第82話:森の異変と、キナ臭い噂 〜帰る場所は、いつも優しいとは限らない〜
魔導キャンピングカー「クイーン・アリス号」のリビングには、まだ先ほどの衝撃の余韻が残っていた。
アリア・シルフィード。
エルフ族の氏族長の娘。
人間の言葉で言えば、エルフの王女。
その事実が明かされてから、車内の空気は妙な形で落ち着かなくなっていた。
ゼイクは椅子に座ったまま、両手を膝の上に置き、背筋を必要以上に伸ばしている。まるで見えない王宮の礼法に縛られているかのようだった。さっきまでの彼なら、紅茶を飲みながら「野菜を食べろ」と自然に言えたはずなのに、今はカップひとつ持つにも許可を求めそうな顔をしている。
エリーゼは割れたグラスを片づけ終えたあとも、妙に静かだった。ときおりアリアの髪に視線を向けては、すぐに目を逸らす。三本採取したことを、まだ引きずっているらしい。
メイは、いつも通り紅茶のおかわりを用意している。
けれど、その手つきは少しだけぎこちなかった。
「アリアさん、お砂糖は……えっと、王女様の場合は、先に入れるものなのでしょうか……?」
「メイ、今まで通りでいいの」
アリアは苦笑した。
「今まで通り……二つでいいわ」
「は、はいっ」
メイはほっとしたように頷き、小さな角砂糖を二つ、カップの中へ落とした。
ぽちゃん、ぽちゃん、と甘い音が続く。
白い湯気がふわりと立ち上り、紅茶の香りがリビングに広がった。
その温かい香りに、アリアの指先の緊張が少しずつ解けていく。
不思議だった。
王女だと明かした瞬間、何かが壊れてしまうかもしれないと思っていた。
距離を置かれるかもしれない。
かしこまられるかもしれない。
利用価値のある存在として見られるかもしれない。
だが、目の前にいる人たちは、驚きはしても、彼女を見る目そのものは変えなかった。
瞬は相変わらずソファに深く座り、頭をかきながら難しい顔をしている。
アリスは扇子で口元を隠しながらも、ちらちらとアリアの表情を確かめている。
ゼイクは緊張しているが、それは彼女を遠ざけるためではなく、失礼をしたくないからだとわかる。
メイは不安げながらも、いつものように温かい飲み物を差し出してくれる。
ここには、肩書きに群がる目がない。
それだけで、胸の奥が少し痛くなるほど救われた。
「……驚かせて、ごめんなさい」
アリアはカップを両手で包みながら言った。
午後の光が窓から斜めに入り、彼女の横顔に淡い影を作る。
揺れる湯気の向こうで、緑の瞳が静かに伏せられた。
「本当は、もっと早く話すべきだったのだと思う」
「無理に言わなくてよかったんだよ」
瞬がすぐに言った。
その声は、いつもの軽さを少しだけ抑えていた。
「話したくないことを、こっちが無理やり聞き出すもんじゃないだろ」
「でも、あなたたちは私を助けてくれたわ。私が何者かも知らないまま」
「だからいいんじゃねぇの?」
瞬は首を傾げた。
「王女だから助けたわけじゃないし」
その言葉は、飾り気がなかった。
だからこそ、まっすぐ届いた。
アリアは小さく息を呑んだ。
また、胸の奥が温かくなる。
困るほどに。
泣きたくなるほどに。
「……ありがとう」
それだけを言うのが精一杯だった。
静かな時間が流れた。
車体の外を風が撫で、遠くで草が擦れる音がした。
薄い壁一枚隔てた外の世界は広く、冷たく、どこか乾いている。
それに比べて、このリビングはあまりにも温かかった。
だからこそ、アリアは言わなければならないと思った。
この温かさに甘えるだけではいられない。
自分がどこから来て、何を背負っているのか。
彼らをこれ以上巻き込むかもしれないのなら、せめて隠してはいけない。
アリアはカップを静かに置いた。
陶器が受け皿に触れ、カチリと小さな音を立てる。
「私が、なぜあんな姿で人間の領地にいたのか」
その一言で、空気が変わった。
メイが手を止めた。
ゼイクの背筋がさらに伸びる。
エリーゼの目が細くなり、アリスも扇子を下ろした。
瞬は何も言わず、ただ頷いた。
話せ。
そう急かすのではなく、聞く準備はできている、という頷きだった。
アリアはゆっくり息を吸った。
「私たちの国――エルフの森は、今、隣の獣人連合国と戦っているわ」
「戦争……」
メイの声が震えた。
その言葉だけで、リビングの温度が下がったように感じられた。
戦争。
それは物語の中の遠い出来事ではない。
アリアの目の奥に、確かに焼きついている現実だった。
「昔から仲が悪かった、というわけではないの」
アリアは首を横に振った。
「むしろ、かつては互いに支え合っていたわ。森にしかない薬草や織物を私たちが渡し、山や外の土地で採れる鉱石や塩を彼らが運んでくれた。考え方も、暮らし方も、寿命も違う。でも、違うからこそ補い合える。私は、そう信じていた」
言葉にしながら、アリアの指が膝の上で細く震えた。
交易広場の賑わい。
笑い声。
陽に照らされた獣人の耳。
森の匂いを運ぶ風。
差し出された、光る小さな石。
その記憶を、今ここで詳しく語ることはできなかった。
口にすれば、まだ傷口が開いてしまいそうだった。
けれど、黙っていることもできなかった。
「でも、数年前に獣人連合国の王が代わった」
アリアの声が少し低くなった。
「新しい獣王は、力こそがすべてだと考える人だった。森の恵みも、世界樹の力も、弱い者が抱え込むべきではないと言い出したの」
「世界樹の力……?」
アリスが眉をひそめた。
「エルフの森の中心にある、巨大な古木よ。私たちにとっては、ただの木ではないわ。森の命そのもの。水も、風も、土も、そこから広がる力に支えられている」
アリアは一度言葉を切った。
「それを渡せと言われた。渡せなければ、力づくで奪うと」
「そんなの、渡せるわけないじゃない」
アリスが低く言った。
「ええ。父は拒んだ。何度も話し合いを求めたわ。けれど、向こうは聞く耳を持たなかった」
窓の外で、風が少し強くなった。
車体の外板を叩いた砂粒が、ぱらぱらと乾いた音を立てる。
アリアの瞳が、どこか遠くを見る。
「それから、森は変わってしまった」
その言葉は静かだった。
けれど、静かすぎるからこそ、深い傷が透けて見えた。
「境界線で小さな争いが起きるようになった。最初は、偶然の衝突だと思おうとした。現場の兵が暴走しただけだと。まだ、話し合えば戻れると思っていた」
アリアの唇がわずかに震えた。
「でも、違ったの。彼らは準備していた。森を奪うために。私たちを、踏み潰すために」
メイが胸元で手を握りしめる。
ゼイクは静かに目を閉じた。
騎士だった彼には、その言葉の裏にあるものがわかったのだろう。
境界の小競り合い。
交渉の決裂。
そして、不可避となった侵攻。
そこに住む人々にとって、それは地図上の線の問題ではない。
家が焼かれ、家族が裂かれ、昨日までの当たり前が壊されるということだ。
「アリア殿」
ゼイクが低く尋ねた。
「君が捕らえられていたのは、その戦いの中で?」
「……ええ」
アリアは小さく頷いた。
「王都に近い森まで、戦火が届いた。私も防衛に出たわ。王女だから安全な場所にいろと言われたけれど、そんなことはできなかった。私の民が戦っているのに、私だけ隠れているなんて、できなかった」
その言葉には、王女としての誇りがあった。
同時に、自分を責める痛みもあった。
瞬は何も言わなかった。
茶化さない。
励ましの言葉を急がない。
ただ、アリアの言葉が次に進むのを待っている。
その沈黙が、アリアにはありがたかった。
「けれど、敵の勢いは想像を超えていた。私たちは分断され、追い詰められた。最後に、宮廷魔導士長が……私を逃がしたの」
メイの目が揺れた。
「逃がした……?」
「強制転移よ」
アリアは、自分の手を見下ろした。
「行き先を選ぶ余裕なんてなかった。ただ、私だけを遠くへ飛ばすための術。術者には大きな負担がかかる。簡単に使えるものではないわ」
本当は、その続きを言うべきだった。
その術を使った老人が、どんな顔で笑ったのか。
誰がアリアを守るために立ちはだかったのか。
最後に何を叫んだのか。
けれど、その記憶はまだ鋭すぎた。
喉に血の味が蘇るほど、生々しすぎた。
今はまだ、全部は語れない。
アリアは唇を噛み、少しだけ首を横に振った。
「詳しいことは……森に近づいた時に、改めて話すわ。今ここで全部話したら、私はきっと、前を向けなくなる」
瞬が静かに頷いた。
「それでいい」
たった一言だった。
けれど、その一言で、アリアの胸に詰まっていたものが少しだけほどけた。
全部を話さなくてもいい。
でも、逃げなくてもいい。
この人たちは、待ってくれる。
「転移した先が、人間の領地だったの」
アリアは続けた。
「魔力はほとんど残っていなかった。怪我もしていたし、意識もはっきりしなかった。そこで巡回中の兵士に見つかった」
ゼイクの顔が苦く歪む。
「身分を明かせなかったのか」
「ええ。言葉を整える余裕もなかった。状況も悪かったわ。戦争中に、傷だらけのエルフが突然現れたのだから、疑われてもおかしくはない」
アリアは静かに言った。
恨みがないわけではない。
あの地下牢の冷たさを忘れたわけでもない。
鎖の重さも、空腹も、見下ろす兵士の目も、今も覚えている。
けれど、今なら少しだけわかる。
恐怖は、人を残酷にする。
知らない相手を、敵だと決めつけさせる。
そして、決めつけた瞬間、その相手が傷ついていることさえ見えなくなる。
「私は、獣人連合国の密偵だと疑われた。説明する力も残っていなくて、そのまま地下牢に入れられた」
メイが小さく息を呑んだ。
「そんな……」
アリアは、メイの方を見て、少しだけ微笑んだ。
「でも、そこであなたたちに会えた」
それは、ただの慰めではなかった。
確かに、地下牢は最悪の場所だった。
冷たく、暗く、孤独だった。
けれど、あの場所で瞬たちに出会わなければ、今の自分はここにいない。
人間を憎んだまま。
世界を恨んだまま。
自分は一人だと思い込んだまま。
きっと、心のどこかから静かに壊れていた。
「だから、私にとっては不思議なの」
アリアは、カップの中で揺れる紅茶を見つめた。
「人間の領地で捕らえられて、人間を怖いと思った。なのに、同じ人間に救われた。怖かったはずの手が、今はこんなに温かい場所をくれている」
リビングに、深い沈黙が落ちた。
それは気まずい沈黙ではなかった。
アリアの言葉を、全員が胸の中で受け止めている沈黙だった。
やがて、瞬がぽつりと言った。
「人間にもいろいろいる。エルフにもいろいろいる。獣人にも、たぶんな」
アリアは顔を上げた。
瞬は、窓の外を見ていた。
「種族でまとめたら楽だけどさ。楽な見方って、大体どっかで間違えるんだよ」
その言葉は、アリアの胸に静かに沈んだ。
獣人を敵だと思わなければ、戦えない。
人間を怖がらなければ、自分を守れない。
エルフとして誇りを持たなければ、立っていられない。
けれど、その全部が行き過ぎた時、きっと目の前の誰かを見失う。
アリアは、自分がメイの瞳を怖がっていた日のことを思い出した。
色だけで、何も知らないまま怯えていた。
あの時の自分と、いま人間を見下す者たちと、何が違うのか。
胸が痛んだ。
「……そうね」
アリアは小さく頷いた。
「私は、まだ怖いわ。獣人も、人間も、そして……自分の故郷に戻ることも」
その告白に、メイがそっと手を伸ばした。
アリアの手に、自分の手を重ねる。
「怖くても、大丈夫です」
メイの声は震えていた。
けれど、その手は温かかった。
「一緒に行きますから」
アリアは、メイの手を見つめた。
小さな手。
かつて、自分が恐れた紫の瞳を持つ少女の手。
今は、その手が自分を支えている。
なんて不思議なのだろう。
怖いものは、近づいてみなければ、本当の姿がわからない。
そして、近づく勇気をくれるのは、いつだって誰かの温もりなのかもしれない。
「ありがとう、メイ」
アリアはそう言って、メイの手を握り返した。
その時、ゼイクが低い声で言った。
「しかし、気になるな」
空気がわずかに張り詰める。
「その獣人連合国の変化だ。王が代わっただけで、そこまで急激に方針が変わるものなのか」
エリーゼも静かに頷いた。
「長年の交流があった相手が、短期間でそこまで攻撃的になる。もちろん権力者の思想で国が変わることはありますけれど……それだけで説明するには、少々不自然ですわね」
アリスが扇子を閉じた。
「裏で誰かが糸を引いてる可能性がある、ってこと?」
アリアは、ゆっくりと顔を上げた。
その瞳に、暗い影が戻る。
「……ええ」
短い返事だった。
だが、その一言だけで、リビングの空気はさらに重くなった。
アリアは、言うべきか迷った。
確証はない。
噂に過ぎない。
けれど、森で見た異変は、ただの戦争では説明できなかった。
獣人たちの目。
濁った殺意。
体から立ち上っていた、黒い気配。
思い出すだけで、指先が冷たくなる。
「獣人連合国は……」
アリアは声を潜めた。
「魔族と、何らかの形で関わっているかもしれない」
その言葉が落ちた瞬間、車内の空気が凍った。
魔族。
その言葉は、ただの種族名ではなかった。
リビングに流れていた紅茶の香りが、一瞬で遠のいたように感じられた。
暖かな照明も、柔らかなソファも、整ったテーブルも、すべてが薄い膜の向こう側へ押しやられる。
代わりに、胸の奥へ冷たいものが忍び込んできた。
ゼイクの表情が変わった。
騎士として、数多くの危険を見てきた男の顔だった。
冗談も、驚きも、遠慮も消えている。そこにあるのは、戦場の匂いを嗅ぎ取った者だけが見せる、研ぎ澄まされた警戒だった。
「魔族と関わっている……だと?」
低い声だった。
メイが小さく肩を震わせる。
エリーゼは目を細め、アリアの言葉の裏にある意味を探るように顎へ指を添えた。
アリスは扇子を閉じたまま、珍しく茶化さずに黙っている。
瞬もまた、何も言わなかった。
だが、その黒い瞳の奥で、何かが静かに沈んでいくのがアリアにはわかった。
「確証はないわ」
アリアは急いで付け加えた。
「証拠を握っているわけではないの。ただ……おかしかった。あの獣人たちは、私が知っている獣人ではなかった」
アリアの指が、自分でも気づかないうちにカップの取っ手を強く握っていた。
白い指先に、わずかに血の気が失われていく。
「彼らは誇り高い種族だった。気性は荒いけれど、仲間を大切にする。狩りの獲物にも敬意を払う。力を尊ぶけれど、ただ弱いものをいたぶるような戦い方はしなかった」
そこで、アリアの声がかすかに揺れた。
「でも、私が見た彼らは違ったわ」
リビングの空気が沈む。
外を吹く風が、車体の表面を撫でていった。
かすかな砂粒が金属に当たり、さらさらと乾いた音を立てる。
その音が、遠い森で聞いた火の粉の音と重なり、アリアの喉を締めつけた。
「目に、光がなかった。怒りや憎しみというより……何かに塗り潰されているようだった。痛みも、恐怖も、仲間が倒れたことへの動揺もない。ただ、壊せ、奪え、進め、と命令されているみたいに」
メイが口元を押さえた。
「そんな……」
「身体から、黒い靄のようなものが立ち上っていた兵もいたわ。獣人本来の魔力とは違う。森の魔力とも、人間の魔法とも違う。もっと冷たくて、濁っていて、見ているだけで胸の奥がざわつくような気配だった」
エリーゼの表情が険しくなる。
「精神干渉、あるいは肉体強化の類でしょうか。痛覚や恐怖を鈍らせ、攻撃性だけを増幅する。もしそれが集団規模で施されていたとしたら、通常の戦争とは別物ですわ」
「つまり、獣人たちは自分たちの意思だけで動いてるとは限らないってことか」
瞬が静かに言った。
アリアは、すぐに答えられなかった。
言葉にしてしまえば、少しだけ救われる気がした。
あれは彼らの本心ではなかったのだと。
かつて隣人だった者たちは、何かに操られていただけなのだと。
でも、そう思い切ることもできなかった。
森は焼かれた。
同胞は傷つけられた。
自分は逃げるしかなかった。
あの爪も、刃も、炎も、現実だった。
「……わからない」
アリアは正直に言った。
「操られていたのかもしれない。けれど、彼ら自身の欲望を利用されたのかもしれない。元からあった小さな不満や、力への執着を、誰かが大きく育てたのかもしれない」
彼女は目を伏せた。
「どちらにしても、私たちは止められなかった」
その言葉には、自責が滲んでいた。
王女として。
森に生まれた者として。
もっと早く気づけたのではないか。
もっと別の道があったのではないか。
誰かを憎みきることもできず、誰かを許しきることもできず、アリアの心はずっとその狭間で傷ついていた。
その沈黙を破ったのは、アリスだった。
「面倒ね」
彼女は短く言った。
言葉だけ聞けば冷たくも聞こえる。
けれど、その目は真剣だった。
「単純な侵略なら、敵を叩けば終わる。でも、裏に別の何かがいるなら、目の前の相手だけ倒しても解決しない。むしろ、獣人側にも被害者が混じってる可能性がある」
「ええ」
アリアは頷いた。
「だから、私は……」
そこで言葉が止まった。
私は、どうしたいのだろう。
故郷へ帰りたい。
森を救いたい。
民を守りたい。
父に会いたい。
母に無事を伝えたい。
その気持ちはある。
けれど、それだけではなかった。
獣人をただ憎めば楽だった。
すべて敵だと決めつければ、迷わず弓を引けた。
人間を嫌えば楽だった。
地下牢で受けた仕打ちだけを覚えていれば、心を閉ざせた。
でも、もうそれはできない。
瞬たちと出会ってしまったから。
メイの手の温かさを知ってしまったから。
種族という大きな言葉の中に、一人ひとりの顔があることを知ってしまったから。
「私は、森を救いたい」
アリアはゆっくりと言った。
「でも、獣人たちをすべて滅ぼしたいわけではないの。もちろん、許せないことはある。奪われたものも、失った命も戻らない。だけど……全部を憎しみで終わらせたら、きっと私は、あの日森を焼いたものと同じになってしまう」
メイの手が、アリアの手をもう一度そっと包んだ。
アリアはその温もりを感じながら、顔を上げた。
「だから知りたいの。何が起きているのか。本当の敵が誰なのか。私の森に、獣人の国に、何が入り込んだのか」
瞬が小さく笑った。
からかうような笑みではなかった。
頼もしい、けれど少しだけ眩しい笑みだった。
「いいんじゃねぇの」
「え?」
「憎むだけじゃ終わらせたくないんだろ。だったら、そのまま行けばいい」
瞬はソファの背もたれから体を起こした。
「綺麗ごとだって笑うやつもいるかもしれないけどな。俺はそういうの、嫌いじゃない」
アリアの胸が、小さく震えた。
「でも……そんなこと、できるのかしら」
「わからん」
瞬はあっさり言った。
あまりにも即答だったので、アリアは思わず瞬を見返した。
「わからないのに言ったの?」
「当たり前だろ。やってみなきゃわからんことだらけだ」
瞬は肩をすくめる。
「でも、最初から無理って決めつけるよりはマシだ。敵なら倒す。助けられるなら助ける。話が通じるなら話す。通じなきゃ、まあ……その時考える」
「雑ね」
アリスが呆れたように言った。
「でも、嫌いじゃないわ。その雑さ」
ゼイクも静かに頷いた。
「戦場では理想だけでは生き残れん。だが、理想を捨てた者は、守るべきものまで見失う。アリア殿の迷いは、弱さではない」
ゼイクの声は重かった。
「むしろ、簡単に憎しみに逃げないことこそ、王族としての強さだと私は思う」
アリアは目を伏せた。
王族としての強さ。
その言葉は、今まで重荷にしか感じられなかった。
強くあらねばならない。
民の前で泣いてはいけない。
迷ってはいけない。
恐れてはいけない。
そう思っていた。
けれど、ゼイクの言葉は違った。
迷いながらも、誰かを守ろうとすること。
傷つきながらも、憎しみに飲まれないこと。
それもまた、強さなのだと。
アリアの喉の奥が熱くなった。
「……ありがとう」
小さく呟く。
その声は、もう震えていなかった。
エリーゼが静かに紅茶を口に運んだ。
「それにしても、魔族の関与となると、話はかなり大きくなりますわね。数十年前の魔王復活と無関係とは考えにくいですわ」
魔王。
その名が出た瞬間、瞬、ゼイク、エリーゼ、アリスの間に、言葉にならない気配が走った。
アリアはそれに気づいた。
「……何か知っているの?」
問いかけると、瞬たちは一瞬だけ互いに視線を交わした。
その沈黙は短かった。
だが、ただの噂を聞いた者たちの反応ではなかった。
ゼイクがゆっくり口を開く。
「我々も、以前……魔王に関わる場所を訪れたことがある」
アリアは息を呑んだ。
「魔王は、人族の勇者が命と引き換えに封印したと聞いているわ」
「そう伝わっているな」
ゼイクの声には苦いものが混じっていた。
「だが、伝承というものは、時に都合よく整えられる」
それ以上は、ゼイクは言わなかった。
アリアも、無理に聞かなかった。
ただ、わかった。
瞬たちもまた、自分と同じように、何か重い真実を抱えているのだと。
この旅は、ただ自分の故郷へ帰るだけの旅ではないのかもしれない。
森を焼いた火の奥に、もっと大きな闇がある。
獣人を狂わせたものの背後に、世界そのものを揺るがす何かが潜んでいる。
そう思った瞬間、アリアの背筋に冷たいものが走った。
けれど、不思議と足がすくむほどではなかった。
怖い。
もちろん怖い。
でも、隣にはメイがいる。
目の前には瞬がいる。
ゼイクも、アリスも、エリーゼもいる。
一人で震えていた地下牢とは違う。
アリアはそっと息を吸った。
「私は、森へ戻らなければならないわ」
その声は静かだったが、芯があった。
「父に、民に、自分が生きていることを伝えたい。そして、何が起きたのかを確かめたい。魔族が関わっているなら、それを止めなければならない」
彼女は皆を見た。
「でも、あなたたちを危険に巻き込むことになるかもしれない」
言葉にした瞬間、胸が痛んだ。
助けてほしい。
一緒に来てほしい。
そう思っている自分がいる。
けれど、彼らには彼らの命がある。
自分の故郷の問題に、どこまで巻き込んでいいのか。
アリアは唇を噛んだ。
その迷いを、瞬はあっさりと蹴飛ばした。
「今さらだろ」
「……今さら?」
「俺たち、もうとっくに巻き込まれてる」
瞬はにやりと笑った。
「王女様拾って、正体聞いて、戦争の話まで聞いたんだぞ。ここで『じゃ、頑張って帰れよ』なんて言うわけないだろ」
「瞬さんの言い方は雑ですけど」
メイがやわらかく微笑む。
「私も、一緒に行きたいです。アリアさんが怖いなら、隣にいます」
「もちろん私も行くわよ」
アリスが扇子をひらりと開いた。
「エルフの森なんて、商売の匂いがするじゃない。希少素材、古代魔法、世界樹。全部まとめて調査対象よ。ついでに、偏屈な連中がいたら、クイーン・アリス号の素晴らしさを見せつけてやるわ」
「目的が半分くらい不純ですわね」
エリーゼが言う。
「あなたも研究目的でしょう」
「否定はしませんわ」
エリーゼは優雅に微笑んだ。
「けれど、それだけではありません。アリアさんの心が、ようやく前に向き始めている。なら、ここで放っておく理由がありませんもの」
ゼイクが剣の柄に手を置いた。
「騎士として、友を故郷へ送り届ける。それだけで十分だ」
アリアは、皆の顔を見た。
誰も、無理をしているようには見えなかった。
恐怖がないわけではない。
危険を軽んじているわけでもない。
それでも、彼らは来ると言う。
理由はきっと、それぞれ少しずつ違う。
でも、その根にあるものは同じだった。
アリアを一人にしない。
ただ、それだけ。
胸の奥が熱くなった。
視界が少し滲む。
王女として涙を見せるべきではない。
そんな古い考えが、一瞬だけ頭をよぎった。
けれど、ここでは違う。
ここでは、泣きそうになってもいい。
怖いと言ってもいい。
助けてと、手を伸ばしてもいい。
「……ありがとう」
アリアは、今度こそはっきりと言った。
「私、あなたたちに出会えてよかった」
その言葉に、メイが嬉しそうに笑った。
瞬は少し照れくさそうに鼻の下をこすり、アリスは「当然でしょ」とでも言いたげに顔を背ける。
ゼイクは穏やかに目を細め、エリーゼは静かに紅茶を置いた。
その瞬間だった。
ピクリ、とアリアの長い耳が動いた。
彼女の表情が変わる。
「……待って」
その声に、全員が即座に反応した。
先ほどまでの温かな空気が、糸を張るように引き締まる。
「どうした?」
瞬が立ち上がった。
アリアは窓の外へ視線を向けた。
外には、いつもと変わらない荒野が広がっている。
夕方に近づく光が、乾いた草の先を鈍く照らし、遠くの地平線を薄い金色に染めていた。
一見、何もない。
だが、アリアには聞こえていた。
風の奥。
草の擦れる音のさらに向こう。
大地の下から這い上がってくるような、低い、低い響き。
「地面が……鳴っている」
「地面?」
メイが不安そうに窓へ近づく。
次の瞬間、テーブルの上のカップが小さく震えた。
カタ。
ほんのかすかな音だった。
誰も動かない。
また、カタカタ、と震える。
紅茶の表面に、細かな波紋が広がった。
「……地震か?」
ゼイクが低く呟く。
「違う」
アリアは首を横に振った。
胸の奥に、嫌な予感が広がっていく。
これは森で聞いた音に似ている。
大勢の足が、大地を踏みつける音。
秩序を失った群れが、何かに追われ、何かから逃げるように走る音。
そして、その音の奥に混じる、不快な震え。
黒い靄を思い出させる、肌の内側を撫でるような気配。
「何かが来る」
アリアが言った。
その直後。
ビビーッ!
ビビーッ!
クイーン・アリス号の車内に、けたたましい警報音が鳴り響いた。
リビングの照明が赤く点滅する。
温かかった車内が、一瞬で戦闘態勢の色に染まった。
テーブルの上のティーカップが激しく揺れ、スプーンが受け皿から滑り落ちる。
「きゃっ!」
メイが小さく悲鳴を上げる。
「ソナーに反応!」
アリスが弾かれたように立ち上がった。
扇子を投げるように置き、運転席側の魔導モニターへ駆け込む。
瞬とゼイクがその後に続く。
アリアも立ち上がろうとしたが、膝に力が入りきらず、一瞬だけテーブルに手をついた。
怖い。
体が、先に思い出している。
燃える森。
迫る足音。
逃げ場のない戦場。
でも、今は地下牢でも、あの日の森でもない。
アリアは深く息を吸った。
震える指を、自分の意志で握りしめる。
逃げない。
今度は、ただ連れ去られるだけの自分ではいたくない。
「アリアさん」
隣で、メイが彼女の手を握った。
アリアはメイを見た。
その小さな手は震えている。
けれど、離れない。
アリアは頷いた。
「大丈夫」
それはメイに向けた言葉であり、自分自身へ向けた言葉でもあった。
モニターの前で、アリスの声が鋭く響く。
「嘘でしょ……何この数」
「アリス、状況は!」
ゼイクが問う。
アリスは魔導モニターを睨みつけながら、素早く指を走らせた。
青白い光点が、画面の端から次々と湧き上がってくる。
一つや二つではない。
十でも百でも足りない。
地平線そのものが、敵意を持ってこちらへ押し寄せてくるような数だった。
「前方から多数の反応! 大型、中型、小型、混在! 速度が速いわ!」
車体が、今度ははっきりと揺れた。
ズズズズズ……。
遠くから、腹の底を震わせるような地鳴りが近づいてくる。
瞬が窓の外を見た。
その視線の先、地平線の向こうに、薄い土煙が上がっていた。
最初はただの霞のようだった。
けれど、それは見る間に膨れ上がり、空の色を濁らせながら、こちらへ向かって広がってくる。
風に乗って、獣の臭いがかすかに混じった。
アリアの背筋に、冷たい震えが走る。
「……魔物の群れ」
彼女は呟いた。
森で聞いた悲鳴が、記憶の底から蘇ろうとする。
けれど、今度はその記憶に飲み込まれなかった。
瞬が隣に立ったからだ。
「来るなら来いって感じだな」
その声は、あまりにもいつも通りだった。
アリアは思わず彼を見た。
「怖くないの?」
「怖いかどうか考える前に、やることあるだろ」
瞬は肩を鳴らした。
「アリアを森まで送り届ける。まずはそれだ」
ゼイクが剣を手に取り、静かに頷く。
「総員、準備。敵性反応の正体を確認する」
エリーゼが杖を握り、メイが救急箱を抱える。
アリスはモニターを操作しながら、クイーン・アリス号の防御機構を起動していく。
赤い警報灯が、皆の顔を断続的に照らした。
光が点るたび、アリアには彼らの表情がはっきり見えた。
誰も逃げない。
誰も彼女を責めない。
誰も「お前のせいで」とは言わない。
ただ、それぞれが自分の場所に立っている。
アリアは弓を手に取った。
まだ指は少し震えている。
けれど、その震えは恐怖だけではなかった。
今度こそ、見届ける。
この人たちの強さを。
そして、自分がどこへ向かうべきなのかを。
クイーン・アリス号が急減速する。
タイヤが乾いた地面を噛み、硬い音を立てた。
外では、土煙がさらに高く舞い上がっている。
地鳴りは、もう遠くの音ではなかった。
「全員、外へ出るわよ!」
アリスの声が響く。
銀色の車体が荒野の真ん中で止まった。
重厚なハッチが開き、熱を含んだ外気が一気に流れ込んでくる。
乾いた土の匂い。
獣の臭い。
そして、世界の奥からせり上がるような不穏な震動。
アリアは一歩を踏み出した。
足元の砂利が、靴底の下で硬く鳴った。
遠くの土煙の向こうに、何か巨大な影がいくつも蠢いている。
魔族の影。
獣人連合国の異変。
そして、森へ戻る道。
すべてが一本の線でつながり始めているような気がした。
アリアは唇を引き結び、弓を握る手に力を込める。
もう、自分はただ逃げるだけの王女ではない。
怖くても、震えても、ここに立つ。
彼らと一緒に。
荒野の向こうから、咆哮が響いた。
それは、迫りくる災厄の始まりを告げる声だった。




