第87話:燃える森、折れた弓 〜絶望は終焉の灯火であり、その闇こそが真の星を輝かせる〜
窓の外を流れる景色は、進めば進むほどに色を失っていった。
かつては生命の息吹に満ちていたはずの森が、今は黒く焼け焦げた木々と、踏み荒らされた大地だけの墓標に変わっている。
クイーン・アリス号の中に重苦しい沈黙が落ちる中、アリアは再び口を開いた。
その声は、枯れた葉が擦れるように乾いていた。
「戦いと呼ぶには……あまりにも一方的だったわ」
彼女の双眸が、過去の地獄を映し出す。
***
【回想】
森は、悲鳴を上げていた。
精霊たちの加護によって守られていたはずの結界が、ガラス細工のように砕け散る音が戦場に響き渡る。
『怯むな! 矢を放て!
魔法障壁を維持しろ!』
エルフ軍の指揮官が叫ぶ。
無数の矢が雨のように降り注ぎ、炎や氷の魔法が獣人たちの群れに叩きつけられる。
本来なら、エルフの魔法技術は獣人たちの肉体を遥かに凌駕しているはずだった。森という地の利もあり、防衛戦は有利に進むはずだったのだ。
だが、現実は悪夢のように常識を裏切った。
「ガアアアアアアッ!!」
獣人の兵士が、身体中に矢を受けながらも、止まることなく突進してくる。
炎に焼かれて皮膚がただれようとも、氷に足を凍らされようとも、彼らは痛みを感じていないかのように笑っていた。
その目は赤く充血し、口からは涎と共に黒い瘴気を吐き出している。
『ば、馬鹿な……! なぜ倒れない!?』
最前線のエルフの騎士が恐怖に引きつった顔で叫ぶ。
次の瞬間、獣人の戦士が魔法障壁を「素手」で掴んだ。
バチバチと魔力がスパークし、獣人の手が炭化していく。それでも彼らは構わず力を込め――。
パリンッ!!
鋼鉄よりも硬いはずの障壁が、紙屑のように引き裂かれた。
『ヒッ……!?』
騎士の首が、獣人の爪によって容易く跳ね飛ばされる。
鮮血が舞い、森の緑を汚していく。
「下がって!!」
アリアは前線へと飛び出した。
愛用の弓を引き絞り、魔力を込めた矢を放つ。
ヒュンッ!
風を纏った矢は、一直線に獣人の隊長の眉間を貫いた。
「ガッ……」
隊長が倒れる。
だが、アリアが安堵する暇はなかった。
倒れた隊長の背後から、さらに十、二十の獣人たちが、死体を踏み越えて湧き出してきたからだ。
「どうして……!
仲間が死んでいるのに、どうして平気なの!?」
アリアは叫びながら矢を放ち続けた。
百発百中。彼女の腕に狂いはない。放った矢は確実に敵の急所を捉え、命を刈り取る。
けれど、敵の勢いは止まらない。
彼らには恐怖がない。生存本能すら麻痺させられている。
ただ殺戮と破壊のみをプログラムされた、生きた兵器の群れ。
『姫様! ここは危険です! お下がりください!』
近衛兵たちがアリアの前に壁を作る。
だが、その壁も瞬く間に食い破られていく。
獣人たちの膂力は異常だった。大木をへし折り、それを武器にしてエルフたちを薙ぎ払う。
魔族の技術による肉体強化。
命を削り、理性を焼き尽くす代償として得た、禁断の力。
『うわぁぁぁぁ!』
『いやだ、死にたくない……!』
アリアの目の前で、幼い頃から知っている兵士たちが、友人たちが、次々と肉塊に変えられていく。
美しい森が燃える。
数百年かけて育まれた木々が、精霊たちが宿る泉が、黒い泥と血で汚されていく。
「やめて……お願い、やめて……!」
アリアの指が震える。
弓を持つ手が重い。
どれだけ殺せば終わるの? どれだけ血を流せば許されるの?
圧倒的な「暴力」の前に、彼女が信じていた「高潔さ」や「誇り」など、枯れ葉のように無力だった。
その時、巨大な爆発音が轟いた。
森の奥、エルフたちが聖域として守ってきた「世界樹」の方向から、黒い煙が立ち上るのが見えた。
『世界樹の結界が……破られた!?』
絶望的な報告が駆け巡る。
本陣が落ちたのだ。
『総員、撤退! 王都へ退け!』
『姫様をお守りしろ!』
それは、敗走の合図だった。
アリアは、兵士に腕を引かれて走った。
燃える村を、逃げ惑う民を見捨てて、ただ逃げるしかなかった。
背後から聞こえる獣人たちの咆哮。
それは勝利の勝鬨ではなく、血肉を求める飢えた獣の叫びだった。
アリアは振り返り、燃え落ちる森を見た。
大好きだった場所。
静かで、優しくて、永遠に変わらないと信じていた故郷。
それが今、理不尽な悪意によって、跡形もなく踏みにじられていく。
「……っ」
彼女の手の中で、弓がメシリと音を立てて折れた。
武器が壊れたのではない。彼女の心の一部が、耐えきれずに砕けた音だった。
***
「……そうして、私たちは追い詰められていったわ」
アリアの声が途切れた。
彼女は自分の手を抱くようにして震えていた。あの日の寒気と、血の匂いが蘇ってくるように。
「私の魔法も、弓も、何も通じなかった。……ただの無力な子供だった」
車内には、エンジンの駆動音だけが低く響いていた。
誰も言葉を発せない。
アリアが語った地獄は、あまりにも凄惨で、かける言葉が見つからなかった。
アリスが、モニターを睨みつけたまま、ギリリと歯噛みする音が聞こえた。
「……胸糞悪いゲームね。バランス調整ミスってるわよ、クソ運営」
ゼイクは目を閉じ、拳を握りしめている。
「騎士として……いや、同じ命を持つ者として、許しがたい所業だ」
メイが、そっとアリアの背中に手を回し、抱きしめた。
「アリアさん……」
メイの体温が、震えるアリアに伝わっていく。
瞬は、ソファに深く座ったまま、天井を見上げていた。
その表情は読めない。
だが、組まれた指の関節が白くなるほど力が込められているのを、エリーゼだけが見ていた。
「アリア」
瞬が静かに呼んだ。
「お前は無力じゃなかったよ」
アリアが顔を上げる。
「お前が生きてる。……それが、仲間たちが命がけで勝ち取った『勝利』だろ」
その言葉は、アリアの胸に深く突き刺さった。
逃げたのではない。生かされたのだ。
かつて「深淵の霊廟」でシルヴィアがそうであったように、アリアもまた、多くの犠牲の上に「生」を託されたのだ。
「……ええ。そうね」
アリアは涙を拭い、前を向いた。
窓の外、枯れた森の向こうに、かつての王都――世界樹の巨木が、黒く煤けた姿でそびえ立っているのが見えてきたからだ。
「ここからが、私の最後の記憶よ。……私が、どうやってあの地下牢へ飛ばされたのか。その話を、しなくちゃいけないわ」
クイーン・アリス号は、死に絶えた森の中心部へと近づいていく。
そこには、アリアの最も辛い別れの記憶と、そして今なお巣食う「絶望」が待っていた。




