彼女は岸へ戻ると、少し迷った。


 火を起こす道具はない。


 腹は限界。


 結局、メイは魚に小さく謝ってから、そのままかじった。


 ぱく。


 アレインたちが沈黙した。


 森も、湖も、風も、一瞬だけ黙ったように感じた。


 メイは、口元についた水を拭いながら固まった。


(まずい。さすがに引かれた)


 そう思った。


 だが、アレインは震えていた。


 恐怖ではない。


 感動で。


「なんという……!」


 彼は拳を握りしめた。


「火も、皿も、香辛料も使わず、命をそのまま受け取る姿……飾り気のない美しさ!」


「隊長、ただお腹が空いてるだけでは」


「そこが尊いのだ!」


 アレインは部下たちに向き直った。


「我々も見習うぞ!」


「えっ」


「魚を取れ! そしてそのまま食す!」


「隊長、本気ですか?」


「本気だ。美しき道に迷いはない!」


 しばらくして、湖畔には、魚を生でかじって顔を青くする騎士たちが並んだ。


「ぐっ……生臭い……」


「これが美しさ……?」


「俺は焼いた方が好きです……」


 メイは魚をかじりながら、少しだけ目を伏せた。


 おかしかった。


 少しだけ、ほんの少しだけ。


 笑いそうになった。


 口元が緩むのを、慌てて隠す。


 アレインはそんなメイを見て、誇らしげに頷いた。


「守り人が微笑まれた。よし、我らの道は間違っていない」


「たぶん違う理由だと思います」


 部下の誰かが呟いたが、アレインは聞かなかった。


     *


 午後になると、湖畔の霧はほとんど消えていた。


 代わりに、木々の隙間から斜めに差し込む光が、水面に長く伸びている。風が少し強まり、草が波のように揺れた。葉が擦れる音は、朝より乾いている。


 アレインは湖のそばの倒木に腰を下ろし、剣を布で磨いていた。


 その手つきは、とても丁寧だった。


 少しの曇りも許さないように、何度も何度も刃を拭う。


 メイは少し離れた場所で、それを見ていた。


「君は」


 アレインが、ふと口を開いた。


「ずいぶんと人を避けるのだな」


 メイの肩が小さく揺れた。


 アレインは剣を磨く手を止めなかった。


「事情は聞かない。だが、私は弱き者を守る騎士だ」


 その言葉に、メイの胸がかすかに反応した。


 弱き者を守る。


 その響きは、雨に濡れた体へ差し込む陽のように、ほんの少し温かかった。


「この世には、正しいことと、間違ったことがある」


 アレインは刃を光にかざした。


 磨かれた剣が、午後の陽を受けて白く光る。


「誰かを傷つける者は間違っている。怯える者を救うことは正しい。乱れたものを正し、美しく整える。それが、私の歩む道だ」


 メイは黙って聞いていた。


 人の優しさは変わった。


 お金も奪われた。


 でも、もしこの人の言う「正しいこと」が、本当に誰に対しても同じなら。


 紫の瞳を持つ自分にも、同じように向けられるのだろうか。


 弱き者を守るという言葉の中に、自分も入っているのだろうか。


 そんな考えが、心の奥で小さく芽生えた。


 芽生えた瞬間、メイは怖くなった。


 また期待している。


 また、何かにすがろうとしている。


 それでも、アレインの声はまっすぐだった。


 少なくとも今だけは、そう聞こえた。


「もし誰かに追われているのなら、言いなさい」


 アレインは、真剣な顔でメイを見た。


「我が剣は、怯える者のためにある」


 風が湖面を渡った。


 水が細かく揺れ、光が砕けて散る。


 メイは布の下で、左目をそっと押さえた。


 この布の下を見ても。


 この人は、同じことを言えるのだろうか。


 聞きたい。


 でも、怖い。


 唇が小さく震えた。


「私は……」


 そこまで言いかけた時。


 湖の奥で、何かが動いた。


 水面が、不自然に盛り上がった。


 風が止む。


 鳥の声が消える。


 森全体が息を潜めたような、重い沈黙が落ちた。


 次の瞬間。


 湖の底から、低い音が響いた。


 ずずず……。


 湿った泥が這い上がるような、腹の底を撫でるような音。


 メイは顔を上げた。


 アレインも剣を握った。


 湖面の中央が、大きく膨れ上がっていく。


 そして、腐った泥と枯れ木を寄せ集めたような巨大な影が、霧の残る湖からゆっくりと立ち上がった。


湖から現れたそれは、形だけなら人に似ていた。


 けれど、人ではなかった。


 濡れた泥が寄り集まり、枯れ枝や腐った草を巻き込みながら、無理やり立ち上がったような姿だった。肩らしき部分からは黒い水がだらだらと流れ落ち、腕に見えるものは太い根の束のようにねじれている。


 顔はなかった。


 ただ、泥の表面に赤黒い光がいくつも浮かび、ぎょろり、ぎょろりと別々の方向を見ていた。


 臭いが、遅れてやってきた。


 腐った水草。


 古い泥。


 長い間、陽の当たらない底に沈んでいたものが、無理やり掘り返されたような重たい臭い。


 メイは思わず口元を押さえた。


 湖畔の澄んだ空気が、一瞬で汚されたようだった。朝には銀色に光っていた草の葉も、今は怪物が吐き出す黒い水を浴び、ぐったりと伏せている。


「出たな!」


 アレインが立ち上がった。


 その声には震えがなかった。


 むしろ、どこか嬉しそうですらあった。


「見よ、諸君! これこそ我らが討つべき乱れそのものだ!」


「隊長、でかいです!」


「臭いです!」


「そして怖いです!」


「怖れを認めるな! 美しき心は、泥ごときに負けぬ!」


 アレインは剣を構えた。


 白く磨かれた刃に、泥の怪物の赤黒い光が映る。湖から吹き上がる湿った風が、彼の金色の髪を揺らした。


 メイは、思わず一歩前に出た。


「待ってください。あれは……」


「下がっていなさい、湖の守り人よ」


 アレインは、振り返らずに言った。


「弱き者の前に立つのが、騎士の務めだ」


 その言葉は、まっすぐだった。


 少なくとも、その瞬間だけは。


 メイの胸が、少しだけ揺れた。


 アレインは地面を蹴った。


 ぬかるんだ土を跳ね上げ、白銀の鎧が湖畔を走る。重い鎧を着ているはずなのに、その動きは思ったより速かった。部下たちも慌てて後に続く。


「はああああっ!」


 アレインの剣が、怪物の腕を斬りつけた。


 刃は確かに泥の腕を裂いた。


 しかし、裂けた泥は水のように崩れ、すぐにまた別の形へ戻っていく。


「むっ」


 アレインの眉が動いた。


 怪物が、ゆっくりと腕を振り上げた。


 巨大な泥の塊が、空気を押し潰すように迫る。


「隊長!」


 部下の叫び。


 次の瞬間、アレインは横から殴り飛ばされた。


 がしゃんっ!


 鎧が岩にぶつかる硬い音が響いた。湖畔の鳥たちが一斉に飛び立ち、羽音が霧の残る空へ散っていく。


 アレインは泥の中に倒れた。


 美しく磨かれていた鎧が、一瞬で黒く染まっていた。


「ぐっ……!」


 彼は立ち上がろうとした。


 だが、足元の泥が絡みつき、思うように動けない。部下たちも次々と泥の腕に弾き飛ばされ、草地に転がった。


 湖畔には、悲鳴と金属音が重なった。


 剣が泥を切る。


 だが、斬っても斬っても戻る。


 盾が砕ける。


 鎧に泥が張りつく。


 さっきまで整っていた騎士たちの隊列は、あっという間に崩れた。


 アレインは歯を食いしばり、なおも剣を握った。


「汚い……!」


 彼の声は、怒りに震えていた。


「なんて汚い姿だ。なんて乱れた存在だ……!」


 泥の怪物は答えなかった。


 ただ、赤黒い光をぎょろりと動かし、倒れたアレインの上へ、巨大な腕を振り上げた。


 その腕が落ちれば、鎧ごと潰される。


 メイの体が、勝手に動いた。


 助けたいと思った。


 打算ではなかった。


 この人なら、もしかしたら自分も守ってくれるかもしれない。


 そんな期待があったのかもしれない。


 でも、それ以上に、目の前で誰かが潰されるのを見ていられなかった。


 メイは地面を蹴った。


 湿った草が靴裏で千切れ、冷たい泥水が跳ねる。風が顔の布を打った。湖の臭いが鼻を刺す。泥の腕が、アレインへ落ちていく。


「やめて!」


 メイは両手を突き出した。


 胸の奥で、熱が弾けた。


 目に見えない力が、空気を押し広げる。周囲の霧が一瞬で吹き飛び、湖面が大きくへこんだ。


 どんっ!


 音は、雷に似ていた。


 メイの手から放たれた力が、泥の怪物を正面から打ち抜いた。


 怪物の体が大きく歪む。


 赤黒い光が、ばらばらに揺れた。


 次の瞬間、泥と枯れ枝の巨体は、内側から砕けるように弾け飛んだ。黒い水が雨のように降り、草地を叩く。腐った泥が湖へ戻り、枯れ枝がぽきぽきと音を立てて散らばった。


 湖畔に、静寂が落ちた。


 息の音すら聞こえないほどの静けさだった。


 水面に落ちた泥が、ぽちゃん、ぽちゃんと小さな輪を作っていく。


 メイは肩で息をしていた。


 手が震えている。


 胸の奥が熱い。


 けれど、アレインは助かった。


 それだけでよかった。


「大丈夫、ですか……?」


 メイは振り返った。


 アレインが泥の中に座り込んだまま、こちらを見ていた。


 その目は、大きく見開かれている。


 メイはそこで、初めて気づいた。


 風が、頬に直接当たっている。


 さっきの力の反動で、顔を覆っていた布が外れていた。


 左目が、露わになっていた。


 夕方に傾き始めた光が、雲の切れ間から湖畔へ差し込む。


 その細い光が、メイの左目を照らした。


 紫。


 深い湖の底に、夜の色を溶かしたような瞳。


 誰もが目を奪われるほど美しく、そして誰もが恐れる色。


「あ……」


 メイは慌てて布を探した。


 指先が震える。


 濡れた草の上に落ちている布が見つからない。


 冷たい汗が背中を伝った。さっきまで戦いで熱くなっていた体が、急に氷水へ沈められたように冷えていく。


 アレインの顔が、変わっていた。


 さっきまでの感動も、尊敬も、湖の守り人と呼んだ熱も、そこにはなかった。


 あるのは、信じられないものを見た恐怖。


 そして、泥よりも汚いものを見たような嫌悪だった。


「……その目」


 アレインの声は低かった。


 メイは一歩下がった。


「違うんです。私は……」


「紫の瞳」


 アレインは、ゆっくりと立ち上がった。


 泥にまみれた鎧が、重たそうに音を立てる。


 彼は剣を拾った。


 その切っ先が、メイへ向けられた。


「君は……災いを呼ぶ者だったのか」


 メイの喉が詰まった。


 部下たちも、泥だらけのまま後ずさる。


「まさか……」


「あの目、本当にあったのか」


「隊長、まずいです。離れた方が……」


 さっきまでメイを守り人と呼んでいた者たちが、じりじりと距離を取っていく。


 草を踏む音が、やけに大きく聞こえた。


 ざり。


 ざり。


 まるで、世界全体がメイから離れていく音だった。


「待ってください」


 メイは震える声で言った。


「私は、あなたを助けただけです」


「黙れ」


 アレインの声は、氷のようだった。


 メイの言葉はそこで切られた。


「君は私を騙した」


「騙してなんか……」


「その目を隠していた!」


 アレインは叫んだ。


 森の枝が震えたように感じた。


「私は、清らかな守り人だと思った。弱き者だと思った。守るべき存在だと思った。だが違った。君は、世界を乱す色を持っている」


 メイは、息を忘れた。


 世界を乱す色。


 たった一つの瞳の色。


 それだけで、自分のしたことも、言ったことも、全部なかったことにされる。


「私は……助けたのに」


 声が、かすれた。


 アレインの目が鋭くなる。


「助けた? その力でか?」


 彼は、砕け散った怪物の残骸を見た。


「恐ろしい力だ。美しくない。整っていない。人が持つべきではない力だ」


「でも、あなたを……」


「たとえ命を救われたとしても」


 アレインは剣を握り直した。


「間違った存在を正しいと言うことはできない」


 その言葉が、静かな湖畔に落ちた。


 重く。


 冷たく。


 逃げ場のない石のように。


 メイは理解した。


 アレインが守ると言った「弱き者」の中に、自分はいなかったのだ。


 彼の正しさは、最初から線を引いていた。


 その線の内側にいる者は守る。


 外側にいる者は、たとえ泣いていても、たとえ助けを差し伸べても、たとえ命を救っても、切り捨てる。


「去れ」


 アレインは言った。


「私の前から消えろ。その目を、二度と見せるな」


 部下の一人が、小石を投げた。


 石は、メイの肩に当たった。


 軽い痛みだった。


 でも、胸の奥はまた大きく裂けた。


「怪物と同じだ……」


「近づくな」


「隊長を惑わせたんだ」


 言葉が、泥よりも重くまとわりつく。


 メイは布を拾い上げた。


 濡れて泥のついた布を、左目に押し当てる。


 視界の半分が暗くなる。


 けれど、もう遅かった。


 見られてしまった。


 知られてしまった。


 そして、また同じことが起きた。


「……ごめんなさい」


 メイは小さく言った。


 何に謝っているのか、今回もわからなかった。


 期待してしまったことか。


 助けてしまったことか。


 ここに立っていたことか。


 アレインは答えなかった。


 ただ、剣を向けたまま、メイが去るのを待っていた。


 メイは背を向けた。


 歩き出す。


 最初はゆっくり。


 やがて、足が速くなる。


 湖畔の草が、濡れた足元でざわざわと鳴った。風が背中を押す。針葉樹の葉が擦れ、乾いたような、濡れたような、不思議な音を立てている。


 湖は、また静かになっていた。


 さっきまで泥の怪物が暴れていたとは思えないほど、平らな水面が広がっている。


 そこに、メイの姿が一瞬だけ映った。


 布で顔を隠した、泥だらけの少女。


 その像は、風で揺れた水面にすぐ崩れた。


 森の奥へ入ると、湖の光は見えなくなった。


 アレインたちの声も、剣の音も、遠ざかっていく。


 残ったのは、湿った土を踏む自分の足音だけだった。


 ぐちゃ。


 ぐちゃ。


 靴底に泥が絡みつく。


 冷たい風が、濡れたローブを肌に貼りつかせる。


 メイは歩いた。


 もう、誰かの優しさを信じられない。


 お金も信じられない。


 そして、正しさも信じられない。


 何かにすがろうとするたび、それは形を変えてメイを切った。


 ならば、もう何にもすがらなければいい。


 メイは、布の下で唇を噛んだ。


 涙は出なかった。


 出そうになっても、飲み込んだ。


 泣いたところで、誰も背中を撫でてはくれない。


 誰も、ここにいていいとは言ってくれない。


 森の奥は薄暗かった。


 濡れた枝の間から差し込む光は細く、地面にはまだ朝の雨が残っている。


 メイはその暗がりの中へ、ひとりで消えていった。


 背後の湖は、何事もなかったように、また白い霧をまとい始めていた。

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