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詠唱? それ、気合を入れるためのおまじないですよね? ~異世界キャンピングカーでダンジョンも王国もひっくり返す~  作者: Gaku


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第85話:紅茶の香り、そしてエルフ領へ 〜恐怖のあとに残る温もりは、進む力になる〜

荒野に、奇妙な静寂が戻っていた。


 つい先ほどまで、大地を揺らしていた魔物の足音はもうない。

 空を裂いていた咆哮も、牙がぶつかる音も、翼が風を叩く音も消えていた。


 残っているのは、乾いた風の音だけだった。


 風が、抉れた地面の上を通り抜けていく。

 崩れた岩の隙間を撫で、折れた草の先を揺らし、戦いの熱を少しずつ奪っていく。

 舞い上がっていた土煙は、夕方の光の中で薄い幕のように広がり、やがて遠くへ流されていった。


 アリアは、その場に立ち尽くしていた。


 弓を握る指には、まだ力が入っている。

 弦を引いた感触が、指先に残っていた。

 頬に触れた風の冷たさも、放った矢が空気を切り裂いた音も、妙にはっきりと覚えている。


 生きている。


 その実感が、遅れて胸に落ちてきた。


 あれほどの魔物の波が迫ってきたのに。

 大地を埋め尽くすほどの災厄だったのに。

 今、ここに立っている。


 自分も。

 メイも。

 瞬も、アリスも、ゼイクも、エリーゼも。


 誰も失っていない。


 その事実が、アリアの胸を強く締めつけた。


 森での戦いでは違った。

 何かが終わるたび、誰かがいなくなっていた。

 ひとつの危機を越えたと思えば、次の悲鳴が聞こえた。

 息をつく間もなく、守れなかった命の重さだけが増えていった。


 けれど今は、違う。


 戦いが終わったあとに、静けさがある。

 誰かの名前を泣き叫ぶ声ではなく、ただ風の音だけが残っている。


 それが、こんなにも不思議で、こんなにもありがたいことだとは知らなかった。


「あー、終わった終わった」


 その静けさを、あまりにも軽い声が破った。


 瞬だった。


 彼は、まるで少し長めの散歩から戻ってきたような顔で、肩をぐるぐる回している。

 あれほど前線の中心にいたはずなのに、息はほとんど乱れていない。服の裾に少し砂がついているだけで、血の匂いも、傷も、疲労の色も見えなかった。


「いい運動にはなったけど、腹減ったな」


 アリアは、思わず瞬を見た。


 腹が減った。


 今、この状況で。

 魔物の大群を退けた直後に。

 第一声が、それなのか。


「……あなた、本当におかしいわ」


 口から自然にこぼれた。


 瞬はきょとんとして、首を傾げる。


「え、何が?」


「全部よ」


 アリアがそう言うと、アリスが横から深く頷いた。


「そこは全面的に同意するわ。瞬はだいたい全部おかしいもの」


「お前にだけは言われたくねぇよ!」


 瞬が即座に言い返す。


 そのやり取りに、アリアは小さく息を漏らした。


 笑いだった。


 戦いの直後だというのに、笑えた。

 ついさっきまで、恐怖で喉が塞がっていたのに。


 この人たちは、いつもそうだ。

 絶望の中に平気で日常を持ち込んでくる。

 とんでもないことをしておきながら、当たり前の顔で戻ってくる。


 それが時々、信じられないほど腹立たしくて。

 信じられないほど、救いになる。


 アリスは、魔導モニターを片手にクイーン・アリス号の周囲を歩いていた。

 戦場の跡よりも、車体の外装を気にしている。


「右側面、砂埃多数。小石の接触痕……なし。結界表面に微細な魔力負荷の痕跡。外装塗装、無傷。よし、許容範囲ね」


「魔物の群れより車体の傷なのね」


 アリアが呟く。


 アリスは当然のように振り返った。


「当たり前じゃない。クイーン・アリス号は私の城であり、家であり、誇りよ。下手な王宮より価値があるわ」


「王女の前でよく言うな」


 瞬が苦笑する。


 だが、アリアは不思議と嫌な気持ちにはならなかった。


 むしろ、少し羨ましいと思った。


 アリスには、胸を張って「ここが自分の場所だ」と言えるものがある。

 守ると決めたものを、堂々と守っている。


 自分はどうだろう。


 エルフの森は、確かに故郷だ。

 王女として守るべき場所だ。

 帰らなければならない場所だ。


 でも今、その場所を思うと胸が温かくなるだけではない。

 怖い。

 苦しい。

 懐かしさより先に、燃える木々の匂いと、逃げる足音が蘇る。


 帰りたい。

 でも、帰るのが怖い。


 その矛盾が、胸の奥で静かに渦を巻いていた。


「……奇妙ですわね」


 少し離れた場所で、エリーゼが膝をついていた。


 彼女は杖の先で、地面に残る黒い焦げ跡のようなものをなぞっている。

 その表情は、いつもの好奇心だけではない。警戒と不快感が混じっていた。


 ゼイクが隣に立つ。


「何がわかった?」


「魔物たちの残留魔力ですわ。通常のスタンピードなら、興奮状態の魔物特有の荒い魔力の痕跡が残るはずです。ですが、これは違います」


 エリーゼは指先にわずかな光を灯し、空気中の見えない流れをすくい上げるような仕草をした。


「魔力というより、振動に近い。しかも、自然なものではありません。外から無理やり流し込まれ、神経や本能を揺さぶられていたような痕跡がありますわ」


 アリアの背筋が冷えた。


 振動。


 82話で感じた、地面の奥から這い上がるような不快な響き。

 83話で迫ってきた、足音の奥に混じっていた黒い気配。

 そして84話で見た、魔物たちの体を走る黒い筋。


 それらが、ひとつの線でつながっていく。


「魔物たちは……私たちを襲いに来たんじゃないの?」


 メイが不安そうに尋ねる。


 エリーゼは少しだけ言葉を選ぶように沈黙した。


「襲いに来た、というより……何かから逃げていたところを、さらに狂わされ、進路上にいた私たちへぶつけられた。そう考える方が自然かもしれませんわ」


 風が吹いた。


 荒野の草が低く波打ち、乾いた葉が擦れ合う。

 その音が、ざわざわと胸の中まで入り込んでくるようだった。


「何かから逃げていた……」


 アリアは、魔物たちが来た方角を見つめた。


 その先には、エルフの森へ続く道がある。


 故郷に近づいているはずなのに。

 戻れば、安心できるはずなのに。


 今は、その方角から、見えない闇が口を開けているように感じた。


 ゼイクが低く唸る。


「つまり、この先に、あの群れを恐怖させるほどの何かがあるということか」


「あるいは、何者かが意図的にこの暴走を起こしているか、ですわね」


 エリーゼの言葉に、アリスがモニターから目を上げた。


「黒い振動、魔力の強制干渉、群れの誘導。……面倒な匂いしかしないわね」


「魔族……」


 アリアの口から、自然にその言葉がこぼれた。


 瞬たちが一斉にこちらを見る。


 アリアは、自分の声が思ったよりも落ち着いていることに気づいた。


 怖くないわけではない。

 むしろ、怖い。


 だが、さっきまでとは違う。


 恐怖に飲まれて、何も考えられなくなる感覚ではなかった。

 怖いと認めた上で、その正体を見ようとしている。


 それが、自分でも少しだけ意外だった。


「森で見た異変と似ているわ。獣人たちを覆っていた黒い気配。あの時は、何なのかわからなかった。でも……今の魔物たちにも、同じようなものがあった」


 アリアは弓を握りしめた。


「やっぱり、何かがいるのね。私の故郷で。私たちの知らない何かが」


 沈黙が落ちた。


 戦闘後の安堵が、再び不穏な色を帯びる。


 だが、その沈黙を破ったのは、やわらかな声だった。


「みなさん」


 メイが、クイーン・アリス号の方から顔を出していた。


 いつの間に準備したのか、彼女の手には大きなトレイがある。

 その上には、白い湯気を立てるティーポットと、人数分のカップ。

 そして、焼き立てのクッキーが並んでいた。


「紅茶が入りました。……少し休みませんか?」


 荒野の真ん中。

 抉れた大地。

 まだ焦げた匂いの残る風。

 魔族の影を感じさせる、不穏な痕跡。


 その中心に、甘くて温かい紅茶の香りがふわりと広がった。


 アリアは、思わず目を瞬かせた。


 この人たちは本当に、どこまでも調子を狂わせてくる。


 けれど、その香りを吸い込んだ瞬間、強張っていた胸が少しだけほどけた。


 怖い話をしていても。

 不吉なものが近づいていても。

 温かい紅茶を飲む時間は、ちゃんとここにある。


 そのことが、今のアリアにはたまらなく尊かった。


メイは、何事もなかったかのようにトレイを持って近づいてきた。


 いや、何事もなかったはずがない。


 つい先ほどまで、この荒野には魔物の群れが押し寄せていた。

 大地は裂け、空は土煙に覆われ、アリアの耳には今もなお、獣の咆哮の残響がこびりついている。


 それなのに、メイの持つティーポットからは、やさしい湯気が立ち上っていた。

 焼き立てのクッキーからは、バターと砂糖の甘い香りが漂っている。

 その匂いは、焦げた土と魔物の臭いが残る荒野の空気の中で、あまりにも場違いだった。


 けれど、だからこそ救いだった。


「おっ、サンキュ、メイ!」


 瞬が真っ先にカップを受け取った。


 彼は戦場の中心で魔物の群れを砕いていたはずなのに、まるで庭の草むしりでも終えたような顔をしている。

 カップに口をつけ、熱さに少し眉を上げながら、それでも嬉しそうに息を吐いた。


「あー、生き返る」


「さっきまで生き物を大量に生き返れなくしてた人の台詞じゃないわね」


 アリスが呆れたように言う。


「言い方!」


 瞬が抗議する。


 そのやり取りに、メイが困ったように笑い、ゼイクが深くため息をついた。


「まったく……お前たちは、緊張感というものをどこに置いてきたのだ」


「車内じゃない?」


 アリスが平然と答える。


「拾ってこい」


 ゼイクの声が、少しだけ疲れていた。


 アリアは、メイから差し出されたカップを受け取った。


 両手で包むと、じんわりとした熱が指先へ伝わってくる。

 戦闘のあと、知らないうちに冷え切っていた手が、その温もりで少しずつ戻っていく。


 湯気の向こうで、紅茶の水面が小さく揺れていた。


 さっき、警報が鳴る直前にも、同じようにカップが震えていた。

 けれど、今の揺れは違う。

 恐怖で揺れているのではなく、風に撫でられて、静かに波紋を作っているだけだった。


 アリアは紅茶を一口飲んだ。


 熱い。

 甘い。

 喉を通った温もりが、胸の奥へゆっくり落ちていく。


「……おいしい」


 思わず言葉がこぼれた。


 メイの顔が、ぱっと明るくなる。


「よかったです。アリアさん、ずっと顔色が悪かったので……」


「ええ。少し、怖かったわ」


 アリアは正直に言った。


 前なら、そんなことは言えなかったかもしれない。


 王女として、弱さを見せてはいけないと思っていた。

 恐怖を口にしたら、そこから崩れてしまう気がしていた。


 けれど今は違う。


 怖かったと認めても、目の前の誰も彼女を軽んじない。

 むしろ、メイは心配そうに眉を下げ、ゼイクは静かに頷き、瞬は当然のように言った。


「怖いもんは怖いだろ。あれだけ来たら」


「あなたは怖そうに見えなかったけど」


「いや、あれが車に当たったらアリスが怖いだろ」


「そこ!?」


 アリアは、思わず吹き出した。


 笑った瞬間、胸の奥に残っていた硬いものが少しだけ崩れた。

 喉の奥に詰まっていた恐怖の塊が、紅茶の温もりと一緒に溶けていくようだった。


 アリスは不満げに腕を組む。


「何よ。私の怒りは、災厄より厄介だってことを理解しているなら上出来じゃない」


「否定できないのが怖いな」


 瞬がぼそりと言う。


 メイが慌てて二人の間にクッキーの皿を差し出した。


「け、喧嘩する前に甘いものをどうぞ!」


 アリスは一枚つまみ、瞬も当然のように同じ皿へ手を伸ばした。

 その指先が最後の大きなクッキーの上でぶつかる。


「私のよ」


「早い者勝ちだろ」


「女王優先よ」


「いつから女王になったんだよ」


「クイーン・アリス号の所有者よ」


「じゃあ俺は乗客代表だ」


「代表権を認めた覚えはないわ」


 戦闘後の荒野で、二人はクッキーを巡って真剣に睨み合っていた。


 アリアは、呆れて、そしてまた笑ってしまった。


 本当に変な人たちだ。


 世界を壊すような力を持っているのに、クッキー一枚で揉める。

 魔物の群れを退けた直後に、紅茶を飲む。

 不吉な振動の話をしていたはずなのに、気づけばいつもの食卓の空気に戻っている。


 でも、そのおかしさが、今はたまらなく大切だった。


 恐怖のあとに、笑える。

 戦いのあとに、温かいものを飲める。

 誰かと一緒に、くだらないことで息をつける。


 それは、アリアが長い間忘れていたものだった。


 森が焼かれてから、彼女の時間はずっと止まっていた。

 逃げること。

 生き延びること。

 失ったものを思い出して苦しむこと。


 それだけで、心がいっぱいだった。


 けれど今、目の前の彼らは教えてくれている。


 恐怖の中でも、人は温かいものを飲める。

 絶望の後でも、笑うことは許される。

 生き残った者が笑うことは、亡くした人たちへの裏切りではない。


 むしろ、生きている証なのかもしれない。


 アリアは、カップを胸の前で握りしめた。


「……私、ずっと思っていたの」


 自然と声が出た。


 瞬たちの会話が止まる。

 メイが静かにアリアを見る。

 ゼイクも、エリーゼも、アリスも、彼女の言葉を待っていた。


「私は、生き残ってしまったのだと思っていた。みんなが私を逃がしてくれたのに、私は何もできなかった。だから、笑うことも、安心することも、許されない気がしていた」


 風が吹いた。


 折れた草が低く揺れる。

 夕陽の光が、荒野の傷跡を淡く照らしていた。


「でも……あなたたちといると、少しだけ思えるの」


 アリアはゆっくりと顔を上げた。


「生きているなら、温かいものを飲んでもいいのかもしれない。怖かったと言ってもいいのかもしれない。笑っても……いいのかもしれない」


 メイの目に、涙が浮かんだ。


「いいに決まってます」


 彼女は、即座に言った。


「アリアさんが笑ってくれたら、私は嬉しいです」


 その言葉は、まっすぐだった。


 アリアの胸に、柔らかく刺さる。


 ゼイクが静かに頷いた。


「生き残った者には、背負うものがある。だが、それは自らを罰し続けることとは違う。君が笑うことを、君を逃がした者たちが責めるとは思えん」


 エリーゼも、穏やかに続ける。


「むしろ、怒られますわよ。せっかく生かしたのに、そんな顔ばかりしているのか、と」


 アリアは、目を伏せた。


 その光景が、少しだけ浮かんだ。


 かつての仲間たち。

 自分を逃がしてくれた人たち。

 もし彼らが今のアリアを見たら、何と言うだろう。


 泣いてばかりいるな、と叱るだろうか。

 よく生きた、と笑うだろうか。


 答えはまだわからない。


 けれど、少なくとも、今ここで紅茶を飲む自分を、責めはしない気がした。


「ありがとう」


 アリアは小さく言った。


 瞬は少し照れたように視線を逸らし、クッキーを口に放り込んだ。


「あんまり難しく考えなくていいんじゃねぇの。腹が減ったら食う。寒かったら温まる。怖かったら誰かの手を握る。そういうのでいいだろ」


「本当に単純ね」


 アリスが言う。


「単純でいいんだよ。複雑にしすぎると腹が減る」


「結局そこに戻るのね」


 アリアは、また笑った。


 今度は、さっきよりも自然に。


 エリーゼが地面の痕跡を小瓶に採取し終え、立ち上がった。


「さて。休息は大切ですが、長居はしない方がよさそうですわ。この黒い振動の出所は、おそらく進行方向の先です。森に近づけば近づくほど、強くなる可能性があります」


 その言葉で、場の空気が再び少し引き締まる。


 アリアは、カップの中に残った紅茶を見つめた。


 進む。


 故郷へ。

 怖い場所へ。

 戻りたかった場所であり、戻るのが怖い場所へ。


 胸の奥がまた小さく震えた。


 けれど、さっきまでとは違う。


 逃げたいだけの震えではなかった。


 アリアは紅茶を飲み干し、カップをメイへ返した。


「行きましょう」


 声は静かだった。

 だが、そこにははっきりとした意志があった。


「私の国へ」


 瞬がにやりと笑った。


「よし。王女様のご案内だな」


「王女様じゃなくて、アリアよ」


「はいはい、アリア」


 その軽いやり取りに、アリアは少しだけ頬を緩めた。


 クイーン・アリス号は、再び走り出した。


 銀色の車体が、戦闘で荒れた大地を離れ、荒野の先へ向かう。

 タイヤが砂利を噛み、硬い音を立てる。

 窓の外では、夕陽が低く傾き、乾いた草の影を長く伸ばしていた。


 やがて、景色が変わり始める。


 荒野の茶色が少しずつ薄れ、緑が増えていく。

 最初は、まばらな低木だった。

 次に、細い幹の木々。

 さらに進むと、背の高い樹木が道の両側に立ち並び、枝葉が空を覆い始めた。


 風の匂いも変わった。


 乾いた砂の匂いから、湿った土の匂いへ。

 枯れ草の苦さから、苔と樹液の甘い匂いへ。

 遠くで葉が擦れる音がする。

 その音は、アリアの記憶の奥にある故郷の音と重なった。


 胸が痛む。


 懐かしい。

 それなのに、怖い。


 窓の外を流れる木々を見つめながら、アリアは膝の上で手を握った。


 メイが、その手にそっと自分の手を重ねた。


「大丈夫です」


 小さな声だった。


 アリアはメイを見た。

 メイは何も聞かなかった。

 ただ、隣にいてくれた。


 それだけで、息がしやすくなった。


 しばらく進んだ時、車体全体が、薄い膜をくぐるような感覚に包まれた。


 音が、一瞬だけ遠ざかる。

 空気がひやりと冷たくなる。

 肌の表面を、見えない水の膜が撫でていくような、不思議な感覚。


 ゼイクが眉を上げる。


「今のは……」


「結界よ」


 アリアは窓の外を見つめたまま答えた。


 声が少し震えていることに、自分で気づいた。

 けれど、言葉は止めなかった。


「ここから先は、私の国。エルフの森よ」


 その瞬間、リビングの中に静かな緊張が落ちた。


 瞬は窓の外を見た。

 アリスはモニターを確認し、エリーゼは空気中の魔力を感じ取るように目を細める。

 ゼイクは無言で姿勢を正し、メイはアリアの手を握ったままだった。


 森は、美しかった。


 高い木々が空を支え、木漏れ日が車体の窓に細かな模様を描いている。

 葉の隙間から差し込む光は、緑色を帯びて柔らかく、舞い上がる小さな埃や花粉を淡く照らしていた。

 風が通るたび、枝葉が触れ合い、さらさらと乾いた音を立てる。


 けれど、その美しさの奥に、アリアは別のものを見た。


 折れた枝。

 焦げた幹。

 不自然に静まり返った鳥のいない空。

 森の奥から漂う、微かな黒い気配。


 帰ってきた。


 そう思った瞬間、涙が出そうになった。


 でも、アリアは泣かなかった。


 泣くのは、まだ後でいい。

 今は、前を向く時だ。


「案内するわ」


 アリアは静かに言った。


「この先に、私の故郷がある」


 そして、おそらく。


 自分が向き合わなければならない過去も。

 救わなければならない民も。

 見たくなかった現実も。


 すべてが待っている。


 それでも、アリアはもう一人ではなかった。


 クイーン・アリス号は、木漏れ日の中をゆっくりと進んでいく。

 銀色の車体に、葉の影が流れては消えた。


 森の奥で何が待っているのか、まだ誰にもわからない。


 けれどアリアの胸には、紅茶の温もりがまだ残っていた。

 恐怖のあとに確かに残った、その小さな温もりが、彼女の足元を照らしていた。

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