第84話:砂上の楼閣、あるいは規格外の暴力 〜恐怖は、見届けた時に形を変える〜
第一波が崩れた。
それは、戦場を知る者なら誰もが信じられない光景だった。
地平線を埋めていた魔物の波に、大きな裂け目が走っている。
瞬が大地へ叩き込んだ一撃の跡は、荒野に扇形の傷を刻み、そこだけ砂と岩がめくれ上がっていた。
アリスの青白い光が通った場所には、倒れた魔物の影すらほとんど残っていない。焦げた匂いと、焼けた空気のかすかな苦みだけが、風の中に漂っている。
だが、静寂は訪れなかった。
土煙の奥から、さらに重い音が近づいてくる。
ドン。
ドン。
ドン。
大地が、ゆっくりと殴られているような響きだった。
さっきまでの群れは、数で押し潰す濁流だった。
今、近づいてくるものは違う。
ひとつひとつの足音が重い。
大気の震え方が違う。
土煙の色が、夕陽を吸って黒ずんで見える。
アリアは、弓を構えたまま息を呑んだ。
薄れた砂煙の奥で、巨大な影が動いた。
オーガよりもさらに大きい。
背中には岩のような突起が並び、腕は大木を束ねたように太い。
頭部は一つではない。歪に膨らんだ肩の上に、獅子のような顔、山羊のような顔、そして蛇のように長く伸びた首が絡み合っている。
キメラ。
だが、ただのキメラではない。
その体の表面には、黒い筋のようなものが脈打っていた。
血管ではない。魔力の流れでもない。
まるで体の内側に、別の何かを無理やり流し込まれているような、不気味な黒い線。
「……あれも、普通じゃない」
アリアの声は、風に消えそうなほど小さかった。
エリーゼが杖をかざし、眉をひそめる。
「魔力の流れが乱れていますわ。自然発生した魔物ではありません。何かで強引に興奮状態を維持されている……いえ、壊れたまま走らされている、という方が近いですわね」
「つまり、止まる気はないってことか」
瞬が首を鳴らした。
その背中に、恐怖はなかった。
あるのは、面倒な障害物を前にしたような、ひどく平坦な気配だけだった。
アリアは、その平坦さが怖かった。
さっきまで彼を見て、希望だと思った。
今も、それは変わらない。
けれど同時に、思い知らされる。
瞬の強さは、励ましや優しさの延長にあるものではない。
もっと根本的に、世界の作りそのものを踏み越えている。
人が鍛えて辿り着く強さではない。
王族が兵を集めて得る力でもない。
伝説の英雄が語り継がれるような、整った強さですらない。
ただ、そこにある。
嵐のように。
雷のように。
山がそこに立っているように。
「来るぞ!」
ゼイクが叫んだ。
巨大キメラが地面を蹴った。
その一歩で、前方の小さな魔物が巻き添えになって潰れた。
それでもキメラは止まらない。
潰した魔物の血と泥を脚にまとわりつかせ、獣の咆哮と蛇の金切り声を同時に上げながら、一直線にクイーン・アリス号へ突進してくる。
狙いは車体だ。
アリスの目が、一瞬で細くなった。
「……私の車を狙ったわね」
低い声だった。
瞬がわずかに振り返る。
「アリス?」
「許さない」
彼女の周囲に浮かぶ青白い円環が、いっせいに回転速度を上げた。
風が変わった。
アリアの頬を、冷たい光の気配が撫でていく。
空気中の細かな砂粒が、円環の周囲で静止したように見えた。
次の瞬間、それらは細い線を描きながら、アリスの背後へ吸い寄せられていく。
アリスが指を伸ばす。
「脚を止めるわ。瞬、頭は任せた」
「了解」
たったそれだけ。
それだけで、二人は同時に動いた。
アリスの指先から、三本の青白い光が放たれた。
一本は右前脚へ。
一本は左後脚へ。
もう一本は、突進の重心を支えている胴の下へ。
光は、真っ直ぐではなかった。
空中で角度を変え、砂煙の中を避け、他の魔物の体をすり抜けるように進み、正確にキメラの脚の腱を焼き切った。
ジュッ、という湿った音がした。
キメラの巨体が傾く。
だが、倒れない。
黒い筋が不気味に脈打ち、焼き切れたはずの脚を無理やり動かそうとする。
肉が裂け、骨が軋む音が、地鳴りの中に混じった。
「しぶといわね!」
アリスが舌打ちする。
その頭上を、瞬が飛び越えた。
彼は助走らしい助走もなく、ただ地面を蹴っただけだった。
だが、その一蹴りで荒野が爆ぜる。砂利が放射状に飛び散り、瞬の体は矢のようにキメラへ迫った。
キメラの獅子の頭が、瞬に向かって口を開く。
赤黒い魔力が喉の奥で膨れ上がった。
炎か。
毒か。
呪いか。
アリアにはわからない。
わかったのは、それが放たれたら、周囲一帯がただでは済まないということだけだった。
「瞬!」
叫ぶより早く、瞬の拳が獅子の顔面に叩き込まれた。
音が消えた。
一瞬、世界が息を止めたように静まる。
次の瞬間。
キメラの上半身が、内側から崩れた。
爆発ではない。
切断でもない。
瞬の拳が触れた場所を中心に、獅子の頭も、山羊の角も、蛇の首も、胴の上半分までもが、灰色の砂のようにほどけていく。
サラサラサラ……。
それは、戦場には似合わないほど静かな音だった。
死が、あまりにも静かに解体されていく。
巨大な質量が、形を保てなくなり、夕方の風に散った。
残った下半身だけが数歩よろめき、やがて膝から崩れ落ちる。
大地が揺れ、砂と石が跳ねた。
アリアは、矢を番えたまま固まっていた。
今、自分は何を見たのだろう。
王都の防衛戦で、エルフの精鋭たちは命を削って戦った。
結界を張り、弓を放ち、魔法を重ね、それでも敵の勢いを止められなかった。
だが、瞬は違う。
彼は、戦っているというより、目の前の理不尽を片手で退けている。
まるで、世界が出した答えに対して、「それは違う」と言って、上から塗り潰しているようだった。
「……そんな」
アリアの唇から、息だけが漏れた。
怖い。
確かに怖い。
けれど、目を逸らせなかった。
この力は、自分の知っている恐怖とは違う。
焼き尽くすための力ではない。
奪うための力でもない。
守ると決めたものの前に立ち、そこへ迫るものだけを消す力。
そう見えた。
少なくとも、今のアリアには、そう見えた。
「左翼、抜けますわ!」
エリーゼの声が飛ぶ。
キメラの陰に隠れていた狼型の魔物が、十数体、左側へ回り込んでいた。
狙いは後方。
メイと、まだ完全に戦場の空気に慣れていないアリアの位置だ。
ゼイクが動こうとした。
だが、その前に、エリーゼが杖を地面に突き立てる。
「行かせませんわ」
彼女の足元から、淡い銀色の光が広がった。
地面に幾重もの線が走り、半透明の壁となって立ち上がる。
狼たちが、その結界へ激突した。
ガンッ!
ガガガガッ!
爪が光の壁を引っかく。
牙が食い込もうとする。
だが、結界は砕けない。
表面に波紋のような光を広げながら、獣の突進を受け止め続ける。
「アリアさん、無理に前に出ないでください」
メイが後ろから言った。
声は震えている。
けれど、その震えの中に、逃げ腰の色はなかった。
アリアは振り返った。
メイは救急箱を抱え、クイーン・アリス号の陰に立っていた。
その顔は青ざめている。
怖いのだ。
当たり前だ。怖くないはずがない。
それでも、彼女はそこにいる。
仲間が傷ついた時、すぐに駆け寄れるように。
自分にできることをするために。
「メイ……」
アリアの胸に、別の種類の痛みが広がった。
強いのは、瞬やアリスだけではない。
逃げたいほど怖くても、そこに残る。
手が震えても、自分の役目を離さない。
それもまた、強さなのだ。
その時、結界の端がひび割れた。
一体の狼型魔物が、仲間の体を踏み台にして跳び上がり、結界の上を越えたのだ。
黒い影が、夕陽を背にして宙を舞う。
狙いは、メイ。
「メイ!」
アリアは反射的に弓を引いた。
だが、角度が悪い。
間に合わない。
狼の牙が、メイの白い喉元へ迫る。
アリアの心臓が凍りついた。
また、目の前で誰かを失う。
そう思った、その瞬間。
メイが、救急箱を地面へ置いた。
そして、なぜか腰の後ろから、黒光りする鉄のフライパンを抜いた。
「……え?」
アリアの思考が、一瞬止まる。
次の瞬間、狼型魔物がメイへ飛びかかった。
牙が迫る。
爪が迫る。
死が、すぐそこまで迫る。
メイは、涙目のまま、けれど両手でしっかりとフライパンを握った。
「こ、来ないでくださいっ!」
カァンッ!!
荒野に、信じられないほど澄んだ金属音が響いた。
狼の牙は、メイの喉ではなく、フライパンの底に真正面から受け止められていた。
アリアは、弓を引いた姿勢のまま、完全に固まった。
瞬とアリスの規格外さに驚いていたはずなのに。
この瞬間、彼女の常識は、別の方向から思いきり殴られた。
メイは、震える腕でフライパンを構えたまま、涙目で狼を睨んでいた。
そして。
「え、えいっ!」
腰の入った、見事な一振り。
ブンッ、と低い風切り音が鳴った。
次の瞬間、数百キロはあるはずの狼型魔物が、夕焼け空へ向かって、冗談のような勢いで吹き飛んでいった。
キラン、と遠くで小さく光ったような気がした。
アリアは、声を失った。
世界は、まだ自分の知らない形で壊れていく。
キラン、と遠くで小さく光ったような気がした。
アリアは、弓を引いたまま固まっていた。
いま、何が起きたのだろう。
巨大な狼型魔物が、メイに飛びかかった。
メイは、救急箱を置いた。
なぜかフライパンを取り出した。
そして、受け止めて、打ち返した。
そこまでは見た。
だが、理解が追いつかない。
フライパンとは、料理に使う道具ではなかったのか。
肉や卵を焼いたり、野菜を炒めたり、パンを温めたりするためのものではなかったのか。
少なくとも、牙を剥いた魔物を空の彼方へ打ち返すための武器ではないはずだった。
メイは、フライパンを両手で握ったまま、ぽかんと空を見上げていた。
自分でも予想外だったのか、少し遅れて、困ったように笑う。
「あ、あの……つい、お料理の時みたいに、返してしまいました……」
返した。
アリアの頭の中で、その言葉が何度も反響した。
返した。
あれを。
魔物を。
フライパンで。
「メイちゃん、ナイス返し!」
瞬が前線から笑って叫んだ。
「夕飯のオムレツもその調子で頼む!」
「はいっ……って、今それを言う場面ですか!?」
メイが涙目で叫び返す。
そのやり取りに、アリアは言葉を失った。
戦場だった。
命のやり取りの場だった。
大地は裂け、土煙は空を覆い、まだ無数の魔物が迫っている。
なのに、この人たちは、どうしていつもの食卓の延長みたいに話せるのだろう。
恐怖がないわけではない。
メイは今も震えている。
アリスの表情は真剣で、ゼイクの額には汗が滲んでいる。
エリーゼの結界にも、いくつもの細かな亀裂が走っていた。
それでも、彼らは崩れない。
笑う余裕を、無理に作っているわけでもない。
軽く見ているわけでもない。
いつもの自分たちのまま、災厄の前に立っている。
そのことが、アリアには眩しかった。
「アリアさん!」
メイの声に、アリアははっとした。
結界の外側で、まだ数体の魔物がうごめいている。
左側から抜けてきた小型の魔物が、地面を這うように近づいていた。
アリアは息を吸った。
弦を引く。
頬に弦の冷たさが触れる。
風向き。距離。速度。
震えはある。けれど、もう止まれない。
矢が放たれた。
ヒュン、と空気を裂く音。
一体目の魔物の眉間を射抜く。
続けて二本目。三本目。
今度は、迷わなかった。
守られているだけではない。
自分も、この場所にいる。
この人たちの後ろに隠れて震えているだけの王女ではいたくない。
アリアは矢筒から次の矢を抜いた。
その時、前方で凄まじい爆音が上がった。
瞬が、さらに奥へ踏み込んでいた。
彼の動きは、もはや人のものではなかった。
荒野を走る、というより、地面のほうが彼の足元へ引き寄せられているようだった。
一歩ごとに砂が爆ぜ、岩が砕け、衝撃の輪が広がる。
魔物たちは彼を取り囲もうとするが、囲む前に穴を開けられていく。
巨大猪が突っ込む。
瞬は横へ半歩ずれ、すれ違いざまに指先で額を弾いた。
たった、それだけだった。
猪の巨体が縦にひしゃげ、後方の魔物を巻き込みながら地面を転がる。
その衝撃で土砂が舞い、夕陽を浴びた砂粒が金色の雨のように降り注いだ。
オーガが二体、左右から棍棒を振り下ろす。
瞬はしゃがみ、両手を広げた。
次の瞬間、左右のオーガの頭が互いにぶつかり合った。
ゴンッ、という冗談みたいな音が鳴る。
巨体が同時に崩れ落ち、そのまま灰のようにほどけて風に散った。
上空からワイバーンが急降下する。
アリスの光線が、その翼の付け根を正確に撃ち抜く。
飛行姿勢を崩したワイバーンの真下に、瞬がもう移動していた。
「はい、こっち」
彼は片手でワイバーンの尾を掴み、遠心力だけで巨大な体を振り回した。
ブォンッ!!
風が唸った。
ワイバーンの巨体が、空中の別のワイバーンを薙ぎ払い、さらに地上の魔物の群れへ叩きつけられる。
アリアの耳に、骨が砕ける音と大地が割れる音が同時に届いた。
だが、そこで終わらない。
「アリス!」
「見えてるわ!」
アリスが指を二本立てた。
彼女の周囲に展開していた青白い円環が、さらに何重にも増える。
空中に並ぶ光の輪は、まるで星座を組み替える巨大な機械のようだった。
その一つ一つから細い光線が伸び、瞬が作った魔物の密集地帯を一斉に射抜いていく。
瞬が砕く。
アリスが削る。
ゼイクが抜けた敵の進路を断つ。
エリーゼが結界を張り替え、衝撃波と瓦礫を受け止める。
メイは後方で目を配り、怪我人がいないかを確認しながら、フライパンを構えている。
全員の動きが、噛み合っていた。
誰か一人が突出しているのではない。
圧倒的な力を持つ瞬とアリスを中心に、それぞれが自分の役割を理解し、迷わず動いている。
それは、アリアが知る軍の陣形とはまるで違った。
号令で縛られた整然さではない。
階級で押さえつけられた統制でもない。
信頼だった。
瞬が前へ出れば、アリスはその背後を撃たない。
アリスが光を放てば、瞬はその軌道を当然のように読んで動く。
ゼイクは彼らの力を恐れず、むしろ利用して戦線を整える。
メイは自分が前線に立つ者ではないと知りながら、それでも必要な時には迷わず手を出す。
仲間。
アリアの胸に、その言葉が静かに浮かんだ。
彼らは仲間なのだ。
種族も、生まれも、常識も違う。
性格だって、まとまりがあるとは言いがたい。
いつも騒がしくて、くだらないことで揉めて、食べ物で争っている。
それなのに、いざという時は、誰も誰かを見捨てない。
アリアの喉の奥が熱くなった。
森で見た戦場とは、違う。
あの日、彼女は守られた。
多くの人が、自分を逃がすために倒れた。
そのことを忘れたことはない。
忘れられるはずがない。
けれど、あの時のアリアは、ただ押し出されるだけだった。
自分の意思で立つことも、選ぶこともできなかった。
今は違う。
怖い。
それでも、弓を引ける。
震える足で、ここに立てる。
隣には、メイがいる。
前には、瞬たちがいる。
守られることは、何もできないことではない。
守られながら、誰かを守ることもできる。
アリアは、次の矢を番えた。
その時、戦場の奥で空気が変わった。
残った魔物たちが、一斉に動きを止めたのだ。
いや、止めたのではない。
止まらされたように見えた。
彼らの体を走る黒い筋が、同時に脈打つ。
目の奥の赤い光が強まり、口元から黒い泡がこぼれた。
傷ついた魔物も、足を引きずっていた魔物も、急に痛みを忘れたように立ち上がる。
エリーゼが表情を強張らせた。
「まずいですわ。魔力反応が急激に上がっています。体の限界を無理やり超えさせられている……!」
「暴走の上塗りってこと?」
アリスが眉をひそめる。
「ええ。あれでは長くは保ちません。けれど、その前にこちらへ突っ込ませるつもりですわ」
残った魔物たちが、いっせいに咆哮した。
それはもはや生き物の声ではなかった。
喉が裂けても構わないとばかりに吐き出される、苦痛と命令の混ざった悲鳴。
アリアの背筋が凍る。
彼らは、死ぬことすら許されていない。
恐怖に追われ、痛みを奪われ、最後は命を燃やし尽くすまで突撃させられる。
これは、獣ではない。
兵でもない。
誰かに使い潰される、壊れた道具だ。
「……ひどい」
アリアの唇から、震える声が漏れた。
怒りが湧いた。
魔物に対してではない。
この暴走を仕組んだ何者かに対して。
命をこんなふうに扱う存在がいる。
森を焼いたものと、きっと同じ匂いがする。
瞬も、それを感じ取ったのだろう。
彼の表情から、軽さが消えた。
「アリス」
「ええ」
二人の声が重なる。
アリスが両手を広げた。
彼女の背後に浮かぶ光の円環が、空一面へ広がっていく。
青白い線が複雑に絡み合い、巨大な網のようになった。
その光は冷たく、美しく、そして逃げ場がなかった。
「これ以上、苦しませないわ」
アリスが静かに言った。
その声は、いつもの皮肉っぽさを失っていた。
瞬が前に出る。
彼の足元に、淡い光が集まる。
大地が小さく震え、砂粒が宙へ浮かぶ。
残った魔物たちが突進した。
最後の波。
黒い筋を脈打たせ、命を焼きながら迫る、暴走の終着点。
アリアは息を止めた。
瞬が拳を握る。
アリスが指を振り下ろす。
次の瞬間、荒野が白く染まった。
瞬の一撃が、大地そのものを震わせた。
衝撃は魔物たちの足元を走り、突進の勢いを根こそぎ奪う。
飛び上がった砂と岩が、夕陽の中で一瞬だけ静止したように見えた。
そこへ、アリスの光が降った。
雨ではない。
嵐でもない。
それは、巨大な光の織物だった。
無数の線が空から落ち、魔物たちの急所を正確に貫いていく。
命を弄んでいた黒い筋だけを焼き切り、暴走の核だけを砕き、余計な破壊を広げない。
魔物たちの咆哮が、次々と途切れていく。
苦痛の声が、風の中でほどける。
突進は止まり、巨体は崩れ、地面に沈むように倒れた。
そして、瞬が最後に手を振るうと、残された魔力の濁りが灰色の粒子となって舞い上がり、乾いた風にさらわれていった。
土煙が、ゆっくりと晴れていく。
アリアは、立ち尽くしていた。
目の前に広がっていたはずの死の波は、もうない。
荒野には、いくつもの戦闘の痕跡が残っていた。
大地は抉れ、岩は砕け、草は倒れている。
けれど、そこに血の海はなかった。
山のような死体もなかった。
アリスの光と瞬の力が、暴走の核ごと魔力を分解し、残骸を風へ返したのだ。
残ったのは、焦げた匂いと、乾いた土の味。
そして、不自然なほどの静けさだけだった。
さっきまで耳を塞ぎたくなるほど響いていた咆哮が、嘘のように消えている。
アリアは、自分の鼓動を聞いた。
速い。
けれど、生きている音だった。
「……終わったの?」
誰に尋ねたのか、自分でもわからなかった。
瞬が肩を回しながら戻ってくる。
服には、ほとんど汚れがない。
あれだけの戦闘の中心にいたのに、息も切れていなかった。
「たぶんな」
軽い返事。
アリスは円環を消し、ふう、と息を吐いた。
少し疲れた顔をしているが、表情には満足げな色がある。
「車体損傷なし。防御結界、正常。外装に砂埃多数。……許しがたいけど、まあ合格ね」
「そこなんだ……」
アリアは、思わず呟いた。
その声を聞いて、アリスが振り返る。
「当然でしょ。クイーン・アリス号は私の城よ。城を守るのは女王の務めじゃない」
「あなた、本当に変な人ね」
「今さら?」
アリスが得意げに笑った。
その笑顔を見て、アリアの胸から小さな息が漏れた。
笑いだった。
まだ手は震えている。
足にも力が入りきらない。
恐怖は完全には消えていない。
けれど、笑えた。
災厄の後で。
死の波を見た後で。
こんなにも馬鹿みたいな会話に、笑うことができた。
それが、アリアには不思議でたまらなかった。
メイが駆け寄ってきた。
「アリアさん、お怪我はありませんか?」
「私は大丈夫。メイこそ……さっきの、すごかったわ」
「えっ? あ、あれは、その……本当に偶然で……!」
メイは顔を真っ赤にして、フライパンを後ろへ隠した。
「お料理の癖で魔物を返す人、初めて見たわ」
「わ、忘れてください……!」
アリアはまた少し笑った。
笑いながら、胸の奥が熱くなる。
怖いだけではなかった。
驚くだけでもなかった。
この人たちといると、世界の見え方が変わっていく。
災厄は、ただ奪うものではない。
絶望は、ただ飲み込まれるものではない。
誰かと一緒に立てば、押し返せるものなのかもしれない。
そんなことを、初めて思った。
ゼイクが周囲を見渡し、剣を収めた。
「ひとまず、敵影は消えたようだ」
エリーゼは地面に残る黒い魔力の痕跡を調べながら、険しい顔をしている。
「ただし、原因は不明のままですわ。この魔力の濁り……やはり自然な暴走ではありません。何かが、彼らを追い立てていました」
アリアは、荒野の先を見た。
魔物たちが来た方角。
そのさらに向こうには、エルフの森へ続く道がある。
故郷は、近づいている。
同時に、そこで待つ闇も、確かに近づいている。
けれど、さっきまでとは違った。
アリアは、もう一度弓を握り直した。
指の震えはまだある。
でも、その震えは彼女を止めなかった。
瞬が、アリアの横に立った。
「大丈夫か?」
短い問いだった。
アリアは少し考えてから、頷いた。
「怖かったわ」
「そりゃそうだ」
「でも……逃げたいだけじゃなかった」
アリアは、荒野に残る戦闘の跡を見つめたまま言った。
「私も、ちゃんと見ていたかった。あなたたちがどう戦うのか。どう守るのか。……そして、自分が何をできるのか」
瞬は何も言わなかった。
ただ、少しだけ笑った。
「いいんじゃねぇの」
その言葉に、アリアは救われた気がした。
立派な答えではなくていい。
迷いながらでもいい。
震えながらでも、前を向けるなら、それでいい。
アリアは深く息を吸った。
乾いた空気が肺に入る。
焦げた匂い。土の匂い。風の匂い。
そのすべてが、今は生きている証のように感じられた。
遠くで、土煙の最後の名残が夕陽に溶けていく。
スタンピードは終わった。
けれど、これは始まりにすぎない。
森の奥には、まだ見えない何かがいる。
獣人を狂わせ、魔物を暴走させ、命を道具のように扱う何かが。
アリアは、もう目を逸らさないと決めた。
恐怖は消えない。
過去も消えない。
失ったものも戻らない。
それでも。
この人たちとなら、その先へ進める。
そう思えた。




