第10話:英雄の誕生、そして運命の交差点へ 〜頂点に立った男は、足元の影に気づかない〜
王都の空は、朝から晴れ渡っていた。
雲ひとつない青が、城壁の上いっぱいに広がっている。高く掲げられた旗は、乾いた風を受けて大きくはためき、赤と白の布地が太陽の光を弾いていた。石畳には、朝の光がまだ斜めに差し込んでいる。磨かれた石の表面には、通りを行き交う人々の影が長く伸び、馬車の車輪がごとごとと音を立てて、その影をゆっくり踏み越えていった。
王都は、祝祭の前のような熱を帯びていた。
昨日から、街のあちこちで同じ名前が囁かれている。
「シュン様が南区の水を戻したんだって」
「盗賊団を一瞬で捕まえたって聞いたぞ」
「ロック鳥を追い払ったって話もある」
「本当に人間なのか?」
「人間かどうかは知らないけど、助かった人がいるならいいじゃないか」
市場では、果物を並べる商人がそんな話をしていた。桶を抱えた女たちも、荷車を押す男たちも、声を潜めながらもどこか楽しそうに笑っている。通りの端に生えた細い草が風に揺れ、そのざわめきまで、人々の噂話に混じっているようだった。
その噂の中心にいる男は、冒険者ギルドのカウンター前で、焼きたてのパンを両手に持っていた。
「リナちゃん、これ南区のパン屋さんからもらった。煙突を掃除したお礼だって」
「わぁぁ! ありがとうございますぅ! すごくいい匂いですねぇ!」
リナが目を輝かせる。
蜂蜜色の髪が、窓から差し込む朝日に照らされ、ふわりと明るく光った。彼女がパンを受け取ると、湯気に混じって小麦の甘い香りが広がる。瞬は、その笑顔を見るだけで、今日も世界が自分のために回っているような気分になった。
「いやぁ、まあね。俺にかかれば煙突掃除くらい――」
「屋根瓦も三枚ほど飛んだそうですけどぉ?」
「……風が強かった」
「今日はあまり風、ありませんよぉ?」
リナは笑っていた。
責めているというより、もう慣れつつある笑顔だった。
瞬は視線を逸らす。
ギルドの奥では、冒険者たちがその様子を見ていた。最初こそ警戒していた彼らも、ここ数日の瞬の活躍を見て、少しずつ態度を変え始めている。もちろん、近づきすぎると何が起きるかわからないという恐怖は残っている。だが、それ以上に、瞬が本当に街の困りごとを解決していることは事実だった。
「なあ、シュン」
老冒険者が、木杯を片手に声をかけた。
「はい?」
「お前、今日は少し休め。昨日だけで普通の冒険者一月分くらい働いてるぞ」
「大丈夫です。リナちゃんが困ってたら休んでる場合じゃないので」
リナの頬が、ほんの少し赤くなった。
「シュンさん……」
その声だけで、瞬の背筋はしゃんと伸びる。
老冒険者は、深くため息をついた。
「こういうやつが一番厄介なんだよな……」
その時だった。
ごおん。
王都の鐘が鳴った。
最初は一度だけ。
だが、すぐに二度目が続く。
ごおん。
ごおん。
低く重い音が、ギルドの壁を震わせた。
人々の笑い声が止まる。
カウンターに置かれたパンの湯気だけが、何も知らないように白く立ち上っていた。窓の外で、風に揺れていた看板が、きい、と小さく鳴る。その音が、妙に大きく聞こえた。
リナの顔から笑みが消えた。
「……警鐘ですぅ」
瞬は首を傾げる。
「警鐘?」
答えるより早く、外から悲鳴が聞こえた。
ひとつではない。
大通りの方角から、いくつもの声が重なって押し寄せてくる。馬がいななき、荷車が倒れるような音がした。石畳を駆ける靴音が、ばらばらに乱れて近づいてくる。
ギルドの扉が乱暴に開いた。
息を切らした若い衛兵が、顔を真っ青にして飛び込んでくる。
「た、大変だ! 北門の外に、魔物が……!」
その声は震えていた。
汗が額から頬へ流れ、顎から床へ落ちる。鎧の隙間から見える首筋には、冷たい汗が滲んでいた。
「魔物なら、騎士団が――」
老冒険者が言いかける。
衛兵は首を振った。
「違う! 普通の魔物じゃない! 古い封印跡から出てきた……黒い巨人だ! 騎士団の第一隊が、もう……!」
言葉が詰まる。
ギルドの中に、沈黙が落ちた。
先ほどまでの気楽な空気は消えていた。酒の匂いも、焼きたてのパンの香りも、急に遠くなったようだった。窓の外の空は青い。太陽も明るい。それなのに、ギルドの中だけが、地下室のように冷たく沈んでいく。
リナが、カウンターの端を握った。
指先が白くなる。
彼女の明るい緑の瞳が、揺れていた。
「怖い……」
小さな声だった。
本当に小さな声だった。
けれど、瞬には聞こえた。
その瞬間、彼の中で何かが単純に決まった。
難しい事情はわからない。
古い封印がどうとか、騎士団がどうとか、そういうことは全部後でいい。
目の前で、リナが震えている。
それだけで十分だった。
瞬はパンをそっとカウンターに置いた。
「リナちゃん」
「シュンさん……?」
彼は笑った。
いつものように、軽い笑顔だった。
けれど、その足元の石床が、みしりと小さく鳴った。
「ちょっと行ってくる」
「だ、だめですぅ! 危ないですぅ!」
「大丈夫」
瞬は扉へ向かって歩き出した。
こつ。
こつ。
石床を踏む音が、静まり返ったギルド内に響く。
「リナちゃんが震えてる」
彼は振り返らずに言った。
「それだけで、そいつを倒す理由は十分だ」
ギルドの空気が止まった。
誰も茶化さなかった。
誰も笑わなかった。
ただ、リナだけが、泣きそうな顔で瞬の背中を見つめていた。
*
北門へ向かう大通りは、混乱に包まれていた。
人々が南へ向かって逃げてくる。母親が子供の手を引き、老人が若者に肩を貸され、商人が荷物を捨てて走っている。石畳を叩く足音が、雨のように重なった。誰かが転び、誰かが助け起こす。荷車から落ちた林檎が、ころころと転がり、道端の溝に落ちた。
空は、まだ晴れていた。
けれど北の方角だけが違った。
黒い雲のようなものが、地面から立ち上っている。煙ではない。霧でもない。もっと重く、もっと濃く、見る者の胸の奥にまで入り込んでくるような黒だった。
風が変わっていた。
朝まで草の匂いやパンの香りを運んでいた風が、今は鉄を濡らしたような嫌な匂いを含んでいる。街路樹の葉がざわざわと震え、枝に止まっていた鳥が一斉に飛び立った。
北門の外。
そこに、それは立っていた。
巨大な黒い人影。
城壁の半分ほどもある体躯。全身は煙のように揺らぎながらも、確かな重みを持っていた。腕は異様に長く、指は槍のように尖っている。顔にあたる部分には目も鼻もない。ただ、胸の中央に赤黒い光が一つ、鼓動するように明滅していた。
騎士たちが、門の前に並んでいる。
盾を構え、槍を突き出し、必死に踏みとどまっていた。だが、その足元には砕けた槍や割れた盾が散らばっている。風が吹くたび、倒れた旗が地面をこすり、ざり、ざり、と乾いた音を立てた。
「下がれ!」
隊長らしき男が叫んだ。
「民を中へ! 門を閉じろ!」
だが、閉じられない。
門の前にはまだ逃げ遅れた人々がいる。子供の泣き声が響く。馬が暴れ、荷車が横転して通路を塞いでいた。
黒い巨人が腕を上げる。
その動きは遅かった。
だが、空気が押し潰されるような重さがあった。
巨腕が振り下ろされれば、門前にいる人々はまとめて叩き潰される。
騎士の誰かが、短く息を呑んだ。
世界が、ほんの一瞬、静かになった。
風が止む。
泣き声も遠のく。
鐘の音さえ、空の向こうへ消えたように感じられた。
次の瞬間。
どんっ。
石畳が爆ぜた。
瞬が、門前に立っていた。
誰も彼がいつ来たのか見えなかった。人々が気づいた時には、彼は黒い巨人と逃げ遅れた人々の間に立っていた。
背中に、太陽の光を受けている。
その影が、石畳に長く伸びていた。
瞬は黒い巨人を見上げた。
「おい」
声は、驚くほど軽かった。
「長そうな口上とかある?」
黒い巨人の胸の赤い光が、強く脈打った。
地の底から響くような声が、空気を震わせる。
「我ハ……古キ闇ノ――」
「長い!」
瞬は、話を最後まで聞かなかった。
右手を握る。
足元の石畳が、みしりと沈む。
「リナちゃんを怖がらせた罪は重いぞ」
彼は拳を引いた。
騎士たちが叫ぶ。
「待て! 無茶だ!」
瞬は聞いていなかった。
「必殺!」
その場の勢いだけで叫ぶ。
「アルティメット・シュン・バスター!」
名前はひどかった。
だが、威力はひどいでは済まなかった。
瞬の拳が空気を打った。
直接、黒い巨人に触れてすらいない。
それなのに、空間そのものが押し潰されたように歪んだ。白い衝撃が一直線に走り、巨人の胸の赤黒い光を正面から貫く。
どごおおおおおおおおおおんっ!!
音が遅れて来た。
北門の外の地面が大きく震える。城壁の上の旗が一斉に逆立ち、騎士たちのマントが後ろへはためいた。黒い巨人の体に、ひびのような光が走る。
「ナ……ニ……」
巨人の声が崩れる。
煙のような体が、内側から白く光り始めた。
次の瞬間、黒い巨体は、夜空に散る火の粉のような光の粒になって弾けた。
黒い雲が消える。
空が戻る。
太陽の光が、北門前の石畳を照らした。
舞い上がった埃が光を受け、金色にきらめいている。風が吹き、街路樹の葉が一斉に揺れた。さっきまで恐怖で張り詰めていた空気に、草の匂いと土の匂いが戻ってくる。
誰も動かなかった。
騎士も。
衛兵も。
逃げ遅れた人々も。
ただ、瞬だけが拳を下ろし、首を傾げた。
「……今の名前、ちょっとダサかったかな」
その一言で、ようやく誰かが息を吐いた。
次に、子供が泣きながら笑った。
そして。
王都全体を揺らすような歓声が、北門から広がっていった。
歓声は、最初は北門のすぐそばだけだった。
子供を抱きしめていた母親が泣きながら声を上げ、膝をついていた衛兵が震える手で槍を掲げる。倒れた荷車の陰に隠れていた商人が、恐る恐る顔を出し、黒い巨人が消えた空を見上げた。
誰もが、まだ信じきれていなかった。
あれほど大きな影が。
王都の北門を押し潰そうとしていた、あの黒い巨人が。
たった一撃で、消えた。
風が吹いた。
北門前に残っていた黒い霧の名残が、細い煙のように千切れていく。舞い上がった埃が太陽の光を受け、金色の粉のように空中を漂った。石畳の割れ目には、先ほどの衝撃で落ちた小石が散らばっている。倒れていた旗が、風に押されて、ぱた、と小さく音を立てた。
その静けさを破ったのは、一人の少年の声だった。
「すげぇ……」
小さな声だった。
けれど、それは周囲の胸の中に溜まっていたものを、一気に押し出した。
「助かった……!」
「勝ったぞ!」
「黒い化け物が消えた!」
「シュン様だ!」
歓声が広がる。
波のように。
北門から大通りへ。
大通りから市場へ。
市場から、王都の奥へ。
人々の声が重なり、石造りの建物にぶつかって跳ね返り、街全体を揺らした。
「シュン様!」
「英雄だ!」
「王都を救ったぞ!」
瞬は、拳を下ろしたまま、少し困ったように笑った。
「いやぁ……まあ、リナちゃんが怖がってたから」
その言葉は、周囲の歓声にかき消された。
誰も聞いていない。
いや、聞こえていたとしても、きっと意味は変わって伝わっただろう。
――恐怖に震える者のために立った英雄。
――王都を守るため、古い闇を一撃で払った男。
――誰も勝てなかった怪物を、ためらいなく打ち砕いた光。
人々は、見たいものを見る。
そうして瞬は、この日、王都の中心へ押し上げられた。
騎士たちが、次々と膝をついた。
衛兵たちも、それに続いた。
瞬は慌てる。
「いやいやいや、やめてください。そういうの慣れてないんで」
「王都を救っていただいた!」
「あなたは英雄です!」
「我々は、あなたの力を見誤っていた!」
「いや、見誤るも何も、俺もよくわかってないというか……」
言えば言うほど、周囲の尊敬は増していった。
なぜなら、王都の人々には、瞬の発言が「力を誇らない謙虚な英雄」の言葉に聞こえていたからだ。
本人の中身は、リナに褒められたい一心の男である。
だが、そんなことを知る者はいない。
北門の奥から、ギルドの冒険者たちが駆けてきた。
その先頭に、リナがいた。
金色の髪が、走るたびに大きく揺れている。息を切らし、頬を赤くしながら、それでも彼女は瞬の姿を見つけると、ぱっと顔を輝かせた。
「シュンさぁぁぁん!」
「リナちゃん!」
瞬の顔が、戦闘中より明らかに明るくなった。
リナは人混みをかき分け、瞬の前まで来ると、両手を胸の前でぎゅっと握った。
「無事で……無事でよかったですぅ……!」
その声は、いつもの弾むような明るさとは少し違っていた。
震えていた。
本当に心配していた声だった。
瞬は、それだけで胸の奥が熱くなった。
「大丈夫。ほら、傷一つない」
「本当に……本当にすごいですぅ……」
リナの目に涙が浮かぶ。
それを見た瞬は、完全に固まった。
褒められる。
笑ってもらえる。
それを目的に動いてきた。
けれど、目の前のリナは笑っているだけではなかった。安心して、泣きそうになっている。
その表情は、瞬がこれまで想像していた「可愛い受付嬢の反応」よりも、ずっと胸に重く響いた。
「……怖かった?」
瞬が小さく聞いた。
リナは、こくりと頷いた。
「怖かったですぅ……。王都が壊れちゃうかと思いましたぁ……。シュンさんまで、どこかへ行っちゃうかと思って……」
その言葉で、瞬は何も言えなくなった。
王都の歓声が響いている。
人々が彼の名を呼んでいる。
けれど、その瞬間、彼の耳にはリナの声しか届かなかった。
「じゃあ、よかった」
「え?」
「リナちゃんがもう震えてないなら、倒した意味あった」
リナの頬が、見る見る赤くなった。
「シュンさん……」
周囲の人々が、二人を見ていた。
老冒険者が後ろで額を押さえる。
「おいおい……王都を救った理由が受付嬢一人かよ」
隣の冒険者が小声で答える。
「でも、それで王都が救われたなら、もう何でもいいんじゃないか?」
「……それもそうか」
老冒険者は深く息を吐いた。
やがて、北門前には王城からの使者が現れた。
白い外套を羽織った文官が、数人の衛兵を連れて歩いてくる。靴音が、こつ、こつ、と整っていた。彼は瞬の前で足を止め、深く頭を下げた。
「シュン殿。王都を救っていただき、心より感謝いたします」
「あ、どうも」
「王城より正式な謝意を伝える準備をいたします。後日、改めてお越しいただきたい」
「王城?」
瞬の頭の中に、一瞬で何かが浮かんだ。
豪華な城。
豪華な食事。
もしかして、お姫様。
だが、すぐにリナを見た。
リナはまだ、目元に涙を残したまま笑っている。
瞬は、王城よりもその笑顔を見ていたかった。
「わかりました。でも、今日はギルドに戻ります」
文官は少し驚いたように瞬を見た。
「ギルドに、ですか?」
「はい。リナちゃんに報告しないといけないので」
リナが慌てて手を振る。
「もう目の前にいますぅ!」
「じゃあ、一緒に戻ろう」
瞬はそう言って笑った。
リナは一瞬ぽかんとした後、照れたように俯いた。
王都の人々は、そのやり取りに笑った。
恐怖の後に訪れた笑いだった。
まだ震えている者もいる。
倒れた荷車もある。
砕けた石畳もある。
けれど、黒い巨人はもういない。
空は青い。
風は戻った。
街路樹の葉が、さわさわと鳴っている。
その音は、王都がまた息を吹き返した音のようだった。
*
その日の夕方。
冒険者ギルドは、祭りのような騒ぎになっていた。
扉は慎重に開け閉めされていた。昨日までの反省が、職員にも冒険者にも染みついている。屋根に張られた応急布は、夕方の風に揺れ、ばさ、ばさ、と音を立てていた。窓から差し込む夕陽が、木の床を赤く照らしている。
カウンターの上には、依頼完了の書類が積まれていた。
水路修復。
盗賊団捕縛。
煙突掃除。
暴れ馬鎮静。
金床移動。
そして、王都北門防衛。
そのすべての欄に、同じ名前が記されている。
シュン。
リナはその書類を見つめ、深く息を吸った。
「シュンさん」
「はい」
「今日一日で、やったことが多すぎますぅ」
「すみません」
「でも」
リナは顔を上げた。
緑の瞳が、夕陽を受けて柔らかく輝いている。
「本当に、本当にありがとうございました」
ギルド中が静かになった。
今度の沈黙は、重くなかった。
誰もが、その言葉を聞くために息を潜めたような、温かな静けさだった。酒の匂いも、焼いた肉の香りも、木床の軋む音も、すべてが遠くに下がる。
瞬は、頬をかいた。
「いや、その……リナちゃんが怖がってたから」
「それでも、ですぅ」
リナは笑った。
「シュンさんは、王都を救った英雄ですぅ」
その言葉が、今度はギルド中に広がった。
「英雄!」
「シュン!」
「王都の英雄!」
冒険者たちがジョッキを掲げる。
誰かが机を叩く。
誰かが笑う。
拍手が起こる。
それはやがて、ギルドの外へ漏れ出した。
通りを歩いていた人々が足を止める。
窓から顔を覗かせる子供たちが、声を合わせる。
「英雄シュン!」
「ありがとう!」
「王都の英雄!」
夕暮れの王都に、明るい声が満ちていった。
瞬は、その中心にいた。
窓から差し込む赤い光を背に受け、リナの笑顔を真正面に見ている。人々の拍手が彼を包み、歓声が頭上に降り注ぐ。彼の影は木の床に長く伸びていたが、その姿そのものは、眩しい光の中にあった。
彼はまだ、気づいていなかった。
光の中心に立つということは、同時に、その外側へ濃い影を作るということに。
*
同じ夕暮れ。
王都の外れに続く古い街道を、一人の少女が歩いていた。
メイだった。
空は、瞬が浴びている夕陽と同じ赤に染まっている。だが、彼女のいる場所に届く光は弱かった。城壁の影が長く伸び、街道の端には冷たい灰色が溜まっている。
風が吹く。
道端の枯れ草が、さわさわと低く鳴った。草の先についた砂が風に流され、メイの破れたローブの裾に当たる。靴底は擦り減り、石を踏むたびに、ざり、ざり、と乾いた音がした。
遠くから、歓声が聞こえた。
「英雄!」
「シュン!」
「王都を救ったぞ!」
その声は、城壁を越え、風に乗って、街道まで薄く届いてきた。
メイは足を止めた。
顔を上げる。
遠くに王都の灯りが見える。
白い城壁の内側は、夕陽と松明の光で明るく揺れていた。まるでそこだけ、夜が来ることを拒んでいるようだった。
メイの左目は、汚れた布で固く覆われている。
額の古い傷が、風に冷やされて少し痛んだ。
「……英雄」
小さく呟いた声は、誰にも届かない。
その言葉は、彼女にとって遠すぎた。
誰かを救う者。
誰かに望まれる者。
人々の声に包まれ、光の中で名前を呼ばれる者。
それは、メイとは反対側の存在だった。
彼女は、誰にも呼ばれない。
誰にも探されない。
誰かの恐怖になることはあっても、誰かの光になることはなかった。
王都の歓声が、また風に乗って届く。
その声が温かいほど、メイの立つ街道は冷たく感じられた。
彼女はローブの前を握りしめた。
空腹で指先に力が入らない。
それでも、歩くしかなかった。
戻る場所はない。
行く場所もない。
ただ、あの光る街の中へ入らなければ、今夜を越す場所さえ見つからない。
メイは、ゆっくりと足を踏み出した。
ざり。
靴底が石をこする。
もう一歩。
ざり。
城壁の上で、松明が揺れた。
光の中心では、瞬が人々に名前を呼ばれている。
その光へ向かって、影のような少女が近づいていく。
まだ二人は、互いを知らない。
けれど、同じ夕陽の下で、同じ王都へ向かう道の上にいた。
光は、ただ眩しいだけではない。
その眩しさに目を細める者がいる。
そして影は、ただ暗いだけではない。
そこには、誰にも見つけられなかった痛みが、静かに息をしている。
王都の夜が、少しずつ深くなっていく。
歓声の残る街へ、メイは一人、歩いていった。




