第83話:地響きと、迫りくる災厄 〜震える足でも、隣に誰かがいれば立っていられる〜
ズズズズズ……。
それは、耳で聞く音というより、大地そのものが喉の奥で低く唸っているような響きだった。
クイーン・アリス号の開いたハッチから、乾いた熱気が流れ込んでくる。
車内の整えられた空気は、外の荒野に触れた瞬間、あっけなく押し戻された。
鼻の奥に、砂の匂いが刺さる。枯れた草の苦い匂い。遠くから運ばれてくる、獣の脂と腐った肉が混じったような、生温かい臭気。
アリアは、ハッチの縁に片手を添えたまま、外を見つめていた。
荒野は広かった。
遮るもののない大地が、地平線まで乾いた褐色に広がっている。ところどころに背の低い草が群れを作り、風が吹くたび、細い葉が波のように傾いた。草の先についた砂粒が夕方の光を反射し、かすかな銀色のきらめきを散らしている。
けれど、その美しさはすぐに飲み込まれた。
地平線の向こうに、土煙が上がっていた。
最初は薄い霞のようだった。
夕陽に照らされた砂が、風に巻き上げられているだけにも見えた。
だが違う。
土煙は、風の流れに沿って広がっているのではなかった。
こちらへ向かってくる。
まっすぐに。
まるで大地の上に、巨大な茶色の壁が生まれ、それが意志を持って進んでくるかのように。
「……あれが、反応の正体?」
メイが小さく呟いた。
彼女の声は、警報音の余韻にかすかに震えていた。
それでも、彼女はアリアの隣にいた。救急箱を胸に抱え、逃げ出したい気持ちを必死に押し込めるように、両足でしっかりと地面を踏んでいる。
アリスは、車体横に展開した魔導モニターを睨んでいた。
青白い光が、彼女の頬を冷たく照らしている。指先が素早く画面を滑り、次々と小さな光点が拡大されていく。
「大型反応、複数。中型、小型は数えきれないわね。……まともに数えるのが馬鹿らしい量よ」
「数えきれないって、どれくらいだ?」
瞬が、ハッチから降りながら尋ねる。
足元の砂利が、彼の靴底でじゃり、と鳴った。
その音だけが、妙に場違いなほど軽かった。
「ざっくり見ても数百以上。まだ後ろに続いてるなら、千に届いても不思議じゃないわ」
「千」
ゼイクが低く繰り返した。
その声には、驚きよりも警戒があった。
彼はすでに剣の柄に手を置いている。鎧の金具が、動きに合わせて小さく鳴った。午後の光を受けた肩当てが鈍く光り、硬い影を地面に落としている。
エリーゼは杖を手に取り、空気の匂いを確かめるように目を細めた。
「妙ですわね。魔物の群れにしては、気配が乱れすぎています。統率された軍勢ではありません。かといって、ただの野生の群れでもない」
「どういうこと?」
メイが不安そうに聞く。
「恐怖に追い立てられているような……いえ、恐怖そのものを無理やり流し込まれているような感じですわ」
その言葉に、アリアの胸が冷たく縮んだ。
恐怖を流し込まれる。
その表現が、妙にしっくりきてしまった。
獣人たちの濁った目。
黒い靄。
痛みも恐れも忘れ、ただ壊すために前へ出ていた姿。
あの時の気配と、遠くから迫るこの地鳴りは、どこかで繋がっているように思えた。
アリアは弓を握る手に力を込めた。
瞬たちに用意してもらった新しい弓。
手触りは滑らかで、弦はよく張られている。自分の手にまだ完全には馴染んでいない。けれど、今の彼女が持てる、確かな武器だった。
それなのに、指先は震えていた。
自分でも情けないほどに。
足元の砂利が、小刻みに震え始める。
カラカラと小さな石が転がり、車体の影の中で乾いた音を立てた。
地鳴りは近づいている。もう遠い響きではない。腹の底を直接押されるような振動が、靴底から膝へ、膝から背筋へ這い上がってくる。
土煙の壁の下に、黒い影が見え始めた。
最初に見えたのは、巨大な角だった。
次に、太い腕。
地面を削る爪。
砂を蹴散らす蹄。
翼の影。
アリアの視界が、ゆっくりと鮮明になっていく。
見たくないのに、見えてしまう。
エルフの目は、遠くを見ることに優れている。
それが今だけは、呪いのようだった。
土煙の中を、オークが走っていた。
脂ぎった肌に砂を貼りつかせ、丸太のような武器を振り回している。その横には、背丈が人の倍以上あるオーガがいた。分厚い胸板を上下させ、一歩踏み出すたびに大地が沈む。
巨大な狼の群れが、その足元を縫うように駆けている。
牙の隙間から白い泡をこぼし、目は血走り、まともな獣の理性は感じられない。
さらに上空には、皮膜の翼を広げたワイバーンが、不安定な軌道で飛んでいた。互いにぶつかりそうになりながら、それでも同じ方向へ流されている。
そして、奥にはもっと歪な影があった。
獅子の頭。
山羊の角。
蛇の尾。
異なる命を無理やり縫い合わせたような魔物が、濁った咆哮を上げて進んでくる。
本来なら、こんな群れは成立しない。
生息域も違う。
食性も違う。
魔物同士で争い、食い合うはずだ。
それなのに今、彼らは一つの濁流になっていた。
仲間ではない。
軍勢でもない。
ただ、何かに押し出されるように、こちらへ向かってくる。
「スタンピード……」
ゼイクが呟いた。
その言葉を聞いた瞬間、アリアの喉が詰まった。
魔物の暴走。
群れが理性を失い、目に入るものすべてを踏み潰す災厄。
小さな村なら、一瞬で消える。
城壁のある街でさえ、備えがなければ飲み込まれる。
まして、ここにいるのは数人だけだ。
いくら瞬たちが強いとしても。
いくら、彼らが不思議で、温かくて、何度も自分の常識を裏切ってきたとしても。
あれは違う。
人が立ち向かうものではない。
避けるべき災害だ。
岩崩れや津波に、剣を抜いて挑む者はいない。
アリアは、声を出そうとして失敗した。
息だけが喉から漏れる。
体が覚えていた。
燃える森。
逃げ惑う民。
迫る獣人兵。
こちらの矢をものともせず進んでくる、狂った目。
誰かが自分の腕を引き、誰かが背中を押し、誰かが「逃げて」と叫んだ。
まただ。
また、あの音が近づいてくる。
大勢の足音。
大地を踏み砕く音。
自分の大切なものを、何もかも飲み込んでいく音。
「アリアさん?」
メイの声で、アリアは現実に引き戻された。
気づけば、呼吸が浅くなっていた。
弓を握る手が白くなっている。
背中に冷たい汗が浮かび、首筋を細く伝っていった。
メイが心配そうに覗き込んでいる。
その顔を見て、アリアは思った。
逃げなければ。
自分だけではない。
メイを、瞬たちを、逃がさなければ。
このままでは、また失う。
また、守れないまま誰かが倒れる。
また、自分だけが生き残ってしまうかもしれない。
「逃げて」
声が漏れた。
小さすぎて、風に消えそうな声だった。
けれど、次の瞬間には叫びになっていた。
「逃げなきゃ……! 無理よ、あんな数!」
アリアは瞬の方を見た。
自分でも驚くほど切羽詰まった声が出た。
「たったこれだけの人数でどうにかできる相手じゃないわ! 早くクイーン・アリス号で離れて! 今ならまだ間に合うかもしれない!」
必死だった。
王女としての言葉ではない。
戦況を冷静に見た指揮官の判断でもない。
ただ、もう失いたくない少女の叫びだった。
その叫びに、瞬は振り返った。
彼は、土煙の壁を背にして立っていた。
風が吹き、彼の髪を乱す。砂が頬をかすめ、シャツの裾を揺らす。
遠くで魔物たちの咆哮が重なり、空そのものが震えている。
それなのに。
瞬の表情は、ひどく落ち着いていた。
「大丈夫だ」
たった、それだけだった。
アリアは言葉を失った。
なぜ、そんな顔ができるのか。
なぜ、あれを見て逃げないのか。
なぜ、絶望の前でそんなに普通に立っていられるのか。
「大丈夫って……!」
言い返そうとしたアリアの前に、ゼイクが一歩出た。
彼の背中が、アリアの視界を遮る。
大きな背中だった。
鎧越しでもわかるほど、肩に力が入っている。
だが、その震えは恐怖の震えではない。戦いに向かう者の、研ぎ澄まされた緊張だった。
「アリア殿」
ゼイクは振り返らずに言った。
「下がっていてくれ」
「でも……!」
「守るべき者を背に置いた時、騎士は逃げない」
その声は静かだった。
けれど、地鳴りにも負けなかった。
「君は今、我々の仲間であり、同時に客人だ。指一本触れさせるわけにはいかん」
アリアの胸に、何かが強く触れた。
守られることは、嫌いだった。
何もできない者のように扱われるのが怖かった。
王女だから、希望だから、血筋だからと、遠ざけられるたびに、自分の無力さを突きつけられる気がした。
けれど、今の言葉は違った。
ゼイクは、アリアを弱いから下がれと言ったのではない。
大切だから守ると言った。
その違いが、震える心に深く染みた。
アリスが横で大きく息を吐いた。
「まったく、せっかくの話し合いを邪魔してくれるなんて、空気の読めない魔物たちね」
彼女は扇子を閉じ、魔導モニターを指で弾いた。
その瞬間、クイーン・アリス号の車体表面に淡い光が走る。防御機構が起動し、薄い膜のような結界が車体を包んだ。
「ただし、ひとつだけ言っておくわ」
アリスは、迫る土煙を睨みつけた。
「私のクイーン・アリス号に傷をつけたら、魔物だろうが災厄だろうが、請求書を叩きつけるから」
「請求先あるのかよ」
瞬が呆れたように言った。
「地獄にでも送るわよ」
こんな時に。
アリアは、信じられない思いで二人を見た。
魔物の群れが迫っている。
大地が震えている。
死が、目に見える形で押し寄せている。
それなのに、この人たちは車の傷と請求書の話をしている。
正気ではない。
けれど、その正気ではなさが、不思議とアリアの呼吸を少しだけ戻した。
恐怖が消えたわけではない。
足はまだ震えている。
心臓は痛いほど速く打っている。
でも、さっきのように、記憶の中へ引きずり込まれてはいなかった。
ここは、あの日の森ではない。
隣にいるのは、あの日失った人々ではない。
目の前にいるのは、絶望に呑まれるために立つ者たちではない。
絶望を、正面から殴り返そうとしている者たちだ。
ゼイクが剣を抜いた。
シャリン、と澄んだ金属音が荒野に響く。
その音が、震える空気を一本の線で切り分けた。
「総員、戦闘準備」
低い声だった。
その一言で、場の空気が変わる。
エリーゼが杖を掲げた。
メイが救急箱を抱え直し、クイーン・アリス号の後方へ移動する。
アリスはモニターの前に立ち、展開した光の画面をいくつも浮かべた。
瞬は肩を回しながら、前へ出る。
アリアは、その背中を見ていた。
恐怖はまだある。
けれど、その奥に別の感情が生まれていた。
この人たちは、何者なのだろう。
ただ優しいだけではない。
ただ変なだけでもない。
大切なものを守ると決めた時、彼らの空気は一瞬で変わる。
さっきまでの騒がしい食卓の仲間が、今は嵐の前に立つ壁のように見えた。
アリアは弓を握り直した。
自分も、ここにいる。
逃げたい。
でも、見届けたい。
彼らがどんなふうに災厄と向き合うのか。
そして、自分はこの人たちの隣で、何を選ぶのか。
土煙の壁が、もうすぐそこまで迫っていた。
土煙の壁が、もうすぐそこまで迫っていた。
先頭を走るオーガの姿が、肉眼でもはっきり見える。
巨体。
丸太のような腕。
皮膚にこびりついた泥と血。
踏みしめられるたびに大地が沈み、乾いた地面に亀裂が走る。
その背後から、数え切れない魔物が押し寄せてくる。
群れではない。
波だった。
荒野そのものが、牙と爪を生やしてこちらへ雪崩れ込んでくるようだった。
アリアは息を呑んだ。
逃げ場はない。
車で後退しても、あの速度と数ではすぐに追いつかれる。
回り込もうにも、左右にも土煙は広がっている。
上空にはワイバーンの影が旋回していた。
包まれている。
その事実が、冷たい指で喉を締めつける。
「第一波、来るわよ!」
アリスの声が鋭く響いた。
直後、先頭のオーガが地面を蹴った。
ドンッ、と空気が揺れる。
その巨体が、ありえない速さで跳ね上がった。
巨大な棍棒を振りかぶり、一直線に瞬へ向かって落ちてくる。
「瞬!」
アリアが叫んだ。
反射的に弓を引こうとする。
だが、指が間に合わない。
矢を番えるよりも早く、オーガの影が瞬の頭上を覆った。
丸太のような棍棒が、唸りを上げて振り下ろされる。
当たれば、骨どころか体ごと地面に叩き潰される。
血も肉も、原形を留めない。
アリアの視界が、恐怖で白く弾けた。
――その瞬間。
瞬は、片手を上げた。
まるで、飛んできた枯れ葉を払うような軽さだった。
「邪魔」
ただ、それだけ。
彼の掌が棍棒に触れた。
次の瞬間、世界が破裂した。
ドォンッ!!
音が遅れてやってきた。
衝撃波が円形に広がり、足元の砂利を一斉に吹き飛ばす。
アリアの髪が真後ろへなびき、服の裾が激しくはためいた。頬に砂が叩きつけられ、目を開けているのがやっとだった。
だが、彼女は見た。
オーガの棍棒が砕けたのではない。
腕が折れたのでもない。
巨体が吹き飛んだのでもない。
オーガそのものが、消えていた。
正確には、消えたのではなかった。
瞬の掌に触れた場所から、オーガの体が細かな灰色の粒になり、風にほどけていったのだ。
筋肉も、骨も、牙も、憎悪に歪んだ顔も、すべてが砂時計の砂のように崩れ落ち、空気の中へ溶けていく。
血は出なかった。
悲鳴も上がらなかった。
死体すら残らなかった。
そこにあったはずの巨体は、まるで最初から存在しなかったかのように、ぽっかりと空いた空間だけを残して消滅した。
「……え?」
アリアの口から、かすれた声が漏れた。
何が起きたのかわからない。
魔法の発動光はなかった。
詠唱もなかった。
強大な術式が展開された気配もない。
ただ、瞬が手を上げた。
それだけで、災厄の先頭が消えた。
だが、魔物の波は止まらない。
先頭の一体が消えた程度では、後続の群れは怯まなかった。
むしろ空いた穴を埋めるように、オーク、狼型の魔物、巨大猪、キメラが一斉に押し寄せる。
アリアは息を吸うことすら忘れた。
次は、飲み込まれる。
いくら瞬が強くても、全方位から来るこの数は――。
「アリス」
瞬が短く言った。
「はいはい。わかってるわよ」
アリスが一歩前に出た。
彼女の赤い髪が、土煙混じりの風に揺れる。
その姿は、戦場に立つにはあまりにも優雅だった。
ドレスの裾を気にするような仕草で足元を確かめ、扇子を閉じる。
そして、細い指を空へ向けた。
パチン。
澄んだ音が鳴った。
たった一度の指鳴らし。
それを合図に、アリスの背後の空間が開いた。
青白い光の線が、虚空に走る。
一本、二本、十本、百本。
無数の線が交差し、重なり、立体的な図形を作っていく。
魔法陣ではない。
少なくとも、アリアが知るどんな魔法陣とも違う。
それは、空中に組み上げられた光の城塞だった。
幾何学模様が高速で回転し、細かな文字列が川のように流れ、複数の円環が互いに噛み合って回り続けている。
青白い光がアリスの横顔を照らした。
その瞳には、先ほどまでの軽口はない。
冷たいほど澄んだ計算の光が宿っていた。
「目標、前方全域。車体防護範囲を除外。味方識別固定。誤射補正、完了」
アリスの声が、淡々と荒野に響く。
アリアには、言葉の意味の半分もわからなかった。
けれど、本能で理解した。
これから何か、とんでもないものが放たれる。
「掃射開始」
アリスが指を振り下ろした。
瞬間、空が裂けた。
シュンッ。
最初の光が、魔物の群れを貫いた。
青白い一筋の光。
細く、美しく、雨上がりの蜘蛛の糸のように繊細だった。
だが、その光が通った場所にいたオークの頭部が、音もなく消えた。
焼ける匂いだけが、遅れて風に乗って届く。
次の瞬間。
シュンッ、シュンッ、シュンッ、シュンッ!!
無数の光が降った。
それは矢ではない。
炎でもない。
雷でもない。
夜空から星が落ちるなら、きっとこんな光景なのだろう。
青白い光線が、雨のように、滝のように、魔物の群れへ降り注いだ。
だが、美しいのは見た目だけだった。
光は一切の無駄なく急所を貫く。
オークの眉間。
狼の心臓。
ワイバーンの翼の付け根。
キメラの複数ある頭部の神経節。
巨大猪の突進を支える前脚。
一体につき一発ではない。
必要なら三発、五発、十発。
全てが正確に、最短距離で、最も効率よく命を止める場所へ突き刺さる。
魔物たちは悲鳴を上げる暇すらなかった。
走っていた姿勢のまま崩れ落ち、飛んでいたワイバーンは糸を切られた凧のように墜落する。
巨体が地面に叩きつけられ、乾いた土が爆ぜ、赤黒い飛沫が舞った。
それでも、光は止まらない。
アリスの周囲に浮かぶ光の円環が、さらに速度を上げた。
光線の角度が変わる。
まっすぐ撃ち抜くだけではない。
曲がる。
跳ねる。
避けようとした魔物を追尾し、背後へ回り込み、死角から貫く。
アリアは、唇を震わせた。
魔法ではない。
これは、狩りでも戦闘でもない。
処理だ。
押し寄せる数百の命を、アリスは一つずつ「危険反応」として認識し、選別し、消している。
その冷徹さが恐ろしかった。
その精密さが美しかった。
そして、それを平然とやってのけるアリスが、信じられなかった。
「右から抜けるぞ!」
ゼイクが叫んだ。
光の雨をすり抜け、数体の巨大狼が横へ回り込んでいた。
低い姿勢で地面を蹴り、瞬く間に距離を詰めてくる。
狙いは後方。メイとアリアのいる位置だ。
アリアは弓を構えた。
今度こそ撃つ。
震えていても、何もしないわけにはいかない。
だが、矢を放つより早く、瞬が動いた。
彼の姿が消えた。
いや、消えたように見えた。
次の瞬間には、巨大狼の群れの前に立っていた。
足元の砂が、遅れて爆ぜる。
移動の衝撃で、地面に円形の跡が刻まれていた。
「悪いな」
瞬が、拳を握った。
「そっちは通行止めだ」
巨大狼が跳んだ。
三体同時。
牙を剥き、唾液を散らし、瞬の首と腕と腹を狙う。
瞬は、踏み込んだ。
拳が一度、空を裂いた。
ドンッ!!
一体目が消し飛ぶ。
蹴りが横へ流れる。
バギィッ!!
二体目が地面に叩きつけられ、衝撃で土砂が柱のように吹き上がる。
三体目が瞬の背後へ回り込んだ。
アリアが叫ぼうとした瞬間、瞬は振り向きもしないまま、肘を後ろへ落とした。
鈍い音。
巨大狼の頭部が、地面へめり込んだ。
体がびくりと跳ね、そのまま動かなくなる。
速い。
重い。
強い。
だが、それ以上におかしいのは、瞬に一切の迷いがないことだった。
彼は怒りに任せて暴れているわけではない。
興奮しているわけでもない。
呼吸も乱れていない。
ただ、必要な場所へ移動し、必要な力で、必要な敵を潰している。
まるで災害に対して、別の災害をぶつけているようだった。
「瞬! 上!」
アリスの声。
上空から、ワイバーンが急降下していた。
翼を畳み、槍のような速度で瞬へ突っ込んでくる。
その鉤爪は岩をも裂く。まともに受ければ、体を引き裂かれる。
瞬は空を見上げた。
そして、笑った。
「ちょうどいい」
彼は地面を蹴った。
ドンッ、と爆発のような音が鳴り、瞬の体が垂直に跳び上がる。
アリアの目には、彼が空を飛んだように見えた。
ワイバーンの爪が迫る。
瞬の拳が迫る。
二つの影が空中で交差した。
次の瞬間、ワイバーンの巨体が空で折れた。
骨が砕ける音。
翼膜が裂ける音。
咆哮が途中で途切れる音。
瞬は、そのままワイバーンの背を踏み台にしてさらに跳び、別のワイバーンの顎を蹴り上げた。
空に、巨大な影が二つ墜ちる。
アリスの光線がそこへ重なった。
墜落する魔物の急所を、落下中に正確に撃ち抜く。
死体が地面に激突する直前、青白い光が走り、魔力の暴走を封じ込める。
爆発すら起こらない。
アリアは、呆然と見ていた。
連携が、美しすぎる。
瞬が前線で暴力そのもののように敵を砕き、アリスが後方から全体を支配する。
ゼイクが抜けた敵を斬り伏せ、エリーゼが結界で衝撃と流れ弾を遮る。
メイは後方で、誰が怪我をしてもすぐ駆けつけられる位置にいる。
即席のようで、即席ではない。
ふざけているようで、隙がない。
この人たちは、何度もこうして修羅場を越えてきたのだ。
アリアの中で、何かが音を立てて崩れていく。
人間は弱い。
短命で、魔力も少なく、森の外でせわしなく生きている種族。
ずっと、そう思っていた。
でも、目の前の光景は何だ。
これは弱さではない。
これは、ただの強さですらない。
世界のほうが、この二人の規格に追いついていない。
「アリア!」
ゼイクの声で、アリアは我に返った。
左側から、小型の魔物が数体抜けてきている。
アリスの光線を避けたわけではない。ただ、他の魔物の影に隠れ、偶然隙間を通ってしまったのだ。
今なら撃てる。
アリアは弓を引いた。
指の震えは、まだ完全には消えていない。
けれど、さっきとは違う。
恐怖で固まる震えではない。
心が前へ出ようとしている震えだった。
弦が頬に触れる。
風の向き。
距離。
敵の速度。
呼吸。
森で何度も鍛えた感覚が、体に戻ってくる。
アリアは矢を放った。
ヒュンッ。
風を切る音が、まっすぐ伸びる。
矢は一体目の魔物の目を貫いた。
続けて二射。
三射。
魔物が崩れる。
倒せた。
その事実に、アリアの胸が震えた。
自分にも、まだできる。
恐怖に呑まれるだけではない。
逃げるだけではない。
瞬が地上に着地し、ちらりとこちらを見た。
「ナイス、アリア!」
たった一言。
けれど、それだけでアリアの心に光が差した。
王女として褒められたのではない。
守られるだけの存在として慰められたのでもない。
同じ戦場に立つ仲間として、認められた。
「……ええ!」
アリアは、もう一度弓を構えた。
その間にも、戦況は一方的に傾いていく。
瞬が踏み込むたび、魔物の波に穴が開く。
アリスの光が降るたび、その穴はさらに広がる。
圧倒的な数で押し潰すはずだったスタンピードが、逆に削られていく。
土煙の壁は、もはや壁ではなかった。
ところどころに巨大な裂け目が走り、そこから青白い光が漏れている。
咆哮は悲鳴に変わり、突進は混乱に変わり、魔物たちは進むことも逃げることもできず、次々に倒れていく。
「前方、密集地帯!」
アリスが叫ぶ。
「瞬、派手に開けなさい!」
「了解!」
瞬が、魔物の中心へ向かって走った。
地面が砕ける。
砂が跳ねる。
彼の背中を、青白い光が追い越していく。
アリスの展開した光の円環が、今までで最も強く輝いた。
空中に巨大な照準のような紋様が浮かび、魔物の密集地帯を丸ごと囲む。
瞬が、その中心で拳を引いた。
ほんの一瞬、時間が止まったように見えた。
アリアは、息を止めた。
次の瞬間。
「ぶっ飛べ」
瞬の拳が、大地へ叩き込まれた。
轟音。
大地が波打った。
衝撃が前方へ扇状に広がり、地面そのものが跳ね上がる。
押し寄せていた魔物たちの足元がまとめて砕け、巨体が宙に浮いた。
その宙に浮いた魔物の群れへ、アリスの光が降り注ぐ。
無数の青白い線が、空中で動きを止めた獲物を正確に貫いた。
それはもはや戦闘ではなく、天から降る裁きだった。
空にいた魔物も。
地を走っていた魔物も。
突進していた巨体も。
すべてが同じ一瞬の中で撃ち抜かれ、崩れ落ちていく。
土煙が爆ぜた。
風が逆巻いた。
夕陽の光が砂塵の中で乱反射し、荒野全体が金色と青白い光に染まった。
アリアは、その光景を一生忘れないと思った。
死の波が、止まった瞬間だった。
いや、止められたのではない。
押し返されたのだ。
たった数人の手で。
たった二人の規格外の力を中心に。
災厄そのものが、押し返された。
やがて、最初の轟音が遠ざかる。
地鳴りが少しずつ弱まっていく。
土煙の向こうに、まだ魔物の影は残っていた。
だが、さっきまでの勢いはない。
群れは明らかに怯えていた。
暴走し、何かに追われていたはずの魔物たちが、今度は目の前の二人に対して、本能的な恐怖を覚え始めている。
瞬は土煙の中で拳を下ろし、肩を鳴らした。
アリスは宙に浮かぶ光の円環を従えたまま、静かに微笑む。
その二人の背中を見て、アリアはようやく理解した。
自分は、ただ優しい人たちに助けられたのではない。
自分は、世界の常識を壊す者たちと出会ってしまったのだ。
そして、その力は今、自分を守るために振るわれている。
胸の奥で、恐怖とは違う震えが生まれた。
希望だった。
あの日、燃える森の中で失ったと思っていたもの。
地下牢の冷たい石床の上で、二度と戻らないと思っていたもの。
それが今、土煙の向こうで青白く輝いている。
「……すごい」
アリアの口から、自然に言葉がこぼれた。
その声は、震えていた。
けれど、もう絶望だけの震えではなかった。
瞬が振り返り、いつもの調子で笑った。
「まだ終わってねぇぞ、アリア」
彼の向こうで、残った魔物たちが再び唸り声を上げる。
土煙の奥から、さらに巨大な影が動いた。
先ほどまでの群れとは違う。
もっと大きく、もっと濃い気配。
この暴走を押し出している、何かの一端。
アリスが目を細めた。
「第二波、来るわ」
荒野の空気が、再び震えた。
だが、アリアはもう、ただ怯えてはいなかった。
弓を握り直し、瞬とアリスの背中を見据える。
この戦いの先に、故郷へ帰る道がある。
この人たちとなら、その道を進めるかもしれない。
迫りくる災厄の中で、アリアの心に初めて、確かな光が灯った。




