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詠唱? それ、気合を入れるためのおまじないですよね? ~異世界キャンピングカーでダンジョンも王国もひっくり返す~  作者: Gaku


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第1話:黄金色の麦畑と、かりそめの楽園 〜幸せは、壊れる前ほど甘く見えるものである〜

秋の陽は、世界のすべてを黄金色に染めていた。


 辺境の農村、ハーベスト。


 その名の通り、村は収穫の季節を迎えていた。見渡す限りの麦畑が、夕暮れの光を受けて、ゆっくりと波打っている。風が吹くたび、麦の穂は一斉に身を傾け、さらさら、さらさらと乾いた音を立てた。


 それは雨音よりも軽く、砂の音よりも柔らかい。


 太陽は西の空に沈みかけ、長く伸びた村人たちの影が、畑のあぜ道に黒く落ちていた。刈り取られた麦の束が荷車に積まれ、家々の煙突からは細い煙が上っている。風に混じって、焼きたてのパンの香ばしい匂いと、干した藁の甘く乾いた匂いが漂ってきた。


 どこかで子供が笑っている。


 どこかで鶏が羽ばたいている。


 鍬を洗う水音が、夕暮れの静けさの中で、やけにはっきりと響いていた。


 何もかもが穏やかだった。


 明日も、明後日も、この村では同じように朝が来て、同じように人々が畑へ出て、同じように夕飯の匂いが家々から漂うのだろう。そんなふうに思わせるほど、ハーベストの景色は整っていた。


 けれど、その黄金色の中に、ひとつだけ場違いな影があった。


「……む、り……」


 かすれた声が、麦のざわめきに紛れて消えた。


 村へ続く一本道を、一人の少女が歩いていた。


 頭からすっぽりと古びた布を被り、泥に汚れたローブを引きずるようにしている。歩くたび、靴底が乾いた土をこすり、ざり、ざり、と頼りない音を立てた。足取りはまっすぐではない。右へ揺れ、左へ傾き、まるで風に飛ばされかけた枯れ葉が、どうにか地面にしがみついているようだった。


 少女の名は、メイ。


 彼女の腹は、もう何度目かもわからない悲鳴を上げていた。


 ぐう、という可愛らしい音ではない。


 腹の奥で、見えない獣が檻を蹴り破ろうとしているような、低く、切実で、情けない音だった。


(最後に食べたの……いつだっけ)


 考えようとしても、頭の中に霧がかかったように何も浮かばない。


 三日前だったか。


 四日前だったか。


 それとも、昨日、道端で拾った固い木の実を一粒かじったのが最後だったか。


 思い出そうとした瞬間、足元の土がぐにゃりと歪んだ気がした。メイは慌てて踏みとどまる。麦畑も、夕陽も、道の先に見える村の屋根も、すべてが水の中に沈んだ絵のように揺れていた。


 空腹は、体だけを弱らせるものではない。


 音が遠くなる。


 光が刺さる。


 足が自分のものではなくなる。


 そして何より、心の奥に残っていた小さな警戒心まで、ふやけた紙のように頼りなくなっていく。


 村の入口が見えた。


 その手前、村長の家らしい大きな建物のそばに、刈り取られたばかりの干し草が高く積まれていた。夕陽を浴びたその山は、ふかふかと柔らかそうで、金色の光をまとっていた。


 メイは立ち止まった。


 目が、干し草の山に吸い寄せられる。


 それは、もう干し草には見えなかった。


 焼き色のついた巨大なパンにも見えた。


 湯気を立てる山盛りのじゃがいもにも見えた。


 あるいは、体ごと沈み込めば二度と起きなくていい、夢のような寝床にも見えた。


「……ふとん」


 口からこぼれた言葉に、自分でも気づかなかった。


 次の瞬間、メイの中で最後の細い糸がぷつりと切れた。


 彼女は地面を蹴った。


 本来なら、猫のように軽く、音もなく跳べたはずだった。けれど今の彼女の体は、空腹で思うように動かなかった。足は強く地面を蹴りすぎ、体は予定より高く浮き、着地点は見る見るうちにずれていく。


「あ」


 短い声。


 それが、メイの最後の抵抗だった。


 次の瞬間。


 ずぼおおおおおんっ!


 静かな農村に、ありえない音が響き渡った。


 積み上げられていた干し草が、内側から爆発したように跳ね上がる。黄金色の藁が夕陽の中で舞い、細かな埃が光を受けてきらきらと浮かんだ。近くの柵に止まっていた鳥たちが、驚いて一斉に飛び立つ。羽音がばさばさと重なり、村の空気が一瞬だけ騒がしく乱れた。


 そして、静けさが戻った。


 干し草の山には、メイの上半身が完全に埋まっていた。


 外に出ているのは、細い足だけ。


 二本の足が、空に向かって真っ直ぐ突き出ている。


 ぴくりとも動かない。


 村の広場に、前衛的すぎる何かが完成していた。


「……」


「……」


「……人か?」


 最初に声を出したのは、鍬を持った老人だった。


 次に、井戸端にいた女が悲鳴を上げた。


「きゃああああ! 干し草から足が生えた!」


「いや、落ちてきたんだ! 空から人が落ちてきたぞ!」


「畑の神様か!?」


「いや、足だけ見てもわからんだろう!」


 村中が一気に騒ぎ出した。


 大人たちが駆け寄り、子供たちは遠巻きに見守り、犬は何が楽しいのか尻尾を振って吠え続けた。村長らしき白ひげの男が慌ててやってきて、突き出た足を見下ろす。


「と、とにかく引っ張れ! 生きておるかもしれん!」


「どっち向きに引けばいいんだ?」


「足を持つしかないだろう!」


「抜いた瞬間に首が取れたりしないよな?」


「怖いことを言うな!」


 数人の男たちが、メイの足をそろそろと掴んだ。


「せーの!」


 ぼふっ。


 干し草の山から、藁まみれの少女が引き抜かれた。


 メイは地面に降ろされると、しばらく目を閉じたまま動かなかった。ローブは泥だらけ、髪には藁が絡み、頬にも土がついている。だが、その汚れの下にある顔立ちは、村人たちが息を飲むほど整っていた。


 夕陽が、メイの白い頬を照らす。


 藁の隙間からこぼれた髪が、淡い光を受けて、かすかに銀色を帯びた。


 メイは、ゆっくりと目を開けた。


 視界いっぱいに、村人たちの顔があった。


「ひっ」


 喉が細く鳴る。


 近い。


 あまりにも近い。


 鼻息がかかる距離に、知らない人間の顔がいくつも並んでいた。


 メイの体が一瞬で硬くなる。背中に冷たい汗がにじんだ。布の下に隠した左目の存在を、体が先に思い出す。


(見つかった。逃げなきゃ)


 また石を投げられる。


 また怒鳴られる。


 また、あの目で見られる。


 メイは反射的に身を起こそうとした。けれど、力が入らない。指先が震え、膝が笑う。逃げるどころか、立ち上がることさえ難しかった。


 その時、村長が震える声で呟いた。


「……なんと、美しい」


 メイは固まった。


 罵声ではなかった。


 嫌悪でもなかった。


 村長の声には、信じられないものを見た時の驚きと、少しの畏れが混じっていた。


「泥にまみれてなお、この清らかさ……」


「空から落ちてきて無傷だぞ」


「ただ者じゃねぇ」


「もしかして、豊作を祝いに来た姫様じゃないか?」


「姫様?」


「そうだ! 隣の国のお姫様がお忍びで視察に来たんだ!」


「でも姫様が干し草に頭から刺さるか?」


「姫様にも事情があるんだろう!」


 村人たちの話が、メイを置き去りにして勝手に走り始めた。


「あ、あの……私は……」


 メイは小さく手を上げた。


「ただの旅人で……」


「ご謙遜を!」


 村長が両手を広げた。


「そのお顔、その気品、その登場の派手さ! ただの旅人が干し草へ見事に突き刺さるわけがありません!」


(そこ、褒めるところなの……?)


 メイは藁まみれのまま、ぽかんとするしかなかった。


 その時、村長の娘らしい少女が、メイの顔をじっと見つめた。


「ねえ、その左目の布、どうしたの? 怪我?」


 空気が、メイの中だけで凍った。


 胸の奥で心臓が跳ねる。


 どくん。


 その音だけが、やけに大きく聞こえた。


 背中を汗が伝う。冷たい汗だった。夕暮れの風が吹き抜け、濡れた背中に触れると、ぞっとするほど寒かった。


 左目。


 紫の瞳。


 それこそが、メイが世界から追われ続けてきた理由だった。


 見られてはいけない。


 絶対に。


 けれど、村人たちは無邪気に見つめている。疑っているというより、ただ珍しがっているだけの顔だった。


 メイは喉を鳴らした。


 頭の中は真っ白だった。


 そして、追い詰められた彼女の口から、とんでもない言葉が飛び出した。


「こ、これは……おしゃれです」


「……おしゃれ?」


 風が吹いた。


 麦畑が、さらさらと鳴った。


 村人たちは、そろって固まった。


 メイは、もう止まれなかった。


「都では今、片目を隠すのが流行っていて……とても、えっと……都会っぽいんです」


 自分で言いながら、顔が熱くなる。


(何を言ってるの、私)


 しかし、次の瞬間。


 村長の娘が、目を輝かせた。


「やっぱり! 私、そうじゃないかと思ってたの! なんか不思議で、すごく素敵だもん!」


「おお、都ではそういうものが流行るのか!」


「さすが姫様だ!」


「俺も明日から片目を隠すぞ!」


「お前がやったら畑で転ぶだけだ!」


 村人たちがどっと笑った。


 その笑い声は、メイを責めるものではなかった。


 温かく、明るく、そして少し間抜けだった。


 メイは呆然としたまま、その輪の中に座っていた。


 誰も石を拾わない。


 誰も怒鳴らない。


 誰も、彼女を追い払おうとしない。


 それどころか、村人たちは口々に言った。


「姫様、腹が減っておるでしょう」


「ちょうど今夜は収穫祭だ!」


「遠慮はいらねぇ。食っていけ!」


 食っていけ。


 その言葉が、メイの空っぽの腹と、もっと空っぽだった胸の奥に、ゆっくりと染み込んだ。


 その夜、ハーベストの広場には、収穫祭の準備の音が満ちていた。


 薪が割られ、鍋が火にかけられ、麦の束が飾られていく。赤く燃える夕陽が村の屋根を照らし、やがて空は茜から深い紫へと変わっていった。


 メイは断りきれず、祭りの手伝いをすることになった。


「姫様、その麦束を少し運んでくれるかい?」


「はい」


 メイは頷き、近くに積まれていた麦束を持ち上げた。


 一束。


 ではなかった。


 二束でもなかった。


 近くにあった二十束ほどを、まとめて軽々と抱え上げた。


 人の背丈を越える麦の山が、メイの細い腕の中でふわりと浮いた。


「……」


「……」


「どこに置けばいいですか?」


 メイは首をかしげた。


 村人たちは、口を開けたまま固まっていた。


「ひ、姫様……力、強すぎませんか?」


「あ、これは……持ち方の問題で……」


「持ち方でどうにかなる量じゃねぇ!」


 しばらくして、広場に笑いが爆発した。


 メイは顔を赤くしながら、麦束をそっと下ろした。そっと下ろしたつもりだったが、地面が軽く揺れ、近くの鶏が驚いて飛び上がった。


 そして、その笑いの中で。


 メイはほんの少しだけ、肩の力を抜いた。


 夕暮れが夜に変わる頃、村外れの古いベンチに腰を下ろしていたメイのもとへ、一人の老婆がやってきた。


 手には、湯気の立つ木の器を持っている。


「ほれ、食いな」


 差し出されたのは、野菜と肉を煮込んだ素朴なスープだった。


 湯気が白く立ちのぼり、冷えた鼻先をやさしく撫でる。根菜の甘い匂い、肉の脂の深い香り、少し焦げた玉ねぎの匂い。それらが混ざって、メイの喉を痛いほど鳴らした。


「……いいんですか」


「何を言ってるんだい。あんた、今日一番働いてたじゃないか」


 老婆は笑った。


 その笑顔には、計算がなかった。


 メイは震える手で器を受け取った。木の器は温かく、その熱が掌から腕へ、腕から胸へと広がっていく。


 一口、すする。


 熱い。


 喉が少し焼ける。


 けれど、その熱さがたまらなく嬉しかった。


 空っぽだった胃に、スープが落ちていく。体の奥で消えかけていた小さな火が、ふっと息を吹き返すようだった。


 気づけば、涙が落ちていた。


 一粒。


 また一粒。


 スープの表面に小さな輪が広がる。


「おやまあ」


 老婆は何も聞かなかった。


 ただ、土仕事で硬くなった手で、メイの背中をそっと撫でた。


「辛いことがあったんだねぇ」


 その声は、夜風よりも柔らかかった。


「ここを、故郷だと思っていいんだよ」


 メイの手が止まった。


 焚き火の爆ぜる音。


 遠くで笑う村人たちの声。


 麦畑を渡る風の音。


 すべてが、急に遠くなった。


「……故郷」


 その言葉は、メイの胸の奥に、深く沈んだ。


 ずっと欲しかった言葉だった。


 誰かに、ここにいていいと言ってほしかった。


 存在していていいと、ただそれだけを認めてほしかった。


 メイは器を両手で包み込んだまま、焚き火の明かりに揺れる村を見つめた。


 もしかしたら。


 ここなら。


 この布を外さずにいられたら。


 この人たちが見ている「姫様」のままでいられたら。


 明日も、このスープを飲めるのかもしれない。


 明日も、誰かに笑いかけてもらえるのかもしれない。


 その願いがどれほど危ういものなのか、メイはまだ知らなかった。


 黄金色の麦畑の向こうで、夜の闇が静かに濃くなっていた。


 そして、幸せに見えるものほど、壊れる時の音は大きい。


 そのことを、彼女はまだ知らなかった。


夜が深まるにつれて、ハーベストの広場は、昼間とはまるで別の顔を見せ始めた。


 中央には大きな焚き火が組まれ、赤い炎がごうごうと音を立てて燃えている。薪の表面が黒く焼け、内側から橙色の光がにじむ。時折、ぱちん、と乾いた音を立てて火の粉が弾け、夜空へ細く舞い上がった。


 空には星が広がっていた。


 秋の夜の空気は少し冷たく、吸い込むたびに胸の奥が澄んでいくようだった。けれど焚き火の周りだけは暖かく、人々の笑い声と酒の匂い、焼いた肉の脂が落ちる音、煮込み鍋から立ちのぼる湯気で満ちていた。


 メイは、村人たちの輪の少し外側に座っていた。


 手には、老婆がくれた二杯目のスープがある。


 一杯目よりも、少しだけ落ち着いて味がわかった。やわらかく煮えた野菜。ほろほろに崩れる肉。舌に残る塩気。木の器を包む指先に伝わる温もり。


 それらが、信じられないくらい優しかった。


「姫様、もっと食べるかい?」


 老婆が笑いながら、鍋のそばから声をかけた。


「い、いえ……もう十分です」


 そう答えた直後、メイの腹が小さく鳴った。


 くう。


 自分でも聞こえるか聞こえないかくらいの音だった。けれど老婆の耳には届いたらしい。


「嘘をつくんじゃないよ。腹の音は正直だねぇ」


 老婆はくしゃくしゃに笑い、遠慮なく三杯目をよそってきた。


 メイは耳まで赤くなりながら、器を受け取った。


 広場の向こうでは、村の若者たちが笛と太鼓に合わせて踊っていた。靴が地面を踏む音が、どん、どん、と規則正しく響く。乾いた土が細かく舞い上がり、焚き火の光の中で薄い煙のように漂った。


 子供たちは、麦の穂で作った輪をかぶり、笑いながら走り回っている。犬がその後を追いかけ、誰かが転び、また笑い声が上がる。


 メイはその光景を、少し遠くから眺めていた。


 胸の奥が、変なふうに痛かった。


 嫌な痛みではない。


 けれど、慣れていない痛みだった。


 温かい場所に急に入った時、凍えていた指先がじんじんと痛むような、そんな感覚だった。


(私も……ここにいていいのかな)


 その考えが浮かんだ瞬間、メイは慌てて器を握りしめた。


 いけない。


 そういうことを考えてはいけない。


 期待すれば、壊れた時にもっと痛くなる。


 そう知っているはずなのに。


 それでも、焚き火の赤い光に照らされた村人たちの笑顔を見ていると、心の奥に押し込めていた小さな願いが、そっと顔を出してしまう。


 明日も、ここで目を覚ませたら。


 明日も、この老婆に「食いな」と言ってもらえたら。


 明日も、この麦畑を吹く風の音を聞けたら。


 そんなことを、願ってしまった。


「姫様!」


 突然、村長の娘が駆け寄ってきた。


「次、一緒に踊りましょう!」


「えっ、私、踊りなんて……」


「大丈夫! 足を右、左、くるっと回って、手を叩くだけだから!」


 メイは断ろうとした。


 だが、少女はメイの手を取って、半ば強引に広場の中央へ連れていく。村人たちが「おお、姫様も踊るぞ!」と声を上げた。


 メイは完全に固まった。


 炎の光。


 見つめる人々。


 手拍子。


 足元の土。


 全身に緊張が走る。


 けれど、笛の音が始まると、少女は笑いながらメイの手を引いた。


「ほら、右!」


「み、右……」


「左!」


「左……」


「回って!」


「え、あっ」


 メイは慌てて体を回した。


 回りすぎた。


 村長の娘の手を引いたまま、勢い余って二人まとめてくるくると回転し、周囲の村人たちの髪や帽子を風で吹き上げた。


「おおおおっ!?」


「竜巻か!?」


「姫様の踊りは激しいな!」


 村長の娘は目を回しながらも、なぜか楽しそうに笑っていた。


「す、すごい! もう一回!」


「もう一回は危ないと思います……」


 メイは青ざめたが、村人たちは大笑いしていた。


 その笑い声に、悪意はなかった。


 だからメイも、ほんの少しだけ笑った。


 自分でも驚くほど、不器用な笑みだった。頬の筋肉がぎこちなく動き、口元がどう形を作ればいいのか忘れているようだった。


 それでも、老婆がそれを見て目を細めた。


「ほら、いい顔するじゃないか」


 その一言で、メイの胸はまた熱くなった。


 このまま、何も起きなければいい。


 この夜が、ずっと続けばいい。


 メイは、心の底からそう思った。


 その時だった。


「ママー! 降りられないー!」


 広場の端から、幼い泣き声が響いた。


 音楽が止まった。


 笑い声も止まった。


 焚き火の炎が、ぱちぱちと鳴る音だけが急にはっきり聞こえた。


 全員が声の方を見た。


 広場の端に立つ大きな樫の木。その太い枝の上に、五つか六つほどの男の子がしがみついていた。祭りの浮かれた空気に押され、登ってしまったのだろう。だが、降りる足場を見失い、枝の上で震えている。


「動くな!」


 誰かが叫んだ。


 だが、子供は恐怖で体を固くしていた。小さな足が枝の上を探り、乾いた樹皮がぽろぽろと剥がれ落ちる。


 ミシ。


 嫌な音がした。


 その音は、笛や太鼓よりも、村人たちの悲鳴よりも、はるかに鋭く夜気を切った。


 枝に亀裂が入る。


 次の瞬間、枝が折れた。


 子供の体が、宙に投げ出された。


「いやあああ!」


 母親の悲鳴が響く。


 考える時間はなかった。


 メイの体は、勝手に動いていた。


 地面を蹴る。


 靴底が土をえぐり、乾いた土が後ろへ跳ねる。風が耳元で鋭く鳴った。焚き火の光が横へ流れ、村人たちの顔が引き伸ばされたように通り過ぎる。


 落ちてくる子供の体。


 小さな手。


 恐怖に見開かれた目。


 メイは両腕を伸ばした。


「っ……!」


 子供を受け止めた瞬間、ずしりとした衝撃が腕から肩へ抜けた。メイはその勢いを殺すため、体をひねりながら地面を転がった。


 土の匂いが鼻を打つ。


 背中に石が当たり、鈍い痛みが走る。


 草が頬をこすった。


 広場の端で、メイは子供を抱えたまま止まった。


 一瞬、誰も動かなかった。


 夜そのものが息を止めたような沈黙だった。


 焚き火の薪が、ぱちん、と爆ぜた。


「坊主!」


 男が駆け寄る。


 子供は、泣いていた。


 けれど、無事だった。


「お姉ちゃんが……助けてくれた……」


 その声を聞いた瞬間、広場全体から安堵の息が漏れた。母親が子供を抱きしめ、何度も何度も礼を言おうとした。


「姫様、ありがとうございます! 本当に、なんとお礼を――」


 その言葉が、途中で止まった。


 村長の顔が凍った。


 母親の手が止まった。


 周囲の村人たちの足が、一歩手前で止まる。


 メイは、ゆっくりと顔を上げた。


 なぜ、みんなが止まったのかわからなかった。


 けれど、次の瞬間、自分の頬に触れて気づいた。


 ない。


 左目を覆っていた布が、ない。


 地面に転がった時、外れてしまったのだ。


 夜風が、隠していた左目に直接触れた。


 焚き火の赤い光が、その瞳を照らしていた。


 紫。


 深い夜の奥に咲く花のような、鮮やかで、どうしようもなく目立つ色。


「あ……」


 メイの喉から、短い息が漏れた。


 誰かが呟いた。


「紫の……瞳……」


 その声は小さかった。


 けれど、乾いた麦畑に火が広がるように、村人たちの間へ一瞬で燃え移った。


「災いの目だ……」


「嘘だろ……」


「姫様じゃない……」


「化け物だ……!」


 さっきまで笑っていた顔が、ゆっくりと歪んでいく。


 驚き。


 恐怖。


 嫌悪。


 そして、自分たちの村から異物を追い出そうとする、硬く冷たい表情。


 メイは動けなかった。


 指先が冷えていく。


 額に汗が浮かぶ。焚き火のそばにいるのに、その汗は氷の粒のように冷たかった。背中を伝い、腰のあたりでローブに染み込む。


「ち、違う……私は……」


 声が震えた。


 けれど、その声は誰にも届かなかった。


 先ほど助けた子供の母親が、メイの腕から子供を奪い取るように引き寄せた。


「触らないで!」


 その声が、メイの胸を真っ直ぐに刺した。


 子供は泣いたまま、何が起きたのかわからない顔でメイを見ていた。


 メイは、手を伸ばしかけた。


 大丈夫だったか聞きたかった。


 でも、その手は途中で止まった。


 母親の目が、はっきりと拒んでいたからだ。


 その時、足元に何かが転がってきた。


 からん。


 木の器だった。


 さっきまで、老婆がスープを入れてくれていた器。


 顔を上げると、老婆が立っていた。


 あの優しい手で、メイの背中を撫でてくれた老婆。


 ここを故郷だと思っていいと言ってくれた老婆。


 その顔が、今は別人のように固くなっていた。


「出てお行き」


 声は、低かった。


 冷たかった。


 スープの温もりなど、どこにも残っていなかった。


「今すぐ、この村から出てお行き」


「……おばあ、さん」


「あんたみたいなのがいると、村に悪いことが起きる」


 メイの唇が震えた。


「でも……私、子供を……」


「黙りな!」


 老婆の声が、夜を裂いた。


 それは、先ほどまでの笛や太鼓よりも、ずっと大きく、ずっと鋭く響いた。


「騙していたんだろう! その目を隠して、姫様のふりをして!」


「違う……私は、そんなつもりじゃ……」


「出てお行き!」


 石が飛んできた。


 最初の一つは、メイの足元に落ちた。


 乾いた音がした。


 次の一つは、肩に当たった。


 痛みが走る。


 けれど、メイは動けなかった。


 三つ目の石が、額に当たった。


 鈍い衝撃。


 視界がわずかに白く弾ける。


 温かいものが額から流れ落ち、左目の横を伝った。血だった。焚き火の赤と混ざって、世界がにじんで見えた。


「出ていけ!」


「二度と近づくな!」


「村が不幸になる!」


「魔女め!」


 言葉が、石よりも痛かった。


 さっきまで笑い合っていた人たちだった。


 さっきまで、手を叩き、姫様と呼び、食べ物をくれた人たちだった。


 メイはようやく理解した。


 彼らが受け入れていたのは、メイではなかった。


 都から来た姫様。


 片目を隠した不思議な旅人。


 空から落ちてきたありがたい何か。


 彼らが勝手に作った、都合のいい誰か。


 その誰かが壊れた瞬間、メイはただの災いに戻った。


「……ごめんなさい」


 なぜ謝ったのか、自分でもわからなかった。


 子供を助けたことを謝ったのか。


 村に来たことを謝ったのか。


 期待してしまったことを謝ったのか。


 わからなかった。


 メイは、地面に落ちていた布を拾った。泥と血がついていた。それを震える手で左目に押し当てる。


 もう遅い。


 見られてしまった。


 それでも隠した。


 隠さずにはいられなかった。


 石がまた飛んできた。


 メイは背を向けた。


 走った。


 広場から、村の道へ。


 靴音が、硬い地面を乱暴に叩く。


 ざっ、ざっ、ざっ。


 息が苦しい。


 胸が痛い。


 額の血が頬を伝い、唇に触れる。鉄のような味がした。


 背後からは、まだ罵声が聞こえていた。


「戻ってくるな!」


「災いを持っていけ!」


「塩をまけ!」


 メイは振り返らなかった。


 振り返れば、そこにあったはずの温かい場所が、完全に壊れてしまったことを認めなければならなかったから。


 村の入口を抜ける。


 夜の麦畑が広がっていた。


 昼間はあれほど美しく輝いていた黄金色の海が、今は月明かりの下で黒く沈んでいた。風が吹くたび、麦の穂がざわざわと揺れる。その音は、もう優しい寝息には聞こえなかった。


 無数の囁き声に聞こえた。


 あざ笑う声。


 追い立てる声。


 ここにいてはいけないと告げる声。


 メイは走り続けた。


 足がもつれ、何度も転びそうになる。靴底に小石が入り、指先に痛みが走る。肺が焼けるようだった。冷たい夜風が喉に入り、咳が込み上げる。


 それでも止まれなかった。


 村の灯りが、背後で小さくなっていく。


 焚き火の赤い光。


 笑い声。


 温かいスープ。


 老婆の手。


 全部、遠ざかっていく。


 やがて、村の音は聞こえなくなった。


 残ったのは、風の音と、メイの荒い息だけだった。


 メイは道端で足を止めた。


 膝から力が抜け、その場に崩れ落ちる。


 土の上に手をつく。冷たい。指先に湿った泥が入り込む。空を見上げると、星が滲んでいた。


 涙が出ているのだと、少し遅れて気づいた。


「……どうして」


 声は、誰にも届かなかった。


 風が、答えの代わりに麦畑を揺らした。


 メイは泥だらけの布を左目に押し当てたまま、しばらく動かなかった。


 あの村は、楽園ではなかった。


 ただ、そう見えただけだった。


 けれど、一瞬だけでも温かかったから。


 一瞬だけでも、ここにいていいと思ってしまったから。


 壊れた後の夜は、前よりずっと寒かった。


 メイはゆっくりと立ち上がった。


 行く場所などない。


 待っている人もいない。


 それでも、ここにはもういられなかった。


 彼女は、村とは反対の暗い道へ歩き出した。


 ざり。


 ざり。


 ざり。


 靴底が土をこする音だけが、夜の中に続いていく。


 北から吹く風は少しずつ冷たさを増していた。


 冬は、もう近かった。

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