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詠唱? それ、気合を入れるためのおまじないですよね? ~異世界キャンピングカーでダンジョンも王国もひっくり返す~  作者: Gaku


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第83話:地響きと、迫りくる災厄 〜震える足でも、隣に誰かがいれば立っていられる〜

ズズズズズ……。


 それは、耳で聞く音というより、大地そのものが喉の奥で低く唸っているような響きだった。


 クイーン・アリス号の開いたハッチから、乾いた熱気が流れ込んでくる。

 車内の整えられた空気は、外の荒野に触れた瞬間、あっけなく押し戻された。

 鼻の奥に、砂の匂いが刺さる。枯れた草の苦い匂い。遠くから運ばれてくる、獣の脂と腐った肉が混じったような、生温かい臭気。


 アリアは、ハッチの縁に片手を添えたまま、外を見つめていた。


 荒野は広かった。

 遮るもののない大地が、地平線まで乾いた褐色に広がっている。ところどころに背の低い草が群れを作り、風が吹くたび、細い葉が波のように傾いた。草の先についた砂粒が夕方の光を反射し、かすかな銀色のきらめきを散らしている。


 けれど、その美しさはすぐに飲み込まれた。


 地平線の向こうに、土煙が上がっていた。


 最初は薄い霞のようだった。

 夕陽に照らされた砂が、風に巻き上げられているだけにも見えた。


 だが違う。


 土煙は、風の流れに沿って広がっているのではなかった。

 こちらへ向かってくる。

 まっすぐに。

 まるで大地の上に、巨大な茶色の壁が生まれ、それが意志を持って進んでくるかのように。


「……あれが、反応の正体?」


 メイが小さく呟いた。


 彼女の声は、警報音の余韻にかすかに震えていた。

 それでも、彼女はアリアの隣にいた。救急箱を胸に抱え、逃げ出したい気持ちを必死に押し込めるように、両足でしっかりと地面を踏んでいる。


 アリスは、車体横に展開した魔導モニターを睨んでいた。

 青白い光が、彼女の頬を冷たく照らしている。指先が素早く画面を滑り、次々と小さな光点が拡大されていく。


「大型反応、複数。中型、小型は数えきれないわね。……まともに数えるのが馬鹿らしい量よ」


「数えきれないって、どれくらいだ?」


 瞬が、ハッチから降りながら尋ねる。


 足元の砂利が、彼の靴底でじゃり、と鳴った。

 その音だけが、妙に場違いなほど軽かった。


「ざっくり見ても数百以上。まだ後ろに続いてるなら、千に届いても不思議じゃないわ」


「千」


 ゼイクが低く繰り返した。


 その声には、驚きよりも警戒があった。

 彼はすでに剣の柄に手を置いている。鎧の金具が、動きに合わせて小さく鳴った。午後の光を受けた肩当てが鈍く光り、硬い影を地面に落としている。


 エリーゼは杖を手に取り、空気の匂いを確かめるように目を細めた。


「妙ですわね。魔物の群れにしては、気配が乱れすぎています。統率された軍勢ではありません。かといって、ただの野生の群れでもない」


「どういうこと?」


 メイが不安そうに聞く。


「恐怖に追い立てられているような……いえ、恐怖そのものを無理やり流し込まれているような感じですわ」


 その言葉に、アリアの胸が冷たく縮んだ。


 恐怖を流し込まれる。


 その表現が、妙にしっくりきてしまった。


 獣人たちの濁った目。

 黒い靄。

 痛みも恐れも忘れ、ただ壊すために前へ出ていた姿。

 あの時の気配と、遠くから迫るこの地鳴りは、どこかで繋がっているように思えた。


 アリアは弓を握る手に力を込めた。


 瞬たちに用意してもらった新しい弓。

 手触りは滑らかで、弦はよく張られている。自分の手にまだ完全には馴染んでいない。けれど、今の彼女が持てる、確かな武器だった。


 それなのに、指先は震えていた。


 自分でも情けないほどに。


 足元の砂利が、小刻みに震え始める。

 カラカラと小さな石が転がり、車体の影の中で乾いた音を立てた。

 地鳴りは近づいている。もう遠い響きではない。腹の底を直接押されるような振動が、靴底から膝へ、膝から背筋へ這い上がってくる。


 土煙の壁の下に、黒い影が見え始めた。


 最初に見えたのは、巨大な角だった。

 次に、太い腕。

 地面を削る爪。

 砂を蹴散らす蹄。

 翼の影。


 アリアの視界が、ゆっくりと鮮明になっていく。


 見たくないのに、見えてしまう。

 エルフの目は、遠くを見ることに優れている。

 それが今だけは、呪いのようだった。


 土煙の中を、オークが走っていた。

 脂ぎった肌に砂を貼りつかせ、丸太のような武器を振り回している。その横には、背丈が人の倍以上あるオーガがいた。分厚い胸板を上下させ、一歩踏み出すたびに大地が沈む。


 巨大な狼の群れが、その足元を縫うように駆けている。

 牙の隙間から白い泡をこぼし、目は血走り、まともな獣の理性は感じられない。

 さらに上空には、皮膜の翼を広げたワイバーンが、不安定な軌道で飛んでいた。互いにぶつかりそうになりながら、それでも同じ方向へ流されている。


 そして、奥にはもっと歪な影があった。


 獅子の頭。

 山羊の角。

 蛇の尾。

 異なる命を無理やり縫い合わせたような魔物が、濁った咆哮を上げて進んでくる。


 本来なら、こんな群れは成立しない。


 生息域も違う。

 食性も違う。

 魔物同士で争い、食い合うはずだ。

 それなのに今、彼らは一つの濁流になっていた。


 仲間ではない。

 軍勢でもない。

 ただ、何かに押し出されるように、こちらへ向かってくる。


「スタンピード……」


 ゼイクが呟いた。


 その言葉を聞いた瞬間、アリアの喉が詰まった。


 魔物の暴走。

 群れが理性を失い、目に入るものすべてを踏み潰す災厄。

 小さな村なら、一瞬で消える。

 城壁のある街でさえ、備えがなければ飲み込まれる。


 まして、ここにいるのは数人だけだ。


 いくら瞬たちが強いとしても。

 いくら、彼らが不思議で、温かくて、何度も自分の常識を裏切ってきたとしても。


 あれは違う。


 人が立ち向かうものではない。

 避けるべき災害だ。

 岩崩れや津波に、剣を抜いて挑む者はいない。


 アリアは、声を出そうとして失敗した。


 息だけが喉から漏れる。


 体が覚えていた。


 燃える森。

 逃げ惑う民。

 迫る獣人兵。

 こちらの矢をものともせず進んでくる、狂った目。

 誰かが自分の腕を引き、誰かが背中を押し、誰かが「逃げて」と叫んだ。


 まただ。


 また、あの音が近づいてくる。


 大勢の足音。

 大地を踏み砕く音。

 自分の大切なものを、何もかも飲み込んでいく音。


「アリアさん?」


 メイの声で、アリアは現実に引き戻された。


 気づけば、呼吸が浅くなっていた。

 弓を握る手が白くなっている。

 背中に冷たい汗が浮かび、首筋を細く伝っていった。


 メイが心配そうに覗き込んでいる。


 その顔を見て、アリアは思った。


 逃げなければ。


 自分だけではない。

 メイを、瞬たちを、逃がさなければ。


 このままでは、また失う。

 また、守れないまま誰かが倒れる。

 また、自分だけが生き残ってしまうかもしれない。


「逃げて」


 声が漏れた。


 小さすぎて、風に消えそうな声だった。


 けれど、次の瞬間には叫びになっていた。


「逃げなきゃ……! 無理よ、あんな数!」


 アリアは瞬の方を見た。

 自分でも驚くほど切羽詰まった声が出た。


「たったこれだけの人数でどうにかできる相手じゃないわ! 早くクイーン・アリス号で離れて! 今ならまだ間に合うかもしれない!」


 必死だった。


 王女としての言葉ではない。

 戦況を冷静に見た指揮官の判断でもない。

 ただ、もう失いたくない少女の叫びだった。


 その叫びに、瞬は振り返った。


 彼は、土煙の壁を背にして立っていた。

 風が吹き、彼の髪を乱す。砂が頬をかすめ、シャツの裾を揺らす。

 遠くで魔物たちの咆哮が重なり、空そのものが震えている。


 それなのに。


 瞬の表情は、ひどく落ち着いていた。


「大丈夫だ」


 たった、それだけだった。


 アリアは言葉を失った。


 なぜ、そんな顔ができるのか。

 なぜ、あれを見て逃げないのか。

 なぜ、絶望の前でそんなに普通に立っていられるのか。


「大丈夫って……!」


 言い返そうとしたアリアの前に、ゼイクが一歩出た。


 彼の背中が、アリアの視界を遮る。


 大きな背中だった。

 鎧越しでもわかるほど、肩に力が入っている。

 だが、その震えは恐怖の震えではない。戦いに向かう者の、研ぎ澄まされた緊張だった。


「アリア殿」


 ゼイクは振り返らずに言った。


「下がっていてくれ」


「でも……!」


「守るべき者を背に置いた時、騎士は逃げない」


 その声は静かだった。


 けれど、地鳴りにも負けなかった。


「君は今、我々の仲間であり、同時に客人だ。指一本触れさせるわけにはいかん」


 アリアの胸に、何かが強く触れた。


 守られることは、嫌いだった。

 何もできない者のように扱われるのが怖かった。

 王女だから、希望だから、血筋だからと、遠ざけられるたびに、自分の無力さを突きつけられる気がした。


 けれど、今の言葉は違った。


 ゼイクは、アリアを弱いから下がれと言ったのではない。

 大切だから守ると言った。


 その違いが、震える心に深く染みた。


 アリスが横で大きく息を吐いた。


「まったく、せっかくの話し合いを邪魔してくれるなんて、空気の読めない魔物たちね」


 彼女は扇子を閉じ、魔導モニターを指で弾いた。

 その瞬間、クイーン・アリス号の車体表面に淡い光が走る。防御機構が起動し、薄い膜のような結界が車体を包んだ。


「ただし、ひとつだけ言っておくわ」


 アリスは、迫る土煙を睨みつけた。


「私のクイーン・アリス号に傷をつけたら、魔物だろうが災厄だろうが、請求書を叩きつけるから」


「請求先あるのかよ」


 瞬が呆れたように言った。


「地獄にでも送るわよ」


 こんな時に。


 アリアは、信じられない思いで二人を見た。


 魔物の群れが迫っている。

 大地が震えている。

 死が、目に見える形で押し寄せている。


 それなのに、この人たちは車の傷と請求書の話をしている。


 正気ではない。


 けれど、その正気ではなさが、不思議とアリアの呼吸を少しだけ戻した。


 恐怖が消えたわけではない。

 足はまだ震えている。

 心臓は痛いほど速く打っている。


 でも、さっきのように、記憶の中へ引きずり込まれてはいなかった。


 ここは、あの日の森ではない。

 隣にいるのは、あの日失った人々ではない。

 目の前にいるのは、絶望に呑まれるために立つ者たちではない。


 絶望を、正面から殴り返そうとしている者たちだ。


 ゼイクが剣を抜いた。


 シャリン、と澄んだ金属音が荒野に響く。

 その音が、震える空気を一本の線で切り分けた。


「総員、戦闘準備」


 低い声だった。


 その一言で、場の空気が変わる。


 エリーゼが杖を掲げた。

 メイが救急箱を抱え直し、クイーン・アリス号の後方へ移動する。

 アリスはモニターの前に立ち、展開した光の画面をいくつも浮かべた。

 瞬は肩を回しながら、前へ出る。


 アリアは、その背中を見ていた。


 恐怖はまだある。

 けれど、その奥に別の感情が生まれていた。


 この人たちは、何者なのだろう。


 ただ優しいだけではない。

 ただ変なだけでもない。


 大切なものを守ると決めた時、彼らの空気は一瞬で変わる。

 さっきまでの騒がしい食卓の仲間が、今は嵐の前に立つ壁のように見えた。


 アリアは弓を握り直した。


 自分も、ここにいる。

 逃げたい。

 でも、見届けたい。


 彼らがどんなふうに災厄と向き合うのか。

 そして、自分はこの人たちの隣で、何を選ぶのか。


 土煙の壁が、もうすぐそこまで迫っていた。


土煙の壁が、もうすぐそこまで迫っていた。


 先頭を走るオーガの姿が、肉眼でもはっきり見える。

 巨体。

 丸太のような腕。

 皮膚にこびりついた泥と血。

 踏みしめられるたびに大地が沈み、乾いた地面に亀裂が走る。


 その背後から、数え切れない魔物が押し寄せてくる。

 群れではない。

 波だった。


 荒野そのものが、牙と爪を生やしてこちらへ雪崩れ込んでくるようだった。


 アリアは息を呑んだ。


 逃げ場はない。

 車で後退しても、あの速度と数ではすぐに追いつかれる。

 回り込もうにも、左右にも土煙は広がっている。

 上空にはワイバーンの影が旋回していた。


 包まれている。


 その事実が、冷たい指で喉を締めつける。


「第一波、来るわよ!」


 アリスの声が鋭く響いた。


 直後、先頭のオーガが地面を蹴った。


 ドンッ、と空気が揺れる。

 その巨体が、ありえない速さで跳ね上がった。

 巨大な棍棒を振りかぶり、一直線に瞬へ向かって落ちてくる。


「瞬!」


 アリアが叫んだ。


 反射的に弓を引こうとする。

 だが、指が間に合わない。

 矢を番えるよりも早く、オーガの影が瞬の頭上を覆った。


 丸太のような棍棒が、唸りを上げて振り下ろされる。


 当たれば、骨どころか体ごと地面に叩き潰される。

 血も肉も、原形を留めない。


 アリアの視界が、恐怖で白く弾けた。


 ――その瞬間。


 瞬は、片手を上げた。


 まるで、飛んできた枯れ葉を払うような軽さだった。


「邪魔」


 ただ、それだけ。


 彼の掌が棍棒に触れた。


 次の瞬間、世界が破裂した。


 ドォンッ!!


 音が遅れてやってきた。

 衝撃波が円形に広がり、足元の砂利を一斉に吹き飛ばす。

 アリアの髪が真後ろへなびき、服の裾が激しくはためいた。頬に砂が叩きつけられ、目を開けているのがやっとだった。


 だが、彼女は見た。


 オーガの棍棒が砕けたのではない。

 腕が折れたのでもない。

 巨体が吹き飛んだのでもない。


 オーガそのものが、消えていた。


 正確には、消えたのではなかった。


 瞬の掌に触れた場所から、オーガの体が細かな灰色の粒になり、風にほどけていったのだ。

 筋肉も、骨も、牙も、憎悪に歪んだ顔も、すべてが砂時計の砂のように崩れ落ち、空気の中へ溶けていく。


 血は出なかった。

 悲鳴も上がらなかった。

 死体すら残らなかった。


 そこにあったはずの巨体は、まるで最初から存在しなかったかのように、ぽっかりと空いた空間だけを残して消滅した。


「……え?」


 アリアの口から、かすれた声が漏れた。


 何が起きたのかわからない。


 魔法の発動光はなかった。

 詠唱もなかった。

 強大な術式が展開された気配もない。


 ただ、瞬が手を上げた。


 それだけで、災厄の先頭が消えた。


 だが、魔物の波は止まらない。


 先頭の一体が消えた程度では、後続の群れは怯まなかった。

 むしろ空いた穴を埋めるように、オーク、狼型の魔物、巨大猪、キメラが一斉に押し寄せる。


 アリアは息を吸うことすら忘れた。


 次は、飲み込まれる。

 いくら瞬が強くても、全方位から来るこの数は――。


「アリス」


 瞬が短く言った。


「はいはい。わかってるわよ」


 アリスが一歩前に出た。


 彼女の赤い髪が、土煙混じりの風に揺れる。

 その姿は、戦場に立つにはあまりにも優雅だった。

 ドレスの裾を気にするような仕草で足元を確かめ、扇子を閉じる。

 そして、細い指を空へ向けた。


 パチン。


 澄んだ音が鳴った。


 たった一度の指鳴らし。


 それを合図に、アリスの背後の空間が開いた。


 青白い光の線が、虚空に走る。

 一本、二本、十本、百本。

 無数の線が交差し、重なり、立体的な図形を作っていく。


 魔法陣ではない。

 少なくとも、アリアが知るどんな魔法陣とも違う。


 それは、空中に組み上げられた光の城塞だった。

 幾何学模様が高速で回転し、細かな文字列が川のように流れ、複数の円環が互いに噛み合って回り続けている。


 青白い光がアリスの横顔を照らした。

 その瞳には、先ほどまでの軽口はない。

 冷たいほど澄んだ計算の光が宿っていた。


「目標、前方全域。車体防護範囲を除外。味方識別固定。誤射補正、完了」


 アリスの声が、淡々と荒野に響く。


 アリアには、言葉の意味の半分もわからなかった。

 けれど、本能で理解した。


 これから何か、とんでもないものが放たれる。


「掃射開始」


 アリスが指を振り下ろした。


 瞬間、空が裂けた。


 シュンッ。


 最初の光が、魔物の群れを貫いた。


 青白い一筋の光。

 細く、美しく、雨上がりの蜘蛛の糸のように繊細だった。


 だが、その光が通った場所にいたオークの頭部が、音もなく消えた。

 焼ける匂いだけが、遅れて風に乗って届く。


 次の瞬間。


 シュンッ、シュンッ、シュンッ、シュンッ!!


 無数の光が降った。


 それは矢ではない。

 炎でもない。

 雷でもない。


 夜空から星が落ちるなら、きっとこんな光景なのだろう。

 青白い光線が、雨のように、滝のように、魔物の群れへ降り注いだ。


 だが、美しいのは見た目だけだった。


 光は一切の無駄なく急所を貫く。

 オークの眉間。

 狼の心臓。

 ワイバーンの翼の付け根。

 キメラの複数ある頭部の神経節。

 巨大猪の突進を支える前脚。


 一体につき一発ではない。

 必要なら三発、五発、十発。

 全てが正確に、最短距離で、最も効率よく命を止める場所へ突き刺さる。


 魔物たちは悲鳴を上げる暇すらなかった。

 走っていた姿勢のまま崩れ落ち、飛んでいたワイバーンは糸を切られた凧のように墜落する。

 巨体が地面に叩きつけられ、乾いた土が爆ぜ、赤黒い飛沫が舞った。


 それでも、光は止まらない。


 アリスの周囲に浮かぶ光の円環が、さらに速度を上げた。

 光線の角度が変わる。

 まっすぐ撃ち抜くだけではない。

 曲がる。

 跳ねる。

 避けようとした魔物を追尾し、背後へ回り込み、死角から貫く。


 アリアは、唇を震わせた。


 魔法ではない。


 これは、狩りでも戦闘でもない。


 処理だ。


 押し寄せる数百の命を、アリスは一つずつ「危険反応」として認識し、選別し、消している。


 その冷徹さが恐ろしかった。

 その精密さが美しかった。

 そして、それを平然とやってのけるアリスが、信じられなかった。


「右から抜けるぞ!」


 ゼイクが叫んだ。


 光の雨をすり抜け、数体の巨大狼が横へ回り込んでいた。

 低い姿勢で地面を蹴り、瞬く間に距離を詰めてくる。

 狙いは後方。メイとアリアのいる位置だ。


 アリアは弓を構えた。


 今度こそ撃つ。

 震えていても、何もしないわけにはいかない。


 だが、矢を放つより早く、瞬が動いた。


 彼の姿が消えた。


 いや、消えたように見えた。


 次の瞬間には、巨大狼の群れの前に立っていた。

 足元の砂が、遅れて爆ぜる。

 移動の衝撃で、地面に円形の跡が刻まれていた。


「悪いな」


 瞬が、拳を握った。


「そっちは通行止めだ」


 巨大狼が跳んだ。

 三体同時。

 牙を剥き、唾液を散らし、瞬の首と腕と腹を狙う。


 瞬は、踏み込んだ。


 拳が一度、空を裂いた。


 ドンッ!!


 一体目が消し飛ぶ。


 蹴りが横へ流れる。


 バギィッ!!


 二体目が地面に叩きつけられ、衝撃で土砂が柱のように吹き上がる。


 三体目が瞬の背後へ回り込んだ。

 アリアが叫ぼうとした瞬間、瞬は振り向きもしないまま、肘を後ろへ落とした。


 鈍い音。


 巨大狼の頭部が、地面へめり込んだ。

 体がびくりと跳ね、そのまま動かなくなる。


 速い。

 重い。

 強い。


 だが、それ以上におかしいのは、瞬に一切の迷いがないことだった。


 彼は怒りに任せて暴れているわけではない。

 興奮しているわけでもない。

 呼吸も乱れていない。


 ただ、必要な場所へ移動し、必要な力で、必要な敵を潰している。


 まるで災害に対して、別の災害をぶつけているようだった。


「瞬! 上!」


 アリスの声。


 上空から、ワイバーンが急降下していた。

 翼を畳み、槍のような速度で瞬へ突っ込んでくる。

 その鉤爪は岩をも裂く。まともに受ければ、体を引き裂かれる。


 瞬は空を見上げた。


 そして、笑った。


「ちょうどいい」


 彼は地面を蹴った。


 ドンッ、と爆発のような音が鳴り、瞬の体が垂直に跳び上がる。

 アリアの目には、彼が空を飛んだように見えた。


 ワイバーンの爪が迫る。

 瞬の拳が迫る。


 二つの影が空中で交差した。


 次の瞬間、ワイバーンの巨体が空で折れた。


 骨が砕ける音。

 翼膜が裂ける音。

 咆哮が途中で途切れる音。


 瞬は、そのままワイバーンの背を踏み台にしてさらに跳び、別のワイバーンの顎を蹴り上げた。


 空に、巨大な影が二つ墜ちる。


 アリスの光線がそこへ重なった。

 墜落する魔物の急所を、落下中に正確に撃ち抜く。

 死体が地面に激突する直前、青白い光が走り、魔力の暴走を封じ込める。


 爆発すら起こらない。


 アリアは、呆然と見ていた。


 連携が、美しすぎる。


 瞬が前線で暴力そのもののように敵を砕き、アリスが後方から全体を支配する。

 ゼイクが抜けた敵を斬り伏せ、エリーゼが結界で衝撃と流れ弾を遮る。

 メイは後方で、誰が怪我をしてもすぐ駆けつけられる位置にいる。


 即席のようで、即席ではない。

 ふざけているようで、隙がない。


 この人たちは、何度もこうして修羅場を越えてきたのだ。


 アリアの中で、何かが音を立てて崩れていく。


 人間は弱い。

 短命で、魔力も少なく、森の外でせわしなく生きている種族。


 ずっと、そう思っていた。


 でも、目の前の光景は何だ。


 これは弱さではない。

 これは、ただの強さですらない。


 世界のほうが、この二人の規格に追いついていない。


「アリア!」


 ゼイクの声で、アリアは我に返った。


 左側から、小型の魔物が数体抜けてきている。

 アリスの光線を避けたわけではない。ただ、他の魔物の影に隠れ、偶然隙間を通ってしまったのだ。


 今なら撃てる。


 アリアは弓を引いた。


 指の震えは、まだ完全には消えていない。

 けれど、さっきとは違う。


 恐怖で固まる震えではない。

 心が前へ出ようとしている震えだった。


 弦が頬に触れる。

 風の向き。

 距離。

 敵の速度。

 呼吸。


 森で何度も鍛えた感覚が、体に戻ってくる。


 アリアは矢を放った。


 ヒュンッ。


 風を切る音が、まっすぐ伸びる。


 矢は一体目の魔物の目を貫いた。

 続けて二射。

 三射。


 魔物が崩れる。


 倒せた。


 その事実に、アリアの胸が震えた。


 自分にも、まだできる。

 恐怖に呑まれるだけではない。

 逃げるだけではない。


 瞬が地上に着地し、ちらりとこちらを見た。


「ナイス、アリア!」


 たった一言。


 けれど、それだけでアリアの心に光が差した。


 王女として褒められたのではない。

 守られるだけの存在として慰められたのでもない。


 同じ戦場に立つ仲間として、認められた。


「……ええ!」


 アリアは、もう一度弓を構えた。


 その間にも、戦況は一方的に傾いていく。


 瞬が踏み込むたび、魔物の波に穴が開く。

 アリスの光が降るたび、その穴はさらに広がる。

 圧倒的な数で押し潰すはずだったスタンピードが、逆に削られていく。


 土煙の壁は、もはや壁ではなかった。

 ところどころに巨大な裂け目が走り、そこから青白い光が漏れている。

 咆哮は悲鳴に変わり、突進は混乱に変わり、魔物たちは進むことも逃げることもできず、次々に倒れていく。


「前方、密集地帯!」


 アリスが叫ぶ。


「瞬、派手に開けなさい!」


「了解!」


 瞬が、魔物の中心へ向かって走った。


 地面が砕ける。

 砂が跳ねる。

 彼の背中を、青白い光が追い越していく。


 アリスの展開した光の円環が、今までで最も強く輝いた。

 空中に巨大な照準のような紋様が浮かび、魔物の密集地帯を丸ごと囲む。


 瞬が、その中心で拳を引いた。


 ほんの一瞬、時間が止まったように見えた。


 アリアは、息を止めた。


 次の瞬間。


「ぶっ飛べ」


 瞬の拳が、大地へ叩き込まれた。


 轟音。


 大地が波打った。


 衝撃が前方へ扇状に広がり、地面そのものが跳ね上がる。

 押し寄せていた魔物たちの足元がまとめて砕け、巨体が宙に浮いた。


 その宙に浮いた魔物の群れへ、アリスの光が降り注ぐ。


 無数の青白い線が、空中で動きを止めた獲物を正確に貫いた。

 それはもはや戦闘ではなく、天から降る裁きだった。


 空にいた魔物も。

 地を走っていた魔物も。

 突進していた巨体も。

 すべてが同じ一瞬の中で撃ち抜かれ、崩れ落ちていく。


 土煙が爆ぜた。

 風が逆巻いた。

 夕陽の光が砂塵の中で乱反射し、荒野全体が金色と青白い光に染まった。


 アリアは、その光景を一生忘れないと思った。


 死の波が、止まった瞬間だった。


 いや、止められたのではない。


 押し返されたのだ。


 たった数人の手で。

 たった二人の規格外の力を中心に。


 災厄そのものが、押し返された。


 やがて、最初の轟音が遠ざかる。

 地鳴りが少しずつ弱まっていく。

 土煙の向こうに、まだ魔物の影は残っていた。


 だが、さっきまでの勢いはない。


 群れは明らかに怯えていた。

 暴走し、何かに追われていたはずの魔物たちが、今度は目の前の二人に対して、本能的な恐怖を覚え始めている。


 瞬は土煙の中で拳を下ろし、肩を鳴らした。


 アリスは宙に浮かぶ光の円環を従えたまま、静かに微笑む。


 その二人の背中を見て、アリアはようやく理解した。


 自分は、ただ優しい人たちに助けられたのではない。


 自分は、世界の常識を壊す者たちと出会ってしまったのだ。


 そして、その力は今、自分を守るために振るわれている。


 胸の奥で、恐怖とは違う震えが生まれた。


 希望だった。


 あの日、燃える森の中で失ったと思っていたもの。

 地下牢の冷たい石床の上で、二度と戻らないと思っていたもの。


 それが今、土煙の向こうで青白く輝いている。


「……すごい」


 アリアの口から、自然に言葉がこぼれた。


 その声は、震えていた。

 けれど、もう絶望だけの震えではなかった。


 瞬が振り返り、いつもの調子で笑った。


「まだ終わってねぇぞ、アリア」


 彼の向こうで、残った魔物たちが再び唸り声を上げる。

 土煙の奥から、さらに巨大な影が動いた。


 先ほどまでの群れとは違う。

 もっと大きく、もっと濃い気配。

 この暴走を押し出している、何かの一端。


 アリスが目を細めた。


「第二波、来るわ」


 荒野の空気が、再び震えた。


 だが、アリアはもう、ただ怯えてはいなかった。


 弓を握り直し、瞬とアリスの背中を見据える。


 この戦いの先に、故郷へ帰る道がある。

 この人たちとなら、その道を進めるかもしれない。


 迫りくる災厄の中で、アリアの心に初めて、確かな光が灯った。

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