第86話:翡翠の森と、破られた盟約 〜荒ぶる波は、凪(なぎ)の海が裏返った姿である〜
「クイーン・アリス号」は、緑の海を泳ぐように進んでいた。
窓の外には、樹齢数百年を越えるであろう巨木たちが立ち並び、その枝葉が天を覆う天蓋となって、柔らかな木漏れ日を地面に落としている。
エルフの森。
世界で最も美しく、そして最も排他的だと言われる聖域。
だが、車窓からその景色を眺めるアリアの瞳には、懐かしさよりも深い悲しみが宿っていた。
リビングのソファには、瞬、ゼイク、エリーゼ、メイ、そして運転を自動操縦に切り替えたアリスが集まり、彼女の話に耳を傾けていた。
「ねえ、アリア。さっき『戦争』って言ってたけど……」
メイが、心配そうに膝に置いたアリアの手に触れる。
「エルフさんと獣人さんって、仲が悪かったんですか?」
アリアは首を横に振った。
その動作は、かつての幸せな記憶を振り払うかのように重かった。
「いいえ。……かつては、兄弟のような関係だったのよ」
アリアは遠くを見る目をした。
彼女の言葉と共に、時間は数年前へと遡る。
***
【回想】
あの頃の森は、今よりもずっと明るく、笑い声に満ちていた。
森の境界線にある交易広場。そこでは、エルフと獣人が入り乱れ、互いの産物を交換し合っていた。
『おーい、アリア!』
元気な声と共に、一人の獣人の青年が駆け寄ってくる。
レオ。
狼の耳と尻尾を持つ、獣人国の若き使節であり、アリアの幼馴染のような存在だった。
彼の手には、森では採れない岩塩や、珍しい鉱石が抱えられていた。
『見てくれよこれ! 山の向こうで見つけたんだ。お前、こういう光る石好きだろ?』
『まあ、綺麗……! ありがとうレオ。お礼に、この傷薬を持って行って。狩りの時に役立つわ』
私たちは、互いに足りないものを補い合っていた。
エルフは、森の恵みを育てる魔法と、精巧な薬や織物を。
獣人は、力強い労働力と、外の世界からもたらされる鉱物や情報を。
「種族は違う。寿命も、考え方も違う。……でも、だからこそ私たちは、お互いを尊重し合えていたの」
アリアは、レオと並んで夕日を見た日々を思い出していた。
『俺たちが国を継いだら、もっと交流を増やそうぜ』と笑った彼の、犬歯が覗く無邪気な笑顔を。
永遠に続くと思っていた、翡翠色の平和。
――だが。
その平和は、一夜にして砕け散った。
凶報は、風に乗って届いた。
獣人国でクーデターが発生。
エルフとの融和を説いていた穏健派の前王が、暗殺されたのだ。
新たに玉座についたのは、前王の弟であり、過激な武闘派として知られる「ガウ・ゾルガ」。
彼は即位するなり、こう宣言したという。
『弱肉強食こそが獣人の掟。力なき者が資源を独占するのは、自然の理に反する』
そして、使者が来た。
突きつけられたのは、交渉ではなく「脅迫」だった。
『エルフ族が管理する「世界樹」のマナ(魔力資源)を、全て我々に譲渡せよ。さもなくば――力づくで奪う』
当然、父様(エルフの王)は拒否した。
世界樹のマナは森の命そのものだ。それを渡すことは、森の死を意味する。
交渉決裂。
その直後だった。
***
その夜、森の空が赤く染まった。
夕焼けではない。
紅蓮の炎が、数千年の歴史を持つ巨木たちを舐め尽くしていた。
『敵襲ーーッ!! 獣人軍だ!!』
警報の鐘が乱打される中、アリアは武器を取り、前線へと走った。
信じられなかった。
宣戦布告もなしに、いきなり火を放つなんて。
かつての友人が、隣人が、そんな非道なことをするはずがない。
「レオ……!」
燃え盛る森の入り口で、アリアは彼を見つけた。
レオは、先陣を切ってエルフの防衛隊を蹴散らしていた。
その爪は同胞の血で濡れ、かつてアリアに綺麗な石をくれたその手で、エルフの戦士の首を締め上げていた。
『やめて! レオ! どうしてこんなことを!』
アリアは叫んだ。弓を構えながらも、指が震えて矢を放てない。
レオが振り返る。
アリアは息を呑んだ。
彼の瞳から、かつての理性的で温かい光が消え失せていたからだ。
そこにあるのは、濁った泥のような色。
そして、どこか虚ろで、狂気に満ちた殺意だけだった。
『……弱いのが、悪いんだ』
レオは、低く唸るように言った。
それは、洗脳された人形が喋っているかのような、無機質な響きだった。
『力こそが正義。奪う者が勝者。……アリア、お前たちの「平和」ごっこは、もう終わりだ』
レオが吼える。
それに呼応するように、背後の暗闇から、無数の獣人兵たちが赤い目を光らせて現れた。
彼らの体からは、獣人本来の気配とは違う、禍々しい黒い靄のようなものが立ち上っていた。
――魔族の気配。
アリアは悟った。
これは、ただの戦争じゃない。
もっとおぞましい何かが、彼らを狂わせ、操っているのだと。
燃え落ちる枝が、アリアとレオの間を分断するように落下した。
炎の壁の向こうで、かつての友が、獣の顔で嗤った。
***
「……それが、始まりだったわ」
アリアは、静かに語り終えた。
車内は静まり返っていた。
明るい日差しが差し込んでいるはずなのに、アリアの周りだけ、冷たい夜の空気が残っているようだった。
メイが、泣きそうな顔でアリアの手を握りしめる。
「ひどい……。お友達だったのに……」
「レオという彼も、被害者なのかもしれませんね」
エリーゼが、沈痛な面持ちで推測する。
「その『黒い靄』……精神干渉や肉体強化の呪術の類でしょう。魔族が関与しているなら、獣人たちもまた、使い捨ての駒にされている可能性が高いですわ」
「胸糞悪ぃ話だな」
瞬が、不快そうに舌打ちをした。
彼はソファの背もたれに体重を預け、天井を睨みつけている。
「力こそ正義だぁ? そんなもん、ただの弱い者いじめの言い訳じゃねぇか」
ゼイクも、剣の柄に置いた手に力を込めた。
「宣戦布告なしの奇襲、民間人への攻撃……騎士道にもとる。いや、生物としての尊厳を踏みにじる行為だ」
アリスは、無言でモニターを見つめていたが、やがてポツリと言った。
「……データ上の『戦争イベント』なら、ただの経験値稼ぎだけど。……実際に聞くと、ヘドが出るわね」
彼女は、アリアの方を向かずに言った。
「安心しなさい。私がついてるわ。……あいつらの洗脳だろうが何だろうが、物理的と魔法的にひっぱたいて目を覚まさせてやるから」
アリアは、仲間たちの顔を見渡した。
怒ってくれている。悲しんでくれている。
自分の痛みを、我がことのように感じてくれている。
その事実が、凍りついていた過去の記憶を、少しだけ温めた。
「ありがとう。……でも、話はこれで終わりじゃないの」
アリアは、震える声を抑えて続けた。
「本当の地獄は、そこからだった。……私たちが、どうやって敗北し、私がなぜ一人で逃げ延びることになったのか。その話を、聞いてほしい」
クイーン・アリス号は、深まる森の奥へと進んでいく。
窓の外の景色は、かつての美しい緑ではなく、枯れ果て、傷ついた木々が目立ち始めていた。
戦争の爪痕が、すぐそこまで迫っていた。




