表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
詠唱? それ、気合を入れるためのおまじないですよね? ~異世界キャンピングカーでダンジョンも王国もひっくり返す~  作者: Gaku


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

11/23

第11話:路地裏の影と、差し伸べられた手 〜救いとは、名前を呼ばれる前に差し出される手である〜

王都グランドルの夜は、光に満ちていた。


大通りには、まだ昼間の熱が残っている。黒い巨人を退けた英雄の噂は、夕暮れを越えても冷めることを知らず、酒場の扉が開くたびに、笑い声と歓声が石畳の上へこぼれ落ちていた。


「シュン様だ!」


「英雄様が王都を救ったんだ!」


「見たか、あの一撃!」


人々の声は、明るかった。


灯されたランタンの炎が風に揺れ、赤や橙の光を道に落としている。焼き肉の脂が炭へ落ちる音。パンを売る店先から漂う香ばしい匂い。馬車の車輪が石畳を踏む、ごとん、ごとんという硬い音。すべてが重なり合い、王都そのものが大きな祝いの器になったようだった。


けれど、その光は、路地の奥までは届かない。


大通りから一本外れた細い道。


さらにその奥、古い建物の壁と壁に押し潰されるような路地裏では、夜の色が濃く溜まっていた。石壁は昼間の雨を吸ったまま乾ききらず、ところどころ黒く湿っている。割れた瓶の欠片が、遠くの灯りを受けて、弱く、冷たく光っていた。


風が通るたび、壁際に溜まった紙くずが、かさ、かさ、と小さく鳴る。


その音に、メイは肩を震わせた。


彼女は、路地の隅に座り込んでいた。


膝を抱え、頭から古びた布を深く被っている。ローブは破れ、裾には泥が固まり、靴の先は擦り切れている。額には、まだ乾ききらない血の跡があった。王都の外で男たちに石を投げられた傷だ。風が触れるたび、そこがじくりと痛んだ。


けれど、メイはその痛みをほとんど気にしていなかった。


痛みには慣れていた。


石の痛みも。


罵声の痛みも。


手のひらから何かがこぼれ落ちていく痛みも。


何度も味わいすぎて、もう自分がどこから傷ついているのか、わからなくなっていた。


「……英雄」


大通りの方から聞こえてきた言葉を、メイは小さく繰り返した。


英雄。


誰かを救う者。


誰かに望まれる者。


街の光の中心に立ち、人々に名前を呼ばれる者。


メイは、ゆっくりと自分の手を見た。


細い指。


土と血で汚れた爪。


何かを守ろうとすれば、怖がられる手。


誰かを助けようとすれば、拒絶される手。


この手で子供を受け止めた。


この手で盗賊を追い払った。


この手で騎士を救った。


この手で集落を守ろうとした。


それなのに、残ったのはいつも同じだった。


出ていけ。


近づくな。


魔女。


災い。


化け物。


「……私も、何かを守りたかっただけなのに」


声は、夜気に溶けた。


誰にも届かない。


それでよかった。


届けば、また傷つく。


誰かが振り向けば、また見られる。


見られれば、また壊れる。


メイは布の端を強く握った。左目を隠すための布。もう何度も泥にまみれ、雨に濡れ、血を吸って、布というより傷口に貼りついた古い包帯のようになっている。


それでも、これを外すことはできなかった。


この布の下には、メイが世界から追い出され続けた理由がある。


紫の瞳。


たった一つの色。


それだけで、どれほどの言葉が刃に変わるのか、メイは知っていた。


腹が鳴った。


ぐう、と低く、情けない音がする。


メイは反射的に腹を押さえた。


大通りから漂ってくる食べ物の匂いが、余計に胸を締めつける。焼いた肉。温かいスープ。甘い菓子。どれも、人のいる場所の匂いだった。


人の輪の中にある匂い。


メイが近づけば、必ず壊れてしまう匂い。


「食べたいな……」


呟いた瞬間、自分がまだそんなことを願えることに、少し驚いた。


もう何も信じないと決めた。


誰にも期待しないと決めた。


どこにも居場所を求めないと決めた。


それでも体は生きたがっている。


温かいものを欲しがっている。


眠れる場所を探している。


それが、少しだけ悔しかった。


メイは立ち上がろうとした。


だが、足に力が入らなかった。膝が笑い、石畳に手をつく。冷たい。指先から、夜の冷えが骨へ染み込んでくる。


その時だった。


「おい」


低い声が、路地の入口から落ちてきた。


メイの体が固まる。


暗がりの向こうに、男が三人立っていた。


一人は小柄で、目だけがぎらぎらしている。もう一人は細長く、頬がこけ、口元に嫌な笑みを浮かべていた。最後の一人は大柄で、肩幅が広く、路地の狭さをさらに狭く見せていた。


酒の匂いがした。


安い酒。


汗。


古い革。


そして、獲物を見つけた時の人間の空気。


メイは、すぐにわかった。


逃げなければならない。


けれど、背後は行き止まりだった。


湿った石壁があるだけだ。


「こんなところで何してんだ?」


細長い男が、ゆっくり近づいてくる。


靴音が、こつ、こつ、と路地に響いた。


メイは布を押さえながら、少しずつ後ずさった。


「……何も、持っていません」


「持ってるかどうかは、こっちが見る」


小柄な男が笑った。


その笑い声は、大通りの明るい笑いとは違っていた。湿った壁に貼りつき、剥がれず、耳の奥に残るような音だった。


「顔、隠してるじゃねぇか」


大柄な男が言った。


「怪しいな」


メイの指に力が入る。


布だけは。


そこだけは。


「やめてください」


声が震えた。


男たちは、その震えを聞いて、ますます笑った。


「やめてください、だってよ」


「お上品だな」


「もしかして、どこかの貴族の逃げた娘か?」


細長い男の手が伸びてくる。


メイは身を縮めた。


力を使えば、追い払える。


三人くらい、簡単だ。


けれど、その考えが浮かんだ瞬間、喉の奥が冷たくなった。


まただ。


また、自分の力で誰かを怖がらせる。


また、化け物だと言われる。


また、壊してしまう。


メイは動けなかった。


「顔を見せろ」


男の指が、布の端に触れた。


その瞬間。


路地の入口から、場違いなほど明るい声がした。


「おーい、そこの人たち」


男たちの動きが止まった。


メイも、顔を上げた。


大通りの灯りを背に、一人の男が立っていた。


逆光で、顔はまだ見えない。


けれど、輪郭だけははっきりしていた。背は高く、立ち方に妙な力みがない。まるで散歩の途中に知り合いを見つけたみたいな、軽い気配。


風が路地に流れ込む。


大通りの光が、彼の背中からこぼれ、暗い石畳の上へ細く伸びた。


「その子、嫌がってるだろ」


男は、少し首を傾げた。


「そういうの、普通にダサいと思うぞ」



細長い男が、ぎろりと振り返った。


「なんだ、お前」


その声には、苛立ちと酔いが混じっていた。自分たちだけの暗がりに、勝手に光を差し込まれたことが気に入らない。そんな顔だった。


逆光の男――瞬は、路地の入口で頭をかいた。


「いや、なんだって言われてもな。通りすがりというか、迷子というか、飯屋探してたら、明らかに雰囲気悪い現場に出くわしたというか」


「関係ねぇだろ」


「関係ないかどうかで言えば、たぶん関係ない」


瞬は素直に頷いた。


男たちが一瞬、間の抜けた顔をした。


「だったら――」


「でもさ」


瞬の声が、少しだけ低くなった。


大通りの喧騒が、遠くなる。


石畳を撫でる風の音が、路地の中で細く鳴った。壁の染みから落ちた水滴が、ぽたり、と割れた瓶の欠片に落ちる。その小さな音さえ、はっきり聞こえるほど、空気が張り詰めた。


「嫌がってる子を三人で囲むのは、俺の中では、見過ごすと後味悪いやつなんだよ」


瞬は一歩、路地へ入った。


靴底が石を踏む。


こつん。


ただそれだけの音だったのに、メイにはなぜか胸の奥に響いた。


光の中から入ってきたその男は、剣も構えていなかった。鎧も着ていない。威圧するような怒鳴り声もない。


それなのに、男たちの空気がわずかに変わった。


獲物を見つけた時の薄汚い余裕が、ほんの少しだけ剥がれる。


「ふざけんなよ」


小柄な男が短剣を抜いた。


刃が、路地の暗がりで鈍く光る。


「英雄気取りか?」


瞬は、少しだけ困った顔をした。


「いや、その言い方はちょっと照れるな」


「褒めてねぇ!」


小柄な男が踏み込んだ。


短剣が、瞬の腹へ向かって走る。


メイは息を呑んだ。


危ない。


そう思った瞬間には、もう終わっていた。


瞬は、半歩だけ横へずれた。


本当に、それだけだった。


短剣は空を切り、小柄な男の体が前へ流れる。瞬はその肩に、ぽん、と手を置いた。


力を込めたようには見えなかった。


叩いたわけでもない。


ただ、友人を呼び止めるくらいの軽さだった。


次の瞬間。


「ぐへっ」


小柄な男は、石畳に顔から沈んだ。


沈んだ。


比喩ではなかった。


鼻先から額まで、石畳に少しめり込んでいた。


「……あ」


瞬が固まった。


「ごめん。軽く止めたつもりだった」


路地に、短い沈黙が落ちた。


大柄な男と細長い男が、地面にめり込んだ仲間を見下ろす。


メイも、布の奥で目を見開いた。


恐怖とは違う。


理解が追いつかない。


「お、おい、何した……」


「いや、肩をこう、ぽんと」


瞬は自分の手を見た。


「ぽんの威力じゃねぇんだよ!」


細長い男が叫び、大柄な男へ視線を送った。


「やれ!」


大柄な男が唸り声を上げ、拳を振り上げた。


壁いっぱいに影が広がる。


その拳が落ちれば、普通の人間なら骨ごと砕ける。


瞬は、少しだけ眉を寄せた。


「女の子相手にも、それやるつもりだったのか?」


声は静かだった。


大柄な男の拳が止まるはずもなかった。


瞬は片手を上げた。


受け止める。


ごん。


鈍い音がした。


拳と掌がぶつかった音ではない。


巨大な木槌が、見えない壁にぶつかったような音だった。


大柄な男の顔が歪む。


「いっ……!?」


瞬は、その手を握った。


「痛いか?」


「は、離せ……!」


「痛いの、嫌だよな」


瞬の目が、少しだけ細くなる。


「じゃあ、他人にもやるなよ」


そのまま、軽く手首をひねった。


大柄な男の体が、宙に浮いた。


「え」


男本人が、一番驚いた声を出した。


次の瞬間、彼は路地の隅に積まれていた木箱へ、ふわりと投げ込まれた。


ふわり。


瞬の感覚では、たぶんそうだった。


だが実際には、木箱が盛大に砕けた。


ばきゃあああんっ!


乾いた木片が飛び散り、何かの野菜らしきものが夜空へ舞い上がる。丸い根菜が一つ、細長い男の頭に落ちた。


ごん。


「痛っ!」


瞬は慌てて手を上げた。


「すまん! 野菜まで巻き込むつもりはなかった!」


「そこじゃねぇ!」


細長い男は、完全に青ざめていた。


短剣を持つ手が震えている。


逃げたい。


だが、仲間を置いて逃げるのも怖い。


目の前の男から目を離すのも怖い。


その迷いが顔に出ていた。


瞬は、一歩近づいた。


「なあ」


「ひっ」


「この子に謝って、もう二度とこういうことしないって約束するなら、俺はこれ以上何もしない」


「ほ、本当か?」


「本当」


瞬は真面目に頷いた。


「俺、暴力反対派だから」


石畳にめり込んだ男。


木箱に刺さった男。


頭に根菜を受けた男。


その三点を結ぶと、かなり説得力のない宣言だった。


細長い男は、震えながらメイの方を見た。


「す、すまなかった!」


それだけ叫ぶと、地面にめり込んだ小柄な男の襟を掴み、力任せに引っ張った。


抜けない。


「抜けねぇ!」


「ちょっと貸して」


瞬が近づき、小柄な男の襟首をつまむ。


ぽん。


小柄な男は、栓を抜くように石畳から抜けた。


顔面は白く、完全に気絶している。


「よし、生きてる」


「よしじゃねぇ……」


細長い男は泣きそうな顔で仲間を担ぎ、大柄な男を木箱から引きずり出すと、三人まとめて路地の出口へよろよろと走っていった。


途中、大柄な男が足をもつれさせ、小柄な男が荷物のように揺れた。


「覚えてろよ!」


細長い男が、震える声で叫ぶ。


瞬は首を傾げた。


「覚えてた方がいいのか? 反省するなら忘れない方がいいけど」


男たちは返事をせず、夜の大通りへ消えていった。


路地裏に、静けさが戻った。


遠くの歓声。


ランタンの揺れる音。


風に転がる紙くず。


砕けた木箱から落ちた根菜が、石畳の上でころころと転がり、メイの足元で止まった。


メイは、動けなかった。


目の前で起きたことが、現実なのか分からない。


三人の男が消えた。


誰も自分の布を剥がさなかった。


誰も紫の瞳を見ていない。


それなのに、助かった。


その事実が、うまく胸に入ってこなかった。


瞬は、少し離れた場所で立ち止まった。


すぐに近づこうとはしなかった。


メイが震えていることに、気づいたからだ。


路地の暗がりの中で、彼女は布を握りしめている。指先は白くなるほど力が入っていた。逃げ場のない壁際で、今にも消えてしまいそうなほど小さくなっている。


瞬の胸の奥に、さっきまでの軽さとは違うものが落ちた。


この子は、助けられたのに安心していない。


男たちが去っても、まだ何かに怯えている。


しかも、自分を怖がっているだけではない。


自分自身が何かをしてしまうことを、恐れているように見えた。


瞬は、そこに引っかかった。


ただ守られるだけの弱い子ではない。


力がないから怯えているわけでもない。


この子は、たぶん何かを抱えている。


傷つけられてきたのに、それでも誰かを傷つける側にならないように、必死で自分を縛っている。


それが、瞬には不思議なくらい強く見えた。


「……大丈夫か?」


瞬は、声を柔らかくした。


メイは答えない。


布の奥で、浅い呼吸だけが震えている。


瞬はしゃがみ、メイと目線の高さを合わせた。


「ごめんな。怖かったよな」


その言葉に、メイの肩が小さく揺れた。


怖かった。


その一言を、誰かから向けられたのは、いつ以来だっただろう。


村では、怖がられた。


宿場町では、追い出された。


湖畔では、剣を向けられた。


渓谷では、差し出された。


王都の外では、石を投げられた。


誰も、メイが怖かったかどうかなど聞かなかった。


怖がっているのは、いつも相手の方だった。


だから、メイはうまく返事ができなかった。


喉の奥が痛い。


声を出せば、何かが崩れてしまいそうだった。


瞬は、彼女の額に残る血の跡を見た。


ローブの破れ。


泥だらけの靴。


細い手。


そして、腹を押さえるように丸まった姿。


「腹、減ってるだろ」


メイは、びくりとした。


否定しようとした。


けれど、その前に腹が鳴った。


ぐうう。


路地の静けさの中で、あまりにも正直な音だった。


メイは布の下で耳まで熱くなった。


瞬は、笑わなかった。


からかうこともしなかった。


ただ、少しだけ安心したように息を吐いた。


「よかった」


「……何が、ですか」


ようやく、メイの声が出た。


細く、掠れて、今にも切れそうな声だった。


瞬は言った。


「腹が鳴るなら、まだちゃんと生きようとしてるってことだろ」


その言葉は、メイの胸の奥に、ゆっくり落ちた。


生きようとしている。


そんなふうに、自分を見たことはなかった。


自分はただ、追い出されて、逃げて、歩いて、倒れなかっただけだと思っていた。


けれど、この男はそれを、生きようとしていると言った。


瞬は、右手を差し出した。


大通りの灯りが、その手の輪郭を薄く照らしている。


「飯、食いに行こう」


メイは、その手を見た。


差し出された手。


何度も欲しかったもの。


でも、何度も奪われてきたもの。


老婆の手は背中を撫でたあと、出て行けと言った。


ガルドの手は銀貨をくれたあと、それを踏んだ。


アレインの手は剣を握った。


ガロンの大きな手は家族と言ったあと、自分を差し出そうとした。


だから、メイは動けなかった。


この手も、いつか変わるかもしれない。


この光も、いつか自分を焼くかもしれない。


触れた瞬間、また何かを期待してしまうかもしれない。


それが、何より怖かった。


「……私は」


メイは、布を握りしめた。


「近づかない方が、いいです」


瞬は首を傾げた。


「なんで?」


「私は……」


言えなかった。


紫の瞳のことも。


災いと呼ばれたことも。


助けても拒まれたことも。


言葉にすれば、この瞬間も壊れてしまう気がした。


瞬は、しばらく黙っていた。


それから、差し出した手を無理に近づけず、そのままの位置に置いた。


「じゃあ、今は近づかなくてもいい」


メイが、ゆっくり顔を上げる。


布の奥から、片方だけの視線が瞬を見た。


「でも、腹減ってるやつを見つけて、飯に誘わないのは、俺の中では結構ダメなことなんだ」


瞬は、少しだけ笑った。


「だから、手は取らなくていい。少し離れて歩いてもいい。嫌なら途中で逃げてもいい。でも、飯だけは食え」


メイの唇が震えた。


優しい言葉だと思いたくなかった。


信じたくなかった。


それなのに、胸の奥が痛かった。


凍りついた場所に、急に温かいものを当てられたような痛みだった。


大通りの方から、焼いた肉の匂いが流れてくる。


人々の笑い声。


遠くの歌声。


風に揺れるランタンの光。


メイは、まだ瞬の手を取れなかった。


でも、立ち上がった。


足元がふらつく。


瞬は反射的に支えようとして、すぐに手を止めた。


彼女が怯えたのを見たからだ。


その気遣いが、またメイの胸を締めつけた。


「……行きます」


かすかな声だった。


瞬は、明るく頷いた。


「よし。じゃあ、まずは温かいものだな。スープとか。パンとか。あと肉。肉は大事」


メイは返事をしなかった。


けれど、ほんの少しだけ、歩き出した。


瞬は彼女の半歩前を歩く。


近すぎず、遠すぎず。


大通りの光へ向かって。


路地裏の闇を背にして。


その時、王都の空を一羽のカラスが横切った。


黒い翼が、ランタンの光を一瞬だけ遮る。


メイは、顔を伏せたまま歩いた。


まだ救われたわけではない。


まだ信じたわけでもない。


けれど、冷たい石畳の上に倒れるはずだった夜が、ほんの少しだけ先へ延びた。


そして瞬は、隣ではなく、少し後ろを歩く少女の小さな足音を聞いていた。


こつ。


こつ。


こつ。


それは、今にも消えそうな音だった。


でも、確かに前へ進む音だった。


瞬は、その音から目を逸らせなかった。


この子を放っておけないと思った。


可哀想だからではない。


守らなければならない弱者に見えたからでもない。


震えながらも、誰かを傷つけることを選ばなかったその姿が、どうしようもなく胸に残ったからだ。


光の中へ戻る瞬の背中を、メイは少し離れて追った。


その距離は、まだ遠い。


けれど、二人の影は、王都の石畳の上で、初めて同じ方向へ伸びていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ