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詠唱? それ、気合を入れるためのおまじないですよね? ~異世界キャンピングカーでダンジョンも王国もひっくり返す~  作者: Gaku


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第2話:雨の宿場町と、欲深い商人 〜安心は、握りしめるほど逃げていくものである〜

空は、泣いていた。


 優しく頬を濡らすような雨ではない。空の底が抜け、そこに溜まっていた冷たい水が、地上めがけて一気に流れ落ちてくるような雨だった。


 街道は黒く濡れている。


 馬車の車輪が泥を跳ね上げるたび、ぬかるんだ水が道端の草に飛び散り、細い葉先が重たそうに震えた。枯れかけた雑草は雨粒を受けるたびに身を沈め、また力なく起き上がる。その動きは、倒れても倒れても歩かされる誰かの背中に似ていた。


 遠くに、宿場町レイン・エンドの灯りが見えていた。


 雨で滲んだ橙色の光が、石壁の隙間や宿屋の窓から漏れている。道の両側には、旅人向けの店や馬小屋、倉庫がぎゅうぎゅうに並んでいた。軒先からは雨水が細い滝のように落ち、石畳を叩く音が、ざああ、ぱしゃぱしゃ、ぽたぽたと幾重にも重なっている。


 人の声も多かった。


 荷を守ろうと怒鳴る商人。


 馬をなだめる御者。


 酔った客の笑い声。


 雨宿りをする男たちの舌打ち。


 濡れた獣の臭い、焦げた油の匂い、安酒の酸っぱい匂い、焼き立ての肉から立ち上る脂の香り。すべてが雨に押しつぶされ、重たい空気となって路地の底に溜まっていた。


 その中を、メイは歩いていた。


 頭からかぶった布は雨を吸い込み、ずっしりと重くなっている。ローブの裾は泥水に浸かり、歩くたびに、びちゃ、びちゃ、と冷たい音を立てた。


 靴の中まで水が入っていた。


 一歩踏み出すたび、足指の間で泥水がぬるりと動く。冷え切った足先は、もう痛いのか、感覚がないのかもわからない。


「……おなか……すいた……」


 声は雨音に飲まれた。


 ハーベスト村を出てから、どれほど歩いたのか覚えていない。


 黄金色の麦畑。


 温かいスープ。


 老婆の手。


 石。


 罵声。


 額に残る小さな傷。


 それらは、雨に濡れた布の内側で、何度も何度も浮かんでは沈んだ。目を閉じても、あの広場の焚き火の赤が見える気がした。そして次の瞬間には、老婆の冷たい声が聞こえてくる。


 出てお行き。


 その言葉が、雨より冷たく胸の奥に残っていた。


(期待しない)


 メイは、心の中で繰り返した。


(もう、誰にも)


 そう思ったはずなのに、食堂の窓から漏れる光を見ると、足が止まってしまう。


 中では、人々が湯気の立つ皿を囲んでいた。暖炉の火が赤く揺れ、木のテーブルが温かそうな色に照らされている。パンをちぎる手。スープをすする音。笑い声。


 メイの腹が、低く鳴った。


 ぐううう、と、情けないほど長く。


 それは雨音の隙間を縫って、自分の耳にはっきり届いた。


 メイは慌てて腹を押さえた。


 恥ずかしさよりも、惨めさが先に来た。


 自分は今、あの窓の向こう側にいる人たちとは違う場所にいる。温かい食べ物の匂いを嗅ぎながら、それに手を伸ばすことも許されない側だ。


 宿場町の石畳の上を、ただの泥と同じように踏まれていく存在。


「おい」


 頭上から声がした。


 メイは、びくりと肩を震わせた。


 軒先に、腹の出た中年男が立っていた。


 丸い顔には脂が浮いている。額には汗なのか雨なのかわからない水滴が張りつき、太い指には、いくつもの安っぽい指輪が光っていた。身なりは悪くない。だが、その目には、温かさより先に、計算するような冷たい光が宿っていた。


 男は、宿屋兼食堂「金のガチョウ亭」の店主、ガルドだった。


「そこの濡れネズミみたいな嬢ちゃん」


 メイは逃げようとした。


 だが、足に力が入らなかった。体は冷え、腹は空き、心はすでに何度も折れている。逃げるための力さえ、残っていなかった。


 ガルドは、メイを上から下までじろじろと見た。


 濡れたローブ。


 泥だらけの靴。


 顔を隠す厚い布。


 そして、その布の隙間から少しだけ覗く、白い頬。


 ガルドの目が、ほんの少しだけ細くなる。


「飯、食いたいか?」


 その一言で、メイの喉が鳴った。


 罠かもしれない。


 利用されるだけかもしれない。


 また、最後には追い出されるかもしれない。


 そう思った。


 思ったのに。


 メイの体は、勝手に小さく頷いていた。


 ガルドの口元が、にやりと吊り上がる。


「いいだろう。入れ。死なれちゃ寝覚めが悪い」


 その声は優しくはなかった。


 けれど、開かれた扉の向こうから流れてくる暖かい空気と、肉を煮込む匂いに、メイは抗えなかった。


 店内に入った瞬間、体中の皮膚がじんじんと痛んだ。


 外が冷たすぎたせいで、暖かさが痛みに変わったのだ。暖炉の火が赤く揺れ、濡れたローブから白い湯気がうっすら立ち上る。木の床には、雨に濡れた客の足跡がいくつも残っていた。


 酒の匂い。


 煮込み料理の匂い。


 人の体温。


 それらが一度に押し寄せてきて、メイは目眩を覚えた。


「ほら、これでも食ってろ」


 ガルドが、欠けた木の椀をメイの前に置いた。


 中には、冷めかけたスープが入っていた。具は少ない。野菜の切れ端と、小さな肉のかけらが底に沈んでいるだけだ。


 それでも、メイにはご馳走だった。


 手が震える。


 椀を持ち上げる指先に力が入りすぎ、木がみしりと鳴った。


「壊すなよ、それも金がかかってるんだからな」


「す、すみません」


 メイは小さく謝り、スープを口に運んだ。


 ぬるい。


 少し脂っぽい。


 塩も強い。


 それでも、喉を通った瞬間、体の奥が震えた。


 涙が出そうになった。


 けれど、メイは泣かなかった。


 ここで泣けば、また何かを期待してしまいそうだったから。


 ガルドは、そんなメイをじっと見ていた。


 スープを飲む仕草。


 布の下から覗く頬。


 雨で濡れて張りついた髪。


 汚れてはいるが、隠しきれない顔立ち。


 彼の頭の中で、見えないそろばんが弾かれ始めた。


「嬢ちゃん、名前は?」


「……メイ、です」


「ふうん。メイか」


 ガルドは顎を撫でた。


「いいか、メイ。タダ飯なんてものは、この世にない」


 メイは椀を持つ手を止めた。


 やっぱり。


 胸の奥が、少しだけ沈む。


 だがガルドは、怒鳴りつけるでも追い出すでもなく、にやにやしたまま続けた。


「食わせた分は働いてもらう。ちょうど人手が足りなかったんだ。皿洗いでも掃除でも、何でもやれ」


「……働けば、ここにいてもいいんですか」


 思わず、そう聞いていた。


 自分で口にしてから、メイはしまったと思った。


 ここにいてもいい。


 その言葉を、また求めてしまった。


 ガルドは肩をすくめた。


「稼げるならな」


 冷たい言い方だった。


 けれど、メイには、その冷たさが少しだけ安心できた。


 優しさは変わる。


 笑顔は裏返る。


 でも、働く。


 食べる。


 払う。


 そういう形のあるものなら、裏切られにくいのかもしれない。


 メイは、椀を両手で握ったまま、小さく頷いた。


「働きます」


「よし」


 ガルドは満足そうに笑った。


 その笑みは、助けた人間の顔ではなかった。


 良い商品を見つけた商人の顔だった。


     *


 翌日。


 雨はまだ降っていた。


 窓を叩く雨粒が、朝から絶え間なく音を立てている。灰色の光が店内に差し込み、木の床に薄く伸びていた。外の通りでは、馬車が泥を跳ね、旅人たちが肩をすぼめて歩いている。


 そんな中、「金のガチョウ亭」には、いつもより多くの客が入っていた。


 理由は簡単だった。


 昨夜、雨の中から拾われた謎の美少女が、店で働き始めたからである。


「いいか、メイ」


 ガルドは腕を組み、偉そうに言った。


「看板娘というのはな、笑顔だ。客に愛想よくする。にこっと笑う。わかるな?」


「……はい」


「やってみろ」


 メイは緊張した。


 笑顔。


 それは、長い間使っていない道具のようなものだった。どこに力を入れればいいのか、どう動かせばいいのか、わからない。


 それでも彼女は、必死に口角を上げた。


 その結果。


 店に入ってきた最初の客が、入口で固まった。


「ひっ……」


 メイの顔は、笑顔というより、暗い森の奥で獲物を見つけた何かの表情になっていた。


 口元だけが引きつり、目は緊張で見開かれ、全体として「今からあなたをどうにかします」という迫力に満ちていた。


 客は一歩下がった。


 メイは慌てた。


「い、いらっしゃいませ」


 声も震えた。


 その震えがさらに不気味さを増した。


「ガ、ガルド……今日の看板娘、なんか……強いな」


 客が青ざめた顔で呟く。


 ガルドは頭を抱えた。


「違う! もっと柔らかく! ほら、目を細めろ!」


「目を……細める……」


 メイは言われた通り、目を細めた。


 すると今度は、完全に暗殺者の目になった。


 何も言わずに相手の弱点を探しているような、静かで冷たい視線。


 客は震えた。


 だが、なぜか席についた。


「……悪くない」


「え?」


「いや、なんというか……あの冷たい目で注文を聞かれるの、ちょっと癖になるな」


 別の客も身を乗り出した。


「俺も見てほしい」


「俺も」


「おい、列を作るな!」


 ガルドの怒鳴り声が店内に響いた。


 メイは困惑しながら、注文を取り始めた。


「えっと……エール三つ、煮込み二つ、黒パン一つ……ですね」


 ここまではよかった。


 問題は、運ぶ時だった。


 メイはエールの入ったジョッキを三つ持ち、客のテーブルへ向かった。木の床を踏む靴音が、こつ、こつ、と慎重に響く。彼女なりに、とても丁寧に歩いていた。


 そして、テーブルにジョッキを置いた。


 どんっ。


 軽く置いたつもりだった。


 しかし、分厚い木のテーブルに、ジョッキの底がめり込んだ。


 店内が静まり返った。


 雨音だけが、窓の外でざあざあと鳴っている。


「……あ」


 メイは青ざめた。


 客は、テーブルに半分埋まったジョッキを見つめていた。


「す、すみません。すぐに取ります」


 メイは慌ててジョッキを引き抜いた。


 勢い余って、エールが天井まで噴き上がった。


 琥珀色の液体が、雨漏りのように店内へ降り注ぐ。


「うわあああ! 冷てぇ!」


「酒の雨だ!」


「口開けろ! もったいねぇ!」


「床に落ちたのを飲むな!」


 店内は一瞬で大騒ぎになった。


 メイは布巾を持って駆け寄る。


「すみません、拭きます!」


 彼女は客の頭にかかったエールを拭こうとした。


 必死だった。


 だが、必死すぎた。


 手の動きが速すぎて、布巾が残像を残した。


「あだだだだだ! 頭皮! 頭皮が持っていかれる!」


「す、すみません!」


「磨くな! 俺は皿じゃねぇ!」


 客の頭は、雨上がりの石畳のようにぴかぴかになった。


 店内に、また笑いが起きた。


 怒鳴り声も混じっていた。


 けれど、その多くは不思議と楽しげだった。


 メイは何度も謝りながら、床を拭き、皿を運び、注文を聞いた。


 失敗は続いた。


 皿を置けば、テーブルに皿型のへこみができた。


 椅子を引けば、椅子の脚が一本抜けた。


 辛いスープを頼まれれば、香辛料の量がわからず、鍋の中身を真っ赤に染めた。


 それを飲んだ客は、目を見開き、しばらく無言になったあと、椅子ごと後ろへ倒れた。


「水……」


「水をください……」


「いや、これはこれで……すごい……!」


 なぜか、翌日には「あの地獄みたいな赤いスープを出す美少女がいる店」として噂になった。


 さらに翌日には、腕に覚えのある客たちが挑戦しに来た。


 その次の日には、メイの冷たい目で注文を取られたい客と、激辛スープに挑む客と、テーブルにめり込んだジョッキを見物したい客で、店は満席になった。


 ガルドは、厨房の奥で銀貨を数えながら笑いが止まらなくなっていた。


 ちゃりん。


 ちゃりん。


 銀貨が重なっていく音が、雨音よりもはっきり聞こえる。


 メイはその音を、店の隅でじっと聞いていた。


 金属が触れ合う硬い音。


 人の笑い声よりも、ずっと変わりにくそうな音。


 人の心のように、急に裏返ったりしない音。


 ガルドは、銀貨を一枚つまみ上げ、ランプの光にかざした。


「見ろ、メイ」


 その銀色の円が、雨の夜の薄暗い店内で鈍く光った。


「こいつはいいぞ。誰が持っても価値がある。泣こうが笑おうが、好きだ嫌いだと言おうが、銀貨は銀貨だ」


 メイは、黙って見つめた。


「人の気持ちは変わる。昨日まで笑っていた奴が、今日には石を投げることもある」


 メイの肩が、小さく震えた。


 ガルドはそれに気づいたのか、気づかなかったのか、さらに続けた。


「だが、金は違う。こいつは重い。硬い。見ればわかる。握ればわかる。これさえあれば、飯も寝床も手に入る。誰かに許してもらわなくても、生きていける」


 メイの胸の奥に、その言葉が沈んでいった。


 温かい言葉ではなかった。


 でも、はっきりしていた。


 故郷だと思っていい、という言葉よりも。


 姫様、と笑う声よりも。


 この銀貨の硬い光の方が、壊れにくいものに見えた。


 ガルドは一枚の銀貨を、メイの掌に置いた。


 ひやりと冷たい。


 ずしりと重い。


 メイはそれを握りしめた。


 冷たさが、掌から心臓の方へ伝わっていく。


 不思議と、少しだけ安心した。


「もっと稼ぎたいか?」


 ガルドが聞いた。


 メイは銀貨を握ったまま、ゆっくり頷いた。


「……はい」


 その答えに、ガルドは満足そうに笑った。


「いい目になってきたじゃねぇか」


 雨は、まだ窓を叩いていた。


 外の世界は冷たい。


 人の心も、きっと冷たい。


 けれど、この掌の中にあるものだけは、確かに形があった。


 メイは、銀貨を強く握りしめた。


 強く。


 もっと強く。


 握りしめるほど安心できる気がした。


 その力が強すぎれば、いずれ自分の掌を傷つけることになるなど、この時のメイはまだ知らなかった。


それから数日、メイは「金のガチョウ亭」で働き続けた。


 雨は、降ったりやんだりを繰り返していた。


 朝になれば、宿場町の石畳は濡れた魚の鱗のように鈍く光り、馬車の車輪が通るたびに泥水が跳ねた。昼には灰色の雲の切れ間から弱い陽が差し、屋根の端に残った雨粒が細く光る。けれど夕方になると、また空は重く沈み、雨音が店の窓を絶え間なく叩いた。


 店の中は、いつも騒がしかった。


 濡れた外套を脱ぐ旅人のため息。


 ジョッキをぶつけ合う客の笑い声。


 鍋の中で煮込みが小さく泡立つ音。


 床を踏む靴音。


 メイが皿を運ぶたび、客たちは少し身構えた。なぜなら、彼女が「そっと置いた」つもりの皿は、時々テーブルに軽くめり込むからだ。


「メイちゃん、今日は優しくな! 優しく!」


「はい。優しく……」


 メイは真剣に頷き、スープ皿を置いた。


 ことん。


 今度はうまくいった。


 店内に、どよめきが走る。


「おお……!」


「普通に置いたぞ!」


「成長してる……!」


「いや、皿を置いただけで感動される看板娘ってなんだよ!」


 客たちが笑う。


 メイは、少しだけ困った顔をした。


 前なら、その笑い声に怯えていたかもしれない。


 でも今は、少し違った。


 この店の客は荒っぽい。酔って怒鳴るし、下品な冗談も飛ばす。けれど、メイが失敗しても、ほとんどの客は笑って済ませた。彼女の左目を隠す布を不審がる者もいたが、ガルドが「都会の流行だ」と適当に言えば、それ以上追及されることはなかった。


 もちろん、ここが温かい場所だと信じたわけではない。


 メイはもう、そんなふうに簡単には思えなかった。


 けれど、皿を運べば飯が出る。


 床を磨けば寝床がある。


 客を呼べば、銀貨が鳴る。


 その単純さは、傷ついた心には心地よかった。


 誰かの笑顔にすがるより、手の中の硬い銀貨を信じる方が安全に思えた。


 夜、店を閉めた後。


 客の去った食堂には、雨音だけが残った。


 窓の外では、軒先から落ちる雨水が、ぽた、ぽた、ぽた、と石畳を叩いている。暖炉の火は小さくなり、赤くなった薪が時折ぱちりと鳴った。酒と脂の匂いが染み込んだ木の床には、長い一日の熱がまだ残っている。


 ガルドはカウンターの奥で、売上の銀貨を数えていた。


 ちゃりん。


 ちゃりん。


 ちゃりん。


 その音は規則正しく、妙に落ち着いた響きを持っていた。


「いいぞ、メイ。お前が来てから売上が倍近い」


 ガルドは歯を見せて笑った。


「客は馬鹿だな。ちょっと顔のいい娘が皿を運ぶだけで、いくらでも金を落とす」


 メイは床を拭く手を止めず、小さく頷いた。


 褒められているのか、道具として喜ばれているのか、わからなかった。


 けれど、それでもよかった。


 ここでは役に立てば飯が出る。


 必要とされている間は、追い出されない。


 それだけで十分だと思うことにした。


「メイ」


 ガルドが銀貨を一枚、指先で弾いた。


 銀貨は小さく宙を舞い、ランプの光を受けて鈍く光った。それをメイが両手で受け止める。


 ひやりと冷たい感触。


 ずしりとした重み。


「それは今日の分だ。なくすなよ」


「……ありがとうございます」


 メイはその銀貨を見つめた。


 丸い。


 硬い。


 冷たい。


 誰の機嫌にも左右されないものに見えた。


 額に残る傷が、雨の日になると少し痛む。そのたびにハーベストの焚き火と、老婆の顔を思い出す。けれど、銀貨を握っている間だけは、その痛みがほんの少し遠ざかる気がした。


(これがあれば、大丈夫)


 メイは、心の中で呟いた。


(これを増やせば、きっと……もう誰にも頼らなくていい)


 その考えは、冷たい雨の夜に差し込んだ、細い灯りのようだった。


 けれど灯りは、近づきすぎれば影を濃くする。


 メイはまだ、それに気づいていなかった。


     *


 その夜、雨は特に強かった。


 屋根を叩く音が、まるで無数の小石を投げつけられているように激しい。窓ガラスは風に揺れ、時折、遠くで雷が低く唸った。宿場町の通りからは人の気配が消え、馬小屋の奥で怯えた馬が鼻を鳴らす音だけが聞こえた。


 閉店間際の「金のガチョウ亭」には、もう客はいなかった。


 メイは厨房で、最後の皿を洗っていた。冷たい水に指を浸すたび、皮膚がきゅっと縮む。暖炉の火は食堂の方にあるため、厨房の隅は足元から冷えていた。


 ガルドはカウンターの下に隠した小箱を取り出し、今日の売上をしまおうとしていた。


 その時だった。


 ばんっ!


 扉が、内側へ弾けるように開いた。


 冷たい雨風が、一気に店内へ吹き込んだ。暖炉の火が大きく揺れ、壁に映る影が化け物のように伸びる。


 入ってきたのは、泥だらけの男たちだった。


 三人。


 いや、奥にもう一人いる。


 濡れた外套から水が滴り、床に黒い跡を作っていく。手には短い剣や棍棒。顔には、飢えた犬のような荒んだ目。


「金を出せ」


 先頭の男が、低い声で言った。


 その声は、雨音よりも冷たかった。


「この店が最近、稼いでるのは知ってるんだよ」


 ガルドの顔から血の気が引いた。


「ま、待て。話せばわかる。金なら少しは――」


「全部だ」


 男が剣を抜いた。


 鋼の刃が、暖炉の赤を受けてぬらりと光る。


 食堂の空気が、一瞬で凍った。


 外では雨が鳴っている。


 中では誰も動かない。


 メイは厨房の入口で、濡れた手を握りしめたまま立ち尽くした。指先から水が落ち、床に小さな丸い染みを作る。


 逃げることはできる。


 窓を破って、裏口から飛び出して、雨の中へ消えることは簡単だった。


 男たちは、メイの足元にも及ばない。


 それはわかっていた。


 けれど、足が動かなかった。


 ガルドが、店が、売上の詰まった小箱が目に入る。


 この店がなくなれば、メイはまた雨の中へ戻る。


 食べ物も、寝床も、銀貨の音もなくなる。


 やっと手に入れた「形のある安心」が、また奪われる。


 嫌だった。


 失いたくなかった。


「おい、そこの娘」


 盗賊の一人が、メイに気づいた。


「こっちへ来い。客寄せの看板娘か? 顔を見せろよ」


 その言葉に、メイの背中を冷たい汗が伝った。


 布。


 左目。


 紫。


 だめだ。


 見られてはいけない。


 メイは一歩下がった。


 だが、盗賊は笑いながら近づいてくる。


「震えてんのか? かわいいじゃねぇか」


 男の汚れた手が、メイの布へ伸びた。


 その瞬間、メイの中で何かが弾けた。


「……触らないで」


 声は小さかった。


 けれど、床を這うような低さがあった。


「あ?」


 男が笑った。


 次の瞬間、厨房の丸椅子が宙を飛んだ。


 どんっ!


 椅子は男の顔面に直撃し、そのまま男ごと食堂の壁へ叩きつけた。壁の棚が揺れ、安酒の瓶が何本も落ちて割れる。酸っぱい酒の匂いが一気に広がった。


「な、なんだ!?」


「この女!」


 残りの盗賊たちが、一斉にメイへ襲いかかった。


 メイは考えなかった。


 ただ、動いた。


 剣が振り下ろされる。


 その軌道を半歩で避け、男の腹に肘を入れる。鈍い音がして、男が空気を吐きながら膝をつく。


 棍棒が横から来る。


 メイは身を沈め、床に落ちていた皿を拾い上げる。皿は彼女の手の中で白く弧を描き、男の額に命中した。


「ぐえっ!」


 男が椅子ごと倒れる。


 だが、狭い店内だった。


 足元には割れた瓶。


 濡れた床。


 倒れた椅子。


 メイが一瞬足を取られた。


 その隙を、最後の男が逃さなかった。


 剣先がメイの顔をかすめる。


 びりっ。


 乾いた布が裂ける音がした。


 世界が止まった。


 メイの左目を覆っていた布が、ゆっくりと宙を舞った。


 その瞬間、雷が鳴った。


 窓の外が白く光る。


 青白い稲妻の光が、メイの顔を照らした。


 乱れた髪の間から、隠されていた左目が露わになる。


 紫の瞳。


 深い夜の底に、ひとしずくの毒を落としたような色。


 美しくて、不気味で、見る者の心に言い知れない恐れを生む色。


 盗賊たちの動きが止まった。


 雨音だけが、異様にはっきりと響いている。


「む、紫……」


「紫の瞳……!」


「災いの魔女だ!」


 さっきまで剣を振り上げていた男たちが、顔を引きつらせて後ずさった。


「呪われるぞ!」


「逃げろ!」


 彼らは、金の小箱も、倒れた仲間も置き去りにして、扉から飛び出していった。雨の中へ転がるように逃げていく足音が、ばしゃばしゃと遠ざかっていく。


 店内に、静寂が戻った。


 割れた瓶から酒が床へ広がっている。


 倒れた椅子。


 乱れたテーブル。


 暖炉の火が、小さく揺れている。


 メイは息をしていた。


 肩が上下する。


 手が震えている。


 それでも、店は守った。


 売上も無事だった。


 ガルドも生きていた。


 だから。


 大丈夫だと、思いたかった。


「ガルドさん……」


 メイは、ゆっくりと振り返った。


「怪我は……」


 言葉が止まった。


 ガルドは、床に尻もちをついたまま、メイを見ていた。


 その目。


 見覚えのある目だった。


 ハーベストの村人たちと同じ目。


 温かさが消え、代わりに恐怖と嫌悪だけが残った目。


「お前……」


 ガルドの唇が震えた。


「その目……」


 メイの胸の奥が、冷えていく。


「違います。私は、店を守って……」


「近づくな!」


 ガルドは叫んだ。


 その声は、店の壁にぶつかって跳ね返った。


「お前がそんな目をしてるなんて聞いてねぇ! 紫の瞳だと? ふざけるな!」


「でも、盗賊を追い払いました。売上も……」


「黙れ!」


 ガルドはカウンターの上にあった塩の壺を掴んだ。


 そして、中身をメイへ投げつけた。


 白い粒が雨に濡れた髪と頬に張りついた。額の小さな傷に染みて、鋭い痛みが走る。


 けれど、その痛みよりも、ガルドの声の方が痛かった。


「お前がここにいると客が来なくなる! 俺の店が終わる! 金が逃げるんだよ!」


 メイは、何も言えなかった。


 ガルドが見ていたのも、自分ではなかったのだ。


 客を呼ぶ顔。


 売上を増やす看板娘。


 便利で、使える、都合のいい存在。


 それが崩れた瞬間、メイはただの厄介者になった。


 胸の奥で、何かがまたひび割れる音がした。


「……わかりました」


 メイは小さく言った。


 抵抗する気力はなかった。


 説明しても、きっと届かない。


 彼女は足元に落ちていた布を拾い、左目を覆った。雨と汗と血と塩で汚れた布は、もう少しも清潔ではなかった。それでも、隠さずにはいられなかった。


 床に、銀貨が一枚落ちていた。


 さっきガルドがくれた、今日の分。


 メイは、それに手を伸ばした。


 だが、ガルドの靴が先に銀貨を踏んだ。


「触るな」


 低い声だった。


「それは俺の金だ。呪われた手で触るんじゃねぇ」


 メイの指が、空中で止まった。


 銀貨は、そこにある。


 形も、重さも、光もある。


 けれど、もうメイのものではなかった。


 金は裏切らないと思っていた。


 でも、金を持つ人間が変われば、銀貨一枚でさえ手の届かない場所へ行ってしまう。


 メイは、ゆっくりと手を引っ込めた。


「……そうですか」


 それだけ言って、背を向けた。


 扉を開ける。


 雨が、待っていた。


 冷たい風が店内へ吹き込み、暖炉の火が大きく揺れた。外の通りは暗く、軒先から落ちる水が白い線になっている。


 メイは一歩、外へ出た。


 背後で、扉が乱暴に閉められる。


 がちゃん。


 さらに、かんぬきが下ろされる音がした。


 それは、世界がもう一度メイを締め出す音だった。


 雨は容赦なく降っていた。


 髪に張りついた塩が溶け、額の傷に染み込む。頬を伝うものが、雨なのか涙なのか、もうわからなかった。


 メイは宿場町の暗い通りに立ち尽くした。


 手の中には何もない。


 スープもない。


 寝床もない。


 銀貨もない。


 ただ、破れた布だけを握りしめている。


「……金も、裏切るじゃんか」


 小さな呟きは、雨音にかき消された。


 誰にも届かなかった。


 メイは歩き出した。


 びちゃ。


 びちゃ。


 泥水を踏む靴音が、夜の底へ沈んでいく。


 宿場町の灯りは、背後でぼんやりと滲んでいた。あの窓の向こうには、まだ暖炉があり、煮込みの匂いがあり、銀貨の音がある。


 でも、そこにメイの場所はなかった。


 雨は、夜明けまで降り続いた。


 そしてメイは、また一人で、次の道へ進むしかなかった。

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